秋の夜というのは、春ほどセンチメンタルにならなくて、冬ほど独りぽっちを感じない。スポーツの秋だとか食欲の秋だとか、そういう『〇〇の秋』っていうのがあるおかげで、『独りの秋』ってのがあっても許される気がする。
棚から取り出したレトルトカレーを温めながら、昨日だったか一昨日だったかに炊いたご飯のあまりをレンジでチンする。テレビの、くだらなくてちょっと笑えるバラエティ番組がBGMだ。さもないと、独り暮らしは肌寒い。
今の実質的な独り暮らしが始まったのは、中学生の頃。お母さんもお父さんも、仕事が成功し、日々世界を飛び回るようになった。時たま帰ってくることもあるし、二人の部屋だって一応はそのままにしてあるから、あくまで実質的な独り暮らしだ。
ぶるるっ、ぶるるっ。
机に置いてあったデバイスが、ちょっとこっち見てとばかりに震える。まだレトルトカレーはこのままで大丈夫なので、確認することにした。
【あんたー、生きてるー?】
【死ぬかアホ】
咄嗟に返信してツッコんだ。ぽつん、と送信される音があると共に既読のマークがつく。時間的にも、部活が終わって家に着いているのだろう。送り主である香が『お腹空いた!』と言っているのが目に浮かぶ。
【で?】
【いや、それこっちの台詞だぞ。最近は連絡してこなかったくせに、どうした】
【私とあんたの仲なら分かるでしょ】
【どんな仲だよ】
【ラブラブ幼馴染カップル】
【そういうことは俺の前でおめかししてから言うんだな】
【えー、やだ。あんたなんかのために】
ほぼ間がないレスポンスなのだから、香はいい性格してる。これで、実は香が俺のことを好きだったりしたら、さぞ胸がキュンキュンするシーンになるんだろうな。
つかみ取れない水の中の油みたいなIFに軽く笑ってからデバイスを置き、レトルトカレーのパックをお湯から取り出す。熱々は苦手なので、一度そのパックを外で軽めに冷ます。その間にチンが終わったご飯を盛れば、すぐに完成だ。
「誰か食わせる相手がいれば、作る気にもなるんだけどなぁ」
相槌を打ってくれるのは、もう用済みのお湯だけ。ちゃぷんちゃぷんと達成感に満ちた顔で頷くので、俺はうむうむと頷き返しながら流す。
昔――プッストマスターと呼ばれていた頃には、ありとあらゆるスキルを磨き上げることに全てを懸けていた。当時はただ努力をしてPSSTが上昇するのを見ることが楽しい、PSST狂いだったのだ。
その頃は、むしろ誰かに食べてもらうなんて邪魔でしかなかった。自分で食って味を確かめること自体も、料理スキルを鍛えることに繋がる。だから、料理に関わるどれか一つでも他人に譲ることがもったいなく感じていた。
「いただきます」
テーブルまで運んでから合掌する。ついでに、俺はデバイスを弄り、香へと電話をかける。
『……ちょっと、何でいきなり電話かけてきてるわけ』
「飯食ってるんだよ」
『だったらせめて一言言ってからに――ああ、もう、ちょっと待ってて』
「はいはい」
準備があるなら、その後に出ればよかったものを。
流石にそんな風に言うのは気が引けたので、待っている間にレトルトカレーを口に運ぶ。
「…………」
何とも言えない味だ。がらんどうの味。
レトルトカレーの味は、きっと相当によくなっている。ここ数年だけで見ても、その成長幅は目を瞠るものがあるはずだ。
それでも消えはしない、この感覚。
何と名付ければいいのかは分からないが、少なくとも快いものではない。ついつい誰かさんの料理と比べてしまう。
『んんっ。待たせたわね』
「別にいい。さっきも言ったけど、飯食ってるからさ」
『そ。まぁ、あんまり待たされるのも困るから助かるけど』
「さいで」
喉が渇いた。カレーを食ってるってのに、水一つ持ってきていない。どこぞの山椒魚よろしくの失策だった。面倒だと思いながらも、水を注いで戻ってくる。
「それで。さっきのはどういう意味だよ」
『さ、さっきの⁉』
「ああ。『で?』って、何を言いたかったんだ?」
『……ああ、そっちか』
「それ以外に何がある」
まぁツッコもうと思えば幾らだってあるんだが、そういうことを挙げれば本題には入れそうにないからな。
『それは普通に、春ちゃんのことよ』
「それこそ普通に、説明しなかったか?」
『朝の説明で足りると思ってるなら、本当にあんたの頭をホームランボールにするからね』
「お前が言うとシャレにならねぇ……」
香のスイングのパワフルさと言ったら、俺が見ていてもゾッとするレベルだ。一応俺もソフトボールスキルのレベルが6までいっているんだが、全身筋力平均で負けている点を踏まえたら絶対敵わんし。
「でもさ、朝言ったことが全てだぞ。俺と幸田との出会いは昨日が初めてだ」
『出会いねぇ。まあ百歩譲って昨日が初めてだとして、私が聞きたいのはその前のこと』
「その前って?」
『そうやってとぼけるってことは、話したくないってこと?』
「自分がダサいってことに繋がる話をしたがる男はいないだろ」
『誰も、あんたのことをダサいなんて思わないわよ』
「……そいつは、どうも」
曖昧な空気が、電話越しに満ち溢れる。特に似ているわけでもないのに曖昧って字を見ると愛媛を思い出してミカンを食べたくなるみたいに、形容しがたい気まずさだった。
『あんたが認めないのは構わない。私だって、別に心の底から思っているわけじゃない。でも、誤魔化せないものだってあるでしょ』
「随分と頭の使ったことを言うんだな」
『あんたが、何にも考えてないからでしょ』
そう言うわりに、香の口調には俺を罵るような色は見られない。ちっとも、俺が『何も考えてない』だなんて思ってはいなさそうだった。
「まぁ、その辺は分かってる。これでも、色々考えてるつもりだし、分かってるつもりだぞ」
『……そこまでするくらい、春ちゃんのことが好きなの?』
「好きだな。香と同じくらいには」
『はぁ。あんたって、そういう奴よね』
「そうだな。変わったからな」
『そうね。変わってないから』
食い違う言葉はすれ違ってはいなくて、境界線を食み出そうな言葉だけは、決して口から出なかった。
「香の用事はそれだけか?」
『いや、あと一つ』
「『春ちゃんに気を取られないで、私のことももっと見なさいよね』みたいな?」
『うわぁぁぁ』
「引くな、ジョークだろ」
『幼馴染の女子にそのジョークは、ちょっとね』
「幼馴染だからこそ許されることもあると思うけどな」
例えばこんな夜、無遠慮に電話をかけたりとか。
『春ちゃんがさ、あんたの連絡先を知りたいんだって』
「ほーん」
『それで、フレンド登録していいのか確認しようと思ったの』
「なるほどな」
PSSTを確認する機能をベースとして作られたアプリ――PSST-RINK──は、SNSとしても使われている。PSST-RINKでフレンド登録をした者同士はPSSTをいつでも送信できるようになるし、通話やメッセージのやり取りもできる。かくいう俺と香もPSST-RINKを使って電話しているし、今の時代、PSST-RINKを使っていない人はまずいない。
フレンド紹介という機能を使うことで、フレンドのフレンドをフレンドとして登録することができる。ただ、PSST-RINKは他のSNSアプリよりもパーソナルだ。複製やアカウント変更ができないため、他のSNS以上に当事者の許可をしっかりと得ることが求められている。
「んー、まぁいいぞ。幸田だったら悪用されることもないだろうし、どうせいずれは教える」
『同じ学級委員だもんね』
「そういうこと」
学級委員になるという話は、授業と授業の合間の休み時間にしてあった。
「だから、幸田が知りたいって言ってるならフレンド紹介してくれ」
『ん、分かった。じゃあそうするね』
「おう。さんきゅな」
『別にこれくらい、いいよ。あんたの、幼馴染だからね』
「そうだな。愛してるぜ、幼馴染」
『私もよ、幼馴染』
電話が切れる。
口に入れたレトルトカレーの味は、少しだけつまっていた。
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