「あー、今日は超眠ぃー。昨日全然寝てないんだよ」
雑談部の部室に入るなり、開口一番桔梗は寝不足自慢をしてきた。
「鬱陶しいわ。その無駄口を叩く暇があるなら、今すぐ帰って睡眠時間を確保する予定を立てなさい。睡眠不足は百害あって一利なしよ」
雑談の準備万端の華薔薇は辛辣な意見で出迎える。
「そんな冷たいこと言わないでよ。重い瞼に抗ってやって来た部員を思いやってくれよ」
「どうして私が桔梗を思いやる必要があるの? 必要というなら具体的な説明を要求するわ。そもそも雑談部に毎回顔を出す義務はない。あくまで参加する権利があるのよ。だから桔梗が部室に来なくても私は一向に構わない」
華薔薇の正論に口を噤むしかない桔梗。ぐうの音も出ないとは正にこのことだ。
「うがー、寝不足なんだよ。もうちょっと優しくしてくれても罰は当たらないと思うんですけど」
「寝不足の原因は桔梗の自業自得でしょ。どうせ夜中までスマホでSNSかゲームでもして、就寝時間が遅くなった。何か反論はあるかしら?」
「…………はい、その通りです」
寝る前にちょっとスマホを触ったら、時間を忘れてSNSのチェックとアプリゲームをダラダラと続けてしまい、気付けば時刻は深夜になっていた。慌てて寝ようとベッドに入るが、なかなか寝付けずに時間が過ぎた。
眠りに着く頃には窓の外は明るみ始めていた。数時間後には目覚ましで強制的に起こされ、眠い目を擦って登校。授業中は眠気に負けて、夢の世界へと旅立つ。もちろん授業の内容は頭に入らない。中途半端な睡眠では脳はスッキリしない。眠気を伴ったまま放課後を迎え、その場凌ぎでもいいから、解決策はないかと雑談部に足を運んだ。
以上が華薔薇が推測した、桔梗の昨夜からの行動だ。
「おおぉ仰る通りでござぃます」
隣で監視されていたのかと思うくらいに正確な推測に背筋が凍りつく。
「桔梗の生活に興味はないから、どう過ごしても私には関係ない。でもね、あまりにも睡眠不足が続くなら、雑談部を退部してもらう」
「ホワイ?」
突然の退部勧告に目を見開く桔梗。
あくまで慢性的な睡眠不足が条件である。今すぐ退部になることはないが、イエローカードを突きつけられたに等しい。
「睡眠を満足に摂れないような乱れた生活を送っている人と関わりたくないのよ。日常生活に欠陥がある奴がまともな雑談をできるはずないでしょう」
「確かに眠いと頭が回らないかもだけど、それで退部は酷くない」
「私は聖人君子じゃないのよ。誰にでも平等に優しく接しない。私にとって不要なものは捨てる。当然でしょ」
それが桔梗でも、と価値がなければ捨てると宣言する。逆に言えば価値があるなら、捨てられない。
「俺が雑談部を辞めたら、雑談部はどうすんだよ。一人になるぞ」
桔梗は勘違いしている。桔梗は雑談部の部室で華薔薇以外の部員を見たことがない。また他の部員について聞いたことがない。だから雑談部は華薔薇と桔梗の二人しかいないと思っている。
「雑談部には他にも部員はいるわよ。心配してもらわなくても雑談部から桔梗がいなくなっても、何も変わらない。精々私の口遊びじゃなくて……おもちゃでもじゃなくて、まあともかく桔梗がいなくて困らないのは真実ね」
桔梗への過不足ない評価が思いつかない。深く考えたことがないからだ。華薔薇は桔梗を消耗品にしか見ていない。なくなれば新しく買い足す。
消費しても惜しくない人材、それが桔梗の評価だ。代替品はいくらでもある。
「おいおい、俺っておもちゃなの? 華薔薇の話し相手として役不足ですか」
「役不足は間違いよ。実力より大幅に見劣りする役割をしている時に使う言葉よ。今の桔梗に相応しいのは力不足。能力や実力が不足している時に使う言葉よ。よく間違われるから覚えておくように」
力不足の代わりに荷が重いでも通用する。
「へぇ力不足、そうなのか。次からは間違えない……って違う! まじで俺っておもちゃなの?」
「そうね、自販機で買ったジュースと同じね。飲み終えたら捨てるし、必要になったら、また買うだけよ」
「ぐすん、いつかゴミ箱に無感情で捨てられるんだ」
華薔薇が桔梗を突き放すばかりの言葉。しかし、桔梗に見落としがある。確かにいらないものは捨てられるが、好きなものは買い直すということだ。
野菜ジュースが好きなら、飲み終わったペットボトルや紙パックは捨てられる。しかし、自販機でまた野菜ジュースのボタンを押す。ゴミは捨てられても、同じものを選ぶことはある。
ひとえに桔梗が足しげく雑談部に通えるのも、華薔薇の好みに含まれているからだ。
真実さえ知ればどうということはない。知らない桔梗は今後ビクビクしながら雑談部へ足を運ぶことになる。
「部員いるの? 見たことないけど」
「ちゃんといるわよ。雑談に困らない程度に。部室にだって来てるわ」
雑談部を存続させる部員はちゃんと所属している。仮に桔梗が退部になっても、廃部にはならない。そもそも華薔薇が廃部にさせない。
「あれ、部室にいるの見たことない。避けられてる、嫌われてる、嫌だ、知らぬ間に嫌われてるぅ」
被害妄想甚だしい。桔梗が他の部員と会わないのはタイミングの問題。
桔梗が部室に来るのは放課後だけ、他の部員は主に放課後以外に訪れる。桔梗の部活は放課後に行うという先入観が邪魔をしている。雑談部に時間や場所の制約はない。いつだって、どこだって、誰とだって、雑談部は活動する。
「桔梗が他の部員に嫌われているのを確認した所で話を戻しましょう。睡眠不足が続くと退部について」
「おお、それな盛大に横道に逸れてたな。……………………やっぱ嫌われてるのか」
雑談部が横道を全力疾走するのは当たり前。むしろ横道を楽しめないのなら、雑談部員足り得ない。
「睡眠不足にいいことなんてひとつもないのよ。だから睡眠を蔑ろにして、進んで不健康になるバカとは関わりたくない。これには不摂生な食事や運動不足も含まれるから」
健康という人間の根源に気を配れないと、他のことも蔑ろにする。最低のラインを守れないと付き合う価値がないと判断される。
「えっ、食事と運動も? そんなに気を配れるか」
「別にそこまで厳しくしないわよ。7から8時間の睡眠に、野菜やフルーツの含まれる食事、お菓子は食べ過ぎない。適度な運動だけでいいのよ。人間として当然のことが当たり前にできたら、いいのよ。できなくても、すぐに退部にもしないわ」
退部にしないけど軽蔑する、と辛辣な意見を付け加える。
「桔梗の眠気もいい感じになくなったから、睡眠不足のデメリットについて話しましょうか」
衝撃的な真実に桔梗の頭は冴えていた。漫然と聞いていたら取り返しのつかない事態になっていた。無理矢理にでも覚醒するしか、生き残る道がなかった。
また雑談部には椅子がない。部室に入ってから立ちっぱなしだ。運動していたら眠くならないように、立ち続けることで眠気はどこかに吹き飛ぶ。
「ホントだ。全然眠くない。今なら般若心経を聞いても寝落ちしない自信がある。坊主カモン」
これから雑談のネタにするのは般若心経ではなく、睡眠についてだ。当然仏教の僧侶が来ることもない。
「睡眠不足で最初に落ちる能力は集中力ね。ペンシルベニア大学のデーヴィッド・ディンゲス博士の研究を紹介しましょう。睡眠が十分なグループと睡眠が足りないグループに分けて、単純な作業をしてもらう実験が行われた。作業内容はボタンが光ったら、対応する別のボタンを押すだけ。これで反応の正確さと反応速度か測定できる」
大方の予想通りに睡眠の足りていないグループの成績が落ちた。この実験で博士はマイクロスリープという現象を発見した。
マイクロスリープとは、一瞬から数秒の間、脳が全く反応しない時間。瞬間的居眠りとも呼ばれ、博士はこれを一番の問題と考えた。
マイクロスリープは睡眠不足なら、いつでも、どこでも発生する。予兆もないので対策もできない。
「一瞬だったら問題ないだろ? 大事な話でも十分取り返せる」
桔梗の意見は友達との会話や授業中に起こった想定だ。この場合なら指摘されたり、怒られるだけで済む。しかし、一瞬の集中力の途切れが深刻な事態を引き起こす可能性がある。
「桔梗は電車に乗る?」
「もちろん使ってるぞ。今日だって席に座って爆睡してたし」
「よだれを垂らしてアホ面丸出しの桔梗は横に置いて」
「アホ丸出しってなんだよ。俺は寝ててもイケメンだ」
話題を振っておきながら、華薔薇は華麗にスルーする。
「電車を待ってるホームでマイクロスリープが発生したら、そのまま線路に真っ逆さまよ」
意識が数秒途切れるだけで、全身の力が抜けるのとは違う。実際に倒れるまでいくことはない。
「時速60キロメートルの自動車は4秒間で70メートル進む。電車も同じような速度よ。だから、気を付ける時に意識が飛んだら、呆気なく死ぬかもしれない」
桔梗の背筋が凍る。桔梗の現在の状態は睡眠不足。今にもマイクロスリープが起こる可能性がある。帰宅中に起こる可能性もある。
「いやいやいや、絶対に起こるとは限らないだろ」
「そうね。大半は何事もなく過ごせるでしょう。でも、リスクを取り続けたら、いつかは清算に取り立てられる、かもね」
鎌を持った死神はいつでもどこでも彷徨いている。その鎌がいつ振られるかは、神のみぞ知る。
「嫌だ、死にたくない。何かマイクロスリープを回避する方法はないのか!」
「そうそう、睡眠と記憶力も密接に関わっているよ。勉強をしたことを忘れたくないなら、眠る必要があるわ。寝ている間に記憶の整理が行われるから。つまり睡眠不足だと、何も覚えられない」
「俺の悩み完全無視、露骨に話題を変えやがった。俺は今後どうなるんだ! でも、記憶も気になるから、どうぞ続けてください」
なんだかんだで桔梗の好奇心は高い。華薔薇におもちゃにされても雑談部に通うのは新しい知識が手に入るから。欲しい情報が欲しい分だけ得られるかは別だが。
「起きている間、脳はあらゆる情報を取り入れている。その情報を保管しているが海馬と呼ばれる部位。でも海馬の容量はそこまで大きくないから、すぐに一杯になる。すると情報がこぼれ落ちたり、古い情報が上書きされる」
海馬は情報の一時的な保管庫。長期かつ大容量の保管庫が脳には別にある、それが皮質だ。
睡眠中、海馬の情報は皮質に送られる。その際、情報の選別が行われる。必要な情報や大事な思い出はしっかりと保管される。
また、嫌な記憶、必要のないささいな情報は皮質に送られることなく、削除される。
これらは全て睡眠中に行われている。睡眠不足だと、海馬の情報が整理されず、残ったままになる。海馬の容量は小さいので、新たな情報が入る余地がない。
目覚ましなどで強制的に起こされると、記憶の整理が中断される。すると情報がとっちらかる。引っ越しを途中で投げ出すようなものだ。
十分な睡眠を取ることで海馬はリフレッシュされ、新たな情報を受け入れる。
情報の引っ越しが完了されたら、記憶も思い出しやすい。整理整頓された物置と放り込んだだけの物置、どちらが目的の物を探しやすいかは考えるまでもない。
「まじで、そんな色々やってんの。寝るのは体を休めるだけだと思ってた。でも今日の俺は授業寝まくったから、めっちゃ覚えてるってことじゃん」
「それは寝る前に覚えるべき情報をインプットしていたら、の話。桔梗は大事な情報をインプットしてないから、覚えるものがないでしょ。少しは勉強してから言いなさい」
「ぐはっ」
授業は態度は普通、勤勉でもない、昨夜はSNSとゲームをしていた。これではまともな睡眠をしても、覚えるに値する情報がない。
「で、でも、勉強ならここでしているぞ」
「ここは雑談部よ。雑談は決して勉強ではない」
雑談部の会話は勉強ではない。勉強がしたいのなら、他の部活動に入るか、参考書を買って読み込んだ方がいい。
雑な会話をする気はないが、勉強と言えるほど高尚でもない。
雑談部はあくまで真剣に雑談をする場所。
「桔梗が雑談部をどう思うかは自由だから、勉強だと思いたければ、勉強になる。私が口出しする権利もない」
「俺には新しい知識の宝庫だから、雑談部は楽しく勉強できる場所だ。決定」
ルールを守っているなら、心の中で何を思考しようと自由。そもそも心の中を暴けないから、確かめようがない。
「今日はちゃんと寝るぞ、勉強したからな」
「そう言って、いざ寝ようとするとベッドでだらだら過ごして、時間がずるずる過ぎていくのよ」
実際にはベッドに入っても眠れず、ついついスマホに手を伸す。するとあっという間に時間は過ぎる。
寝る前のスマホが習慣になっていると、簡単には眠れない。
「今日は大丈夫だぜ。なんなら俺が早く寝るか賭けてもいい」
「あら、すごい自信ね。それなら、ついついベッドでだらだらしてしまう対策について雑談しようと思ったけど不要ね。とても残念」
「ああ、嘘です。ごめんなさい。だらだらの対策を教えてください」
桔梗の自信は張子の虎だ。あっさりと掌を返す。
対策を聞かないと普段と同じくだらだら過ごすのは当人だって理解している。やめたいことを意識だけでやめれるなら、ダイエットに勤しむ人も、タバコを吸う人もいなくなる。習慣は簡単にやめられないから習慣なのだ。
「日中に受けたストレスが大きいと夜更かしする」
「ストレスで? 嫌なことがあったら、寝て忘れた方がよくない」
「確かに、その通りよ。十分な睡眠はストレスの発散にも、リラックスにも有効ね。わかっていても実行できないから、夜更かししてしまう」
身の回りに毎日8時間睡眠している人はいるだろうか。毎日運動している人はいるだろうか。ほとんどの人がいない、と答える。
健康のために睡眠や運動が大事なのは誰でもわかる。現代が便利になりすぎた弊害だ。
「人間の意志はとても軟弱でね、ストレスを感じてから睡眠を取る時間を待てない。手近で簡単にリフレッシュできる方法に手を伸ばすのよ。それがスマホ」
一度スマホを手に取ってしまえば、後はない。スマホの中毒性はバカにならない。企業があの手この手でスマホに依存させる仕組みを構築している。
強制的に止める仕組みがないと、延々とスマホをポチポチしてしまう。
また、スマホのブルーライトが眠気を妨害する。眠気がなくなれば、寝ようとする意識も希薄になる。
夜のスマホには負の連鎖しかない。
「くそっ、スマホめ。俺の睡眠の敵じゃないか」
スマホで生活が便利になった反面、害悪も生まれた。メリットもデメリットもあるのは仕方ない。使い方を間違わなければ、便利になった部分だけを享受できる。
支配するか、振り回されるかはその人次第。
「日頃からストレスを減らす生活を心がけることね。ストレスが減れば夜にリフレッシュする必要もなくなるから」
「そんなストレスを受けてるとは思えないんだけど」
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