鰻っておいしいですよね。値段にかかわらず好きです。
それでも、高い鰻はやはりそれ相応のうまさがあります。
会話を始めて、大体10分経った頃だろうか。
ふと、店員さんが何かを持ってきた。
「失礼いたします。こちら、料理長からのサービスになります」
と、その店員さんが二つの小さなお皿を、私と小早川さんの目の前にそれぞれ一枚ずつ置いてくれた。
そこには、なんだか初めて見るような、不気味な一口大の料理が乗っていた。
まるで、何かを氷漬けにして、そのまま切り出してきたかのような見た目である。
「あら、鰻の煮凝りをサービスしてくださるなんて、気前がいいですね」
小早川さんがそう言うと、料理長の方がカウンターから顔を出す。
「いつもご来店いただいているのに、ただ食べていただいてお返しするわけにもいきませんから」
「では、ありがたくいただきます」
そう言って、小早川さんはその料理に箸をつけようとする。
私は、その脳内によぎった、聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥、という言葉に従うことにした。
「……あのぉ、煮凝りって何ですか?」
私がそう尋ねると、小早川さんは笑顔を浮かべながら説明し始めた。
「簡単に言えば、ゼリーと言えばいいかしら。もちろん、甘いものではないけれど、食べてみたらその感覚もわかるはず」
そう言った小早川さんを信じて、私はその煮凝りに箸を伸ばす。とりあえず、中にあるミュータントのようにも見えるそれは、鰻であることが理解できた。
思い切って、私はその鰻がある部分を齧る。
そして、私は衝撃を受けた。
口の中に広がる鰻の風味。鰻の出汁がゼリーの部分にもしっかりと染み込んでいて、とても口の中が不思議な感触である。柔らかいゼラチンが邪魔になるかと思っていたけれど、むしろその食感がこの料理のグレードを上げていると感じた。
そして、飲み込んだ後にも残る味がまた美味しい。鰻の風味がいつまで経ってもそこにあるのだ。
「すごいです! 見た目で判断しちゃってましたけど、しっかりと鰻の味がします!」
「よかった。うな重は、もっと美味しいからね」
私の言葉に、小早川さんはそう言って微笑みかけてくれた。私は、残った半分も口の中へと放り込み、また味を噛みしめる。
この後来るうな重は、これより美味しいとなれば、今まで安い鰻を食べてきた私は、どうなってしまうのだろう。
「では、失礼いたします。また、何かございましたらお申し付けください」
店員さんがそう言いながら離れていくのを見送って、私は視線を小早川さんに戻す。
「私、このお店で舌が肥えて、日常に戻れなくなったりしないでしょうか……?」
そう告げると、小早川さんは私の言葉が面白かったのか、突然くすくすと笑いだした。
「舌が肥えたら、その分美味しさが分かるようになるんだから、日常は変わらないわよ。グレードが低いものでも、美味しい部分が分かるようになると思うわ」
小早川さんはそう言って、その笑顔を私に向けてくれた。
私は、その言葉を聞いて、少し安堵した。
口が高いものに慣れてしまったら、私生活に影響が出てしまうだろう。
「さあ、あともう少しでうな重が来るわ。もう少しお話していましょうか」
そう言って、小早川さんは少し楽しげな表情を浮かべていた。
私も、これからの小早川さんとの会話が楽しみだった。
「私、あの標語が気になって体験入部に来たんですけど、あれって誰が言ったんですか?」
私は、あのグルメ部のスローガンの言葉について、気になって居たので質問してみた。
小早川さんは、それを聞いて少し考え込んでしまった。
「……私も、このグルメ部の部長を引き継ぐことになって、前の部長に聞いてみたのだけれど、どうにも出所が分からないらしいの。でも、その人が言ったことは事実らしいわ」
そう言って、小早川さんは思い出すように考え込んでいる。
「歴代部長は、全員が有名大学へ進学しているの。まさに、食の乱れは学の乱れと言えるわね」
「す、すごい……」
私はその言葉を聞いて、この部活で本当に自分を変えられるかもしれないと思った。
と、その後ろから、いい香りが漂ってきた。その方向に眼をやると、店員さんが二つの膳を持ってきていた。
「お待たせいたしました。こちら、うな重の竹でございます」
そう言って、なかなか大きな御膳が私たちにそれぞれ配られた。
そこには、おそらくメインのうな重が入っているであろう蓋つきの重箱と、何か汁物が入っている蓋つきの御椀、古風な焼皿の上に漬物、そしてもう一つのお皿にデザートであろうメロンが乗っていた。
「では、説明させていただきますので、蓋をお開きください」
そう店員さんが言うと、小早川さんがその重箱の蓋を開いたので、そのまま私も同じように蓋を開いた。
その瞬間に鰻とタレの香りが広がり、私の心が躍る。中には、私の右手と同じくらいのサイズのウナギが二枚入っていた。お米の上で、綺麗な平行線のように置かれている。
「うな重の方は、お客様から見て手前側が関西風、そして奥側が関東風になっております」
と、店員さんの説明を聞いて、そう言えばと尋ねることにした。
「あの、さっきから気になって居たんですけど、関東風と関西風の違いって何ですか?」
私がその質問をすると、小早川さんはその表情を笑顔に変える。
「そういえば、説明をしていなかったわね。関東風と関西風の違いは、簡単に言えば焼くときに蒸すか蒸さないかの違いなの」
「蒸すか、蒸さないかですか」
私はそれを聞いて、何となく今まで食べてきた鰻はふわっとしていたし、関東の方が蒸すのではないかと思った。
「関東風の方が焼く前に蒸す過程を挟みます。関西風は蒸さずに焼く調理法です。本来は開き方も違うのですが、当店では全て背開きに統一しています」
店員さんはそう言いながら、胡椒挽きのような容器を置く。
「こちらの山椒をお好みでお使いください」
どうやら、その中には山椒が入っているらしい。つまり、ここで自分で挽いて入れることが出来るのだろう。
「……では、ごゆっくりお寛ぎください」
店員さんはそう言って、そのまま座席から離れていく。その姿を見送った後で、小早川さんは箸を持つ。
「森さん、ではいただきましょうか」
「は、はい。では……」
私は、両手を合わせて目を瞑る。食味への感謝と、調理した人への感謝を伝えるために。
「いただきます」
私はその一言呟いて、箸を持ちあげて、その鰻へ向ける。
まずは、関東風の焼き方から箸を通す。その瞬間に、もう今までの鰻との差に気が付いた。
「……柔らかい」
私はそのまま、鰻だけを少し切り取る。その欠片は一口大よりも大きかったが、そのまま気にせず口へと運ぶ。
そして、口の中で鰻が、溶けだした。
「お、おいしい……」
私は、思わずその言葉が漏れ出した。
柔らかい身の部分がほろりと口の中で崩れだし、タレの味が後から追いかけてくる。そして、表面である皮の部分が舌に残り、その焦げすら濃厚な味を持っている。
その口に残った全てを飲み込み、私は関西風の鰻へと箸をつける。蒸していないから、身が硬いのかと思ったが、そんなことは決してなかった。
むしろ、焼くだけでここまで柔らかくなるのかと驚くほどである。
私は、その鰻を口に運ぶ。そして、確信した。
蒸さないほうが身がしっかりする分、口に広がる食感に重みがあるということ。
私はその味が口に残っているうちに、しっかりと白米を口に放り込む。
タレが染み込んだ白米は、その鰻の邪魔をせず、相乗効果で美味しさを引き立てる。
これこそ、強力タッグである。
「……森さん、美味しそうに食べるわね」
小早川さんはそう言って、楽しそうな笑みを浮かべていた。私は少し恥ずかしくなったけれど、小早川さんに嫌われたりしていないようなので、とりあえず安心した。
「森さん、このお吸い物も美味しいの。苦手でなかったら、是非飲んで欲しいな」
そんな言葉を聞いて、私はその御椀の蓋を焦らずに外す。
その中には、何か黒い内臓のようなものが入ったお吸い物が入っていた。
「肝吸いって言うの。正確には、肝臓ではないのだけど、とても風味が豊かよ」
その言葉を聞くまでもなく、私はその匂いに釘付けになって居た。
御椀を持ち、そのまま一口啜る。口いっぱいに広がるその液体が、まるで胃を目指してせせらいでいる川のようだ。
口内から鼻へと抜けていく香りが、とても心地いい。
「……幸せぇ」
私は本心から漏れ出た言葉を口にして、その御椀を置く。 そして、その肝の部分を箸でしっかりとつかみ、そのまま口へと運ぶ。
その食感は、弾力があるのにも関わらず、柔らかかった。
私は、もう辛抱たまらず、山椒に手を伸ばす。
その山椒を、重箱の端の方で三回ほど挽く。そして、その山椒がかかった部分をそのまま口へと運ぶ。
その場で挽いた山椒だからか、辛さよりも香りの方が強く出ていて、鰻のその味を引き立てている。
そして、うな重を食べた後に眼に入るのは、その漬物。
普段はあまり自ら進んで食べない漬物が、今は欲しい。
蕪漬けを一つ箸でつまんで、口へと運び込む。
その瞬間、口の中のうな重の香りがリセットされた。
蕪の食感と、漬物の塩気が絶妙に合い、そして蕪本来の味を引き出している。
その時、私は三角食べの意味を完全に理解した。
あの食べ方は、出された料理を全て最大限楽しむための食事法だったのだと。
「ふふ、良い食べ方ね。きっと、しっかりと料理を楽しむ才能があるのね」
と、小早川さんがそう言いながら、私の方をじっと見ていた。
私は、その言葉を聞いて恥ずかしさを覚えると同時に、少しだけ誇らしく思った。
美味しい料理を目の前にして、最大限その味を引き出す食べ方ができていると。
私は、また箸を持ち直して、このサイクルを始めるのだ。
「……御馳走様です」
私は、両手を合わせてその空になった御膳にお辞儀をする。
小早川さんはそれを見て、とても嬉しそうな表情を浮かべていた。
「これだけの量をしっかりと食べきれるなんて、森さんは逸材ね」
「い、逸材なんて……喜んでいいんですか、それ?」
私は、これはよく食べる人だと笑われているのではないかと、少し心配になる。
しかし、どうやらそういう意図はないらしい。
「こういう良質な脂を持つグルメは、少し食べたらお腹が膨れてしまうものなの。それを食べられるということは、少なくともグルメを最大限楽しめる人であるという証明になるのよ」
小早川さんはそのまま自身の口元を指さす。
その行動に、最初は困惑したけれど、すぐに自分の口元に何かが付いていると理解した。
「わ、私ったら恥ずかしいことを……」
「いいのよ。それだけ食に集中していたってこと。今、貴方は色々なことへのモチベーションが高いはずよ」
それを聞いて、私は思わず自分の気持ちが高みを目指していることに気が付く。
今の私なら、苦手あことだって挑戦できそうな気がする。
「これが、食の乱れが正されたことによる、心の乱れの解消というべきかしら」
「……すごい、やる気があふれてます」
私は、この食の力を体感して、とても楽しみになった。
体験入部が終わったら、絶対にグルメ部へと入部すると心に誓ったのだ。
「さあ、行きましょうか。そろそろ、時間も遅くなってしまいましたし、何より明日の授業に響いてはいけないでしょう」
そう言って、小早川さんは綺麗な所作でその場から立ち上がる。気品すら感じるその動作に、私はただ見惚れていた。
「……森さん?」
「あ、はい、行きましょう!」
私は飛びかけていた意識を取り戻し、小早川さんの後を追う。
美味しかった鰻の味を思い出しながら、口角が上がるのを何とか抑えながら。
「今日はありがとうございました! とっても美味しかったです!」
私は、小早川さんにそうお礼を伝えながら深々とお辞儀をした。
小早川さんは、楽しそうな表情を浮かべていた。
「良いのよ。その代わり、今度からはそれ相応にお金がかかるから、しっかりとバイトをしてお金を貯めることが大事ね」
「そ、そうですよね……頑張ります……」
私は、小早川さんの言葉に同意したのも束の間、今度からという単語を聞いて、疑問に思ったことを口にする。
「……ところで、体験入部って、何をすれば?」
「あら? 今日が体験入部で、今から部員として扱うわ」
小早川さんはそう言って、少しキョトンとした表情を浮かべていた。
体験入部が今日で、今から部員になる、ということは完全に入部したことになるのか。
「な、何故もう入部した体になってるんですか!?」
「あれだけ丁寧ないただきますが言える人に、悪い人はいないと私は信じているの。だから、森さんは今から部員なの」
そう言って、小早川さんは少し楽しそうな表情を浮かべていた。
私は、その言葉が嬉しかったと同時に、食事のマナーをしっかりと教えてくれた両親に、帰ったら礼を言おうと心に決めた。
「じゃあ、私はグルメ部に……」
「あとは、正式に本メンバーになれるかどうかの入門試験をこなせば、晴れて主要メンバーになれるわ」
その言葉を聞いて、私は困惑した。
「しゅ、主要メンバーって、何ですか?」
「簡単に言えば、グルメツアーに参加する優先権よ。それがなければ、この部活では最低でも、私の主催する会には参加できないことになっているわ」
そう言った小早川さんは、その表情を硬くした。
私は、あまりの緊張感に唾を飲み込んだ。
「次の部活集会までに、森さんはグルメを見つけてくること。おそらく、次は一月後になるから、他の部員と交流して情報を集めれば、ヒントになるかも」
その言葉を聞いて、私はグルメに今まで触れてこなかったことを後悔した。
圧倒的に引き出しが少ない私は、自分のグルメを見つけるのにも時間がかかってしまうかもしれない。一か月後に間に合うかどうかすら怪しいのだ。
と、悩んでいると、小早川さんが私の顔を覗き込んできた。
「……もしかして、今までの経験のなさを後悔しているのかしら?」
「え!?」
小早川さんは私の心を見透かしているかのような言葉を投げかけてきた。
思わず言葉を出してしまったため、小早川さんには完全に私の心の内がバレてしまっただろう。
小早川さんはその表情を笑顔に変えた。
「今までの経験で手に入れた知識は全て思い切って捨ててみて。これからの貴方が美味しいと感じるものを探してほしいの。そして卒業するときには、これから先どんな苦しい経験があっても、それを食べれば乗り越えられるぐらいに素敵なグルメを見つけてほしいの。この課題は、その為の第一関門。だから、まずは心の赴くままに美味しいものを探してみて」
そう語る小早川さんを見て、私は頭の中が真っ白になる。
これから先の人生で、自分が苦しい経験を乗り越えられるようなグルメを探す。
「……私、頑張ります! 絶対、小早川さんと一緒に美味しいグルメを食べたいです!」
「ふふ、頑張ってね。私も、森さんとは一緒に色々なグルメを巡りたいから」
そう言った小早川さんの表情は、とても明るかった。
私は、小早川さんの主催するツアーに参加するためにも、絶対に主要メンバーになるための試験を通過しなければならないと心に決めた。
夕日が沈みそうな空に、私はそう決心したのだ。
自分で書いてて、鰻が食べたくなりました。誰か御馳走してください。
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