「日頃からストレスを減らす生活を心がけることね。ストレスが減れば夜にリフレッシュする必要もなくなるから」
「そんなストレスを受けてるとは思えないんだけど」
「そう。なら、夜はスマホを触らないと決めたらいいわ。することがなくなるから、寝れると思うわ」
「う、う、うん。そうする、ぞよ」
目が大きく泳ぐ姿を見て、華薔薇は十中八九達成できないと危ぶむ。
いきなりスマホと距離を取るのは普通できない。桔梗の睡眠時間が長くなるのは当分先になる。
「待てよ、この前の休みは暇だったから、ずっと寝てたぞ。その借りを今日返したんじゃないか。だったら、プラマイゼロじゃん。俺ってば賢い」
「無理よ。人間に寝溜めする機能は備わってないわ」
「ダメ、なの?」
「無理よ。普段からきちんと寝ることが一番大事」
「どうにもならない?」
「無理よ。昨日のミスは今日取り戻すしかない」
「…………はい、わかりました。今日はちゃんと寝ます」
一筋の希望にすがったがにべもなく一蹴される。よあやく自分の体が大変なことになっていると自覚した桔梗は、より一層ちゃんと寝ることを誓う。
「少しは睡眠不足の悪影響は理解したでしょ」
「理解しましたとも、骨の髄までね。寝るのもいいけど、時間足りなくない」
ゲームをしている俺が言えた義理じゃないけど、と桔梗は言いにくそうに付け足す。
睡眠時間が延びれば活動している時間が減る。やるべきことが終わらなくなる、という主張だ。
「バカね。睡眠を十分にとっていると効率がよくなるのよ。睡眠不足の人が2時間かかる勉強が、睡眠が十分な人だと1時間で終わる。睡眠不足の人が8時間かかる仕事が、睡眠が十分な人だと4時間で終わる。寝た方が早く終わるのよ」
睡眠不足だと集中力も判断力も落ちる。勉強も仕事も効率が悪くなる。そのため余計に時間がかかる、すると夜遅くまで作業することになり、寝る時間が遅くなる。起きる時間は変わらず、睡眠時間が削られる。あっという間に負のループの完成だ。
「そんなに変わるのか! そう聞くと寝た方がいいな」
「私が桔梗より睡眠時間が長くて起きてる時間が短くても、私の方が賢いのは睡眠のおかげね」
睡眠で全てを語るのはできない。それでも睡眠時間が与える影響は無視できない。
「言ってくれるぜ、俺は今日からちゃんと寝るから、華薔薇との差は縮まる一方だ。首を洗って待っときな」
「楽しみね。男の子なら、女性をリードするくらいに成長して欲しいわね」
華薔薇は余裕の笑みを浮かべる。桔梗の睡眠が延びたところで差は埋まらない。成長しているのは桔梗だけじゃない、華薔薇も常に新しいことに挑戦している。差が開くことはあっても、縮まることはほとんどない。
仮に桔梗が目覚ましい努力をして、華薔薇に追いつき、追い越しても問題ない。その場合、桔梗が素敵な男性になっている。素敵な男性が増えて困ることはない。
「ふはっ、ふははっ、ふははははっ」
薔薇色の未来を夢想に自然と高笑いする桔梗。この姿に不安しか感じない華薔薇だった。
「ホント、大丈夫かしら」
「なあ華薔薇、あんま寝なくて有名だった人かまいたと思うんだけど……」
華薔薇の心配を他所に、桔梗は何かを思い出す。
「えーっと、左上らへんの人で、男で、偉くて、馬に乗ってた。誰だっけ?」
ヒントが曖昧すぎてヒント足り得ない。内容もあってないようなもの、華薔薇が理解したのはヨーロッパ人の乗馬している男性だ。これに当てはまる人物は五万といる。
「もうちょっと、まともな情報はないのかしら。誰について言及しているか、さっぱりよ」
「あれだよ、あれ……思い出した、ボナパルトだ。なんとかかんとかボナパルトって人。全然寝てなかったんだろ、誰かが言ってた」
「どうしてボナパルトを思い出して、ナポレオンの方を思い出さないのよ。どんな思考回路を搭載してるのよ」
ナポレオン・ボナパルト。
1769年のコルシカ島に生まれ、軍人として活躍し、後にフランスの皇帝になった人物だ。
余の辞書に不可能の文字はない、などの言葉が有名であるが、実際に口にしたかどうかは定かではない。
「ナポレオンは確かに睡眠時間の短い、所謂ショートスリーパーとして取り上げられることもあるわね」
「それそれ、あんま寝なくても実は大丈夫なんじゃない。活躍したんでしょ?」
ナポレオンの睡眠時間が1日3時間程度という逸話が残っている。
「確かに6時間程度のちょっと短い睡眠でも大丈夫なショートスリーパーや、4時間でも大丈夫な真正のショートスリーパーも実在する」
睡眠時間が短くても体調に問題なく、効率も落ちない天性のショートスリーパーはわずかに存在する。痛みにも強く、時差ボケも起こらない。
「じゃあ、ショートスリーパーになったら最強じゃね」
「不可能よ。残念ながらショートスリーパーは生まれ持った天性、遺伝子によって決まる。後からショートスリーパーになるのは現代の科学には荷が重い。夢のまた夢ね」
変えられない現実に肩を落とす桔梗。遺伝子によって規定される以上、後から覆すのは逆立ちしてもできない。
ちなみにADRB1とDEC2という遺伝子に変異が起きているとショートスリーパーになるらしい。
ADRB1(β-1アドレナリン受容体遺伝子)に突然変異が起こると睡眠時間が短くなる。さらに深い睡眠状態からでも瞬時に覚醒する。ショートスリーパーにはまどろみの状態はない。
あくまでマウスでの実験のため、まだまだ研究の余地はある。
「くっそー、ナポレオンは勝ち組だったのか。普通の俺はどうしたらいいんだ」
「寝たらいいのよ。大抵は8時間睡眠が必要よ。一部の異常者を相手にする必要はないんだから、ちゃんと睡眠をとれば十分戦えるの」
同じ能力でも睡眠不足の人と睡眠が足りている人が戦えば、睡眠が足りている人が勝つ。なので睡眠をとれば、能力が同じなら負けることはない。
「ナポレオンが勝ち組、いわゆるショートスリーパーだったかはかなり怪しいわよ」
「えっ、嘘なの」
偉人の逸話は脚色が入っていたり、創作だったりすることはままある。重要なのは真実ではなく、何を学ぶかだ。
「ナポレオンの秘書ルイ・アントワーヌ・フォヴレ・ド・ブーリエンヌの資料によると7時間寝ていた記述があるそうよ。さらに会議中や行軍中に寝ていた記述もあるみたいね」
起床時刻より1時間遅くなることも度々あったそうだ。
「寝てたんかーい。会議中に寝るって仕事しろよ。皇帝だよね、トップだよね、国民は皇帝の昼寝のために税金を納めているじゃないぞ」
皇帝ともなればプレッシャーも凄まじい。7時間睡眠と言えども、実際の睡眠時間はもっと短かったのかもしれない。不安やストレスからヘッドに入っても眠れず、昼寝で不足分を解消していたのかもしれない。
「自分は寝てるのに、他人や部下には寝ずに仕事しろと言ったとか言ってないとか」
「最悪じゃん。他人に厳しく、自分に甘い。フランス行きたくねぇー」
あくまでナポレオンの話である。現代のフランスとは違う。
「あら、フランスはいい国よ。『ミロのヴィーナス』や『モナ・リザ』が所蔵されているルーブル美術館、ギュスターヴ・エッフェルが設計・建築したエッフェル塔、ナポレオンとも縁が深いエトワール凱旋門、これらは全てフランスよ。桔梗だって一度は聞いたことがあるでしょう」
一部の情報だけで全てを決めつけるのは愚の骨頂。桔梗が一国をどのように思うかは自由だ。しかし短絡的な考えは雑談部に相応しくない。思考停止した会話は時間の浪費、雑談部は雑な会話は認めない。
「いいことも、悪いことも、見て、聞いて、判断しなさい。雑談部員なら雑談が続く工夫を怠るな」
工夫ができないなら雑談部に相応しくない。工夫も成長もないのなら、雑談部にいらない。
「はいはい、わかりましたよー。俺はいつだって成長する男。華薔薇をリードする日も近いぜ」
「いつになることやら。まあ、私が忘れる前に叶うことを願うわ」
同じ学校、同じ学生と共通点はあれど、2人の能力の差は大きい。スタートが早い方が得られるものも大きい。この差をひっくり返すには常識に縛られていたら不可能だ。画期的なやり口が必要になる。
当然、桔梗はふたつの意味で知り得ない。
「そろそろ解散にしましょうか」
「えっ、なんで? いつもより早くない。この後、用事があるのか?」
普段の雑談部より優に30分以上早い終わりに戸惑いを隠せない。
「用事はないわ」
「だったら、なんで」
「自分の状態を省みなさい」
桔梗は自信の体に視線を向けると、睡眠不足だったことを思い出した。同時に「ふぁー」とあくびが出る。
「気づいたようね、若いからって無茶するのはやめなさい。今日は大人しく帰って、さっさと寝ることね」
「やべー、超眠くなってきた、今すぐ寝たい」
背中を伸ばして軽いストレッチを行うも、眠気はどうにもならない。
「帰る際は気を付けようもないことを気を付けない」
「何それ、トンチ?」
「どうやら、本格的に脳がやられているみたいね。マイクロスリープのことよ。意識が数秒途切れる現象よ」
「……うーん」
桔梗はついさっき聞いたことを思い出すのに数十秒という時間を要した。
「マイクロスリープね。思い出した思い出した。どうしようもないことだから、気を付けようもないことを気を付けない、言い得て妙だな」
「思い出したなら、さっさと帰りなさい。早く終わったんだから、今日は早く寝れるでしょ。ベッドでだらだらするなんて言語道断よ」
華薔薇の剣呑な雰囲気に押されて、帰り支度を一瞬で終わらせる。
「あっ、はい。直ちに帰らせていただきます。華薔薇、バイバイまたな」
「さようなら」
桔梗を見送った華薔薇もすぐに支度を進めて、雑談部を後にする。
桔梗は眠気と戦いながら、艱難辛苦の末帰宅する。対して華薔薇は普段と変わらず帰宅するのだった。
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