ああ、恥ずかしい。今すぐ誰もいない山奥で、人の目気にせず喚き散らしてしまいたい。しかし今居るは、京都の街のいささか壁の薄いアパートの一室ゆえ、大声を出すのは憚られるよ。だからきみにだけこっそり話すことで、この居堪らなさを霧散させてしまおうという魂胆なのである。この見え透いた対処こそ、僕のみみっちい性根が故であることは百も承知であるけれど、こうでもしなけりゃやってられんのだ。もうほとほと馬鹿らしくなってしまったのだ。こと恋愛というものに、僕は何度苦しめられてきたことだろう。貧弱な脳を持って、妄想に次ぐ妄想を幾度となく繰り返し、ありもしないハッピーエンドを作り出しては、現実では何一つ起こらない、いや、確かに何一つ起こりはしなかった。ただご飯を食べて、そして別れただけなのである。あなたには、僕の思惑など筒抜けだったのでしょう。しかし僕はあの場であなたと言葉を交わすまで、すべては僕の頭の中の通りに起こると、心底信じきっていたのです。しかし、僕もようやく己の愚かさを悟り、それからはもう地獄と言って差し支えない、悲惨な状況でございました。表面上は久しぶりに会った二人の和やかな夕食でありましたが、僕にとっては散々でした。あなたは僕を情けなく思っておられるでしょう。いや、むしろ憐憫の情さえ起こされたかもしれない。ああ、こんなことであれば一層、色欲など消えてくれれば良いものを、などと考えたりもするのだけれど、それこそ現実を受け止めきれぬ醜態が晒されるのみで、ますます哀れで見ていられない。おいきみ、話を聞く前から笑うもんじゃない。少しは僕を励ましたまえよ。いや、むしろ笑ってくれた方がいいかもしれない。こんな話を内々にこそこそしまっていても、腐ったみかんになるだけだ。いや、甘くもないから、むしろそれより酷い。かの神の子は、七度の七十倍赦せとその弟子たちに仰ったらしいが、この阿呆はたとえ何度赦しをいただいたとしても、すっかり忘れて懲りぬのだから、これはいよいよどうしようもない。
　
　百華に会ったのは、およそ三ヶ月ぶりのことだった。確か最後に会ったのは去年の晩秋のことだったと思う。観光客の少なくなってきた南禅寺やその周りの紅葉を見に行ったのだ。あの時は僕も遠方での仕事を終えて京都に戻ったばかりの頃だったから、多少浮かれて、彼女に粗末なお土産を渡しながらいい気になっていたのだけれど、それ以前にも何度かご飯を食べたり、休日にはテーマパークへ遊びに行ったりもした。彼女が最近大阪へ引っ越したというのを聞いて、今回久しぶりに食事でもしようと誘ったのだ。冬がおおよそ過ぎ去って、重苦しいコートなしでも外出できるようなほのかに暖かい時節であった。
　大阪駅で彼女と合流し、第三ビルの地下にある居酒屋に入った。十九時ちょうどくらいであった。ビールを一杯ずつ頼んだあと、メニューをお互いが見えるように置き、これはどう、これは好きだったっけ、などと多少気も遣いながら、串カツを数本と、鰹のたたき、それから枝豆を頼んだ。ビールが届いてから数分してから、枝豆が最初に机に置かれた。彼女は枝豆を箸でつまんで、それを手を使わずにはむはむしながら食べた。奇妙な食べ方だなと思った。僕ははじめは同じようにして食べてみようと思ったのだけれど、二回ほど試みて敢えなく挫折した。口元に手を添えて食べることは実は食事の作法としては良いものではない、という話をどこかで聞いたのを思い出した。僕は手を使ってぱくぱくと枝豆を食べ始めた。彼女は何も言わずに箸でちまちまと薄緑の皮を食んでいた。次に届いた串カツも、彼女は自分で頼んだキスの串カツを、一旦外してから、ソースをつけて食べていたし、鰹のたたきに山盛りに乗っていた玉ねぎと刻んだ青ネギは、綺麗に避けてあった。僕は残った玉ねぎと青ネギを混ぜて、醤油につけながらちびちび食べたりした。これは少し話が逸れてしまった。さて、レモンサワーを何杯かほしたあと、僕は彼女の家にまで行こうかと思っていたわけなのだけれど、その為には幾らか場を盛り上げておかなければならぬものである。彼女のご機嫌をさっさと取り、我が計画を遂行せん。彼女は、最近会社の方針が変わったことで自身の仕事が急に増えたのだと息を漏らしていた。彼女の方が酒が無くなるのが少し早い。話の途中で、ぐいとグラスをあおってから、黙って手を上げて店員さんを呼んだ。ひどく騒がしい店だったので、声では店員さんが気づかないのは、二度目の注文の時に学んでいた。店員さんが来てから、まだ半分ほど残っていた僕のグラスをちらと見て、ハイボールを一つ頼んだ。彼女は先程の話を続ける。僕も大して話が上手い人ではないだろうけれど、お相手が望む相槌や質問なんかは、長らくの訓練の末どうにか習得し得たものと思っていた。だから今日も、その鍛えぬかれた技量を余すことなく発揮しようと腕をまくっていたのだけれど、なぜかその日、彼女への質問は一向に頭に浮かばず、彼女の目の下の辺り、化粧の白い粉の下の肌がほんのりと赤らんでいるのを、眺めるともなく眺めていた。その間生返事くらいはしていたかもしれないけれど、話の内容は全く覚えていない。僕は三杯目のハイボールを頼んだ。いるかい、と彼女にも聞くと、うん、ありがとうと平坦な返事が返ってきた。
　僕は五杯目のハイボールで、もうそろそろ限界が来ていた。とにかくこの気まずい場所からおさらばしたかった。トイレ行ってくる、と僕は席を立って、百華はこの二時間ほどで四度も席を立っていたが僕は黙っていた、戻ってきてから、この後家に行ってもいいかい、ゲームでも一緒にしようよ、と彼女に尋ねた。すると彼女は、
「いや、それはだめよ、充電できてないんだもの」そう、僕は苦笑しながら言って、頬杖をついてしばらく黙ったまま、ホタルイカの沖漬けを食べていた。これはなかなか美味しかった。彼女はスマホを先程からいじっている。「充電」以外の言い訳を考えているのかもしれない。下手な言い訳を言ってしまった彼女も彼女だけれど、それをただ眺めている僕の方が幾分タチが悪いな、と適当なことを思った。
「ああ、同僚から仕事が振られてきちゃったの」彼女は僕に言うでもなくそう呟いた。ふうん、と僕は言った。急にクラクラしてきた。出ようか、僕は言って、レジの方へ向かった。
　僕は酔っている風を装いながら、ゆらゆらと店を出た。実際は意識などはっきりとしているのに、一体なにをしているのか。酔いでもしないと甘いことなどできないことを、彼女はきっと許してはくれないだろうな。もうすっかり酔いが醒めたような顔でスタスタと歩く百華と並んで駅に向かって歩いている。周りの人には、僕らはどう見えているのだろうか。若くもない、大人でもない、何もかも中途半端である。流れて生きることもできず、達観し老成したように生きるのも気障である。どうして彼女に会いにきてしまったのだろう。なんだか目の前が霞んで見えた。

え、それで君はどうしてそんなにしょぼくれてるのさ、だって？きみ、そりゃあ僕はどうしようもない奴だからだよ。いや、事実この一件は、僕の百華に対しての無礼をまざまざと見せつけられてしまった。だってそうだろう？彼女と一緒にいた今までの時間、いや、メールをしていた時間を全て合わせても、僕は彼女のおっぱいのことしか考えていなかった！ご飯を食べている時も、京の街を散策している時も、彼女といる時はいつもそのことばかり頭から離れなかった。この助平め、恥を知れ。どうせ、彼女なら或いは、などと考えていたのだろう。いや、そうに違いない。ねえきみ、僕はどうしたらいいのかなあ。内面を見よと人は言うけれど、その前の分厚いおっぱいの壁に僕の目は覆われてしまうのだ。こうなっては内面の、精神的で、高尚な会話などできるはずもない。それに、世間はそんな隠れ助平を求めてはいない。下心など、はじめからないものとするか、もしくはカルピスの原液のように薄く薄くしてしまえと、世の中は吹聴しているご様子。無くせるものなら無くしてみよ！いや、できるならどうか無くしてください！全人類から生殖機能を無くし、世界に平和を！これはもちろん冗談だけれども、いやに気障でみっともない小細工をしながら、ぎくしゃくと恋愛とかいう恥ずかしいものをするくらいなら、手淫を毎日でもしてやって、色欲など消し去ってしまってもいっそのこと構わないのではないか。なに、僕が淋しいのだろうって？馬鹿言っちゃいけない、そんなはずがないだろう。僕はきみという無二の親友がいるのだし、恋沙汰の一つや二つなかろうと、我が人生は薔薇色であるよ。むふふんであるよ。僕ははははと笑って、垂れてきた鼻を啜った。この季節は花粉が飛び回ってひどいのである。
　君は以前、友愛以外の愛もあるのだと言っていたが、あれは本当かい？まさか慈愛じゃないだろうね。僕は母には頭が上がらない。昔はそうでもなかったのだけれどね。あれは成人してからのことだ。帰省中の僕は、偶然、母の太く白っぽいふくらはぎに濁った黄痣を見たことがあった。黄色っぽい楕円の中に、赤黒い模様が点々とぼやけて散らばっていた。僕はその黄痣が目に焼き付いて離れなかった。ひどく生々しかった。その時の母は五十路を越えた頃で、まだまだ溌剌として化粧などもそれなりにしていて美しかったから、人には見えぬところにあるそのぼんやりとした傷が、胸が張り裂けるほどに悲しかった。風呂場であの傷を見ながら溜息でもついている母を想像すると、足ががくがく震えて立っていられないほどであった。僕は不孝者である。僕と同じ歳のころと比べて、随分と傷の増えたであろう母の強さが初めて心に沁みた。だからね、何の話をしていたんだっけ。そうだ、愛の話だ。きみ、愛するなんて簡単に言うもんでないよ。そんな容易いことではない。いつか言えるといいねって、そんな他人事みたいに。まあいいさ、僕は僕で、のんきにやってるよ。そうだ、きみはどうなんだい、何かいいことでもあったかい？君はふふんとはにかんで笑う。笑うと目が細くなって柔らかい顔になる。やっぱり似ているものだ。まあ当然なのだけれど。きみもずいぶん歳をとった。そして君は、これまでにあった愛の話とやらを、ゆっくりと語りはじめた。

意気地なしの詩

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