完結済 短編 現代世界 / 日常

義姉の手

公開日時:2023年3月18日(土) 15:45更新日時:2023年3月18日(土) 15:45
話数:1文字数:4,131
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 鳥が鳴いている。見上げている僕のことなど点で気にせず、なんとも言えないのんきな音で先ほどからピイピイと囀っている。午前十時半前、雲一つない淡い空のした、僕はJR土山駅前にある出会いの道という名の散歩道をぶらぶらと歩いていた。遅れてやってくる兄を待っているのだ。この声がめじろであることを僕はその時初めて知った。木に止まっているのをこの目でしかと目撃したのである。しかし一体彼は、どこから声を出しているのでしょう。口を開けているところは見えるのだけれど、その声は遠くまで広がって、どこから鳴っているのか僕には分からなかった。ともかく、季節は春である。僕はめじろの音に重ねるように口笛を鳴らした。

 しばらくして兄の武史が迎えにやってきた。白いSUVである。確か二年ほど前に買ったのだと母から聞いた。僕は運転席の後ろの席に座った。目の前には少し寝癖のついた雑な短髪の後頭部があり、隣には兄の娘、すなわち僕の姪のさちが、すやすやと首を左に傾けて眠っている。たしか先月1歳になったばかりだったか。今日はよろしく頼むよ、兄はそう言って車を走らせた。僕ははいよと答えた。僕は今日、兄の新居への引っ越しを手伝いに来た。車が揺れるのに合わせてさちの足指がぴくっと動くのを、僕はぼんやりと見ていた。

 一つ違いの兄と僕は、昔はそれはよく喧嘩をした。好きな色は兄は赤で僕は青だったし、兄が右なら僕は左だった。確か小学生の頃までは、力では勝てない兄に僕は家中の物を放擲することで対抗していた。けれどいつ頃だったか、これ以上喧嘩をするとどちらも重傷を負うとふと気がついてから、僕は兄と喧嘩をしなくなった。それから兄は地元の教師になり、大学時代から付き合っていた同期の女性と結婚した。一年後にはさちも生まれて、現在二十六歳である。仲良く喋るわけではないが、仲が悪いわけでもない。兄弟とはどこの家でもこんなものなのかもしれない。今回僕が呼ばれたのは、現在フリーターである僕の他に手伝える人がいなかったからという、至極当然な理由であった。

 兄の家までは約十分ほどで着いた。外観がまだ新しい全部で四部屋くらいのアパートだった。新婚さんが住んでそうな家だなと何とはなしに思った。兄はこの家で義姉、当時はまだ彼女であった真奈さんと、四年ほど一緒に暮らしていたらしい。それで今回、JR大久保駅の近くに出来る新築マンションの一室を買って、三人で新生活を始めるのだそうだ。僕は昔から、兄のこの”しっかりした”感じを毛嫌いしていた。兄が嫌いだからなのか、その性格が嫌いだからなのかは分からないけれど、いずれにしても、何のずれもない確実な一歩を、力強く踏み出していくその感じに、僕はなんだかいつもざわっとさせられるのであった。しかしそれが嫌いとは別のものだということに気づいたのは、ごく最近のことである。

 玄関から中に入ると、大量の段ボールがリビングに置いてあった。十一時には引越しの業者が来る予定だ。真奈さんは役場に必要な書類を出しに行っているそうで、新居の方で後で合流する予定である。十五個以上、いや下手をすると二十個はあるかもしれない。一人暮らしの僕なら、三つもあれば十分だろうなと想像した。堆く積まれている段ボールの外側には、台所、洗面、寝室、子ども、等と書かれてあった。僕は兄に頼まれた通りに、一つ一つを紙テープで止めていった。時間通りに引越しの業者が家の前に馬鹿みたいに大きなトラックでやってきた。兄は業者さんに挨拶をして、積んでいく段ボールを分けるために、僕にさちをひょいと預けた。ずんと左腕に姪の体重が乗っかる。運動不足のひょろひょろの腕にはなかなかの重さである。さちとは生まれてしばらくした時に一度会った以来で、僕は抱っこもしたことがなかった。僕は落ちないようにと左腕に全神経を向けながら、泣いてくれるなと全身で祈った。うねうねと動く姪から僕の方へもわっと体温が流れてきて、その周りからは何だか不思議な匂いがした。業者さんは段ボール、机、テレビ、ダブルベッド、冷蔵庫、洗濯機なんかをさっささっさと運んでいく。三十分もしないうちに、家の中はすっからかんになった。敷いていたカーペットの裏にあったほこりが、開けた窓から吹く風にころころと転がっている。じゃあ、行きますか、兄は誰にいうでもなくそう言って、玄関の方へ向かった。僕はもう一度家の中を見回してから、玄関に向かった。

 新居のマンションの前で義姉は立っていた。先に役場の予定が済んだらしい。兄と姪と僕は車から降りて部屋に向かった。彼らの部屋は九階で、そこからは瀬戸内の海が一望できた。昼下がりの陽光が窓から差していて、白を基調とした部屋に靄がかかったように一層ぼんやりとしていた。さちはくわあと大きなあくびをした。僕も釣られてあくびが出た。しばらくフローリングに座って待っていると、先の業者さんが玄関のベルを押した。

 僕は段ボールから物を出していった。生活用品から兄の私物、子供のおもちゃ、とにかくさまざまである。その中には、大量の買い置きがあった。水はもちろん、洗剤、シャンプー、などの詰め替えられるものが大量に詰まっていた。この重さが、生活なのだろうか。先ほどまで違う家にあったものが、どんどんこの部屋に押し込められていくのだ。段ボールからは、テーマパークの帽子とか、結婚式のアルバムとか、兄の好きな漫画とか、さちのおもちゃのブロックとか、義姉の使い古したようなパジャマ等が出てきた。この積み重ねが、生活なのだろうか。さちは僕の隣で、先ほど出てきたブロックを投げたり舐めたりしている。彼女の両脇に手を入れて持ち上げて、膝の上に乗せてみると、彼女は舐めていたブロックを差し出すように僕の方に手を伸ばした。最近の彼女は、誰かにプレゼントすることを趣味にしているらしい。素敵な趣味である。僕も見習わなければならない。兄はこのまま歳をとるに違いない、とふと思った。

 片付けをしばらく続けていると、さちがぐずり始めた。わあわあと所構わずといった様子で泣いている。すると、ずっと窓際で座っていた義姉がスッと立って、はいはいおむつ替えましょねえさっちゃん、とわあわあ泣く姪を抱き上げた。義姉は兄におむつを取ってきてもらい、そのままさちを寝転ばせておむつを替え始める。僕はその左手をじいっと見ていた。彼女の手がひどくあかぎれていたのだ。手の甲から指先にかけての至る所がひび割れて、顔や腕の肌の色よりもかなり白んでいた。彼女の外側の雰囲気にまるで似合わない、生活感のある手だった。真奈さんは柔らかい雰囲気を持った人だ。数年前初めて兄が彼女を実家に連れてきた時も、すぐにのんびりとした雰囲気のまま家に馴染み、一つの棘もない春の花のような人だなと僕は思ったものだった。先ほど帰っていった業者さんに挨拶に行く時も、ゆったりとした、おばあちゃんのような空気を背負って玄関に向かっていったのを見て、フワッとした白く細い柔らかい手を僕は想像していたのだ。しかし目の前にいる彼女は、この世の誰よりも強く見えた。そのあかぎれて荒れた手からはお腹がじんじんするほどの何かが無尽蔵に溢れていた。彼女は紛れもなく母なのだ。そして兄は父であった。

 僕は彼らのように”しっかりする”ことができそうにない。僕は何だか弱気になった。足はふわふわと空中を駆け回り、頭の中の妄想と現実がぐるぐると混ざってしまって、いつの間にか身動きが取れない。走っていると思っていたのは自分だけで、昔から何も変わってやしない。”しっかりする”こともできるのだと思っていた時期もあった。僕はただ自由に生きたいから、敢えてその道は選ばないのだと、兄とは違うのだと思っていた。僕のやっていることこそ、人にはできない特別なことのはずだった。しかし、実は僕は、兄が当然のようにやっていることができなかった。アルバイトは三日連続で行くと頭が痛くなって休んでしまうし、料理もできないし、彼女もいない。職場の愚痴を言うこともできないし、マンションを買うこともできない。済まない兄さん、僕はあなたをさんざん馬鹿にしていた。何でもない人だと、面白みのない人だと、陰で隠れて笑っていたのだ。あなたは僕が持っていない全てを持っているではないか。地面に足をしっかりとつけて、ゆっくりとその道を歩いているではないか。それに比べてお前はなんだ。ふにゃふにゃしていれば誰かが構ってくれるのは赤ん坊だけだぞ!覚悟を決めて地面に足を着けてみたまえ。できないことは諦めて、できることをやってみたまえ。僕は夕暮れの窓の外を見て、お腹がまたきゅっと痛くなった。

 荷解きが粗方済んで、僕らは晩御飯を食べに出かけた。駅近くの定食屋さんである。僕は𩸽の開き定食を、兄はサイコロステーキを頼んだ。学校内でトラブルがあり、明日は遅くまで学校に残るから、精力をつけたいのだそうだ。学校のトラブル云々は、同じく教師である両親からも昔からよく聞いていた。兄は昔をたくさん引き連れてくる。そして義姉はポテトを頼んだ。塩はつけないでと店員さんにお願いしていた。僕はちゃっかりご馳走になった。そしてその日は店の前で解散した。

 次の日、母から義姉が妊娠していたことをメールで聞いた。だから手伝い頼んでたのよう、母は陽気に話した。なぜ僕には知らされていなかったのか。思い返せば義姉はあまり元気そうではなかった。体調が優れなかったのか。気を遣わせてくれればいいのにと僕は思うが、こんなふわふわしたやつには気も許せまい。決して自虐ではない。客観的事実である。これからはしっかりとアルバイトしよう。物書きも恐縮ながら続けていこう。重ねて重ねて、どんどん重たくなって、抜け出せなくなって、いかに自分が下手であるかということも書くたびに気づいてしまう。今も腹の中がごちゃ混ぜになって吐き気がする。それでも、僕はこの大いなる文学を、最後の最後まで愛していこう。昨日の義姉の手が、僕の両頬をペちと挟んだ。僕の頬の方が熱くて、彼女の手はひんやりと気持ちよかった。そして僕は、何ということもない僕の生活を再開した。

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