1-1.神様降臨
神様を見つけてしまった――――
賑やかなセミの鳴き声の中、俺は上機嫌でビールとワインの袋をぶら下げ、公園の駐車場を歩いていた。辺りにはいくつも煙が立ちのぼり、香ばしい匂いが漂っている。
今日は友達に誘われてBBQ。すでに景気よく飲んでしまい、追加の飲み物を取りに来たのだ。
鼻歌を歌ってると幼児が、よちよちとボールを追いかけて、車の前に出てくるではないか。
距離はあるので車は止まれるか、と思っていたら、
GWOOO――――N!!!
派手なエンジン音放って、車が急発進。ブレーキとアクセルを間違えている!
「ああ――――ッ!」
Bang!!!
幼児は撥ね飛ばされ、夏の雲を背景に、宙高くクルクルと舞った。
俺はとっさに飲み物を放り投げ、バレーボールを拾いにいく様に、ダッシュで幼児を追う。
パリンとワインが割れる音、スローモーションの様に回《まわ》りながら落ちてくる幼児、渾身のダッシュ――――
「間に合え!」
伸ばした両腕に、ギリギリのところで収まる幼児……
やった!
しかし……、ぐったりしていて白目を剥いている。
ヤバい、死んでしまう……。俺はいたいけな幼児の命の危機を目の当たりにして、血の気が引いた。
その間にも、車は爆音を上げてさらに加速していく……
この先は、人がたくさん遊んでいる広場だ。
あぁ! 誰か止めて!! 神様――――ッ!!
俺は幼児を抱きしめながら、悲痛な想いで祈った。
遠くで蝉がジッジッジと言いながら、飛び去って行く……
すると、白いシャツを着た青年が、ふらっと車の前に立ちはだかった。そして、指揮者の様に、優雅にふわっと両手を広げたのだ。
さらに加速する暴走車。だが、彼は身じろぎ一つせず、表情には微笑みすら浮かべている。
Thud!!!
青年は撥ねられ、車のフロントガラスに『バン!』と当たり、ガラスを蜘蛛の巣状に砕くと高く舞い上がった。
俺は、粉々になったガラス粒子が、青年の周りで夏の日差しを浴びて、キラキラと輝くのをスローモーションのように見ていた。
青年は空中で一回転し、道路に強かに叩きつけられた。
暴走車は、青年を撥ねたため方向が変わったのか、駐車場わきの街灯に向かい、
Bang!!!
という激しい衝撃音を広場中に響かせ、ようやくその凶猛さに終止符を打った。
Whoosh――――!!!
白い煙が上がり、辺りが騒然とする。
瀕死の幼児と倒れた青年、そして白煙を吐く車――――
いきなり訪れた大惨事に、俺の足はガタガタと震える。
夏のレジャーの酔っぱらいという最高にハイな気分は、一瞬で絶望へと塗りつぶされ、腕の中で今まさに消えようとする幼い命が、俺に悲惨な現実を突きつけた。
さらに目の前に広がる惨状が加わり、キャパをオーバーした俺は受け止めきれない現実に途方に暮れた。
すると、青年はむくりと立ち上がり、足を引きずりながらこちらに歩き始めた。額がザックリと切れ、タラタラと血が流れている青年の足元には、ポタポタと血痕が垂れ、その痛々しい姿に俺は言葉を失った。
幼児を見ると、口から泡を吹きはじめた。
そうだ! 救急車を呼ばないと!
俺は急いで幼児を下に横たえ、スマホを出す。しかし……救急車は何番だっただろう?
110番? それは警察だ、あ、警察も電話しないと? いやいや、救急車が先だ!
199番? 119番? どっちだったっけ? え? どっち!?
俺は混乱の極みにあった。
すると、血だらけの青年がたどり着いて、幼児に手を翳した――――
Zoom
微かに空気の震える音が響き、幼児はエメラルド色の淡い光に包まれ、ふんわり浮かび上がり始めた。
「ええっ!」
なぜ浮かぶのか? なぜ光るのか? 明らかに物理法則を無視した現象に、俺はあっけにとられた。
現実世界にいきなり現れたファンタジー。こんな事、あっていいのだろうか?
幼児は光の中で、チラチラと微かな煌めきの微粒子に包まれて、ゆっくりと回転している。
「うわぁ……」
俺はその科学を超越した、聖なる異次元の奇跡に魅せられ、思わず見惚れていた。
やがて光は薄くなり、降りてきた幼児を、青年はそっと腕に抱きかかえた。
幼児は、うっとりと、恍惚の表情をたたえている。
「…。気分は……どう?」
青年は、微笑みながら幼児に声をかける。
「あ、クリス……ありがとー。あのね……とても、きもちよかった……」
そう言って、幼児はにっこりと笑った。
クリスと呼ばれた青年は、うんうんと頷き、幼児を下ろし、いつの間にか持っていたボールを手渡した。
幼児は、
「ありがとー! ばいばぁい!」
そう言って、賑やかな蝉の声の中、広場の方へよちよちと歩いて行った。
クリスは立ち上がると、ニッコリと手を振り、去っていく幼児を愛おしそうに見送った。
人智の及ばない世界が、目の前で展開している。明らかに瀕死だった幼児がニコニコしながら歩いているのだ。そんな事、現代医学では絶対に不可能だ。
生まれて初めて見る奇跡に、俺の心臓は高鳴った。
俺は平静を装いつつ、当たり障りない所から聞いてみる。
「すみません、あの子とは知り合いなんですか?」
クリスと呼ばれた青年は、
「…。生まれる前に、ちょっとね」
「え? 生まれる前?」
「…。誠はもう忘れちゃったかな?」
そう言って笑う。
俺は呆気にとられた。なぜ、俺の名前を知ってるのか……
確かに俺の名前は誠……神崎 誠だ。初対面のはずなのに俺の事を知っている。
さっきから一体何だこれは!?
何ともオカルトめいた事態に、酔いも手伝って、思わず笑ってしまいそうになる。
「…。そうだ、ワインを割ってしまったね。申し訳ない、代わりのワインを提供しよう」
そう言って彼は、投げ出された飲み物袋の方へ、すたすたと歩き出す。もう足は引きずっていない。
「あなたもあの子も、ケガは大丈夫なんですか?」
追いかけながら聞く。
「…。え? 私もあの子も、ケガなんてしていませんよ」
そう言って、ニッコリと笑う。
彼の顔を見たら、ざっくりと切れて血が滴っていたはずの額は、いつの間にか綺麗になっていて、ケガは跡形もなくなっていた。
はっはっは!
俺はつい笑ってしまった。暴走車に撥ねられた二人が無傷、実に痛快じゃないか。そう、俺が求めていたのは、ダルい日常を吹き飛ばす、こんなファンタジーめいたイベントだったかもしれない。
この世界のすべての事象には物理法則が適用される。子供が勝手に浮かぶことも光る事も、けがが一瞬で治る事も決してない。奇跡など絶対にないのだ。
なのに今、目の前で見せつけられた。この力は人類の在り方も社会も一変させる可能性を秘めている。これは行き詰まってる俺の人生に風穴を開けてくれる僥倖に違いない。いきなりやってきた千載一遇のチャンスに、俺は体中がカーっとほてってくるのを感じていた。
◇
割れたワインは、踊る木漏れ陽の中、香しい匂いだけを残し、アスファルトを黒く染めていた。
「…。もったいない事をした……」
彼はそう言って、手を組んで祈り、袋から飛び出した破片を拾い集めた。
「あっ、危ないですから破片をください」
俺が袋を出して、破片を受け取ろうとすると、
「…。大丈夫です」と、言って両手を見せて、ほほ笑んだ。
破片は、彼の手の中から消えていたのだ。
うはっ!
クリスの手品めいた仕草に、思わず噴き出してしまう。
はい、そうですよね。あなたにはそんな手伝い、要らないですよね。
クリスは、30歳前後だろうか、白人とのハーフかと思わせる、彫の深い少し面長のイケメンで、軽く髭をたくわえている。
少し使い込まれた白いオックスフォードシャツに、ブラウンのハーフパンツ、清潔感を感じる身なりで慈愛に満ちたスマイル――――
どこかで見覚えがある……が、なかなか思い出せない。
クリスという名前は、確か宗教由来の名前だ。
不可思議な奇跡を連発する宗教関係者と言えば、もう該当するのは『あのお方』しかいない……。
俺は、酔った勢いで聞いてみた。
「あなたはもしかして神様……ですか?」
するとクリスは、ちょっと憐みのある微笑を浮かべ、
「…。疑問のない世界へ、戻してあげよう……」
そう言って、俺に手を翳してきた
これは記憶を消されるパターンだ。非常にまずい。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
俺は、クリスの手を両手で押さえた。
クリスは俺の目をじっと見る。
「私はエンジニアです。普通の人とは違って、疑問あっても大丈夫です。それに、今まで多くの問題をIT技術で解決してきました。だからクリスさんのお役にも立てると思います」
俺は、引きつった営業スマイルで無理筋のプレゼンをする。
クリスは首をかしげて聞く
「…。役に立つ? 誠が?」
「はい、まずは今、お困りのことについて、お話を聞かせてください。しっかりと提案します。記憶を消すのは、それからでも遅くないと思いますよ」
そもそも神様に、困ってる事なんてあるのだろうか、とは思ったが、ここはもう、こう言う以外仕方ない。
クリスは目を瞑り、何かを一生懸命考えているようだった。
俺は、子供の頃から大自然の法則が大好きで、科学や数学は得意科目だった。超能力やオカルトの類も興味があって調べまくったが、生まれてから28年間、非科学的な事は一切、目に出来なかった。残念ながら『世界は科学が支配しているのだ』と諦めていた訳だが、それが今、科学では説明不能な、奇跡を連発する神様が目の前にいる。記憶を消されてなるものか。何としてもお近づきになり、世界の本当の姿をこの目で見てやるのだ!
クリスは、しばらくして目を開けると、
「…。まぁ、提案は聞いてみよう」
そう言って微笑んだ。
「ありがとうございます! それでは、立ち話もなんですので、うちのテントへ行きましょう。BBQを食べながら話を聞かせてください」
クリスは、ゆっくりとうなずいた。
俺は軽くガッツポーズをした。
神様相手に、プレゼンの機会を得た人間なんて、俺が初めてじゃないのか?
いつもなら疎ましく思う、ジリジリと照り付ける灼熱の太陽すら心地よく感じられた。
俺は、車に戻って飲み物を詰めなおす。
すると、クリスは2リットルの水のペットボトルを、箱から取り出し、
「…。これをワインにしておこう」
そう言って、俺に差し出した。
見ると、ペットボトルの水はルビー色に光っている。
ワオ!
さすが神様! 規格外過ぎる。そういえば水をワインにする奇跡は、聖書で読んだことがある。そうか、こうやったのか……。
聖書には『美味しい』と書いてあった奇跡のワイン、果たして神の雫とはどれほど美味しいのか……。俺は思わず喉が鳴った。
――――――――
※補足
本作品はSFです。ファンタジーではないので、東大の工学博士の監修の下、科学的な合理性を徹底的に追求して、作成されております。ですので一見非科学的なクリスの『奇跡』にも、実現可能な合理性とその妥当性が盛り込まれております。ですので科学に興味のある方は、どういう科学的機序が裏にあるのかを想像して、推理しながら楽しんでいただいてもいいかもしれません。
もちろん、クリスとは何者なのか? なぜそんな奇跡を使えるのか? も全て後半で明らかになっていきますよ!
お楽しみに!(*'▽')
また、科学的合理性があるという事は、すでに誰かがこういう『奇跡』を現実世界で使ってるかもしれない、という事でもあります。興味深いですよね!
あなたも現実世界のクリスを探してみてください!
1-2.人類滅亡の予言
クリスと二人で賑やかな芝生の広場を歩き、うちのテントを目指す。
展開されている沢山のテントでは、どこもBBQの煙が上がっており、楽しそうな声が響く。
しばらく歩くと赤ちゃんがギャン泣きをする声が聞こえてきた。見ると、若いお母さんが困り果てた表情で、赤ちゃんを必死に揺らしてあやしている。
クリスはそれを見ると優しく微笑み、そっと赤ちゃんに近付くと、
「Disce gaudere.(楽しもう)」
と、小声で声をかけた。
すると、赤ちゃんは泣き止み、驚いたようにクリスをじっと見つめた。
クリスはニッコリと微笑むと、オリーブの小枝をどこかから出して赤ちゃんに差し出す。
赤ちゃんは小枝を握るとニッコリと笑い、嬉しそうに振り回した。
驚いて固まるお母さんに、クリスは言った。
「直美ちゃんは情感が豊かですね。将来凄いデザイナーになりますよ」
「あ、そ、そうなんですか? あ、ありがとうございます……」
戸惑うお母さんだったが、ご機嫌になった直美ちゃんを見ると嬉しそうに笑った。
「あ、クリスだ~」「クリスだ~」
気が付くと、周りには幼児がワラワラと集まって来ていた。
クリスはニッコリと笑うと、また歩き始めた。
歩くにつれ、あちこちから幼児が集まって来て、そのうち幼児の大行進となった。まるで保育園の遠足みたいである。
クリスは開けた所に出ると振り向き、しゃがんで嬉しそうに幼児たちに微笑んだ。
「クリス~」「わ~い」
幼児たちはクリスを取り囲むと、思い思いにクリスの服を引っ張り、またパシパシと叩いた。中にはよじ登り始めるものまでいる。
幼児たちにもみくちゃにされながらも、クリスは嬉しそうに微笑んでいた。
そして、クリスはゆっくりと立ち上がると指揮者の様に構え、幼児たちを見回すと手を上にパッと上げた。
その瞬間、数十人の幼児たちは上空に吹き飛んで行った。
「ええっ!?」
俺は驚いて上空を見上げる。すると、澄み通った青空に遥か高く、豆粒になるまで幼児は高く打ち上げられていった。
すると、今度はフリーフォールの様に、嬉しそうな歓声を上げながら落ちてくる。
「キャ――――!」「ウキャ――――!」
近くまで落ちてくると、クリスは嬉しそうに笑い、指揮者の様に大きく腕を振って、また幼児たちは高く上空に吹き飛んで行った。
あまりにも異様な光景だが、周りの大人たちは無関心である。見えてはいるようなのだが違和感を感じないらしい。何らかの認知阻害をかけているのだろう。
打ち上げを何度か繰り返し、幼児たちは地上に戻ってきた。
戻ってきても、まだ興奮冷めやらぬという感じで騒いでいる。
クリスはそんな幼児たちを嬉しそうに見回すと、
「Dum fata sinunt vivite laeti.(人生を楽しめ!)」
と、声をかけた。
それを聞くと幼児たちは、
「うきゃ――――!」「キャハハ!」
と、口々に叫びながら、蜘蛛の子を散らすように自分たちのテントへと帰って行った。
神様と子供たちの楽しそうなやり取りは、見ているだけで癒される。ただ同時に、自分が失ってしまったものを見せつけられている、という思いもあり、寂しさが胸をかすめる。きっと子供時代の俺だったら、クリスによじ登って空高く飛ばされていただろう。俺は何を失ってしまったのだろうか……。
「凄いですね、子供は好きなんですか?」
俺が声をかけると、
「…。生まれたての魂は、無邪気でシンプルで可能性に満ちている」
そう言って、よちよちと歩きながら去っていく幼児たちを、愛おしそうに見送った。
「大人はダメですか?」
「…。子供に勝てる大人などいない。でも……、素直な大人なら嫌いじゃない」
クリスはそう言ってニコッと笑った。
◇
テントに着くと、俺はタープ下の椅子をクリスに勧めた。そして、キンキンに冷えた缶ビールを差し出す。
「乾杯しましょう。まずはビールでいいですか?」
彼は微笑んでうなずく。
「カンパーイ!」
俺はそう言って、ビール缶をゴツっとぶつけた。
「…。乾杯」
彼は目を瞑り、ビールを一口含む……。そして薄く開いた眼で、川の流れをぼんやりと眺めた。
公園には小川が流れ、木漏れ陽をキラキラと反射して緩やかな時間の流れを演出していた。
俺は、ビールをごくごくと飲み、ゆっくりと深呼吸をして、言った。
「暴走車の対応ありがとうございました。おかげで大惨事にならずに済みました」
「…。悲劇を私は望まない」
低い声でゆっくりと答えるクリス。
「ああいう奇跡は良くやるんですか?」
「…。悲劇は毎日、地球上で無数に起こっている。残念だがフォローしきれない」
そう言って彼は、軽く首を振り、ビールを呷った。
「じゃぁ、今までにやった奇跡で、一番凄いのはどういう……」
俺は調子に乗って、どんどん聞いてみる。
「…。うーん、規模が大きいという意味では、地球を創……ではなくて……戦争を止めたことかな」
俺は仰天した。今、『地球を創った』と言いかけたのだ。これが本当なら我々人類をはじめ、動物たちや木や森や、山や海すらもクリスが作り出したもの、という事になる。俺は今、そんなとんでもない存在、創造主と話しているかもしれないのだ。
これは想像以上だ……俺は抑えきれない胸の高鳴りを感じていた。
クリスは続ける。
「…。ただ……奇跡じゃ世界は救えない……」
いきなり暗い表情をする。
思いがけない展開に、嫌な予感がする。
「世界って今……、そんなに……ヤバいですか?」
恐る恐る聞いてみる。
「…。人類はもう100年もたない」
「えっ!?」
俺は絶句した。万能なはずの神様が、人類滅亡を予言しているのだ、事態の深刻さに思わず血の気が引いた。
「人類は絶滅しちゃう……んですか……?」
予言の重さに、押しつぶされそうになりながら聞く。
「…。少子化と温暖化が進み、その中で発生する災害、パンデミック、戦争で人類は滅ぶだろう。少なくとも、あと数年の間に、何らかの抜本的な対策を施さない限り、希望はない」
確かに俺も、日頃からヤバいとは感じていたが、神様から滅ぶという事を明言されると、さすがに深刻にならざるを得ない。
「そ、それは何とかならないんですか?」
俺は焦って聞く。すると、
「…。誠よ、君だったらどうする?」
クリスは俺の目をじっと見て言った。
いきなり俺にふられた……。
なるほど、これが俺の提案ポイントって訳だな。提案次第では、記憶を消されずに済むって事だろう。
しかし、少子化や温暖化で、弱体化したところに発生するトラブル、そんなのどうやって止めたら良いのか、全く想像もつかない。
クリスは俺をじっと見つめている……。
これは非常にまずい。人類を救う方法など、そんなにすぐ思いつくわけがない。
俺はテーブルに肘をつき、頭を抱える。
ギギギと音を立て、キャンピングテーブルが少し撓んだ。
何とか突破口を見い出さなくては……。
俺は、工学的な問題解決を延々とやってきたエンジニアだ。しかし、少子化にしても温暖化にしても、人類の選択の結果であり、それはエンジニアの問題じゃない。なにしろ両方とも解決策はあるのだから。でも、人類はそれを選択しないのだ。
なるほど、この問題は奥が深い。複雑な経済システムや社会システムの問題だから、奇跡使って解決できる類の問題ではない。神様がお手上げなのも道理だ。
では、エンジニアとして、俺はどうしたらいいだろうか? エンジニアには、エンジニアにしかできない突破口があるはずだ。
俺は目を瞑り、軽く深呼吸すると、ビールを一口含んだ。
鼻に抜けていくホップの芳香……沁みる……
と、その時、閃きが走った。
『人類の後継者を、作ってしまえばいいんじゃないか?』
それはある種、悪魔的な考え……だが、エンジニアであれば『もうこれしかない』という回答……。
少子化でも温暖化でも、人類がいなくなっても、AI技術で作った人類の後継者さえいれば、我々人類が永遠に生き続けているのと同じ効果がある。実にエレガントな回答だ。
しかし……、神様に『人類滅ぶこと前提のプラン』なんか、提案しちゃっていいんだろうか……。
下手したら、悪魔呼ばわりされて消されるかもしれない。それは……マズい……。
俺は頭を抱え、他の策を考えるが……安全な案はショボい。ショボい案で記憶を消されては元も子もないのだ。
俺は深呼吸し、覚悟を決め、クリスに向き合うとゆっくりと言った。
「私はAIエンジニアです。AIを使って人類の後継者を……例えば鉄腕アトムの様な心優しいAIを作るというのは、どうでしょう……か……?」
クリスの表情が険しくなり、鋭い目で俺を睨む。
「…。人類は絶滅してもいい、という事かな?」
クリスの怒気が、真綿の様に俺にまとわりつき、俺は息苦しさを覚えた。
焦って大きく息を吸って、何とか言葉をつなぐ。
「いや、もちろん、絶滅は回避したいですが、たとえ絶滅しても、後継者がいれば安心かな……って……。マズい……ですか?」
俺は自ら招いた危機に、冷や汗が止まらなかった。
クリスはビールを呷ると、目を瞑り、腕組みをして考え始めた。
沈黙の時間が続く――――
BBQに興じる、たくさんの人たちの笑い声、子供たちのはしゃぐ声が響いている。
俺は沈黙に耐えられず、ビールをゴクゴクと飲んだ。
しばらくして、クリスはこちらを見て、言った。
「…。誠の提案は甘い。もし、人類の後継者をちゃんと作れたら、そもそも人類は絶滅なんてしない」
「えっ? あっ!?」
言われてみればそうだ。鉄腕アトムがたくさんいたら、少子化も温暖化も、いろんな形で解決できるじゃないか!
ハッとする俺を見て、クリスは微笑んで言った。
「…。いいんじゃないか? 後継者」
そして、缶ビールを俺に向け、突き出した。
「あ、ありがとうございます!」
俺はそう言って、缶ビールをぶつけ、一気に飲み干した。
神様が俺の提案を認めてくれた。俺はこみあげてくる嬉しさを隠せず、思いっきりガッツポーズしてしまう。
そんな俺を見て、クリスは優しく微笑んだ。
爽やかな風がビューっと吹き抜け、タープがバタバタと音を立てる。まるで祝ってくれているようだ。
「…。で、具体的にはどうやるんだ?」
クリスがニコニコしながら聞いてくる。
シンギュラリティを超える、つまり人間を凌駕するAIを、どう実現するのか? これは難題だ。何しろ世界中の天才たちが、寄ってたかって頑張っているのに、いまだ実現できていないのだから。
でも、俺には腹案があった。以前思いついたものの、自分の力では無理だと諦めていた、とっておきのプランだ。これをクリスの力を借りて挑戦してみたい。
とは言え、このプランには人体実験が必要で、倫理的な問題がある。頼み方を間違えると、本格的に怒らせてしまう可能性が高い。言い方を慎重に考えて、丁寧に提案しないとならない。
俺はゆっくりと答える。
「私に、あるプランがあります。ただ……少し整理する時間をもらえますか?」
クリスは、俺の目をじっとのぞき込むと……
「…。いいだろう、楽しみにしてるよ」
そう言って、ニッコリと笑った。
宿題ができてしまった。
でも、これは凄いチャンスだ。クリスの奇跡を使えば、本当にシンギュラリティを超えるAIを作れるかもしれない。人類史上誰も実現した事のない、シンギュラリティをこの手で!
それはノーベル賞なんて目じゃない、人類史上最高で、かつ人類最後の発明になるのだから。
◇
俺は、今、人生の大きな岐路に立っているのを感じていた――――
23年前のこと、シングルマザーだった母は、保育園児の俺を捨て、失踪した。
母の失踪後、ばぁちゃんは小さな印刷工場を手伝いながら、俺を育ててくれた。しかし、経済的に厳しいうえに、悪ガキどもからはイジメられ、思い出したくもない子供時代を過ごす羽目となった。
「おい! 捨て子!」「ステゴザウルス~!」と言う、からかう声はいまだに耳に残っている。
ばぁちゃんは、俺が肩身狭い思いをするたびに温かく抱きしめて、
「ごめんねぇ、ごめんねぇ」
と、謝ってくれた。
俺は、ほのかに香るインクの臭いに包まれながら、
『ばぁちゃんのせいじゃないのになぁ。ママはどうして僕を捨ててしまったのだろう……やっぱり僕には何かが足りないんだな……』
と、いつもボーっと思っていた。一番愛が欲しい時期に最愛の人に捨てられたことが、俺の中にシコリのように残り、それはいまだに後を引いていた。
そんな時に、俺を支えてくれたのはアニメや漫画だった。特に、科学者の活躍するシーンは何度も見返した。想像を超えた科学の力で地球を守るその姿に、たまらなく惹きつけられていたのだ。いつか俺もこんな科学者になるんだ! と心に誓い、必死に勉強を頑張っていた。
高校生活も後半になり、進路の話が出てきた。もちろん大学へは行きたかったが、年老いたばぁちゃんにこれ以上無理は言えない。俺は密かに就職先を当たり始めた。
ところがばぁちゃんは、そんな俺を察して大学進学を勧めてくれた。
「ばぁちゃんは大学なんていけなかったけど、マコちゃんは理科がこんなに得意なんだから大学に行くべきよ」
「でも、お金かかっちゃうよ……」
「お金のことはばぁちゃんの仕事だ、その代わり……大学行ったらしっかりと勉強して、世界中の人を笑顔にできる人になりな」
「え? 笑顔に?」
「そう、マコちゃんにはそういう力があるって、ばぁちゃん分かるのよ」
「え~、何それ?」
「いいから、大学行って勉強してみんなを笑顔にすること、分かったね!」
「……。ありがとう……。俺、頑張るよ!」
そして、俺は無事第一志望の大学に受かり、一番興味のあったAIを研究し、AIベンチャーに就職した。それは子供の頃の憧れに近づいたかに見えた……。
しかし、AIベンチャーではAIの研究ではなく、AIを使った商売しかできなかった。お客の的外れな要望と格闘し、既存のAI技術を何とか当てはめるだけの力仕事、とても世界の人を笑顔になどできるレベルじゃない。
そうこうしてるうちに、ばぁちゃんは病気で倒れ、帰らぬ人となってしまった。
愛する母に捨てられ、育てのばぁちゃんとの約束も守れそうになく、俺は人生を見失いかけていた。
そんな時に俺は神様に出会った。これはまさに天啓だ。神様が、俺の技術力で人類の危機を救え、と言っているのだ、もう命がけで取り組む以外ない。この機会を逃したら、俺の人生は何の意味もなくなってしまう。
俺はやってやる! 俺の力で人類を救うのだ!
おれは興奮を抑えられず、一気にビールを空けた。
しかし、ビールじゃ物足りない!
「折角なんでワインにしましょうか? 奇跡のワイン」
クリスに聞いてみる。
「…。いいね、あれは自信作だよ」
そう言ってニッコリ笑う。
俺はプラカップにワインを注いだ。
「それでは、人類の後継者計画に乾杯!」
「…。乾杯」
奇跡のワインを一口含む……。
……これは凄い!
立ち上る芳醇な香り、紅茶や土の香りの奥に、黒トリュフが見え隠れする官能的なニュアンス……。クラクラする。
「お、おおぉぉ~!」
目を瞑って、思わず声を上げてしまった。まさに神の雫、やっぱりクリスは神様だった――――
俺はふと思った。神様であれば、母の失踪の理由も、父親が誰かも、聞けば教えてくれるかもしれない……。
むしろ、『はい、どうぞ』と言って、すぐに目の前に呼び出してしまうかも……。
しかし……いまさらそれを知ってどうするのか……。それで23年の孤独が埋まるわけではない。
プラカップを持つ手につい力が入り、パキッと音を立てた。
俺は、心の奥底にある澱が揺らぐのを感じていた。
トラウマに捩れた心は果たして和解に耐えられるのか……、俺は目を瞑り、心の澱が落ち着くのをしばらく待った。
まだ……早いのかもしれない。
ぽっかりと浮かぶ夏の雲を見上げながら、父や母とわだかまりなく乾杯できる日がくればいいな……とぼんやり思った。
カァカァとBBQのおこぼれを狙う、カラスの鳴き声が公園に響き渡る――――
俺は気持ちを切り替えると、
「これ、みんなにも分けてきますね!」
そう言って、友達とその仲間たちが歓談しているテーブルの方に、ワインを持って行った。
「みなさーん、今日はお招きありがとうございました! 凄いワインが手に入りました! ワインで乾杯しましょう!」
「おぉぉぉぉ!」「ワインいいね、ワイン!」
歓声が上がる。
ただ、ペットボトルを見せると……
「えー!? ペットボトルのワイン~???」
『教授』と呼ばれている中年男性は不機嫌になる。
「俺はそんなワイン飲まないぞ! ワインは文化なんだ!」
教授はこういう所、とても面倒くさい人らしい。
「まぁ、ちょっと味見だけでも、してみてください」
俺はプラカップにワインを少し注ぎ、教授に渡した。
教授は、嫌々受け取ると、ワインを口に含んだ。
口に含んで3秒、教授の動きが止まった。
「……。」
さらにもう一口……。
そしてしばらくして……
「な、なんだこれは……。ピノ……? だよな、ピノノワール……だが……。こんな美味いピノは飲んだ事が無い……」
目をつぶったまま教授が動かなくなった。
「ロマネコンティ……。そう、そうだよ、このニュアンスはそのクラスだぞ。馬鹿な……」
ワインは誤魔化しが効かない。ワインを知れば知るほど、クリスのワインのすごさが分かってしまう。
教授の奥さん連中も飲んで、美味さに驚いている。
「いや、これなんなの? こんなの飲んじゃったら、もう普通の飲めないよ~!!」
「ほんとほんと~!」
「あっ!? このチーズにすごい合うよ!」
みんな奪うように、チーズに手を伸ばす。
う~ん、美味い!
美味い酒は人を幸せにする。
暴走車の絶望から、一気に神のワインで天国になった。
欲を言えば、ワインだけじゃなくて、可愛い娘も出してくれたら最高なのに……などと罰当たりな事を一瞬思い、イカンイカンと首を振って雑念を飛ばした。
テント横をひょこひょこと歩いていた黒猫は、そんな俺を見て立ち止まり、ニャァと一声鳴いた。猫に見透かされたようで俺は少し赤くなり、うつむいた。
俺は軽く咳払いをして、
「このワインはあちらの『通りすがりの神様』クリスによる提供です!」
俺はそう言って、クリスを紹介する。
クリスは微笑んで軽くうなずく。
「神様! ごちそうさまです!」「神様! ありがとうございます!!」「最高っす!!!」
みんな次々にクリスに挨拶するが、誰も『神様』を本気にはしていない。当たり前ではあるが……。
それにしても、このワインの美味さは異常だ。一口含むたびに幸せに包まれる、とんでもないワインだ。
「いや~これは、本当に美味いわ~!」
俺は湧き上がる開放感の中、思わず叫んでいた。
◇
ワインの余韻の中、俺は、冴え渡る青空に入道雲がモコモコと育っているのを見ていた。飛行機が真っ白のラインを引いていく。
仲間連中はワインをよほど気に入ったと見えて、バカ騒ぎを続けている。
すると、後ろからいきなり声をかけられた。
「あのぉ~、良ければ私にも、一口もらえませんかぁ?」
振り返ると、揺れる木漏れ陽の中、優美な空気を身に纏った若い女性が、天使の様な笑顔をたたえていた。
その、人並外れた美貌、全てを見透かすような澄んだ琥珀色の瞳に、俺は思わず息をのんだ――――
いきなり訪れたこの瞬間を、俺は一生忘れないだろう。
神のワインが、新しい人生の扉を開けた気がした。
1-3.フレンチ・フルコースの勝利
彼女は少し茶色のセミロングパーマの髪を夏の風に揺らしながら、白いワンピースに薄い迷彩のパーカーを羽織り、微笑んでいる。
アイドルグループに居てもおかしくない美貌に、心臓が高鳴る。
「も、も、もちろん、どうぞ! 美味しいよ!」
俺は飛び上がるように席を立ち、少し震える手で彼女にプラカップを渡し、注いだ。
彼女は片手をそっと添えて、丁寧に受け取る。
品のいい娘だ。
彼女はにこやかに一口、ワインを含む。
透き通るような肌に、シャープなギリシャ鼻、そして心を捉えて離さない大きな琥珀色の瞳……もし、女神がいるとしたら、彼女のような風貌かもしれない。
「うわぁ~! これは凄いですねぇ!」と、眩しい笑顔で歓喜の声を上げる。
今の瞬間を撮ったら、TVCMにでも使えそうなビジュアルだ。思わず見惚れてしまった。
話を聞くと彼女は応京大学の学生だそうだ。今日はサークルのBBQでお隣に陣取っていたらしい。
サークルでBBQ、実に羨ましい。
ばぁちゃんとの約束を果たそうと、バイトに研究に必死だった俺の貧乏学生時代とは大違いだ。
ワインを交わしながら歓談してると、若い男がやってきた。
「ダメだよ。美奈ちゃん! お隣さんに迷惑かけちゃ!」
ボーダーのインナーに、紺のシャツを羽織った、少し甘いマスクの男が女の子に声をかける。
「え~、ワイン貰っただけだし」
美奈ちゃんは憮然とした表情で、面倒くさそうに答える。
俺もすかさず言う。
「迷惑なんかじゃないですよ、良ければ一緒に、ワインどうですか? 美味しいですよ」
男はちらっとテーブルのペットボトルを見ると、
「ペットボトルのワインなんて、美味い訳ないだろ? 僕はパパから、いつも一流のワインを飲ませてもらってるんだ。ちゃんとしたワインじゃないと、体が受け付けない」
またこれか、ワイン好きというのは本当に面倒な連中だ。
生意気な小僧には、意地でも飲ませてやる。
「じゃ、このワインが美味しかったら、どうする?」
「はっ! パパ行きつけの、三ツ星フレンチに招待してやるぜ!」
ふてぶてしい態度で小僧は挑発してくる。これは神様の力を、思い知らせてやらんとならん。
「よーし、みんなー! フレンチ行くぞ~!」
俺は仲間連中に向けて叫ぶ。
「おぉぉぉ!」「やったー!!」「キャ―――――!」
奇声が上がる。
酔っ払いたちは、騒げるネタならなんでもいいのだ。
「美味かったら、だからな!」
男が念を押してくる。
「まぁ、飲んでみろ」
男は受け取ったワインの香りを嗅いで……眉間にしわが寄った。
「なんだ……この香りは……」
そして、軽く口に含んだ
「んんっ……」
黙ってしまった。
すかさず俺は
「フレンチは明日の晩、10名様で予約してくれよ」と、言ってやった。
男は憮然とした表情で
「いや、僕は認めないよ! こんなの全然美味くない!」
俺と目を合わさないようにしながら、ふてぶてしく言い放った。
「シュウちゃん、嘘ついちゃダメよ、こんな美味しいワインに、ケチ付けるなんて最低よ!」
美奈ちゃんは、クリっとした可愛い目を見開いて諭すが、男は引かない。
「美味いかどうかは主観で決まる、僕が美味くないと言えば、美味くないのだ!」
そう言って、残りのワインを、その辺にパッと撒いて捨てた。
向こうで、クリスの表情が堅くなったのを、見てしまった。この小僧の事を少し哀れに思う。
クリスが静かに歩み寄ってきて、問いかける。
「…。この聖なるワインを侮辱するのであれば、それなりの神罰が下るが良いのか? 太陽興産の、跡取り息子の修一郎君?」
「何で俺の事知ってんだ? 美奈だな! 勝手に個人情報話すなよ!」
「私じゃないわよ!」
「…。美奈さんは関係ありません。私はあなたの事を良く知っています。その右ポケットに入っている物が何かも知っています」
修一郎という名前らしき男の顔色が変わった。
「お、お前には関係ないだろ!」
何かヤバい物を持っているらしい。おおかたマリファナとかその手の類だろう。イキがる若者はそういう物に惹かれるからな。
それにしても、太陽興産という会社名は聞いた事がある。確か、中国との貿易で最近業績を伸ばしていた会社だ。
スマホで検索すると……株価もここの所右肩上がりである。社長は田中修司、きっと修一郎の親父さんだろう。
「太陽興産だって? 最近絶好調な所じゃないか」
俺が声をかけると、
「そう! パパは凄いんだ。応京大学OB会の理事もやってるのさ」
修一郎は自慢したくて仕方ないらしい。
クリスは俺のスマホを覗き込むと……
「…。なるほど、それじゃ神罰は太陽興産に下るだろう。『太陽興産には失望させられたよ』」
そう言った瞬間、太陽興産の株価の表示が真っ赤になった。
俺はその表示に焦った。
「うわ、株価が暴落し始めたぞ!」
修一郎は俺のスマホをひったくると
「な、なんだこりゃ!?」と、言って、顔面蒼白になった。
とんでもない数の売り玉が、次々と買い板を飲み込んでいく。
さっきまで前日比プラスだったのに、もうマイナスに落ちている。
修一郎は焦ってクリスに絡む。
「お前! 一体何をやったんだ!?」
「…。別に何も? 単に失望しただけだが? 『太陽興産には失望させられたよ』」
また大きな売りが追加された。
株価の下げは、留まるところを知らない。
修一郎は、食い入るようにスマホを見つめるが、売りは増えるばかりで、株価はどんどん落ち続ける。
もうすでに、50億円近く時価総額は落ちている。
修一郎が下らない嘘をついただけで、50億円が飛んだのだ。
そもそも株価はマーケット参加者の気分で決まる。これから値上がりすると思えば、買いが増えて値が上がり、値下がりすると思えば、売りが増えて値が下がる。
クリスがどうやってるのかは分からないが、マーケット参加者の気分を弱気にしたのだろう。皆が値下がりすると思えば株価は下がる一方なのだ。
みるみるうちに、株価はどんどん下げていく。
修一郎は顔面蒼白となり、クリスに食って掛かる。
「ワインが美味いかどうかで、なんで株価暴落するんだよ!」
「…。美味いかどうかじゃない、侮辱をするかどうかを、神は見ているのではないかな?」
「俺にとって美味いかどうかは俺が決める! 俺が美味くないと言ったら、美味くないでいいじゃないか!」
その瞬間、また多量の売りが出て、さらに株価の暴落が加速していく。愚かな事だ。
クリスは軽く首を振りながら、憐みの表情で修一郎を見つめている。
「パ、パパに電話しなくちゃ……」
震える手でスマホを操作した。
「パパ、僕だよ、修ちゃん。え……? やっぱり暴落は本当なの? まずいの? あれ? パパー? パパー?」
切られてしまったらしい。
株価はさらに落ち続け、もう時価総額は100億円くらい消えてしまった。
修一郎はしばらく呆然としていた。
理屈は分からないが、とんでもなくダメな事をしてしまったのを、本能的に理解したようだ。
彼は意を決して、クリスに向き直ると、
「僕が悪かった……。何でもする。だからパパを助けて……」
もはや涙声である。
粋がって、調子に乗った奴の末路は悲惨である。
ちょっと胸がスッとする。
「…。ワインはどうだったかね?」
クリスは修一郎の目をじっと見て言った。
「美味しかった! 美味しかった! 最高でした!」
「…。無理して言わなくていいんだよ」
クリスはゆっくり諭すように言う。
「大丈夫っす! カベルネソーヴィニヨンですよね? メッチャ美味いっす!」
クリスはがっくりとして目を瞑り、首を振った。
「……。ピノノワールだよ……」
「あ、あれ……?」
ばつが悪そうな修一郎。
俺はすかさず、
「フレンチ10名様、予約入れろよ!」
「入れる! 入れる! 今すぐ入れる!」
クリスは気を取り直し、修一郎の目をじっと見つめ、小声でつぶやいた。
「…。『太陽興産は言うほど悪くなかったな』」
すると、あれ程多量にあった売りがパッと消えた。
その後、徐々に買いが入り始めた。買いが出てくると動きは速く、株価は急速に元に戻って行った。
それを見ると、修一郎は大きく息を吐き、力なくよろよろと椅子に沈んだ。
真夏の日差しの中、修一郎の流した冷や汗が、お洒落な北欧の腕時計にポタリと落ちる。
決してクリスを敵に回してはならない、俺はそう強く心に誓った。
それにしてもクリスの力は恐ろしい。株価を操れるという事は、無限にお金儲けができるという事。何億でも何十億でも好きなだけ儲けられるという事。とんでもない力だ。
やり取りを見ていた美奈ちゃんが、するするっとクリスに近づいて話しかける。
「すごぉい! 一体どうやったんですかぁ?」
実にストレートな突っ込みである。
「…。私は何もやっていない。不誠実な者に天罰が落ちるのは、当たり前でしょう」
「ふぅん……。クリスさんは天罰を呼べるんですねっ」
「…。全て神の思し召しです」
そう言って、クリスは祈る仕草をした。
修一郎はレストランに電話しているようだ。
「予約取ったから、明日7時に銀座のここに行ってくれ」
そう言って、ぶっきらぼうにスマホの画面を俺に突き出した。
「お、こないだ三ツ星になった店じゃないか! 本当にいいの?」
「男に二言はない! 今回の事は僕が悪かった。楽しんできてくれ! その代わり……、このワインを何本かもらいたいんだけど……」
修一郎はそう言って手を合わせ、お願いしてくる。
確かにこれは神の飲み物、お金で買えるような代物じゃない。良く分かってるではないか。
俺はニヤッと笑うと、クリスに聞いた。
「クリス、ワイン欲しいんだって、いいかな?」
「…。いいでしょう、ピノノワールの心地よい酸味と果実味をしっかり勉強してください」
そう言ってニッコリと笑った。
◇
しばらく歓談していると、教授が声をかけてくる。
「誠君、ちょっと……」
俺はテント裏に連れてこられた。
「ワイン美味かったでしょ?」
俺がワイン片手に、上機嫌で自慢すると……
「美味すぎる、これはオカシイよ……」
そう言って深刻そうな声を出す。
「こんなワイン、人の作れるものじゃないし、あんな株価操縦なんてできるはずがない。それに彼は、暴走車に轢かれて、血だらけだったそうじゃないか。なんであんなに元気なんだ? 人間技じゃないよ!」
轢かれた事をなぜ知ってるのだろう? 教授の情報収集力に少し敬服した。確かにクリスは人間じゃない。それは良く知っている。
「うーん、だから神様なのかと思ってるんだけど……」
教授は呆れた顔をして言う、
「誠君、君はエンジニアだろ? そんな非科学的な事言っちゃダメだよ!」
教授はただのあだ名ではなく、大学で素粒子物理学を教えている本物の教授だ。非科学的な事なんて絶対に認めない。俺は工学系なので、理屈よりも結果が出る事を重要視する。だから、奇跡をどう使うかしか考えないが、理学系の教授には理屈の方が気になるらしい。
「じゃ、教授はクリスを何だと思ってるの?」
「可能性は三つ……」
「1.ナノテクノロジーを駆使できる、高度な科学文明を持った知的生命体」
「2.幻術を使う催眠術師」
「3.シミュレーション仮説上の管理者」
「これしか考えられない」
「シミュレーション仮説って何?」
「この世界が仮想現実だって言う話。つまり、ここはVRゲームのフィールドだって事だよ」
「え? これが仮想現実空間!? ま、まさか……いや……しかし……」
とんでもない荒唐無稽な事を言われて驚いたが、技術的には不可能な話ではない。ただ、やる意味も価値もないから誰もやらないと思うのだが……。
「さすがに、それは無いとは思ってるよ。地球をシミュレートしようと思ったら、地球よりずっと大きなコンピューターと、天文学的な莫大なエネルギーが必要なんだから。そんなバカげたこと、何のメリットもない。だとすると、ナノテクか催眠術師か……」
「催眠術師だったら……俺達、化かされてるって事? このワインも水?」
俺達はジッとワインを見つめた……
しかし、どう見てもワインにしか見えない。
そして再度慎重に味わってみた……
「美味い……よなぁ……」
「分かった! うちの大学の同僚に頼んで、成分分析をしてもらう。これでナノテクか催眠術か、白黒つくだろう」
「お願いします。結果わかったら教えてください」
そう言って、俺達は秘密裏に、クリスの正体を探ってみる事にした。
とはいえ、クリスが『ナノテク・マスター』か『スーパー催眠術師』だったとしても、俺からしたら十分に神様だし、人類の危機を救わねばならない事も変わりない。人類の後継者はどっちにしろ必要なのだ。
1-4.神様はバックパッカー
仲間の子供達を見ると、皆ソファーでゴロゴロしだしている。どうやらお眠の時間の様だ。
「さて、そろそろ帰らないと。クリスも明日フレンチ行きますよね? 今晩はうちに泊まりませんか?」
さり気なく誘ってみる。
「…。いいのか?」
「何言ってるんです、クリスのおかげで、こんなに楽しい事になっているんだから、遠慮せずにうちで飲みなおしましょう!」
「…。なら……お言葉に甘えて……」
「ねぇねぇ、美奈も行っちゃダメかなぁ?」
ちょっと首をかしげて、甘い声で美奈ちゃんが割り込んできた。美奈ちゃんもクリスに興味津々の様である。
可愛い娘にお願いされて、断れる男など居ない。
「お、俺は良いけど、クリスはどうかな?」
クリスは、美奈ちゃんの目をじっと見ると、言った。
「…。私たちに付いてきたら、もう二度と今までの暮らしには戻れない……。それでもいいですか?」
俺は驚いた。一体どういう事なのか? 俺は、単に飲みなおすだけのつもりだったのだが……。
「丁度いいわ! 今の暮らしに、飽きてきた所なのよねっ!」
美奈ちゃんは人差し指をくるっと回し、小悪魔風に微笑んだ。
「…。ならいいでしょう」
クリスはそう言ってニッコリと笑った。
◇
八丁堀にある、築5年の1DKのマンションが俺の家だ。都心に近いが、下町だけあって家賃が安くて気に入っている。
二人を、コンビニに買い出しに行かせている間に、部屋を頑張って片付ける。
ヤバい物は急いで段ボールに詰め、物置に追いやった。独身男性の部屋には、女の子にはとても見せられないような物だってあるのだ。
掃除機で仕上げをしていると、二人がやってきた。
「あら、誠さんの部屋、綺麗ねっ!」
美奈ちゃんが、ずかずかと奥まで入ってきて言った。
ギリギリ間に合った。セーフである。
「夜寝る時に、帰ってくるだけだからね。まぁ、その辺座ってよ」
平静を装いながら座布団を勧め、買い出ししてもらった物を、テーブルに並べる。
「私は梅酒~っ!」
美奈ちゃんがニコッと笑って、梅酒の缶をプシュッと開ける。
クリスはハイボール、俺はビールを手に取った。
「それじゃ、明日のフレンチを祝して、カンパーイ!」
「カンパーイ!」「…。乾杯」
ゴツゴツと鈍い音が部屋に響く。
ビールをゴクリと飲むとホップの苦い香りが鼻を抜け、爽快感が脳髄を揺らす。俺は幸せが染みわたるのを堪能していた。
「クリスさんは、何をしてる人なんですかぁ?」
美奈ちゃんが早速クリスに絡む。
「…。ただのバックパッカーだよ」
クリスは透き通った声で淡々と答えるが、バックパッカー!? 神様の仕事ってバックパッカーでいいのだろうか?
「ふぅん、いつまでバックパッカー続けるの?」
お、ナイスな突込みだ。
「…。希望が見える……までかな……」
「今は希望が見えないの?」
美奈ちゃんは首をかしげ、不思議そうに聞く。
クリスはハイボールを呷ると、目を瞑って静かに言った。
「…。全くダメだな。八方ふさがりだ」
「八方ふさがり? 人類がヤバいって事……なの?」
クリスはあごに手を当てて、少しうつむき、言葉を選んでいるようだった。
「…。ヤバいというより、糸が切れた凧、という状態かな? 何をどうしたら、世界が良くなるか、皆目見当がつかない」
そう言うと、ハイボールを一口飲んだ。
「…。昔は単純だった。病気や、飢饉や、災害や、戦争を回避するよう祈れば良かった。そうすれば世界は良くなっていった。だが、この時代にまでなってみたら、何が何だか分からなくなった」
「うーん、それは、世界が複雑になったという事?」
「…。大抵の病気は病院で治るし、食べ物は捨てるほどある。衣食住完備され、安全で安心な社会になったのに、みんな常に仕事に追われ、余裕無く喘いでいる。一体なぜ、こんな事になっているのか、分からないんだ」
そう言って、クリスは首を振って目を瞑った。
実に重い話だ。
沈黙の時間が流れる。
確かに、昔に比べたら全てが改善した。夢の社会ができたはずだった。でも、人々は暗い顔して暮らしてる。一体何が間違っているのだろうか……。
「お、お金……かな? みんなにお金をパ―――――ッと配ったらどうかな? みんなに1億円ずつ配ったら、みんな元気になりそう!」
美奈ちゃんが、オーバーに両手を広げて言う。
「1億はどうかと思うけど、お金を配るというのは確かにいいね。ベーシックインカムと言って、国民全員に毎月10万円配ろう、という計画もあるよ」
俺も話を繋げる。
「いいじゃんそれ!」
美奈ちゃんが、無邪気に俺を指さして喜ぶ。
「でも…… 財源が足りないんだよね~」
「あらら……」
二人して下を向く。
これは経済システムの問題だ。
クリスに幾ら力があったとしても、毎年140兆円をクリスが生み出し続ける訳にも行かない。神様の守備範囲外の問題だ。
クリスは目を開けると続けた。
「…。さらに少子化と温暖化という、さらに深刻な問題が控えている。現状は、かなり絶望的と言わざるを得ない」
「絶望的!?」
美奈ちゃんは、可愛い目を大きく見開いて驚く。
「…。この問題も対策のしようがない。解決策があっても、人類はそれを選ばない」
クリスが暗い顔でつぶやく。
神様をもってしても、簡単に滅亡は回避できない、という現実は重い。
「クリスさんにも無理だったら、もうダメって事?」
美奈ちゃんが眉間にしわを寄せて聞く。
「…。誠に案があるんだよね?」
俺に振るクリス。
1-5.愛の秘密
話の流れから、こうなるのは仕方ない……。
「うん、実は人類の後継者を作ろう、と思ってるんだ」
「えっ? 後継者!?」
美奈ちゃんは驚いて、俺を見つめる。全てを見透かすような澄んだ琥珀色の瞳に、一瞬動揺してしまう。
俺は、ゆっくり息を吸い、心を落ち着けて答えた。
「そ、そうなんだ。鉄腕アトムの様な、心優しい人類の後継者を、クリスと一緒に作ろうと思ってるんだ」
「えっ!? そんな事できるの!?」
「い、一応これでもAIエンジニアなんだぞ!」
俺は、わざとらしく胸を張りながら言った。
「それでも……ねぇ……」
美奈ちゃんは、怪訝な眼差しで俺を見る。
「もちろん、そう簡単にはできないよ。でももう人間は、囲碁や将棋ではAIには勝てないんだ。AIは部分的には人間を凌駕してるんだよ」
「そうだけどぉ、囲碁とアトムは全然違うわよ?」
首をかしげる美奈ちゃん。
確かに簡単ではない。でも、クリスの手前、自信なさそうな事は決して言えない。
「俺は作るよ! 必ず作る!」
そう力強く言い切った。
クリスが口を開いた。
「…。本当に心優しいAIなんて作れるのか? むしろ人類を滅ぼそうとしたりするんじゃないか?」
「そこは大丈夫! 秘策があるんだ」
俺はそう言ってニッコリと笑った。
「秘策? 本当に大丈夫ぅ?」
美奈ちゃんは、ポテトチップスをポリポリ齧りながら言う。
「大丈夫、大丈夫!」
俺はそう言って缶ビールをグッと呷った。
「…。で、具体的にはどうやって作るんだ?」
クリスが核心に切り込んでくる。いよいよ正念場だ。
「実は、クリスの力を借りたいんだ」
俺がそう言うと、クリスは怪訝そうな顔をして、こちらを見た。
「…。私はAIなんて作れない」
軽く両手を上げて否定する。
「もちろん、作るのは俺だよ。でも、作ったAIを育てるのには、膨大なデータが必要なんだ。その育成をクリスにお願いしたい」
「…。誠が生んで私が育てるのか?」
「そう、AIを正しく導けるのは、クリスだけなんだ。ぜひやって欲しい」
クリスは腕を組んで、軽くのけぞって首を揺らす。
しばらく考えたのちに言った。
「…。具体的には何をすればいいんだ?」
「まずは、そもそも何で今のAIがこんなにバカなのか? という事から説明したい。なぜだと思う? 美奈ちゃん」
コンビニの袋をひっくり返して、おつまみ探しに夢中な美奈ちゃんがビクッとする。
「え? 何? いきなり振らないでよぉ……。なぜ馬鹿かって? うーん……コンピューターには魂が入ってないから……かな?」
「うーん、魂か。そもそも魂って何だよ? とは思うけど、当たらずとも遠からずかな、AIには世界観が無いのがダメな原因なんだ」
「世界観? どういう事?」
「例えば、『重力があって、リンゴは下に落ちますよ』って事はAIだって理解できる。でも『段差があって人が下に落ちますよ』って事はAIにはピンとこない。例えば段差が30cmなら安全だけど、3mだと危険だよね? では1mだったら?」
「1m? ちょっと怖い高さだよね」
美奈ちゃんは、首をかしげながら答える。
「そう、人間だったらピンとくる。でもAIには分からない。だって体験した事が無いんだもん。1mは若者だったら平気だけど、老人だったら危険。さらに若者でも、頭から落ちたら死んじゃうし、酔っぱらっててもヤバい。人間は自分で飛び降りたりコケたりして、体で重力の意味を覚えてるから、ピンとくるんだよね」
「そうか、体験しないと分からないんだね」
「高さだけじゃない、料理の味や香り、ジェットコースターのスリルなんて物は、体験しないと分からないんだ。この複雑な条件をひっくるめて、世界観と呼んでるんだけど、この世界観を、どうやってAIに学習させるのか? ここが今のAIの限界の原因になってるんだ」
「ふぅーん……」
曖昧な返事をしながら、美奈ちゃんは次の梅酒の缶を開ける。
シュワシュワとした炭酸に、思わず酸っぱい顔をして、目を瞑る。
そんな可愛いしぐさに見とれていると、横からクリスが突っ込む。
「…。誠よ、その世界観を学習をさせるのが、私の仕事という事か?」
俺は慌てて前を向いた。いよいよここからが提案の本番だ。俺は軽く深呼吸をして言った。
「そうそう、そこをお願いしたい。そして世界観を学習するのに必要なのが……。あまり言いたくないんだけど……生身の体なんだよね。正直な所、生身の体でないと世界の理解は難しい」
「…。人体実験に使う人体をこの私に調達しろと?」
クリスの言葉に、微かな怒気が混ざる。
言葉を選ばないと……。冷や汗が浮いてくる。
「いやいやクリス、これは言うならば献血だよ。人類の子孫に血を与える尊い行為なんだ」
軽く首を振りながらクリスは答える。
「…。物は言いようだな。で、そういう人を見つけたとして、何をやってもらうんだ?」
「脳に電極を入れて、AIと直接身体と繋がってもらう。そうすると、AIは自分の身体の様に協力者の身体を動かせるので、そこで身体と世界を感じてもらう」
「…。それは、AIに身体を乗っ取られる事じゃないか!」
クリスは冷たく言い放つ。
美奈ちゃんも拒絶する。
「えー、そんなの絶対ヤダ!」
ですよね……、俺でも嫌だからな。
でも、ここで引いたら計画がお終いだ。
「もちろん、未来永劫乗っ取る訳じゃないよ、一時的に借りるだけ。終わったら元の生活に戻れるんだから……」
頑張ってみたけどクリスは、
「…。私は協力はできないな」
「私もー」
ちょっとストレートに言い過ぎたかもしれない。
ここは無理に頑張らない方がいいか……
「そもそも私の身体を貸したら、例えば『服を脱げ』とか指令が来たら、脱いじゃうんでしょ?」
美奈ちゃんが痛い所を突っ込む。
「うっ、まぁ……理屈としては……そうだね」
「それでエッチな事、させられちゃうんでしょ?」
美奈ちゃんは警戒する風に、両腕で胸を隠す。
「いやいや、そんな事しないよ!」
「絶対?」
「エンジニアはそんな事しない!」
「ふーん、そんなに私の身体魅力ないの?」
不満げな美奈ちゃんは、身体をよじって首周りの服を少しずらす。
俺は、綺麗な鎖骨のラインに、目が釘付けになる。
「この身体が自由にできるのよ? 何もしない……の?」
そう言って、上目づかいで俺を見る。
「いや、ちょっと、美奈ちゃん! 梅酒飲みすぎ!」
俺は両手を美奈ちゃんの方に向け、目を背ける。
ただ…… 男には抗えない力がある事は、認めざるを得ない。
「……。参りました」
俺はそう言って、うなだれて負けを認める。
「だから私は貸せないわ、この身体は愛する人にしか触らせないの」
そう言ってニッコリと勝ち誇る。
俺は言葉を失う。
「誠さんも『愛する人』になれたら……触れるかもね」
そう言ってウィンクする美奈ちゃん。
「……。俺にもチャンスはあるんだ?」
「誰にだってあるわ。私は『愛の秘密』を解いた人を愛すの」
「愛の秘密?」
「ふふっ、そんな調子じゃ無理だわ」
美奈ちゃんは人差し指を振りながら、ニヤッと笑った。
俺は憮然とした表情で、缶ビールを呷る。
『愛ゆえに人は傷つく。愛になんて軽々しく近づいてはならない』とねじ曲がったトラウマが耳元でささやいている。親に捨てられた俺にとって、愛という言葉には警戒があるのだ。
もちろん、いつまでもこんな調子じゃ困るとは……一応、思ってはいる。
それにしても出だしから散々だ。AIの開発計画も行き詰まり、美奈ちゃんにも呆れられる……
ションボリしながらビールを呷ったが……、もう空だった。
ビールにも馬鹿にされている気がして、俺は空き缶をメキメキと潰した。
そんな俺を見て美奈ちゃんは
「はいはい、元気出して! 最初のプランが通らない位で、凹んでてどうすんのよ!」
そう言いながら、次のビール缶を俺に差し出す。
「いやまぁ、そうなんだけど」
俺は缶をプシュッと開ける。
「明日また話しましょ。はい! カンパーイ!」
「…。乾杯」「カンパイ……」
確かに、前人未到の偉業への道など、サクっと簡単に決まる訳がない。そんなに世の中甘くないのだ。
明日の俺にバトンタッチだ、今日の俺は十分頑張った、営業終了! そう気持ちを入れ替えると俺はビールをぐっと呷った。
美奈ちゃんはターゲットをクリスに絞り、言葉巧みにクリスから規格外の楽しい話を引き出していく。
核ミサイルを撃ち落とした話や、津波を割って街を守った話は、それだけでも小説が書けそうだった。
こうして八丁堀の夜は、あっという間に過ぎていったのだった。
◇
美奈ちゃんは始発で帰るらしい。
帰り際、玄関に見送りに来た俺に、靴を履きながら美奈ちゃんが言った。
「男の人の家でオールなんて、よく考えたら危なかったわ」
俺はムッとして
「俺は女の子の嫌がる事は、絶対にやらないよ!」
と、胸を張って言った。
ところが――――
「うーん、だから誠さん、モテないのね」
美奈ちゃんはそう言って、肩をすくめ、天を仰いだ。
「えっ!? ちょっと、それはどういう……」
俺が言い返そうとすると、美奈ちゃんは、ピンと伸ばした人差し指で、俺の口をふさぎ、
「安全地帯に居るから大丈夫、なんて一番ダメな発想だわよ!」
そう言い放つと、軽くウィンクをして、クルっと背を向けて帰路についた。
俺は唖然としながら、後姿を見送っていると、
「また明日~」
と、向こうを向いたまま、手を振りながらエレベーターに入っていった。
確かに俺は人との距離の取り方が下手だ。仕事での人付き合いなら事務的で簡単だが、プライベートの関係となると、踏み込んだ言動はどうしても気おくれしてしまっていた。深い関係になる事は怖い事だと、俺のトラウマがささやくのだ。
会って間もない女子大生に、そんな欠陥を一突きされた俺は、玄関口で呆然とし、立ち尽くした。
1-6.脳の無い赤ちゃん
夜は銀座でフレンチ。フレンチなんて久しぶりだ。
仲間連中は都合で来られないので、結局我々3人である。
銀座のフレンチはやはり雰囲気が違う。石をあしらった門構えに、小さな店名のプレートが一つ。知らなければレストランだとは気づかない。
店に入ると、ウェイティングルームに通された。
すでに美奈ちゃんが座っている。
美奈ちゃんは、落ち着いたオレンジの、Vネックフレアワンピースで、俺たちを見つけると、ニッコリと笑い、目を輝かせて軽く手を上げた。
「アペリティフは、いかがいたしましょうか?」店員に声をかけられる。
今日は暑かったので、爽やかなのがいい。
「シャンパンのカクテルがいいな」
俺がそう答えると
「ではミモザなどは、いかがでしょう?」
「あ、いいね、じゃ、それで」
「私もそれがいいな!」
「…。では同じ物を」
「かしこまりました」
程なく、シャンパングラスが運ばれてきた。
俺が音頭を取る。
「この素敵な出会いにカンパーイ!」
「カンパーイ!」「…。乾杯」
鼻に抜ける、オレンジの爽やかな香りが心地よい。
美奈ちゃんは
「美味し~い!」 と、言って、目を大きく見開き、にこやかに笑う。
彼女の白く柔らかな耳たぶにさがる、ピンクのハートのピアスがキラキラと煌めいた。
店員が注文を取りに来る。
「本日のメニューがこちらです、お選びください」
「お、来た来た。美奈ちゃん何がいい? フォアグラのパイ包みとかあるよ!」
「フォアグラ? 美味しいの?」
「メッチャ美味いよ~。他には真鯛のソテーとか、牛のフィレステーキとか……」
「じゃ、フォアグラで!」
美奈ちゃんは、フォアグラにチャレンジするらしい。
「…。私は真鯛で……」
「じゃぁ俺はステーキにするか!」
メートルに注文し、ついでにワインも選んでもらう。
◇
昨晩の話で盛り上がっていると、ダイニングルームに案内された。
落ち着いたインテリア、控えめなダウンライトが雰囲気を盛り上げる。俺の人生に関わる、いや人類の未来に関わる、大切な会食にふさわしい最高の舞台だ。心臓が高鳴る。
まずは前菜が出て、ワインを注いでもらう。
「ねぇクリスぅ、昨日の誠さんのプランだけど、何かいい手はないかなぁ?」
早速、美奈ちゃんが、クリスに振ってくれる。
「…。身体を乗っ取るような事は、神は望まない」
「身体貸してくれる人が、いればいいんでしょ?」
「…。本人以外が、身体を動かすような事はダメだ」
クリスは毅然とした態度で、ダメ出しをする。
美奈ちゃんは、前菜の『季節の野菜のゼリー寄せ』をつつきながら、ちょっと考え……
「じゃ、本人がもう居なくなってしまった身体、だったら?」
「…。居ないというのはどういう?」
「例えば……脳が無い人とか……。居ないか……」
美奈ちゃんは、顎に手を当てて天を仰ぐ。
「コンソメスープでございます」
ギャルソンが、黄金色に輝くスープを持ってきた。
「美味しそう! いただきま~す!」
美奈ちゃんが、すかさずスープを口に運んだ。
「うわぁ、ナニコレ? すごぉい!」
弾んだ声が部屋に響く。ここまで喜んでくれたら、シェフも嬉しいだろう。
俺も一口飲んでみる。じんわりと優しい旨味が体中に広がり、手が止まらなくなった。まるで魔法だ。どれだけこのスープには、手間がかかっているのだろうか。
俺はスープの余韻を堪能しながら、解決策を考える。
「人間は、脳が無きゃ死んじゃうからなぁ……」
そう呟きながら、スマホで『脳が無い人』と、検索してみた。
すると『無脳症』という病気がヒットした。解説を見ると、なんと脳が無くなる病気があるらしい。
「あ、居るよ居る! 無脳症という病気の赤ちゃんだ!」
俺はつい大きな声を出してしまった。
「…。脳の無い赤ちゃん?」
怪訝そうなクリスに、俺はスマホで検索した画面を見せた。そこには頭がすっぽりと無くなった、顔だけの赤ちゃんの写真が、たくさん並んでいた。
「これだよこれ、生まれてくる赤ちゃんの1000人に一人は、脳が無い無脳症なんだ。そしてこの病気の子の多くは堕胎される。つまり殺されちゃうんだ。この子の身体を、AIが使わせてもらう、というのはどうだろう?」
「…。身体は健康だが脳が無い……。そして殺されてる……。人ではない事になるのか、これは……」
クリスは悩んでしまった。
確かに、勝手に身体を借りるのはダメだが、そもそも借りる以前に、身体に意識が無いのだから、借りる相手がそもそもいない事になる。
「クリス! これならいけるんじゃない?」
美奈ちゃんが無邪気にプッシュする。
クリスは腕組みをして、目を瞑ったままだ。
アコースティックギターの落ち着いた調べが、部屋を満たしていた。
俺はドキドキしながら、ワインを飲むが……味が分からない。
目を開けたクリスが、大きくワインを呷った。
「…。やはりこういうのは良くない。自然の摂理に反している! ……、ただ……人類の未来を託すという、一大事業であれば……ギリギリ……許されるかもしれない……」
クリスは苦しそうな顔をしながら、そう言った。
「やったー! カンパーイ!」
美奈ちゃんがはしゃいで、ワイングラスをぶつけてくる。
これで難関突破だ。俺はホッとして、声が出なかった。
クリスも、まだ思案を続けている様ではあったが、乾杯に応じてくれた。
AIで人類の後継者を作るプロジェクト、『深層後継者計画』がこの瞬間スタートする事になった。
大学時代から、AIを研究しながら行き詰まり、悶々としていた俺は、ついに決定的な突破口を得たのだ。クリスの神の力があれば、人類初のシンギュラリティは夢じゃない。もちろん、奇跡一発で鉄腕アトムができるほど、簡単な世界じゃない。でも、どんな困難もこのチームなら解決できそうだ。
俺はワインをぐっと呷った。
フルボディのガツンとした重い渋みが口の中一杯に広がり、腐葉土の香りが鼻腔をくすぐる。そして、濃縮された太陽のエネルギーがじんわりと体中に染み渡っていく……、幸せだ……。
俺はAIで世界中の人を笑顔にしてみせる、ばぁちゃん見ててくれ!
1-7. 1万円札を1トン
ワインを飲みながらクリスが言う。
「…。誠よ、生身の体を使うから、人類の敵にならないという事なのか?」
「そう、これが秘策なんだ。もちろん、人間の世界観を持たせただけでは100%安全とは言えない。でも、人の痛みが分かるAIにはなるので、ちゃんと運用さえすれば、脅威にはならないはずだよ」
「そんなにうまく行くかしら?」
美奈ちゃんは、首をかしげながら言う。
「…。でもまぁ、一応筋は通ってはいる……。とりあえず、やってみるか……」
クリスはそう言うと、ワインをぐっと空けた。
「メインディッシュでございます」
ギャルソンが、タイミングを見計らって皿を持ってくる。
美奈ちゃんに出された皿には、小さなパイの上からブラウンのソースがかかり、レタスが添えられている。
「これがフォアグラ?」
美奈ちゃんは、見た目平凡なパイをしげしげと見ている。
「いいから切ってごらん」
俺がそう言うと、美奈ちゃんは慎重にナイフを動かし、一口頬ばった。
「う、うわ~ナニコレ!?」
丸い目をして、口を押える美奈ちゃん。
「フォアグラは美味いだろ?」
「こんなの初めて……」
上を向き、目を瞑ってふるふる揺れ、余韻を満喫している。
美味しい料理は感動を呼ぶ、人生の宝物だ。
俺はステーキを堪能しながら、素敵なディナーになった事を、クリスと美奈ちゃんに感謝した。
「…。で、誠よ、具体的にはどう進めるんだ?」
クリスは、真鯛をナイフで切りながら聞いてきた。
「まずは会社を作ろう。AIベンチャーだ。そこでAIの開発を行う。そして準備が整った所で、無脳症の赤ちゃんを手に入れて繋げる」
「へ~、ベンチャー企業作るんだ! すごぉい!」
美奈ちゃんは、目を輝かせてこちらを見る。
「社長は言い出しっぺの俺でいいかな? クリスと美奈ちゃんは取締役。どう?」
「わーい、やるやる!」
美奈ちゃんは、フォークでフォアグラを持ち上げたまま、ニコニコして言う。
俺は美奈ちゃんのお行儀悪の悪さを、ビシッと指先で指摘する。
すると、美奈ちゃんは舌をペロッと出し、パクっといった。
「…。いいんじゃないか? 社長」
クリスは俺たちの様子を見ながら、そう言って微笑んだ。
「ありがとう。では役員3人でスタートだ。最初の仕事は資本金を集める事だな」
「…。お金か…。幾ら位集めるんだ?」
「囲碁のAIを作るのにかかった、コンピューターの費用が60億円と聞いたので、少なくとも100億円は必要……なんだよね」
「100億円!? そんな天文学的なお金どうすんの!?」
美奈ちゃんが目を丸くして、こちらを見る。
「美奈取締役! 俺たちのやろうとしてるのは、人類の未来を託す事業だぞ、100億円位でビビッてどうするんだ?」
「でも100億円なんて、想像した事もないよ……」
一般の人にとって、100億円とは一生縁のない規模の金額だ。もちろん俺もない。
「確かに100億円って、1万円札にしたら、1トンくらいの重さになるからなぁ」
「1トンの1万円札!? すごぉい!」
美奈ちゃんは大きなリアクションに、俺も楽しくなってくる。
「…。誠よ、お金の当てはあるのか?」
「100億円となるとすぐには……」
一介のサラリーマンに100億の当てなんてある訳がない。
「クリスが株価操作して、パーッと集めちゃえば?」
美奈ちゃんは楽しそうに言う。
「…。技術的にはできますが、株価操縦は犯罪です。100億儲けたら確実に金融庁や裏社会からマークされますよ? やります?」
クリスは渋い顔をして答える。
「いや、犯罪はマズい。正攻法で何とか集めよう。どこかの大きな企業と組めないかな……」
「なら、修一郎よ!」
美奈ちゃんが、ワインをクルクルさせながら言う。
「シュウちゃんの会社に、出させればいいわ! あそこ幾らでもお金あるし」
それを聞いたクリスは、ちょっと考えると美奈ちゃんに言った。
「…。なるほど、相談してみよう。修一郎君に電話してもらえるかな?」
「オッケー!」
美奈ちゃんは、スマホを取り出して発信した。
「シュウちゃん? こんばんわ~。……。そうそう、フォアグラが美味しいの! でね、今すぐ銀座来て欲しいの! え? 忙しい? え~? あ、ちょっと待って、クリスに代わるね!」
「…。修一郎君、素敵なディナーをありがとう。……。そう、それは大丈夫です。で、ちょっと相談をさせて欲しくて。いや、大丈夫、いい話です。忙しい? その左手に持ってるのは何? いや、なんとなくですが。それでお父さんも一緒にお話しを。そう、お父さんは銀座にいるみたいだから、ぜひ一緒に。うん、そう、分かりました、では一時間後に」
詳細は聞かないが、クリスを相手にすると言うのは、大変な事だよな。
◇
デザートと珈琲を堪能し、外へ出た。
艶やかな街灯が煌めく銀座の街を、みんなで歩く。
夜になって少し冷え込んできた。もう夏も終わりだ。
薄手のネイビーのアウターを取り出し、ちょっと寒そうにしている美奈ちゃんに、かけてあげた。
「あら、誠さん、いいの? ありがとう!」
「取締役の健康管理も、社長の仕事です」
そう言って恭しく胸に手を当てて、執事の真似をする。
「本当に…… 私が取締役でいいの?」
ちょっと申し訳なさそうに、上目遣いで言う。
「この3人は、なんだか凄い良いチームだと思うんだよね。美奈ちゃんにしかできない事、沢山あると思う」
俺は本心からそう伝えた。
「ふ~ん、ただの女子大生なんだけどなっ!」
軽くピョンと飛んで、嬉しそうな笑顔で俺を見る。
クリスを説得できたのも、美奈ちゃんのおかげだし、美奈ちゃんは俺にとってはまさに女神。
銀座の街灯を反射して、キラキラ輝くピアスを目で追いながら、俺はこれから始まる大冒険に、胸が高鳴っていた。
◇
地球から遠く離れた星の一室で、誰かがつぶやいた――――
「あら、クリスが人と関わるなんて、珍しいわね……」
透き通った白い肌に、ヘーゼル色の瞳の美しい女性は、珈琲を啜りながら、空中に浮かぶ映像に見入っていた。
「ふぅん……賭けに出たわね……。失敗したらこの地球、消されちゃうわよ、いいのかしら?」
女性は首を傾げ、眉間にしわを寄せた。
「彼に……できるかしら?」
彼女は椅子を回して立ち上がり……窓へと歩いて手をあてた。
「お気に召してくれると……いいんだけど……」
窓の外には、巨大な青い惑星が眼下に広がり、その紺碧の水平線から、天の川が立ち上がっている。
彼女はひときわ明るく輝く星を、チラッと眺めて目を瞑り、手を組んで祈った。
誠とクリスたちの出会いは、地球を巡る運命を大きく変え始めた。
もちろん、そんなことを、誠は知る由もないのだが……。
1-8. シンギュラリティの誘惑
煌びやかな銀座の街を歩いて、裏路地に小さなお洒落な看板を見つけた。どうやらここらしい。
恐る恐る、重厚なドアを開けて入ってみると――――
そこは昭和の雰囲気の香る、オーセンティックなバーだった。
暗い店内におしゃれなダウンライト、カウンターの木目が照らされている。
ずらりと並んだシングルモルト・ウィスキーの棚を背にして、黒いカマーベストに蝶ネクタイ姿のバーテンダーが、こちらをちらっと見た。
「こんばんは~、田中で予約してると思うんですが……」
「いらっしゃいませ、奥のテーブルへどうぞ」
少し抑制された高い声で案内された
「修一郎はいつもこんな所で飲んでるのか……」
「私も初めてだわ……」
「何に致しましょう?」
バーテンダーが、おしぼりを持ってきて尋ねた。
「俺はラフロイグをロックで、チェイサーもお願い」
「何それ?」
美奈ちゃんが突っ込む。
「くさ~いウイスキーだよ。美奈ちゃんには向かないな。美奈ちゃんはカクテル頼むといいよ」
「むぅっ…… 私も同じのをお願い!」
この娘は一体何と戦っているのか?
「…。私も同じものを……」
「ではラフロイグをロックで3つですね」
バーテンはメモりながら、カウンターへ戻って行った。
「で、シュウちゃん親子を呼んでどうするの?」
美奈ちゃんがクリスに尋ねる。
「…。修一郎君をAIベンチャーの役員に迎えるから、出資してくれってお願いしてみようかと。誠、いいだろ?」
「もちろん。出資を受ける以上、役員の受け入れは避けられない。修一郎ならいいと思う」
「…。では、その線で行こう。それから、私がAIの振りをして、スマホのチャットでメッセージをやり取りするので、設定して欲しいんだが」
神様がAIの振り? 何を狙っているのか……。
俺はサブのスマホをカバンから取り出した。
「じゃ、このスマホのアカウントを使ってみよう。名前は何にしようか?」
「…。名前?」
「AIを騙るアカウント名だよ、人類の子孫的な名前がいいな……」
「え~、面白そう! そうね、ハッピーとかぁ……ラッキーとかぁ……」
美奈ちゃんは首をかしげながら、楽しそうにショボい候補を挙げる。
「……。いや、ちょっと、美奈取締役、あなた名付け向いてないわ」
美奈ちゃんが拗ねて頬を膨らませる。
「…。地球人は『アーシアン』だから……シアン?」
クリスが呟いた。
「シアン……なるほど……水色という意味もあるし、いいね!」
俺がそう言うと、
「シアンちゃんか、まぁ……悪くは……ないかもね」
美奈ちゃんは、ちょっと拗ねながら言う。
「じゃ、シアンで進めよう」
俺は笑顔でスマホに打ち込む。
ただ、後になって考えたら「シアン」とは青酸カリ、つまり猛毒という意味もあったのだった。もっとよく考えればよかった……。
「ラフロイグ、ロックでございます」
バーテンが慣れた手つきで、テーブルにグラスを並べていく。
軽く乾杯をして、一口、口に運ぶ……
ガツンと来るアルコールに、鼻に抜けていく強烈なピート臭、実に臭い。だが、それがいい。
「ふぅぅ~」
余韻に浸っていると……
「うへぇ、ナニコレ……」
隣で、ちょっぴり舌を出した美奈ちゃんが、酷い顔をしている。
「だから美奈ちゃんには、無理だって言ったのに」
「これのどこが美味しいのよ!?」
「お子様には分からないのです、姫様」
「も~!」
美奈ちゃんがフグみたいに膨らんだ。
Jingle
開いたドアの方を見ると、修一郎が見えた。白いシャツに紺のジャケットを羽織っている。
俺は手をあげて呼ぶ。
「はい、来ましたよ!」
ちょっと投げやりな感じで、ぶっきらぼうに言う。
「まぁ座りなよ、今夜はいい話だよ」
修一郎は椅子にドカッと座ると、カウンターの方を向いて言った。
「マスター、いつもの!」
すっかり行きつけなのね。若いうちから贅沢三昧なのはどうかと思うなぁ。
「で、いい話というのは何ですか!」
不機嫌そうに言う。
そういう修一郎からは、微かにマリファナの臭いがする。やはり吸ってたなこいつ。役員にするなら止めさせないと……。
「…。AIベンチャーを起業する事になりました。修一郎君にも役員になって欲しいのですが、いかがですか?」
クリスが微笑みながら言う。
「え、AI? 人工知能って事? 俺文系だからAIなんて分からないよ!」
突然の話に、修一郎も面食らっているようだ。
俺からも言う。
「技術的な事は俺がやるから、修一郎はCFOやってくれ」
「CFO? CFOって何だっけ?」
「Chief Financial Officerの略で、最高財務責任者、つまり金集め担当役員だよ。 」
「なんだよ、やっぱり金か……」
修一郎はうつむいて、首を振る。
「いやいや、これは修一郎君にしかできない、崇高な仕事だよ」
俺は彼の肩をパンパンと叩いた。
憮然としながら修一郎は
「で、何? パパにお金を出してくれ、って頼むの?」
「そうそう、良く分かってるじゃん」
修一郎は少し思案して言った。
「幾ら?」
「100億円」
ガタッと、修一郎は椅子の上でコケる仕草をする。
「あなたたちさぁ、そんな金、パパにだって出せる訳ないじゃん! 何考えてんの!?」
クリスが修一郎を諭すように言った。
「…。大丈夫、田中修司さんはちゃんと出してくれます。それも、結果的に大儲けする事になります」
「俺は知らないよ! あなた達で勝手に口説いてくれよ!」
「シュウちゃん! そういう言い方良くないわよ。あなたのためにもなる話なんだから、ちゃんと真面目に考えてよ!」
美奈ちゃんが身を乗り出して、修一郎を諫める。
「いやいや、AIだの100億だの、いきなり言われても……」
修一郎は腰が引け気味である。ちょっと口説かないと話が進みそうにない。
「モスコミュールでございます」
バーテンダーが恭しく、グラスを修一郎の前に置いた。
「修一郎君、この会社はね、人類の歴史に残る凄い会社になるんだよ。その役員になるというのは修一郎君の人生にとっても、凄いプラスになるはずだよ」
修一郎は怪訝な表情をして言う。
「歴史に残るってどういう事?」
「この会社はね、世界初のシンギュラリティを、実現する会社になるんだ」
「シンギュラリティ!? 人間を超えたAIを作るって事?」
「おー、修一郎君良く知ってるじゃないか。その通り! 我々が人類の未来を、大きく変えていくんだ」
修一郎は、モスコミュールを一口飲んで言った。
「本当にそんな事ができるなら、そりゃ凄いけど…… 世界中の天才達が実現できてない事を、なんでできるの?」
「君は昨日、クリスの聖なる力を見たんじゃないのか? あんな事できるのは、世界広しと言えどもクリスしか居ないだろ」
「ま、まぁそうだけど……」
「修一郎君は、安心してパパを口説いてくれればいい。俺達がシンギュラリティを実現するから」
修一郎は腕を組んで考えているが、あまり乗り気ではないようだ。
ここは賭けに出るしかないな。
「じゃ、こうしよう! 勝負して、我々が勝ったらCFOになってくれ、負けたら、修一郎君の言う事なんでも聞いてやる。勝負の内容も、修一郎君が決めていい。どうだ?」
「え? 何でも聞いてくれるの?」
「もちろん、我々が叶えられる物だけだけどな」
修一郎は、チラッと美奈ちゃんの方を見て言う。
「じゃぁ、美奈ちゃんに彼女になってもらう、というのでもいいの?」
美奈ちゃんはニヤッと笑って言う。
「あら? 私と付き合いたいの?」
「そ、そりゃ、難攻不落の姫は、サークルのみんなの憧れの的ですから……」
「ふぅん……いいわよ。クリスに勝てたらね」
そう言って斜に構え、修一郎を見つめた。
「いやいや、そう言うのはダメだって!」
俺は焦って言う。
「そんな人身御供に出すようなこと、認められないよ!」
「あら、誠さん、クリスが負けるとでも思ってるの?」
「い、いや……負けないと思う……けど……」
「ならいいじゃない。その代わり、クリスが勝ったら、ちゃんと仲間になってよね!」
美奈ちゃんは、修一郎を指さして言う。
「オッケー! じゃ、決まりな! 勝負は……そうだな……神経衰弱でいいか?」
「神経衰弱……トランプの? いいんじゃない? ねぇクリス?」
「…。私は何でも……」
「よし! やるぞ! ウッシッシ……」
異常に勝つ気満々の修一郎。昨日お灸を据えられたばかりなのに、なぜそんなに勝てる気でいるのだろうか?
「先攻後攻はじゃんけんで決めよう」そう言いながら、修一郎はテーブルにトランプを並べた。
「最初はグー! じゃんけんポン!」
ここは当然クリスが勝つ。
「…。では、私から……」
クリスはチラッと修一郎を一瞥すると、カードを捲った……スペードのエースだ。
そして次を捲る……ハートのエースだ。
「さすがクリス! その調子よ、私の貞操を守って!」
美奈ちゃんは、握りこぶしを揺らす。
そして次を捲る……ダイヤのエース、次はクローバーのエース――――
修一郎の顔色が悪くなる。
スペードの2を捲った時、クリスの手を押さえて、修一郎は言った。
「分かった! 分かった! 俺の負けでいい!」
そう言って、カードを片付け始めた。
ん? どういう事だろうか?
俺はすかさずカードを何枚か奪うと、しがみついてくる修一郎をブロックしながら、じっとカードを見た。
「あれ? このカード、全部裏の模様が違う! イカサマだ!!」
なんと、修一郎は手品用の仕掛けトランプを、使っていたのだ。
「え――――!? 何? 修一郎はイカサマで、私の貞操を狙ってたって事!?」
美奈ちゃんは激怒した。
立ち上がってポカポカ殴り始めるのを、俺は身体を張って制止する。
「落ち着いて、落ち着いて!」
「ちょっと、放しなさいよ!」
そう言いながら、おしぼりを修一郎に投げつける。
修一郎は下を向いて動かない。
クリスは持ってるカードを、ピッと弾き飛ばす。
Clink!
スペードのエースが、修一郎のモスコミュールのグラスに刺さる。
修一郎が、青ざめて恐る恐るクリスの顔を見る。
「…。修一郎君……、イカサマは重罪だよ」
「す、す、す、すみませんでした……」
クリスは修一郎をジッと睨む。怯える修一郎。
「…。昨日は嘘をつき、今日はイカサマをする。お前の魂は穢れている」
そう言うと、クリスがまたカードを飛ばした。
クローバーのエースが修一郎の額に、
Thwack!
と張り付き、修一郎は椅子の背にもたれて、ぐったりとした。
そして、修一郎は白目をむきながら、ビクンビクンと痙攣を始めた。
「クリス…… これは……?」
「…。修一郎君の魂は今、『虚無』にいる」
「虚無?」
「…。光も物質も何にもない、真っ暗な恐ろしい空間……寂しくて辛くて発狂してしまう恐ろしい所……」
ビクンビクンとしながら、泡を吐く修一郎を見て、美奈ちゃんは、
「いい気味だわ!」
と、ほくそ笑んだ。
しばらくして痙攣が小刻みになった所で、クリスはパチンと指を鳴らした。
気がついて目を開ける修一郎――――
「うぁおぉぁぁぁ……」
訳の分からない声を出しながら、ガタガタ震えている。
落ち着いた頃、クリスが言った。
「…。嘘もイカサマも、自分の魂を穢す愚行だ。やめた方がいい」
修一郎は怯えたように、素早くうなずいた。
「…。私たちの計画には協力してくれるね?」
「うぁおおぁ…… は、は、はい! この修一郎、命に代えても、パパを説得して見せます!」
「シュウちゃん、失敗したら許さないわよ!」
美奈ちゃんはそう言って、またおしぼりを投げつけた。
「まぁまぁ、修一郎君も反省したようだし、これからは大切な仲間だ。仲良くやろうじゃないか! イカサマは水に流して…… カンパーイ!」
「カンパーイ!」「…。乾杯」
修一郎も、カードの刺さったモスコミュールを、力なく持ち上げて乾杯をした。
これでまずは第一関門突破!
後は親父さんを口説くだけである。しかし……100億円は大金だ。うまくいくのだろうか……。
美奈ちゃんはラフロイグを舐めて、また渋い顔をしている。美味さが分かるには、少し若すぎるようだ。俺はちょっと得意げに笑った。
◇
地球から遠く離れた星にも動きがあった――――
「殿下、お目覚めですか?」
陽射しをたっぷり浴びた宮殿のベッドの上で、眠そうに眼をこする若い男に、執事が声をかける。
「ふぅ……、何があった?」
「VとNが動き出しました」
「ん? 祭りか?」
「その可能性があります」
王子はガバッと起き上がると、窓辺まで歩き、空を見上げた。
そこには太陽が燦燦と輝いていたが、なぜか揺らめいており、心持ち青っぽい。
彼は眩しそうに目を細め、そして、広大な庭園の植木に視線を落とし、咲き乱れる花々を眺めながら言った。
「現状のレポートをくれ」
「こちらに……」
そう言って、執事は空中にいくつかの3D映像を展開した。
そこには、おしぼりを投げる美奈と、慌てる修一郎たちの姿が映っていた。
王子は思わず笑って聞いた。
「一体、彼女は何をやっているんだい?」
「さて……私には想像もつきません……」
「凄いチャーミングだね」
「私には……そのようには見えませんが……」
執事はちょっと困惑したように答える。
「いいよ、俺が行こう」
「えっ? 殿下自らですか?」
「俺も何らかの成果を、出さないとならんだろ?」
「ははっ、その様な事もあろうかと分身体はすでに配備済みです」
彼は執事の方を見てニヤッと笑った。
「手回しがいいな、全リソースを当該星系に集約させろ! 些細な違和感も見逃すな!」
「心得ております」
執事はそう言って胸に手を当て、お辞儀をした。
彼は窓辺のテーブルに座り、湯気の立ち昇る珈琲を口にした。
久々の祭りだ、きっとお見えになるだろう。今度こそは俺の手で何らかの成果を……
彼は眉間にしわを寄せ、遥かな星、地球に思いを馳せた。
1-9. 100億円の攻防
創業時の資本金はどうするか、どんなオフィスがいいか、会社を作る上で決めなくてはならないことは、たくさんある。
ああだ、こうだと議論していると、徐々に修一郎もノリノリになってきた。
Jingle
修一郎の親父さんが現れた。
ネイビーのスリーピーススーツに、太いストライプのネクタイをして、昭和のビジネスマンと言う感じだ。
「あ、パパ、ここだよ!」
修一郎が呼ぶ。
親父さんは、怪訝そうに我々を見回すと、軽く会釈をして席に着いた。
「パパ、紹介するよ、彼らはAIベンチャーの人達。僕も今度この会社のCFOになる事になったんだ」
「え? シュウちゃんがCFO!?」
親父さんはひどく驚いた感じで、修一郎を見つめた。
「そうそう、この会社は、なんとシンギュラリティを実現する、世界初の会社になるんだ。これはビッグビジネスになるよ!」
修一郎、いいぞ、その調子だ。
親父さんは困惑した感じで、我々を見回した。
「初めまして、修一郎の父です。息子が何やら、お世話になっているようで……」
「いえいえ、お世話になっているのはこちらの方ですよ。私は社長の神崎誠です。我々はAIを使って人類の未来を変えていこうという、野心的なベンチャーです。ぜひ、御社とも連携して、Win-Winの形を築ければと思っています」
「うーん、まぁ本当にWin-Winになれるなら、それは歓迎だが、うちは貿易の会社なんでAIと言われても……」
まぁ、正論だ。しかし、人類の未来がかかっているのだ、全力で口説かないと。
「お父さん、今、御社は貿易業なので、時価総額は1000億円程度にとどまっています。でも、AIの企業になったら、時価総額は1兆円を超えますよ? とんでもないメリットではないですか?」
「1兆円!? ま、確かに昨今のAIブームで、AIと名前が付けば、何でも株価は勝手に上がっていく。でも……うちはしっかりと実業で伸びてきた会社、下手にAIの看板を掲げたら実業が続かないよ。そんな山師みたいな事は出来んよ」
親父さんはそう言って手を振り、顔をそむける。
「おっしゃる通りです。下手な看板を掲げたら、それこそ笑い物ですよ。でも大丈夫です、お父さん。AI部門で利益を出せる会社になれば、誰も文句言わないですよ」
「うーん、そりゃ本当に、利益がバンバン出ればそうだけど、そんな事できるの?」
親父さんは怪訝そうな顔で俺を見る。
俺はクリスをちらっと見ると、クリスはスマホを持って、お手洗いへ移動していった。
「それでは、うちのプロトタイプを見てもらいましょう」
俺はスマホを出すと、チャットアプリを立ち上げた。
「今、プロトタイプのAIがサーバーで動いています。何かAIに聞いてみたい事はありますか?」
「え? 何でもいいの?」
「森羅万象、何でもOKですよ!」
「じゃぁ、うちのカミさんの旧姓は? あ、マスター、いつもの奴!」
「聞いてみましょう」
『Makoto:田中修司の妻の旧姓は何ですか』
『Cyan:浜崎です』
スマホを覗き込んでいた、親父さんの顔色が変わる。
「個人情報が漏れてやがる……。じゃ、うちの会社で、一番悪い奴は誰か聞いてくれ」
『Makoto:太陽興産で一番悪い人は誰ですか』
『Cyan:宮崎隼人です。3億円横領しています。』
親父さんの顔に怒気が浮かぶ。
「え? あの宮崎が横領? そんなバカな! いい加減な事言うんじゃないよ! 彼がどれだけ我が社に貢献したか分かってるのか! 証拠出してみろ証拠! これは名誉棄損だぞ!」
なんだか本気で怒っている……。クリス、ストレートすぎないか……。
「た、確かに証拠は要りますね、聞いてみます」
『Makoto:横領の証拠を教えてください』
『Cyan:匯鼎騰邦集団の李董事長から、発注の見返りにリベートを毎月1000万円、奥さんの口座で受け取っています。口座を調べればわかります。』
親父さんは固まってしまった。
「匯鼎騰邦の李さんなら知っている……。確かに担当は宮崎だが……」
親父さんは眉間にしわを寄せながら、携帯で電話をかけた。
「ワシだ、夜分遅くにすまない。お前、匯鼎騰邦の李さんから、金貰ってるって本当か?」
何とストレートな追及! さすが社長! でも、これは修羅場の予感がする。
皆、固唾を飲んで見守っている。
「おい!!!! そんな言い訳、通ると思ってんのか! お前、それ犯罪だぞ! 俺の信頼を裏切りやがって!」
やっぱり……。
店内に響き渡る罵声。いたたまれない。
「なんでそんな事やったんだ! うん……。うん……。おまえさ~……いや、もういい……明日、しっかり話を聞かせてもらう」
親父さんは頭を抱え込んで、動かなくなってしまった。
クリス、ちょっとやり過ぎじゃないか?
たまらず修一郎が声をかける。
「パパ、大丈夫……?」
親父さんはゆっくりと体を起こすと、椅子の背もたれに、ぐったりともたれかかって憔悴している。
「失礼いたします。マッカラン、ロックでございます」
そう言いながら、バーテンダーがグラスを置いたが……、親父さんの様子を見て言った。
「お水、お持ちしましょうか?」
「……。 あ、いや、大丈夫」
そう言いながら、マッカランを一気に飲み干した。
「今度はストレートをダブルでくれ」
「かしこまりました」
親父さんは焦点の合わない目で、
「俺は宮崎の不正を見抜けなかった。でも、おたくのAIは一瞬で見抜いた。凄いというのは良く分かった……」
「恐れ入ります」
クリスがさり気なく、トイレから帰ってきた。
親父さんは、ポーチから電子タバコを出すと、スイッチを入れた。
「で、うちに何を期待してるの?」
「我々には資金力が無いので、出資をお願いしたい」
「幾ら?」
「100億円です」
ハッハッハー!
親父さんの大きな声が、店中に響く。
「100億円! 大きく出たね!」
「御社の10%の規模の出資です。御社側からの取締役として、修一郎君が就任します」
美味そうに大きく煙を吸うと、俺の目を真っすぐに見た。
「それで、なんぼ儲かるんや?」
なぜここで関西弁?
「3年後、単月黒字を実現し、5年後の売り上げは1000億円、利益率は80%です」
俺は思いつきの数字を適当に言う。顔は笑顔をキープしているが、内心ひやひやである。
親父さんは煙を吸いながら、斜め上を見る。
「まぁ、さっきの一瞬だけで3億の価値があった訳だから、そんくらい行ってもおかしくはないな……。とは言え100億はなぁ……」
もう一押しである。
「実は他社ともお話しは有るんです。でも我々としては、修一郎君と一緒にやりたいので、是非御社にお願いしたいと考えています」
親父さんは、こちらをジロっとにらむと、
「うーん、まぁうち以外にも、興味持つ所はあるだろうね……。シュウちゃん、お前どうなんだ?」
美奈ちゃんと、何やらごそごそやり取りしていた修一郎は、いきなり呼ばれて背筋を伸ばす。
「僕? あ、えーと、この人達、なんか凄いんだよ。あり得ない事やるんだ。そういう人達とチームを組めるのは凄いチャンスかなって」
まぁ、神様とチーム組めるチャンスなんて、普通無いからな。
親父さんは、また美味そうに大きく煙を吸い、俺をジーッと見つめた。
「神崎君と言ったね? もしかして、親戚に静江さんという人は、いないかね?」
急に母親の名前を出され、俺は動揺した。
「え……? し、静江は私の母ですが……母が何か……?」
「え!? 静江さんの息子さん!? 道理で……面影あるよ。お母様はお元気かね?」
俺は思わず目を瞑り……。大きく息を吐き、言った。
「母は……、母は失踪してしまい、今は音信不通です……」
「えっ!? そ、そうなの? ……、失踪……うーん……」
親父さんは酷く驚くと目を瞑り、大きく煙を吸った。
重い沈黙の時間が流れる……。
電子タバコをしまい、親父さんは懐かしがりながら、ゆっくりと言った。
「静江さんは……うちの会社の初期メンバーだったんだ。明るくて……、素敵な女性だった……」
俺を捨てた母、忘れようと思っていた母の歴史が、まさかこんなところで明らかになろうとは……。生まれる前の母の話を、どう受け取ったらいいのか分からず、俺はただうなずいていた。
おもむろに、親父さんは膝をポンと叩いた。
「分かった、出そう! これも縁だ。ただし、100億円なんて金、すぐに用意なんてできないから、10分割、それで51%。それからおたくのAIで、うちの事業伸ばす事。これでどうかね?」
母の縁のおかげと言うのは抵抗があるが、出してくれるのはありがたい。
ただ、条件は結構厳しい。様子を見ながら金を小出しにして、最後は過半数を取って実質子会社化、ダメそうなら途中で切るつもりだろう……。
とは言え何の実績もない所に、いきなり10億円突っ込んでくれるのだから、これ以上を望むのは贅沢すぎるかもしれない。
「クリス、美奈ちゃん、どうかな?」
Cough
いきなりふられた美奈ちゃんが、咳き込んでいる。
クリスは涼しい声で答える。
「…。社長にお任せします」
「わ、私も誠さんに任せるわ」
「わかりました! それではその条件でお願いします!」
俺は右手を伸ばして、にこやかにいった。
「儲けさせてくれよ! シュウちゃんを頼んだよ!」
親父さんと固く固く握手をした。
ついに『深層後継者計画』は神様と100億円を手にした。ここまでたった1日半、人生は動き始めたら、ジェットコースターの様に動き始める。しっかりと掴まってないと、振り落とされてしまいそうだ。
◇
その後、誠たちが歓談していると、修一郎が余計な事を言った。
美奈が怒って、またおしぼりを投げようとした瞬間……
いきなり時間が止まった――――
ただでさえ暗めのバーの店内が、さらに暗くなり、全ての人はマネキンのように動きを止め、一切の音がやんだ。
おしぼりは美奈の手から、今、まさに放たれようとしてしなり、修一郎は急いで後ろを向いて、髪の毛が宙を舞い、俺は間に入ろうと中腰で手を伸ばす。
その躍動的なシーンは、まるで前衛芸術の蝋人形のように、ピタッと止まっていた。
クリスは、一瞬顔をしかめて言った。
「…。センター、応答願います……、障害発生」
クリスは店を出て、軽く飛び上がると、一気に街灯の上にまで達し、周りを見回す。
銀座の街にも闇が立ちこめており、煌びやかだったネオンサインも、今は鈍い光を放つばかりだった。
クリスは、一通り観察し終わると、まるでスピードスケートの選手のように空中を軽く蹴りながら高速に滑空し、大通りに出た。そして、ピタリと止まっている、走行中のロールスロイス・ファントムの豪奢な車体を見つけると、その横に降り立ち、軽く『カン、カン、カン』とボディを叩いた。
静まり返る銀座の街に、叩く音がこだまする。
大通りを走る車は全て、今はピタリと止まっており、東京の街はまさに凍り付いてしまっている。
クリスはしゃがみ込むと、高速走行中で撓んでいるタイヤをじっくりと観察しながら、ぶつぶつとレポートする。
「…。解像度、異常なし。ノイズ、検出無し。データ欠損、観測されず……」
そして、フワッと飛び上がると、一気に上昇する。
どんどんと小さくなる銀座、そして東京、最後には眼下に広大な関東平野が広がっていく。
「…。東京の街全体が止まっている。空間整合性、問題なし……。システム側の問題ではなさそうだ。また上位レイヤーからの干渉かな? はい……はい、了解。スクリーニング終了後、呼んでください」
そう言って、クリスは地球から忽然と消えた――――
音を失い、闇に沈む東京、それは、先ほどまでの喧騒が嘘のように、凍り付いたサイバースペース。この不気味な都市には今、1000万人の人が微動だにせず止まっている。そして、それに気づく者は誰もいない……
1-10. 死者は辛いよ
時間の流れはいつの間にか戻り、おしぼりは修一郎に命中した――――
俺は美奈ちゃんをなだめ、その場を取り繕う。
修一郎が話題をそらそうとして、冷や汗を浮かべながら言った、
「か、乾杯しようよ、乾杯! 折角なんで、昨日のワインがいいな、ある?」
美奈ちゃんは憮然とした表情ではあったが、ワインの乾杯には惹かれている様子だった。
確かにあのワインは乾杯に合う。
「クリス、どうかな?」
「…。え?」
考え事をしていたクリスはそう言って、ちょっと疲れた表情で俺を見る。
「ワインだよワイン、昨日のワイン出せる?」
俺は酔った勢いで、図々しく催促する。
「…。ワイン? あ、そうだね……、それでは水をくれるかな?」
「マスター! ワイングラス5つと、ガス抜きの水を1本ください。それとワイン1本持ち込みいいですか?」
グラスを拭いていたバーテンダーが、こちらを向いて軽く会釈する。
「かしこまりました」
ワイングラスが並べられ、俺はミネラルウォーターの瓶をクリスに見せる。
クリスは頷いて、ニッコリと笑った。
俺が試しに注いでみると……それはルビー色のワインになっていた。
親父さんは驚いて
「あれ? それ、今頼んだ水……だよね?」
「細かい事は良いじゃないですか、乾杯しましょう!」
俺は次々とグラスに注ぎ、乾杯の音頭を取る。
「両社の繁栄を祈念してカンパーイ!」
「カンパーイ!」「カンパーイ!」「カンパーイ!」「…。乾杯」
親父さんは、キツネにつままれたような顔で、一口飲んだ。
しばらく口に含むと、大きく目を見開き、
「お、おぉぉぉ……」
感嘆の声を漏らした。
「な、なんだこれは……。鳥肌が立ったよ」
「イスラエルのワインです。お口に合いましたか?」
「最高じゃないか。いや、こんなの初めてだよ! マスター! マスターも一口飲んでみて!」
バーテンダーが、グラスを拭く手を休め、ワイングラスを手にやってくる。
「マスター、ちょっとこいつは凄いよ!」
「それではお言葉に甘えて……」
そう言って一口含んだ――――
バーテンダーは大きく目を見開いた、と思ったら上を向いて目を瞑り、直立不動で動かなくなった。
あれ? 何かまずかったかな、と思っていたら、マスターの頬を涙が一筋伝った。
親父さんは、
「マスター、座って座って」
そう言って、涙をこぼすバーテンダーを、隣に座らせた。
「分かるよ、弘子さんの事だろ、彼女、ワインが好きだったからなぁ……」
バーテンダーは下を向いて、嗚咽しながら泣き出してしまった。
親父さんは、バーテンダーの背中をさすりながら言った。
「いや、マスターの奥さんがね、先日急に亡くなってしまったんだ。一緒にこの店を切り盛りしていた、素敵な人だったんだが……」
バーテンダーは一通り泣くと、ハンカチで涙をぬぐった。
「お見苦しい所をお見せしてしまって、すみません。弘子はワインが好きで、二人で凄いワインを探す遊びをやっていたんです。こんな凄いワイン、弘子に飲ませたら……凄い……喜んだ……だろうな……」
肩を揺らすバーテンダー……。俺たちはかける言葉も思いつかず、息が詰まる時間が流れた。
すると、ハンカチで顔を覆うバーテンダーに、クリスが優しい声で語りかける。
「…。マスター、弘子さんの魂から、あなたに伝えたい事があるそうです。聞いてみますか?」
いきなりの提案に、バーテンダーが仰天して食いついてくる。
「え? ど、どういう事ですか? そんな事できるんですか?」
クリスはにっこりとほほ笑みながら頷いて、言った。
「…。美奈ちゃん、ちょっと来て、弘子さんの言葉を伝えてあげてくれるかな?」
美奈ちゃんはいきなり呼ばれて、ビクッとしていたが、
「え? 私でできる事なら……」
クリスは、美奈ちゃんをマスターの前に座らせて、手を握った。
美奈ちゃんは目を瞑ると、徐々にうなだれてきて……
そして急に背筋をピンと張った。
美奈ちゃんは大きく目を見開くと、バーテンダーをじーっと見つめ、口を開いた。
「たっちゃん、久しぶり……。私よ…… わかる?」
バーテンダーは驚いて、しばらく動かなくなった。
話しているのは美奈ちゃんだが、明らかに語調が違う。イタコみたいに弘子さんが憑依しているようだ。
「そんな驚かないで……。私よ私……ごめんね、たっちゃん残して突然先に逝っちゃって」
「弘ちゃん……なのか? 本当に?」
彼女はちょっと思案するそぶりをして、いたずらっ子の微笑みで言った。
「二人だけの秘密、言おうか? 3年前……あなたが浮気した時、どういう条件で仲直りしたか……とか……」
「いやいや、そういうの止めて! 信じた、信じたから!」
バーテンダーの額に冷や汗が浮かぶ。
「私いきなり死んじゃったでしょ? だから大切な事、伝えられなかった……。私ね……本当に幸せだったの。もちろん、仕事はきついしあんまり儲からないし、不満が無かったと言えば、嘘になっちゃうけど……、それでも、あなたと過ごせた10年間、本当に……幸せだったわ……」
心のこもった言葉に、聞いている俺達も、つい涙ぐんでしまう。
「弘ちゃん……」
「だから、もう……私の事で思い悩まなくていいのよ。もっと伸び伸びと、たっちゃんらしく沢山笑って暮らして」
「でも、弘ちゃんがいなくなって、全てが色褪せてしまったんだ……」
彼女は少し首を傾げた。ピアスが、さっきまでとは違う輝きで光る――――
「大丈夫、徐々に慣れるわ。宮原さんの所のさやかちゃん、いるでしょ? あの娘、あなたの事気に入ってるみたいだわ。あの娘なら……あなたの事託してもいいかなぁ……」
「そんな事言わないでよ! 弘ちゃん」
「だって仕方ないじゃない! 私はもう、この世に居ないんだから……」
「弘ちゃん……」
弘子さんとしても、断腸の思いではあるだろう。死者は辛いな。
どこからともなく、サンダルウッドやパチュリのような、東洋っぽいフローラルな香りが、微かに漂ってくる。
その香りに触発されたように、バーテンダーは一つ大きく息を吸った。
そして、覚悟を決めた様子で、クリスに言った。
「私を、弘子の所へ、連れて行ってくれませんか?」
俺達に戦慄が走る。これは自殺したいって事……だろう。大変な事になった……
クリスは、じっとバーテンダーを見つめ、そして、ゆっくりと諭すように言った。
「…。それはできません」
バーテンダーは食いついてくる。
「俺も死ねば、弘子の所へ行けるんですよね?」
クリスは一呼吸おいて、バーテンダーをしっかりと見つめて言った。
「…。今、死んでも会えません」
「なんでだよ! 弘子を呼べるなら、俺も弘子の所へ連れて行ってくれよぉ!」
バーテンダーは涙を流しながら、訴える。
「…。弘子さんが、それを望まれていないので、無理なのです」
バーテンダーは彼女を睨んで言う。
「なんだよ! 弘ちゃん、おれは邪魔なのか!?」
静かに聞いていた彼女は、目に涙を貯めながら、
「たっちゃん……。私のために死ぬとか、馬鹿な事言わないで」
「なんでだよぉ! おれはこんな暮らし、もう嫌なんだよ!」
バーテンダーは突っ伏してしまった――――
その様子を愛おしそうに眺めた後、彼女はなだめるように言った。
「ふふふ、困った人ね……。私はね、生き生きと生きる、たっちゃんが好きなの……。自殺するようなたっちゃんは……嫌いだわ」
「もう嫌なんだよぉぉ!」
バーテンダーの魂の叫びが、部屋にこだまする。
彼女は、大きく息を整えると言った。
「……。わかったわ……。しょうがない人ね……。たっちゃんが寿命を迎える時、私が迎えてあげる。だから……、それまでは精いっぱい生きるのよ。心に正直に、のびのびと生きて。ずっと……見てるから」
「弘ちゃん……」
そして、バーテンダーは、涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げて言った。
「分かったよ…… 絶対待っててくれよ! 俺、それまで精いっぱい生きるから……」
そう言って、また嗚咽した。
「そろそろ行かないと……。たっちゃんの事、見守ってるね……」
そう言って、美奈ちゃんはがっくりとうなだれた。
「弘ちゃん!!!」
皆の沈黙の中、緩やかなジャズの旋律が、静かに流れている。
クリスは、美奈ちゃんをゆっくりと引き起こすと、バーテンダーに優しく言った。
「…。弘子さんは素敵な方ですね」
「……そう、私には……もったいない女性でした……」
クリスはゆっくりとほほ笑んで、うなずいた。
「弘子さんの冥福を、祈りましょう」
そう言ってクリスは、手を組んで祈り始めた。
俺も慌てて手を合わせた。
俺もいつかは死ぬ。こうやって惜しまれるような、生き方をしたいものだが……そう生きられるだろうか……。
弘子さんが元気だった頃のお店の様子を想像しながら、冥福を祈った。
目を開けると、バーテンダーはまだ手をぎゅっと組んだまま、祈り続けていた。
修一郎と親父さんは、そんなバーテンダーを、心配そうに見つめている。
ビジネスの話をしていたのに、なぜかイタコ芸になってしまった。
Cough!
俺は軽く咳払いをして、
「そろそろ、我々は引き上げます。田中社長、来週、御社にお伺いして契約を詰めたいので、可能な日程を幾つか、修一郎君に伝えてもらえますか?」
「わ、わかった」
「では、失礼します……」
俺たちはバーを後にした。
AIを開発しようとしていたら、死者を呼び出されていた。死者の魂とAIは全く対極にある存在だが……今の俺には、全く無関係にも思えなくなってきた。何がどう繋がっているのか、今はまだ言語化はできないのだが……。
◇
八丁堀の自宅に戻ると、電気が点いていた。
あれ……消し忘れ……な訳ないよな……。
訝しく思っていると
奥の部屋の方から甲高い声が聞こえた。
「誠君、こんばんは。ちょっと事情があって、こんな形で失礼するよ」
侵入者がいる!?
俺は、玄関に立てかけておいたビニール傘をそっと取り、両手に握りしめると、侵入者に言った。
「人の家に勝手に侵入して、どういう事ですか? 警察呼びますよ」
「まぁそんな怒らんでくれ、いい話じゃよ。誠君は、クリスの奇跡を自分でもやってみたいと思わんかね?」
いきなり、とんでもない話を持ち掛けられた。
「ちょっと待ってください。私も奇跡を……使えるようになるんですか?」
「やってみたいじゃろ?」
「それは……そうですが……」
侵入者が提案してくるオファーに、まともな物があるとは思えないが、奇跡は使ってみたい……
「ワシが誠君に奇跡の力を授けよう。ただ……クリスが邪魔するじゃろうから、クリスに睡眠薬を、飲ませてやってくれんかの?」
なるほど、クリスに敵対する勢力という事なのか。面倒な事になってきた。
俺は毅然とした態度で
「クリスを裏切ることはできませんので、お引き取りください」と、返した。
「ま、そうじゃろうな」
侵入者がそう言った瞬間、雷が落ちたかの様に目の前が激しくフラッシュした。
クラクラとした俺は、催眠術をかけられたように、急速に思考力を失っていった――――
侵入者は、ゆっくりと部屋から出てくると、俺の手のひらに何かの粒を載せて言った。
「誠君は、クリスの飲み物を持った時、この粒を入れる」
俺はなぜか復唱する
「クリスの飲み物を持った時、この粒を入れる」
するとその粒は、俺の手の中にすぅっと溶け込んで消えていった。
「頼んだぞ!」
「頼まれました」
「一口でも飲ませられれば、クリスは即死じゃ。くふふ……、積年の恨み、思い知ってもらおう」
「クリスは即死だ」
「よし、10数えろ。数え終わったらワシの事は一切忘れる。いいな?」
「10数えたら忘れます。1……2……3……」
そして、侵入者は窓を開け、
カッカッカッカ!
と、笑いながらベランダからダイブし、隅田川の夜景の中に消えていった……。
光あれば影あり。
俺はこうして『神殺しの呪い』を受けてしまった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!