転職で会社を変え今の現場に勤める事となった田中は業務開始の二分前に瞼を擦りつつ自席に座っていた。
朝ご飯のあんパンを齧っていると向かいに座る上司の加名が田中に話しかける。その内容は昨日の昼頃に指摘された修正状況を尋ねられた。田中は既に修正を終えて確認の依頼メールを加名へ送っている旨を伝えた。寝起きと思うほど低い声で加名は『分かった』と返事をする。
田中は女性が上司という状況を経験したことが無く。距離感をまだ掴めていない。
転職前の田中はプロジェクトリーダーという立場にあったが今はチームリーダーとして加名の指示に従い業務をしていた。田中の下には入社して数ヶ月しか経っていない新人が一人ついている。
「田中」
資料のないプログラムを追いかけて中身をチェックしている最中に呼ばれてしまい作業を中断して田中は席を立った。
「ここ直してあるけど、別の場所が直されてない。横展開で全部直して」
「……はい」
どこか不機嫌そうな田中の声色に違和感を覚えた加名がパソコンの画面から田中を向いて口を開く。
「なに? どうかしたの?」
「……別になんでもないです」
「そう。んじゃ任せたわね」
それだけのやり取りで田中は自席に戻り作業の続きを始めた。中断した作業がとても良いところで田中は無自覚のうちに不機嫌な顔をしてしまっていた。そして、指摘された箇所の作業は新人に任せた場所であったが新人は悪くない。
加名が指摘した内容だと修正した場所以外を読み取ることが出来ない。忙しい時だとそういう事もあるので特に気にせず、この日は大きな衝突も起きずに少しの残業で仕事を田中は業務を終えた。
そして、電車に揺られて一人暮らしの家へ帰宅する。
「はぁ……疲れた。んじゃ遊びますかー」
田中は日頃のストレス解消にゲームパソコンを起動した。最近のゲームは友達と通話を繋いで遊ぶのが主流となり一人暮らしでも近くに友達がいる感覚で楽しめる。
田中は友達に連絡を取ると了承されたので通話を繋げた。
「だんごしゃん! 本日もお仕事お疲れ様ですぅ」
「カロタロちゃんもお疲れーい。んじゃ、昨日の続きやるかー」
「おー!」
田中はゲーム内の名前を『団子の法多山』にしていた。相手の名前は『カロタロちゃん』で名前に敬称がついている。声も可愛くて田中よりもゲームが上手く一緒に遊んで楽しい相手である。
昨今のゲームには日毎の日課があり、二人でのんびりと会話をしながら進めた。社会人ゲーマーは呪いに掛かっており夜遅くまでゲームをする事ができない。翌日には仕事が待っているので田中は零時を回る頃にはゲームを終える。
カロタロちゃんに関してはもう少し遊ぶと言い田中よりも遅くまで遊んでいるらしい。彼女曰く、朝は少しだけ余裕があるとの事。
楽しい時間こそあっという間で、零時を迎えようとしている頃に田中は溜息を吐いた。
「はにゃ? だんごしゃん溜息なんて吐いてどーしたの? めずらし!」
「いやぁー、明日も仕事かーって思うと辛い。カロタロちゃんとゲームしてたい」
「あたしもしたーい。今日はギリギリを攻めて深夜までやるぅ?」
「無理無理、仕事が遅れて週末のイベントも残業しちゃうよ」
「はわっ。それは大変だ!」
週末には大規模イベントが控えているので田中は絶対に残業をしたくない。だから、支障が無い様にゲームから離れるカウトダウンが始まっていた。
「最近なー、仕事でストレスを感じるんよなー」
「おおぉ、たんごしゃんが愚痴なんて珍しい。少しくらいなら聴いてあげたっていいわよ?」
顔も本名も何処に住んでるのかも知らない赤の他人のカロタロちゃんに田中は甘えた。
「もっと俺に仕事をくれって感じかな」
「えぇ!? 仕事が多くてストレスなんじゃないの!?」
大げさに驚くカロタロちゃんの声を聞きながら田中は続けた。
「なんつーのかな。新人くんにも仕事をお願いするんだけど、まだまだひよっ子だから割り振る量を減らして良いと思うんだよね。慣れるまで新人くんも負荷が少なくて俺も仕事に集中する事が出来るし良いと思うんだけどなぁ。いつも上司から作業を増やせって言われるんよ」
田中は素直に感じている事を伝えて小さな欠伸を溢す。
「あらあら、おネム? 上司さんと話し合いをしたら解決するかなぁ。あっ! 分かった。きっとその上司さんがすっごく怖い人でだんごしゃんびびってんだー」
「びびってねーよ。名探偵カロタロちゃんの推理はハズレだよ、実はその上司すっげー美人。住む世界が違う感じの人」
「美人さん!? ゲーマーの辛いとこです。周りの社会人は映画を見たり動画を見たりで夜を過ごす人ばっかり」
あるあるだねと二人で笑い合って解散した。
遅刻することも無く田中の仕事が始まる。田中に適正があったのか今の仕事は活躍もできて好きだった。新人が分からない点も丁寧に教えて自分の作業が遅れ気味になる事も少なくない。
その遅れも実力で前倒しに終わらせていくのが田中という男だ。
午前中は特に事件も無く順調に仕事を進めてお昼が迫る頃に、向かいの席で加名が難しい顔をしつつキーボードを叩いていた。
「先輩なんかあったんすか?」
「んー、まぁ……ね。午後一に会議室予約したから来てね」
「分かりました」
適当にお昼を外食で済ませて会議が始まる。
その会議の内容は至極単純で、今の仕事に変更が急遽入り追加の作業が差し込まれると言った内容だ。今のスケジュールだと無理があるのは明らかだが、加名は追加作業の殆どを新人に任せて現在の作業を田中にお願いしている。
分担して作業を集中的に終わらせる提案だった。
そうする事で田中は自分の作業に集中する事が出来て昨日まで想定していたよりも簡単に終わらせきれる未来が見えた。仕事が終わるという事は週末に始まるイベントに定時で帰って遊べるという事に繋がる。
田中にとって夢の様な提案に口を挟んだ。
「その提案はダメっすねー、追加作業を軽く見た感じだとパンクしちゃいますよ。まぁ、今のスケジュールだとって話ですけどね。それで、変更が入ってどれくらい期間は伸ばせそうすかね?」
急な変更により作業期間を修正する必要がある。今まで引いてるスケジュールに作業が増えれば足が出る。そういった場合は上に立つ者が調整するのだが……。
「事情があるから今まで通りのスケジュールに上手い事どうにかしてくれない?」
稀によくあるとはこの事で計画から余裕がなくなる瞬間だ。上の立場も理解している田中は特に責めるつもりもない。けれど、やり方には口を出す。
「どっちも俺がやります。まぁ、今まで通り新人くんには補助的な立ち位置で動いてもらいますよ」
田中は軽く目を通しただけだが重い内容だと判断していた。だからこそ追加作業も田中がメインで入って進める事が一番だと素直に思っている。
しかし、加名は田中の提案を拒否し一切譲らなかった。
このままでは残業が確定してしまい、週末のイベントが危うい田中は第二案を苦し紛れに考える。
「じゃ、今俺がやってる作業を殆ど終わらせた後に新人くんと交換しましょう。時間が掛かりそうなとこは先にやるんで……それなら今やってる作業の延長線にあるので彼も混乱する事も無く順調に進むでしょうし」
「良い提案だけれど、ダメよ」
田中は先輩の考えている事が全くわからなかった。効率的に仕事を終わらせる内容を考えたけれど首を縦に振ってくれない。
「意味が分かんないっす先輩。完全に任せるにしても無理があるのは一目瞭然ですし」
「難しいかもしれないわね。でも、とりあえずチャレンジって事でこの内容で行くわ」
挑戦させたい先輩の想いを汲むしか無い田中は呆れた様子で折れた。
「何かあればもちろん助けますよ? でも、必ず何かが起きると分かっているんです。未来の俺が苦しみながら助けるって賢くないじゃないっすかー。事前に手を打てるのに打たないんすよ」
「これも新人くんの良い経験になると思うから」
田中の不貞腐れた表情に加名も良い気はしない。お互いに棘を発しながら会議が終りを迎える。
加名は終わり際『溢れた作業は私も入るから』と田中へ助け舟を出したが一人で十分ですと断られた。
この日は自分たちの作業に集中して大きなやり取りも無く、定時間際に田中の残業申請を加名が承諾した。なるべく先に自分の作業を終わらせて新人の為に後半の時間を作る残業だと加名も理解している。
加名が同じく残業して手伝うから割り振れる作業が無いかと尋ねるも、田中はちょっとしか残業しないんで要らないと伝えた。
無理に手伝うのも邪魔になるだけと考えた加名は帰路についた。
歩いて五分で家に到着した加名はお風呂に入り夕飯を済ませてゴロゴロとしていた。気を張らず自然体でゲームを楽しむ時間が始まる。
「あっれれぇー、だんごさん遅いなぁ」
いつもなら姿を現す時間帯だけれど音沙汰ない。
「ふぁぁ、お腹一杯で眠くなってきたなぁ」
一人暮らしの部屋で加名は独り言を呟き、寝落ち回避のために一人でゲームを起動した。
それから約二時間後に通話をつなげる。
「うぃっす」
「やぁ、だんごしゃん今日は遅いねぇ」
「ちょっと仕事が忙しくなる雰囲気あってなー、イベントもスタートダッシュに失敗しそうだわ」
「あらあらまぁまぁ。あたしも忙しくなりそうな雰囲気あるから……ま、後発組として楽しもうではないか!」
社会人だから仕方がないと大人の二人は半場諦めつつ、いつもより短い癒やしの時間を過ごした。
「ふぅー、もう少しで本日も終わりかにゃ?」
「そだねー、カロタロちゃんも夜更かしは程々にしなよー」
「わかった! あ、そうだ。今日はあたしの愚痴に付き合ってよぉ~」
昨日の流れが今日も続いていた。
「いいよー」
「だんごしゃんありがと。実はあたしも仕事で悩んでいるのです。うちの同僚に化け物がいる! 一人で何でも出来て誰よりも仕事が出来る化け物がいるのー。もー、本当に優秀で何でうちに来たの? って感じであたしより出来る子なの」
加名の言葉を聴いて団子の法多山は素直に疑問を浮かべていた。
「優秀ならいいじゃーん。すぐお仕事も終わるし毎日定時で帰れるしさー」
「そーそー。そうなの。でも、問題があってね。えっとね、その人に全てを任せてたら後輩くんが育たないと言いますか。あたしはもっと下の子を頼りにしてもいいと思うんだけどなぁ。カロタロちゃんの贅沢な悩みなのです。とりあえず、手を出してみるのも大事だと思うんだ―。意外とやらせたら出来ちゃうかもしれないし、失敗しても得る物はあると思うの」
通話の先にいる団子の法多山も納得した様子で続けた。
「そうだねー。誰しも初心者から始まるし様子を見るのがいいんかなぁ。その人が持ってるポテンシャルにも寄るけど、頑張れる子なら大抵上手く行くもんだし、カロタロちゃんもそういう悩みを持ってたんだね」
「えぇー? 意外だったぁ?」
心外だなぁ~と思いながら加名は笑っていた。
「あ、でも。カロタロちゃんゲームめちゃくちゃ上手いし仕事も出来そう」
「その理論で行くとだんごしゃんはもーちょいお仕事頑張ろうねっ!」
「って誰がへたくそじゃー!!!」
零時も近づいて本日は笑い合いながら解散した。
そして、予想通りイベント当日の仕事は大変な目にあっていた。普段は新人を出来る限り早めに帰す方針ではあるけれど、間に合わせるために三人の残業は終電を超えてしまった。
「お疲れ。電車もう無いけど気をつけて帰って」
「先輩はいいっすね。家が近くて」
「田中は頻繁に残業をしたいようだな」
「あー、終電の心配がないってつらいっすね。ではお先です」
田中は新人とタクシーに乗って家に帰っていった。
それからイベント先行組のネタバレ防止にネットの情報を出来る限り遮断して今日も二人はゲームに明け暮れる。
休み明けの平日は昼夜逆転により中々寝付けなかった田中は遅刻ギリギリで仕事場に到着した。
すると、田中と違って旅行へ出かけた新人くんがお土産を披露する。
「お、法多山の団子じゃん。ゲームのキャラ作る時も好きだからコレの名前を取るんだよね。意味とかいいし」
「はわ」
田中は聞き慣れた声色が鼓膜を刺激して反射的に周りを見渡してしまった。しかし、自席の近くにそれらしい声の主は存在しない。いつも通り加名が座っているだけで気の所為だと田中は思うことにした。
そして、新人は同じ様に加名へお土産を手渡す。
「旅行いいね。楽しかった?」
田中の向かいで加名が新人と雑談をしていた。話の輪に入っていなかったにも関わらず、何故か田中に火の粉が降り注ぐ。
「ちなみに田中はこの休み何してた?」
「え、あー。この休みっすか」
田中はバカ正直にゲームをして過ごしてましたと伝えるか少しだけ悩んで教えない事にした。
「プライベートは秘密にするタイプです」
「ふーん。詮索はしないほうが良いのね」
「あ、訊かれたので社交辞令として言うんすけど、加名先輩は何かしてたんすか?」
「自分の事を教えない奴に教えると思う?」
「いや、思わないっす」
「……ゲームして過ごしていたよ」
田中は話を広げる訳でもなくイメージと違うもんだなと思いながら団子を頬張った。
普段は先輩と呼んでいるだけに名前を口に出したのは久々で改めてネームプレートの文字を見ると田中は違和感を覚える。
小声でカロタロと呟いたら向かいの加名は飲み物を飲んでる最中でタイミングが悪く咳き込んでしまった。
「大丈夫っすか?」
「ごほっ。えぇ、大丈夫よ」
お互いが『まさかな……』と現実から目をそらして今日も業務が始まる。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!
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