高校一年生一か月目の授業なんて、大抵は中学の頃の貯蓄で何とでもなる。分かりやすい引きこもりだったところの俺はゲームの合間にちょこちょこ教科書を開いたりもしていたので、ひとまず初日にあった授業は困ることがなさそうだった。
高校受験でも大学受験でも、推薦で入学する奴は馬鹿にされがちだと聞いたことがある。その是非はともあれ、少なくとも俺は馬鹿にされるほど馬鹿じゃないってことなんだろう。むしろ、俺より馬鹿な奴が窓際で、古典の時間に四苦八苦していた。香は動詞の活用で苦労しているらしい。名前は古文っぽいのにな。
そして俺は今、国語科教師でありクラス担任でもある天野菊太郎教諭に呼び出されてしまっていた。
「適当に座れ」
「うっす」
ソファーは、思っていた以上に上等だった。教室の椅子が硬いんで自宅のゲーミングチェアが恋しくなっていたから、少し嬉しい。これで相手が教師とかじゃなく可愛い女の子だったら、嬉し恥ずかしなシチュエーションになっていたことだろう。
「それで? 用事ってのは何なんですか?」
「ああ。いやな、お前を見込んで頼みたいことがあるんだが」
「……あの、昨日まで絶賛不登校児だったんですけど?」
「不登校児だったとは思えないくらいに朝から美少女を二人も侍らせておいて、そんな言い訳が使えると思ったのか?」
「担任の横暴さに今すぐゴートゥーホームしたい気分ですよ」
「強盗ヘル死体?」
「そんな偏向的な聞き間違いがあってたまるか!」
天野先生は、飄々と笑う。勝ったばかりで勢いよく振られている旗みたいで、なるほど、この人はそういうスタンスなのかと察する。
割と適当というか、生徒に近い教師。いや、教師って言葉よりも先生っていう方が似合うだろう。
そういう先生は生徒にやたらと介入してきて面倒な場合もあるけど、そこの境界線さえ上手く引いてくれればすごく頼りになる。天野先生がどちらなのかは分からないけど、とりあえずは話を聞くしかなさそうだ。
「まずは、聞くだけ聞きます。頼まれるかどうかは、また別問題で」
「ああ、それなら大丈夫だ」
満足げに言ってから、続ける。
コーラから炭酸が抜けたみたいに、少し空気が変わったのに気付く。天野先生はのっそりと座ってから深刻そうに言った。
「端的に言うとだな、学級委員になってほしい」
「ああ俺もそれは心配して――え? ちょっとタンマ、今なんて?」
「学級委員になってほしい、と言ったんだ。聞こえなかったのか?」
「いや聞こえてたけど、ちょっと予想外すぎて」
というか、今の深刻な空気は何だったんだよって思うぐらいにラフな申し出だった。狙いすぎて面白くないコメディみたいなノリに苦笑しつつ、脳内で話をまとめる。
「その学級委員ってのは、いわゆる学級委員ですよね?」
「そうだな。というか、それ以外にないだろ。何かの隠語だとでも思ったのか?」
「いや単純にもう今月も終わりに差し掛かっているのに、その半分くらい登校してなかった不登校児に学級委員になるよう頼む教師の気持ちってのが理解できなくて」
「やかましい。これにはな、きちんとした理由があるんだよ。話せば分かる」
「問答無用」
「あ?」
「……何でもないです」
これもダメなのか、と内心で残念に思う。今のは見事な返しだと思ったんだけどな……。
ちなみに、今のは、五・一五事件で犬養毅が『話せば分かる』って最後に言ったのに対して、彼を殺そうとしていた海軍将校が『問答無用』と返したことをもじったネタである。中学の時に知ってから、ずっと頭に残ってる。
「理由っていうのは何なんです? それに、学級委員は幸田がやってるんじゃないんですか?」
「お前は『質問は一つまで』って言われてるくせに二つ三つと質問するマスコミか」
「そういうことネタにすると色々と大変なことになりますよ?」
「……言えてるな」
「それにいい加減、さっさと話をしたいです。俺、昼買いに行かないといけないんで」
「…………ハッ、ご愁傷様」
「え、何が? マジで何が⁉」
天野先生が、とても愉快そうに笑う。先生が生徒に向けるべき笑みからはかけ離れていた。変なフラグを立てられて、不安しかない。
「こほん。それは、まぁいい。質問に答えよう」
「最初からそうしてくださいってツッコミはしない方がいいですよそうですよね」
何がという話はしないが、万が一にも女性キャラが登場しないクソ回を二話も続けるわけにはいかないからな。何がという話はしないが。
「まず幸田が学級委員をやっているのにって話だが……はっきり言えば、学級委員は二人なんだよ。男女一人ずつ」
「あー。普通の理由ですね」
「ああ。気付かないことに軽く引く」
「割と傷つくんですけど」
でも、考えてみれば男女一人ずつの学級委員ってのはシンプルで分かりやすいし、そりゃそうだろって感じだ。わざわざ聞いたのが恥ずかしい。
一方で、そうなってくると疑問も出てくる。
「なら尚更、幸田と一緒に学級委員をやりたいって奴は出てくるんじゃないですか?」
言っちゃ悪いが、男子なんて可愛い女の子にほいほい釣られる生き物だ。あの、ブランケットみたいな優しさの塊に触れれば、即座に学級委員をやりたがると――
「本当にそう思うなら、別にお前はやらなくてもいい」
「――ですよね」
にへらっと、歯の先っちょだけから笑いが零れた。苦かった。
「俺も、一から十まで知ってるわけじゃない。幾ら生徒と仲良くしたいって思っても限度があるからな」
「でも色々と察してるんですね」
「そりゃ、教師を何年もやってれば流石にな」
「じゃあ結局は、そっちの方も俺にどうにかしてほしいってことですか」
俺が問うと、天野先生は肩を竦める。
「さあ。そこまでは頼まん。昨日まで不登校児だったお前にはな」
「いやさっきはそんなの関係ないって感じだったでしょうに」
「大人は都合がいい生き物なんだ、許せ」
ありきたりな惹句を吐いて、ケラケラと天野先生は笑いながら立った。もう話は終わりってことだろう。
「じゃあ、とりあえずは俺が学級委員になればいいんですね。目の前にある問題をどう扱うかは問わないってことでオッケーな感じですか」
「ああ。というより、お前がどうこうできるかなんて俺にはさっぱり分からんからな。やれともやるなとも言えん」
「結局は考えること含めて丸投げじゃん」
「だから、大人は都合が――」
「二回言うと決め台詞みたいになりますよ、それ」
「そいつはいけないな」
さてと、どうしたものか。
俺も天野先生に合わせて立ち上がりながら思案する。悔しいが、俺も天野先生と同じように考えていたので、何か気の利いた案を出せはしない。
となれば、素直に提案に乗っておくのが得策だろう。何より、幸田と一緒にいられる時間が増えるというのは青春らしくていい。
「ま、ひとまず学級委員の方はやりますよ」
「そりゃよかった。来月には特別合宿があるってのに決まらなかったからな。危うくお前を強制指名するところだった」
「えー、結局変わらないんですか」
もうだったらここでの話、ほとんと全部要らないじゃん。
とは思いつつも、ここで文句を言うよりもさっさと昼飯にありつきたいので、お口をチャックしておく。まぁ、根に持つが。
「じゃ、俺は行きます」
「ああ。ご愁傷様でな」
「いや、だからマジで本当になんなの⁉」
折角話が終わったというのに、なんでこうも不安の残るラストにするのか……。
小石を蹴るみたいに溜息を吐いて、俺はその場を後にした。
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