青春雨前線が綿飴雲を運んでくる。

☁春は綿雲、秋は雨雲、この青春は綿飴雲☁
とこー
とこー

キャッツアイモーニング

公開日時: 2020年12月2日(水) 00:18
文字数:3,193

 PSSTの導入に伴って、日本では年度の開始が9月に移った。俺はそういった新しい生活様式が始まった頃に生まれた世代なので違和感を抱くことはないが、俺たちの親世代からするとかなり違和感があるらしい。


 色づくか色づかないかという葉っぱたち。じんわりと更ける長い夜。そういうものに、俺たちの親世代は始まりを予感することがなかった。舞い散る桜とか、朗らかで眠くなる陽気とか、そういう方がずっと始まるって感じがしたのだ。


 不思議だな、と思う。

 俺からすれば始まりの季節と言えば秋だ。長い夜を灯してくれる月の切なさに、否が応でも始まりを感じさせる。始まりの狂おしいほどの哀しさの匂いは、だからこそ終わらせたくない、終わらせちゃいけないって気分にさせてくれるのだ。


 すっこん、ぱったん。

 アスファルトを踏む音は、少しだけ覚束ない。引きこもっていた数週間、軽い筋トレをする以外はずっとゲームをしたり読書をしたり音楽を聴いたりとインドアな趣味で時間を潰していたせいだ。


 PSSTにもその自堕落な生活の結果は現れている。

 全身筋力平均、という値がある。これは文字通り全身の筋肉の発達具合やそれを扱うための脳の状態を数値化したものだ。引きこもる前から10ほど落ちてしまっているのが、怠惰の代償。


 ――ぼっふん。


 学校に向かってのっそりと歩いていると、唐突に何かが俺の背中へとぶつかった。鈍痛ってほどでもないが、偶然ぶつかったって感じの勢いでもない。有り体に言えば、ちょい痛い。


「おっはよ、源」

「ああ、おはようかおる


 何もなかったかのように、俺の横に顔を出した奴こそ背中を叩いた張本人。犯行に使われたであろうエメラルドに近い緑エナメルバッグは、にひりと揺れる。

 同じクラスっつうか、中学も俺と同じだった守井香もりいかおるは、スカートをめくるくせにギリギリのところは見せてくれないそよ風みたいに笑っていた。


「朝から元気ないじゃん。ほらほら、男子高校生たるものもっと元気出しなさいよ」

「お前が朝から元気よすぎなんだよ。バッグをぶつける奴があるか」

「大袈裟だなー。こもってる間に、ナンジャクになったんじゃない?」


 屈託なく昨日までに触れるあたりが、香らしいなって思う。遠慮なんてどこにもなくグイグイ突き進んでいく香は、朝らしく『にっ』と口角を上げていた。それに合わせるみたいに短めの前髪の間からおでこが垣間見てキラって輝く。


「うっせぇ……実際足腰の弱さは実感してたから何にも言えないけど」

「でしょー!」

「これでも筋トレは欠かしてなかったんだぞ?」

「そんなんで維持できるほど甘いわけないじゃん。練習はサボったらサボった分だけ自分に返ってくるんだから」

「いや俺帰宅部ですけど?」

「うんうんキタク部ね」


 まったく分かっていなそうな口ぶりで、香が肩を竦める。俺の経験上、こういう時の香は絶対にエグイことを言い出す。

 その予想通り、香は笑い混じりに続けた。


「それってあれでしょ? 放課後に私の練習に付き合ってくれるっていう」

「ちげぇよソフトボール部。お前、自分がどんだけハードな練習してるか分かってる?」

「でも、源は男子だしできるでしょ。中学の頃だって付き合ってくれたじゃん」

「絶賛運動部にいた昔の俺と比べないでいただけます?」


 引きこもり明けに香の練習に付き合うとか、鬼畜でしかない。実に楽しそうに言い続ける香に屈することなく、俺は固辞する。

 いや、これ割とマジなんだって。香は中学の頃はそこそこに名の知られた選手で、かなりストイックに練習するのだ。そんな奴に付き合わされるのだから、俺だって割ときつい。何しろ豪速球を捕ったり、逆に投げたりさせられて挙句の果てに、香の球(がっつり変化球あり)を打てって言われるんだぞ。


 わざとらしくこめかみに手を添えると、香の跳ねたような声が漏れ聞こえた。喜色が垣間見えるその声で香の方をチラっと見ると、少しだけ安堵が入り混じった視線とぶつかる。


「……あー、でも」


 気まずくなり、何となくそっぽを向く。向いた先が本当に明後日なのかは、知る由はない。

 間を埋めるように、落とし物を拾うみたいに言葉を続けた。


「軽めでいいなら、付き合うぞ。俺もPSSTを戻したい」

「ふっ、そっか」

「ああ、そうだよ」


 何か他の言葉を継ぐ前に、制服のポケットからデバイスを取り出す。ちなみにこのデバイスには時計型とか、少し前まで使われてたスマートフォン型とか色々あるんだけど、俺はスマートフォン型を使ってる。スマートフォン型は旧式だと言われがちだけど、俺はこっちの方が便利だと思う。


「ほら、こもってる間にかなり落ちてる」


 ――アプリ起動:PSST閲覧:簡略度9


 PSSTは細分化しようと思えば幾らでも細分化される。そこで、それらのデータを簡略化してまとめて閲覧することが多い。その簡略度は10。

 そのうちの簡略度9で表示した俺のPSSTを香に見せると、『うわぁ』と呆れられた。


「あんた、すっごい落ちてるじゃん。私より低くなってるし!」

「元々お前より高かっただけでもすごいと思うだけどそっちへのコメントは?」

「いや、私は自分より弱い奴のことなんて興味ないから」

「強い弱いって、どこのバトル漫画だよ」


 香は、認めるのはやや悔しいが美少女だ。でも、それを差し置いても余りあるほどにメラメラ燃える男勝りな奴でもある。勝気さの象徴みたいなベリーショートの髪は、ともすれば香のことを美少年にジョブチェンジさせかねない。っていうか、ガチで体育会系すぎると思うだよ、マジで。


 そんなことを思っていると、香は左手にはめた時計型デバイスを弄る。だが、その手つきはどこかたどたどしい。

 それもそのはず。香は今時、家庭用ゲームすら大して遊んだことのないくらいに機械に弱いのだ。デバイスですら、ちょいちょい誰かに操作してもらっている。


「むむむ……これだから機械はダメなのよ」

「ダメなのはお前だからな? デバイスの操作くらい、最低限やれって」


 今の時代、PSSTを見れないとか言ったら笑われるどころじゃ済まない。まぁ香は言うほどPSSTに縛られてないし、いいだけど。

 デバイスと睨めっこしているのを放っておくわけにもいかないので、俺はひょいっと香の左手首を掴んで軽く引っ張る。


「ちょ、急に引っ張んないでよ」

「体幹鍛えてんだから大丈夫だろ体育会系」

「あんたね……乙女への気配りってものが足りないんじゃないの?」

「今日から久々の登校だってのに学校までの道のりで機械音痴に付き合わされてる紳士のなけなしの心遣いに文句言うんじゃねぇっての。それよか、何したかったのか教えろ。やってやるから」

「はぁ……あんた、ほんと変わらないね」

「お前もな」


 呆れるくらいにな。


「んじゃ、PSSTを送信してよ。簡略度9ね」

「普通にここで見せるのは……まぁ、時計型は見にくいか」


 時計型デバイスは液晶パネルが小さい。自分のPSSTを見るのなら事足りるが、他人に見せるには無理がある。


「はいよっと」


 ――アプリ起動:PSST送信(To柿崎源):簡略度9


 すぐに、俺の手元のデバイスが振動する。


――・――・――・――・――・――・――

氏:守井〈もりい〉 名:香〈かおる〉

年齢:15歳 身体的性別:女

国籍:日本国 職業:学生

全身筋力平均:286

知的能力平均:265

対人能力平均:310

総合能力平均:275

――・――・――・――・――・――・――


「うわ、この二週間ちょいで全身筋肉平均が1上がってるって、どんだけだよ」

「ふっふっふ。悔しかったら、さっさと元に戻しなさいよ、ナンジャク!」

「ま、そのうちな」


 いや、そもそもがっつり全盛期の男子高校生と並ぶくらいの全身筋力平均な時点で香は軽くおかしいんですけどね?


 そんな文句を口にしたら、またエナメルバッグで叩かれそうなので黙っておくことにした。

 秋は、スポーツの季節だ。早く学校に行こう、と思う。空はすっかんぴぃに晴れていた。

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