木田まことという青年がいました。黒髪を短く整えた、端正な顔立ちをした好青年です。彼は恋をしました。ある日ふと入った駅前の喫茶店で働く彼女に烈しい恋をしたのです。彼女は白い梅の香りの漂う人でした。それほど大きくはない背丈で、しゃんと立つ彼女は彼の目に美しく見えました。それは曇天の日でした。
さて、彼らがどのような経緯で関係を持つようになったのか、それはここでは描きません。実際、今回の話ではそこは大した問題ではないのです。彼が逃げ出した今、その話はもはや空虚なものなのです。
彼は自分の欲のままに動きました。それは彼にとって、そして彼女にとっても幸福のはずでした。彼女は何も言うことなく受け止めていたのです。けれどもしばらくして、彼は自身の身を案じて不安に怯え、全てを無かったことにしようとしました。あるいは様々な理由があったのかもしれません、いえ、おそらくは体裁が殆ど全てに違いはないのです。
このことは、きっと彼女を深く傷つけてしまうのだろう、と彼は思いました。この行為は彼女を軽んじているようにしか見えない。初めからこんな事などすべきではなかった。けれども怖いのだ、どうしようもなく恐ろしい。今もぷるぷると震えて身を隠しているのだ。もしかしたらこの行いが、公衆に晒されてしまうかもしれない。そうなったら僕はもう生きてはいかれないだろう。そうなのだ、これは仕方がないのだ。
そう言い聞かせながら、彼はある日こっそりと彼女の様子を見にいきました。彼女がどうしているのか気になるのです。覗き見てみると、もちろん、彼女はとんと傷つくことなどなく、堂々とそこに立っているのでした。それは以前にも増して美しく見えました。さて、それを見た彼はどう思ったでしょう。
ほっとしたのです。心からの安堵が、他のどんな感情よりも先にやってきたのです。罪悪感なんかよりも先に、自分の身の安全をよしよしと確認しているのです。何よりも醜くあさましい。なんと矮小な人間でありましょうか。
木田まことには、真の愛、あるいは絶望が必要なのです。暗い暗い闇の中にある、もっとも黒いあたたかいものが、彼には必要なのです。そして生きている限り、彼は知ってか知らずか、求め続けてしまうのでしょう。ああ、なんという生地獄。せめて、どうかせめて、この地獄の中にある、一輪の華さえ、見つけられたなら。もしそれが彼にできたなら、たとえどんなに哀れで、ひどく惨めであっても、何よりも美しく、生きられるというのに。
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