青春雨前線が綿飴雲を運んでくる。

☁春は綿雲、秋は雨雲、この青春は綿飴雲☁
とこー
とこー

引きこもり少年と綿飴雲

公開日時: 2020年12月2日(水) 00:17
文字数:4,259

 空は曇っていた。

 晴れとも、雨ともつかない曇り。


 未来のこととか全部包み隠して、ただふわふわな気分にしてくれる雲が浮かんでいる。


「好きだぞ、人間的に」

「うん。私も、好きだよ」

「人間的に?」

「あれなニュアンスで」

「あれって?」


 俺の気軽な質問を聞いて、曖昧可愛い彼女はやっぱり──


「内緒だよ」


 と答えた。

 まるで雲みたいにふわふわと、不確かに。


 彼女は俺に恋しているのか。

 俺は彼女に恋しているのか。晴れか、雨かも分からない、曇った青春の中に俺はいる。

 ただ分かるのは、俺が今、綿飴雲に見惚れているということだけ。



 これはそういう、不確かな甘みに溢れた青春の物語。

 そのプロローグは今よりも些か遡ることとなる。


 ◇


 昔、ステータスはゲームの中でしか数値化されていなかったらしい。

 その頃の人々は自分の能力を数値で認識することができなかったのだ。今ではそんなことは信じられないけれども、そんな世界があるのならばきっとそこは理想郷だ。


 ――アプリ起動:PSST閲覧:簡略度9


――・――・――・――・――・――・――

氏:柿崎〈かきざき〉 名:源〈みなと〉

年齢:15歳 身体的性別:男

国籍:日本国 職業:学生

全身筋力平均:280

知的能力平均:350

対人能力平均:325

総合能力平均:320

――・――・――・――・――・――・――


 俺が生まれる数年前。

 体に高精度のICチップを埋め込むことで、人類はありとあらゆる能力を可視化することに成功した。どうやったかと聞かれれば、分からんと答えるほかない。一介の高校生である俺は、現代の科学の最先端とも言えるような分野のことを理解できるはずがないし、興味もない。


 だってそうできることが当たり前なのだ。

 Personal Status通称PSSTの技術が開発されてから既に20年弱。今や全人類がICチップを埋め込んでPSSTを閲覧できるようになってはいるが、その仕組みについて知っている者はほぼいない。PSSTはそれほどまでに、常識になっている。


 そうして誰もが自身のPSSTを上げることに力を費やし、PSSTを前提とする世界が完成した。


「そんだけ最先端なくせして学校っつうシステムは変えないあたり、日本は遅れてると思うんだ」

「元々、PSSTの導入だって遅かったからね。古ぼけた国ジパングって言われちゃってるくらいだし」

「だろ。だから俺が学校に行かないのは、グローバルな視野で見れば正しいんだって」


 扉越し、俺はそう主張する。

 PSSTなんて便利な技術が開発される以前から、日本の“学校”ってシステムは時代遅れだと言われていた。なのに、今でも“学校”はその在り様を僅かに変えることしかせず、存在しているのだ。


 九月も終わりに近づく、今日この頃。

 本来ならば入学から三週間ほどが経ち、学校でもグループができ始めている頃だろう。そんな時期にどうして俺がこんなことを主張しているかと言えば、理由は単純だった。


「グローバルな視点っていうのはいいんだけど……それなら、うちに進学しなきゃよかったんじゃないかなって思うなぁ」

「…………入試の時点では、鎖国な視点しかなかったんだ」

「グローバルの対義語が鎖国っていうのは色々とあれだね」


 あれ、とやらが何なのかは分からない。別に指し示すものはないのに指示語を使うことなんてざらにあるから、何も不思議じゃないんだけど。

 それよりも遥かに不思議なのは、今の状況だと言える。


 都内のちょっとだけ大きいマンションの一室。俺が生まれてから今日まで使用してきた我が部屋と廊下とを隔てる扉が、同時に俺と彼女とを隔絶していた。

 先ほどから何だかふんわりと、雲みたいに俺の言葉を受け流している少女の名は幸田春こうだはるという。先ほど――そう、ちょうど一時間ほど前、彼女がやってきた時に名乗っていた。


 そしてその時に幸田は、ここに訪れた目的を口にしてもいた。


 不登校児、柿崎源を登校させる。


 それこそが扉の向こうの幸田の目的であり、だからこそ俺の溜息は絶えないのである。


 つまるところ、まぁ。

 俺は不登校児で、現在進行形で幸田の手を煩わせているっつうわけだ。


「大体、不登校児なんて退学にさせればいいだろ。幸田――っつうか、学級委員がわざわざくることはなかったんじゃないのか?」

「私にそんなこと言われても困る。でもまぁ、学校としてはそんな簡単に退学にさせるわけにはいかないんじゃないかな」

「そうか?」

「そうだよ」

「何故に」

「色々あるんじゃないかな」

「色々な」


 少なくとも、俺たちの会話に色がないことだけは確かだった。暖簾に腕押しな感じの幸田はもちろんなのだが、如何せん俺のコミュ力がやばい。本当のコミュ障ってのは、会話ができないんじゃなくて会話を広げようという意欲がない奴のことを言うんじゃなかろうか。


「じゃあ、俺が問題でも起こさない限り学校はやめられないのか」

「いや普通に退学届けでも出せばいいと思うけど」

「それはなんか親に悪い」

「問題起こす方が親御さんに悪いんじゃないかな」

「別に問題なんて起こさんからいいだろ」

「……今の会話、なんだったの?」


 手元のデバイスをスし女子と会話するだけのやる気があるはずもない。

 その代わりに手元のデバイスで調べるのは、俺が通うことになっていた国立第一高校の情報だ。PSSTの国内での導入と共に設立されたとあって歴史は浅いが、その分、PSSTとそれまでの学校教育とのバランスを上手く保っていることで話題となっている学校だった。


 偏差値としては、中の上程度。学校行事などは私立と比べても遜色ないかそれ以上に豊かだそうだ。HPには、行事の際の写真や生徒会による紹介記事みたいなものが並んでいる。


 学校か、とぼやく。その声は俺と同じように部屋に引きこもり、うじうじと止まった時計を眺めている。

 秋の始まりの夕方はほんのりと寒い。カーテンを超える夕日はとっぷんとっぷんと夜への時間を刻んて行くように思えた。


「柿崎くん」


 秋らしい声だった。


「学校、戻ってくる気にならない?」

「さっきから言ってる通りだな」

「真剣に考えても?」

「ついさっきまでも真剣だったと思うぞ」

「嘘だよ、それは。私だってそれくらいは知ってる」

「なら俺がどうやったら学校に行くかも知ってるんじゃないか?」

「そういうの、よくないと思う」

「……悪い」


 素直に反省をする。少しだけ、自分が苛立ってしまっていた。まったく、相手が誰だとしても八つ当たりほどダサいものはないのにな。


 雲が綿になった。曇りの朝じゃなくて、澄んだ夜に似合うふわふわとしたコットンだ。そんな風に、詩的な比喩を女子相手にする男子って痛々しくて笑えてしょうがないけれど。


「悪いと思ってるなら、来てくれない?」

「随分と飛躍したな」

「でも私、柿崎くんが来ない限り毎日ここに通わなきゃいけないんだよ。そっちの方にも、悪いと思ってくれるでしょ?」

「そうだな。折角の青春を俺のために使い潰させるってのは悪いなって思う」

「じゃあ来てよ。私のために」

「やたらと強引だな。さっきまでの生温い時間はなんだったんだ?」

「将棋には長考っていうのがあるんだよ」

「将棋やるのか?」

「やらないよ。ルールも知らない」

「いやマジでなんで将棋に喩えた?」

「柿崎くんがそう言えるように、かな」


 息を呑んだ。

 幸田ってこういう奴なのか、と驚く。元々大した付き合いではないんだけど、それでもファーストインプレッションとの乖離にはびっくりする。40代の人が、秋から始まる学校に驚くみたいなものだ。


「幸田って意外と魅力的な女の子なのか」

「柿崎くんは聞いてた以上に軟派な男の子なんだね」

「不登校児は可愛い女子と話せるのが珍しいから、舞い上がってるんだよ」

「ならもう少しテンション上げてほしいなぁ」

「これでも上がってる。クールに装いたいのが男って生き物なんだ」


 ぺらぺらと御託を並べて、くすっと笑う。

 本当に自分が舞い上がっていることが可笑しかった。こんな簡単に自分が絆されるだなんて、想像もしていなかったんだ。


 PSST至上主義の、ちっぽけで冷たい外の世界。

 もう関わるのはやめてやろうって思っていたのに。


「なぁ幸田」

「何かな柿崎くん」

「PSSTって何だと思う?」


 扉の向こうから、少し音がした。幸田が考えこんでいるらしい。慎重に言葉を選ぼうとしているのはよく分かったから、俺は扉に体重をかけて大人しく待つ。

 ぎしし、と軋んだ。


「自分がどこにいるのか、これからどこに行けばいいのか。そういうのを知るための道具なんじゃないかな」

「コンパスみたいな?」

「コンパスっていうよりかは、GPSかも」

「最先端だから?」

「方角は教えてくれないから、だよ」

「……そっか」


 幸田の言葉は想像よりずっと重みがあって、彼女に聞くべきことではなかったな、と反省する。


 どうも部屋にこもっていて、思考が滞っているらしい。引きこもりは性に合わないってことなんだろう。


 幸田の答えを待つまでもなく、俺は少し大げさに溜息を吐いた。


「分かった。行くことにするよ、学校」

「いいの?」

「いいのって……ついさっきまで『私のために学校に来て。私、柿崎君が」

「ずっと不登校になってればいいのに」

「せめて最後まで言わせて? っつうか現在進行形で不登校な相手に言っちゃあかんやつだろ、それ」


 団扇みたいな笑い声が、けらけらと聞こえた。その笑い声で、心底気が楽になるのだから不思議だ。


「さて、と。それじゃあ色々と準備しますかね」

「そうだね。私もそろそろ帰るよ」

「暗くなっちゃうもんな。何なら送ろうか?」

「大丈夫だよ。むしろ準備で待ってる間に暗くなっちゃうから」

「それもそうか」


 一応ちょこちょこ風呂には入ってたけど、それでもすぐに幸田と並んで歩けるほどの状態にはなるまい。ここは、幸田の言う通りにした方がよさそうだ。


「んじゃ、今日は悪いけど扉越しでさよならだ」

「うん、そうだね」


 バッグか何かだろうか、がさっと小さく音がした。

 その音に紛れるようにポリポリと頬を搔いてから、目を瞑りながら見えない姿に言う。


「ありがとな。色々、気が楽になった」

「色々ね」

「ああ、色々だ」

「そっか。じゃあその『ありがと』は、しっかりもらっておくね」

「そうしてくれると助かる」


 それから、幸田はゆっくりと去っていく。

 綿あめが溶けた後みたいな、こびりつく名残惜しさが部屋に残った。


「……まずは髭でも、剃るか」


 いつまでもへそを曲げていたって仕方ない。

 そう自分に言い聞かせる作業は、青春の始まりには些かハードで、けれどもやってきた綿飴雲の甘さを考えたら、幾らだってできる気がした。

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