足を踏み出そうとして、少し躊躇いました。
　何故かは……考えても解りません。
　そんな僅かな逡巡よりも、早く乗らなければと云う義務感にも似た感情が勝り、私は足を踏み出して、それに乗り込みました。

◇

中は、閑散としていました。
　向かい合う様に窓際に設置された席は、どこに座ろうかと迷える程度には空いています。
　あれ、今日は少ないな。
　軽く見回してそう感じてから、そういえば今日は休日だったと思い出し……しかしそれは、思い出した直後に曖昧な物に姿を変えます。
　……本当に、そうだっただろうか。
　もしかしたら、そうではないかも知れない。
　時間が噛み合わなかっただけで、本当は、鮨詰め状態になってしまう程に忙しない日なのかも知れない。
　もしくは、休日だと思っているだけで、本当は平日……？
　膨らむ疑念に、顰蹙しました。
　何だか、足元がぐらりと覚束無くなる様な、浮遊感に似た不安が胸を襲い、そこから連想して、私にも何か用事があるのだろうかと考え始めました。
　不安は焦燥の手を引いて、私を軽い恐慌状態に陥らせます。
　そして―――
「あれ？」
　そこで漸く、気が付きました。
「私って、誰？」
　私が、私を忘れてしまっている事に。
「それに……ここどこ？」
　この場所に、一切の見覚えが無い事にも。
　私の中にあった筈の記憶も、見覚えも、何もかもが消え果てていました。
　宛ら、今まで何気無く立っていた足場にビシリと唐突に亀裂が走り、ガラリと乾いた音を立てて呆気無く崩壊し、底の無い暗闇に放り出された様です。
　周りの景色を映した水を掻き交ぜた様に視界が歪み、体温は外部へと滲み出ていく様に急速に冷え始めました。
　浅い麻酔に掛かったが如くに感覚が希薄になり、全身を這い回る弱い電撃にも似た寒さに身体が震え、強い耳鳴りを伴う鼓動に、脳髄までぐらりぐらりと揺さぶられます。
　とても立っては居られず、傍にあった席に、半ば倒れ込んで座りました。
　しかし、それで今現在私を苛み続ける苦しみが取り除かれる訳ではありません。
　却って、逃しはしないとばかりに、更に強くなっていきます。
「うう……うぅ……」
　喉の奥から少しの摩擦を感じさせながら発される震えた呻き声も、歯の根の合わない、歯が互いにガチガチとぶつかり合う音も、耳鳴りに掻き消されるどころか、それに混じり合い助長させる始末。
　このままでは、今にも死んでしまうかも知れません。
　そして、それは恐らく当たっているのでしょう。
　歪んだ視界が遂には暗く閉ざされ、震えは止まり、感覚は消え、意識が身体の奥深くへと沈んで行く様な錯覚さえ覚えます。
　この先は、どうなってしまうのでしょう。
　本当に、死んでしまうのでしょうか。
「しにたく……ない……」
　今際の際に漏らした私の声が、聞き届けられたのでしょうか。
　ザリザリと、砂利の擦れる様な音が近付いて来ました。
「これは独り言ですが」
　と云う声が聞こえた後、胸に燃える様な熱を帯びた柔らかい物が触れ、身体の奥へと吸い込まれていきました。
　奥底に収まったそれは、徐々に帯びている熱を私の全身に行き渡らせていきます。
　同時に少しずつ感覚も復活し、ガタンガタンと揺れる電車の音が聞こえ始めました。
　誰かが、助けてくれたのでしょうか。
　それは誰なのかと、瞼を開くと―――
「私には、勿体無いと思う程の妹が居たのですよ」
　明瞭になった視界の中に、狼が、居ました。

◇

「彼女は、いつも太陽の様に明るい子でした」
　その言葉を発したのも、彼でした。
　正確には、狼の仮面を被った、という枕詞が付きます。
　白い羽織姿に黒の狼を精巧に模した仮面を着け、吹けば飛ぶ様な煙の如く揺らめいている、端的に云ってしまえば、亡霊の様な人でした。
　先程聞こえた砂利の擦れる様な音も、彼の履く草履から聞こえた物です。
「誰にでも分け隔て無く優しく、周囲に笑顔を振り撒く。文字の通りに太陽の様だったのです」
　私の隣で、彼は滑らかに自身の妹についての思い出を語ります。
　彼が妹を大切に思っている事は言葉の端々から良く解りますが、その話を私が聞いているかどうか等は、一切気に掛けてはいない様です。
　ただ、隣に何者かが居ればそれで良いと云った、諦観にも似た、透徹した風情でした。
　視線も一層意地でも張っているのかと思う程に一直線で、窓の外で流れていく景色を、頑なに見つめています。
　しかし、彼の眼にそれは映っていないのでしょう。
　大方、妹との大切な記憶が、映像として流れているのではないでしょうか。
　それは多分、間違っていないでしょう。
「しかし、そんな彼女も、もう居ません」
　邪魔をしては悪いかと思って、私は口を挟まず、彼の話に耳を傾けていました。
　それでも、気になってしまって、つい訊いてしまったのです。
「その人は今、生きているんですか」
「…………」
　私の問いへの答えは、沈黙でした。
　無視して話を続けるのでも無く、ただ、彼は黙して語りませんでした。
　沈黙は肯定と見做されるのが世の中ですが、今回ばかりはそれも当て嵌まらない様です。
　何となく察して、私も、口を閉ざしました。
「…………」
「…………」
　それから、暫く。
　私達の間には、重たい静寂が腰を降ろしていました。
　互いに何も喋らず、喋る様な話題もありません。
　電車が揺れる音だけが、二倍程に強調されて聞こえて来ます。
　……気不味くて仕方がありません。
　何か、この静寂を破る事が出来ないかと、頭を働かせます。
　……そういえば。
「貴方は、その……どこまで行くんですか」
　云い切ってから、何故こんな事を訊いてしまったのかと、心中で頭を抱えました。
　こんな事を訊いて、何になるのでしょう。
　そもそも、彼が返答をするとも限らないというのに……。
　しかし―――
「ニライカナイへ」
「へっ？」
　虚を突かれ、変な声が出ました。
「あっ……うぅ……」
　羞恥に、顔が熱くなります。
　まさか返事が返って来るとは思わず、声が上擦ってしまいました。
　それは扨措き、意外な事に私の問いは功を奏した様です。
『次は、まつご。まつご』
　男とも女とも判別が付かない合成音声が、駅の名前を読み上げます。
　まつご……末期でしょうか。
　そうだとしたら、かなり縁起の悪い駅名だなと思わざるを得ません。
「お降りなさい」
　落ち着いた彼の声が、鼓膜を震わせます。
　これもまた、意外な事でした。
「えっ……何で、ですか」
「此処より先はニライカナイです」
　私を見下ろす様に、彼が私と目線を合わせました。
　漆塗りの艶やかな黒の中に埋め込まれた、金色の瞳と向かい合います。
　それは造り物の筈なのに、どこか暖かな物を感じました。
「貴女は、此処までです」
「ここまでって……あっ」
　窓の外に、屋根の付いた灰色のコンクリートが見えて来ました。
　良く見れば、看板も付いています。
　あれが、まつご駅……なのでしょうか。
　そう考えていると、左手に触れる物がありました。
「うえっ……？」
　引き上げられる様に手を引かれ、立ち上がります。
　彼の手に込められた力は、力強くも優しくて。
　何だか、懐かしい気持ちになりました。
　前にも、そうして私の手を引いてくれる人が居た様な気がします。
「さあ、お降りなさい」
　私を扉まで連れて行ってから、彼は同じ言葉を繰り返しました。
　丁度良く電車が止まり、扉が開きます。
　その先は、ウユニ塩湖を連想させる、鏡の様な美しくも無機質な光景が広がっていました。
　蒼い空が、地平線を境界に混ざり合っている様です。
「は、はあ……」
　そこまで云われるのなら、降りるしかありません。
　特にこの駅で降りたいといった考えも無いし、降りても問題無いだろう。
　そう考えながら、足を踏み出そうとして……
「…………」
　少し躊躇いました。
　何故かは、考えても解りません。
　何故だか、違和感が胸を掻き毟るのです。
　どうすれば良いのかも解らず、背後の彼へ振り返ります。
「あの……」
　それから二秒程迷ってから、意を決して口に出しました。
「また、会えますか」
　その言葉に、彼は少しばかり俯きがちになって……
「私達が会う事は、もう無いでしょう」
　とだけ告げました。
「無い方が、良いのです」
　とも付け足しました。
　普通ならば悲しい事である筈なのに、その時は、どこか肩の荷が下りた様な気分でした。
「そうですか」
　開いた扉へと、向き直ります。
　もう振り返る事は無いだろうと、漠然と思いました。
「さようなら」
　別れの言葉に、返事はありませんでした。
　それでも良いと思えて、今度こそ、足を踏み出します。
　しかし、黄色い点字ブロックが横切るコンクリートに足が付いた時に、全身の毛が粟立ちました。
　寒気すら感じる程の奔流に、鳥肌が立ちます。
　ついさっき、もう無いだろうと思ったにも関わらず、弾かれた様に振り返ります。
「ええ、さようなら」
　返事をした彼の仮面が、外れていました。
　その顔は、安らかな笑顔を湛えていて。
　その顔は……
　汽笛が鳴り、扉が閉じ始めました。
「彼女は、また違った人間として、また新たな時を生きるのでしょう」
　閉じていく扉の隙間から、彼の声が聞こえます。
「私は、そんな彼女の生の一助となれて、とても―――」
　そこで、扉が閉まりました。
　もう、声は聞こえません。
　……何で。
　そんなの、狡いじゃないか。
　どんなに彼へと恨みを募らせても、もう彼へは届きません。
　私は、泣きながら扉を叩き、それを振り払う様に、無常にも電車は動き出し、遠ざかり……
　そうして、眼が醒めました。
　眼前には、私を取り囲む家族の姿。
　家族は口々に私に何か云っていますが、私には、全くもって届いていませんでした。
　右手で、自分の胸に手を添えます。
　ドクン、ドクンと、力強く脈打つ心臓が、私の手に命の音を伝えてくれます。
　心の奥で、彼の姿を思い浮かべて。
　ただ、『ありがとう』とだけ、伝えました。