翌日、水曜日の朝。
曜日の名前に似合っていて、ついでに不似合いな雨がじとじと降っていた。ぐんぐん重みを増す湿った空気に顔を顰めながら登校する。
雨もまた、始まりの象徴だ。雨の多い九、十月。秋雨前線は、例年ならちょうどクラスの奴らとの関係を構築し始めた頃合いに俺たちを覆い隠す。だから、この季節の雨は地を固めるための魔法のようにすら思えるのだ。
じゃあ雨が好きかと言われればそうではなく、雨で始まって雨で終わるみたいな年度の括りには密かな歯痒さを覚えたりするのだが。
そうして歩いていると、実に可憐な桃色の傘が視界に映った。それを差している少女は、俺がよく知る柄のスカートを履いており、その下のぷりんとした肌は黒いニーハイソックスでくるりと隠されている。
背負っているこじんまりとしたリュックサックを見てから、俺はその少女へと声を掛けた。
「おはよう、幸田」
「んっ……ああ、おはよう。柿崎くん」
少し歩を速め、幸田の隣に並ぶ。雨の日に並んで歩くのは気が引けるけど、この道はそこまで狭くないのでいいだろう。
「よく私って分かったね」
「まぁ、後姿を見ればすぐにな」
「そっか。私、柿崎くんを正面から見たって分からないだろうなぁ」
「むしろ、どうやったら俺って分かるのか教えてほしい」
「かき……ざき? 誰なの、それ」
「俺という存在が抹消された⁉」
言うと、幸田は口元に手を添えてから微笑した。漏れ聞こえる笑い声は雨にかき消されてしまうけれども、それに耐え抜いて俺の耳までたどり着いてくれた僅かな声たちが、まるで抱擁するみたいにぎゅっぎゅっとはじける。
「それでさ、柿崎くん」
「驚くほどぬるっとさっきの話は流すのな」
「いつまでもその話しててもね。無駄な話してて楽しいのって、友達以上の関係だけだよ」
「つまり俺たちは友達以上の関係だと?」
「その逆かな」
「恋人未満の関係だと?」
「あながち間違いじゃないけど、その言い方はちょっとあれだね」
「とりあえず範囲は広くしておいたから、いつでも距離を縮めてくれていいからな」
「そんな日は訪れないよ、安心して」
俺は肩を竦めて、幸田に話の続きを促した。
「はぁ……。いやね、こんな天気だから昨日の場所ではお昼食べられないなぁって」
「あー、そうだな」
昨日幸田が紹介してくれた、隠れスポットを思い浮かべる。確かにあそこには屋根がなかったから、今日は使えまい。
「もしかして、別の秘密のスポットを知ってたり?」
「それはないかな。私も、入学したばっかりだよ?」
「それもそうか」
それに、学校内の至るところに秘密のスポットがあったらその方が驚きだ。小さく頷いてから、雨夜の星みたいな幸田の目を見る。
「じゃあ、どうする?」
「うん。どうしようか、意見を聞こうと思って。私は、お弁当を渡すだけでもいいんだけど」
「別に席が前後なんだから、一緒に食べればよくないか?」
「入ってるメニューが被ってるから、どう考えても同じ人が作ったって分かると思うんだよ。それは、ちょっとあれだから」
「あー」
幸田は、宿題を忘れた子供みたいにきまりの悪い表情をしていた。ともすれば誰かへの後ろめたさを抱えているようで、どうしたものかと俺は思案する。
周囲の目を気にせずにいられればそれが最高なのだろうが、人生ってやつはそこまでかっこよくなりきれない。周囲の視線は矢ではなく、毒なのだ。避けたところで意味はなく、気付いた時には毒に窒息させられかねない。
ただ、その話で言えば、同じ人物が作った弁当を別々に食べているという方がむしろ、下衆の勘繰りを招きかねないと思わなくもないが。
ふわ可愛い桃色が作る空を見上げる。ぽっつん、ぽっつん、雨を弾いていた。
「なら、しょうがないな。俺は教室以外のところで食うよ」
「トイレ?」
「幸田は俺にどれだけ便所飯をさせたいんだ? 言っておくけど、俺はぼっちじゃないからな。他のクラスには、男友達もいるから」
「嘘……ちょっと、真剣に驚いた」
「泣いてもいいよね? 泣いてもいいよね、俺⁉」
ちなみに、男友達がいるというのは嘘ではない。不登校になる前の数日でできた友達だ。そろそろお察しの方もいるだろうけれど、対人能力平均325っていうのは相当高い。友達の一人や二人作れるのだ。
「まぁ、今日行くのはソフトボール部だよ。香の友達には知り合いもいるし、心配もかけたからな」
「そっか」
野郎どもとは何気に一緒にゲームをやってたりしたが、ソフトボール部の面々とはそうではない。特別に仲がいいという人がいるかと言えば微妙だからこそ、しっかりと挨拶をしに行くべきだと思う。練習がある日でもない日でも、部員で集まって昼飯を食っていることが多いそうなので、元からいずれは行くつもりだった。
「……なんなら、幸田もくるか?」
「え?」
「ソフトボール部は、俺が見た感じじゃ、いい奴が多いからさ」
できるだけ上っ面の意味だけが伝わるようにと、軽々しい言葉になるように心がける。
幸田は、果たして、萎れた花みたいにへんなりと口を曲げた。
「んー、いいや。それはちょっと、あれだから」
「そうか。そりゃ残念」
信号が赤く光っているのを見て、歩を止める。雨の中で、僕のことを見てと主張している赤信号からぷいりと目を背けると、幸田が『もう一つ』と言って続けた。
「今日さ、放課後に学級委員会があるんだよ」
「ほーん、そうなのか」
「うん。来月には特別合宿があるし、それが終わったら中間試験もあるからさ。これから、忙しくなるみたい」
「なるほどな」
俺たちが通う国立第一高校は、基本的には普通の高校と同じだ。だが、こと行事に於いては少し違う。端的に言えば、行事の量が凄い。
言われてみれば、学級委員がそのあたりの行事に参加するのは当たり前だ。
「じゃあ、学級委員くらいは一緒に行こうな。わざわざ別々に行く必要もないだろうし」
「……念のため言っておくけど、実はこっそり柿崎くんに好意を持ってるとかじゃないし、今日一緒にお昼を食べられないことに凹んでもいないから、そういうこと言っても隠れて胸をときめかせたりしてないからね?」
「えー。今のは、そういうタイミングでしょ。意味もなく主人公に惚れてるヒロインが、惚れてるって前提の下でしか成り立たない主人公のかっこいい瞬間に惚れ直すっていう、軽い詐欺みたいな」
「柿崎くんってさ、そういう感じのストーリーが好きなの? 嫌いなの?」
「好きだからこそ弄りたくなることだってあるんだ」
「弄ってるって自覚はあるんだね……」
そりゃそうだ。大仰に肩を竦めると、ひゅぅぅんと目の前を車が通り過ぎてから、信号の顔色が緑になった。
「それじゃあ、学校行きますか」
「そうだね」
雨で始まって雨で終わるみたいな年度の括りには、歯痒さを覚える。
でも雨で始まる一日は、場合によっては悪くはないな、と思った。
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