ヴィーナシアンの花嫁

シンギュラリティが紡ぐ悠久の神話
月城 友麻 (deep child)
月城 友麻 (deep child)

4章

人類を継ぐ者

公開日時: 2020年9月2日(水) 18:22
更新日時: 2020年9月5日(土) 08:40
文字数:65,324




4-1.体重10gの天使


ネズミの実験は大成功、という事で、いよいよ人体との接続だ。


しかし、無脳症とは言え、人体は神聖なもの。法的、道徳的になるべく問題ないように、クリスと相談を重ね、妊娠12週未満の中絶した胎児を貰う事にした。


この週齢の胎児は、母体から出したらすぐ死んでしまうし、法律的にも医療廃棄物だ。

そこをクリスの神の技で何とか延命し、BMI接続手術に耐えられるまで大きく育てる計画だ。


再度実験室に簡易無菌室を展開し、人工胎盤を用意し、受け入れ準備を進める。


ただ、例え無脳症で中絶胎児であっても、人体実験は禁忌だ。バレたら逮捕、収監は避けられないだろう。もはや後戻りはできない。人類の後継者創造のために、我々は犯罪者の道を行くのだ。







受け入れの日が来た。

クリスから電話があり、今晩赤ちゃんを受け取るそうだ。

血液型はRh+のAB型、俺と同じ型なので、育成には俺の血を使う。


使い捨ての手術衣に着替え、無菌室に入って全体に消毒薬を散布し、必要な機材をセットした。

そして、人工羊水を、透明なバッグに満たして人工子宮とし、人工胎盤も消毒して準備完了。

後は赤ちゃんの到着を待つばかり。


しばらく待っていると、クリスが淡く光るバッグを持って、急ぎ足でオフィスに戻ってきた。

メンバーが心配そうに見守る中、まず、クリスは俺の血を抜いて人工胎盤に入れる。


何の躊躇もなく、サクッと俺の静脈に注射針を差し込むクリス。

医療技術者としても相当に優秀じゃないか、さすが神様。

俺の血を1リットル抜いて、人工胎盤を満たす。ポンプのスイッチを入れると、俺の血が人工胎盤の中をぐるぐると回っていくのが分かる。


俺の身体の血は、全部で5リットルくらい。1リットル抜くと、さすがにクラクラする。

しかし、これから週に何回も、こうやって人工胎盤を、満たし続けないといけない。

実に気が重いが、AB型は俺しかいないので仕方ない。


続いて、赤ちゃんの準備だ。

クリスのバッグから、慎重に赤ちゃんを取り出す。

包みをそーっと開けると、身長6cm位の、赤い小さな生き物が出てきた。


「え? これが赤ちゃん!?」

美奈ちゃんは思わず声を上げる。


確かに見た目は、小さな赤い両生類の様な、気味悪い生き物である。体重も10g程度しかない。とても赤ちゃんというイメージではない。

しかし、これはれっきとした人間の赤ちゃんなのだ。

ついさっきまで、お母さんのおなかの中に、しっかりといたのだ。


クリスは、赤ちゃんのお腹から伸びている、細い へその緒に、慎重に針を刺す。

そして、血管にうまく刺さったら、針を固定し、人工胎盤と繋げる。

赤ちゃんの血液が、人工胎盤の中を通るのを確認した後、赤ちゃんに各種センサーを取り付け、その後人工羊水の中にそっと入れる。


人工羊水の温度、血液の酸素濃度や血糖値、心拍、血圧などの数字をみる。


「うーん、血圧がちょっと弱いのかな……」

赤ちゃんの心拍は異常に速く、ちゃんと血圧が測れている自信がないが、出てる数値は予想よりも低い。


しかし、何があっても我々に打てる手などない。

そもそも、この週齢で生き延びさせる医療技術を、人類はもっていないのだから。

うちにはクリスの癒し、というチートがあるから可能性があるが、普通はお手上げなのだ。


人工羊水のバッグの封を閉じて、とりあえず受け入れは完了。

クリスはそばの椅子に座り、手をかざし、癒しの技を発動する。


赤ちゃんは淡い光に包まれて、生命安全度バイタルの数値も若干改善した。


今、一番怖いのは感染症。赤ちゃんに薬は使えないので、細菌が入ったら なすすべなく一発で赤ちゃんは死んでしまう。薬使ったら、ちゃんと育たないという制約はとてもキツい。


クリスには申し訳ないが、しばらく安定するまでは、つきっきりで見てもらわないとならない。まさに神頼みである。


クリス、ゴメンね……。



様子を見ていた美奈ちゃんが言う、

「これ、本当に、人類の後継者に育つのかしら?」

「育てるしかないんだよ、もう後戻りできない……」


俺は自分に言い聞かせるように、答える。


「バレたら牢屋行きよね?」

「バレない様にお願いします、姫」


「でもまぁ、私、総務経理だから、牢屋行きは誠さんだけね!」

そう言ってニヤッと笑う姫。


「え~!? 俺達仲間じゃないか!」

「監獄仲間にはなりたくないわ」

そう言って、シッシッと俺を追い払う仕草をする。


「美奈ちゃん……そんなぁ……」

俺が情けない声を出すと、美奈ちゃんは、


「しょうがないわねぇ……じゃ、イザと言う時は、一緒にこのオフィスに、立てこもってあげるわ!」 

また、訳分からないことを言い始めた。


「え!? 警察と徹底抗戦すんの!?」

俺が驚くと、


「私が人質になってあげるから、包丁持って『この女の命が惜しければ、ヘリを用意しろ!』って言いなさいよ」


「何だよ、さらに罪を重ねろって言うのか?」

「毒を食らわば皿までよ!」

なんだか楽しそうなんだが……


「でも、立てこもっても解決しないよね?」

「最後は、突入した特殊急襲部隊に撃たれるの」

「はぁ!? 殺されんの? 俺!?」

あまりの展開に唖然としてしまう。


「で、私の膝枕の上で、誠さんは最期に『愛してる……』って言うのよ」

殺された挙句、告白させられてる。もはやいい玩具おもちゃである。あまりの事に、返す言葉が浮かばない。


「私は……『ごめんなさい、でも、死なないで!』って涙をポロポロ流すんだわ!」

「フられて終わりかよ!」


「で、三日後に遺体安置室で、クリスに復活させてもらえば、完璧よ!」

そう言って嬉しそうに、人差し指を振る美奈ちゃん。


ハッハッハッ!


オチに使われたクリスにはウケたようで、笑ってる。

俺は全然笑えないんだけど……


「…。でも、生き返らせないよ」

クリスはなんだか嬉しそうに言う。


ですよね~……


絶対バレちゃいかんって事だな。美奈ちゃんに殺されるわ。


あーなんかクラクラしてきた……血が足りないのかも……

クリス、俺の造血細胞にもヒールをお願い……


















4-2.最高の秘密結社


「お疲れ様でーす」

翌日の午後、由香ちゃんが出勤してきた。

ボルドーのトップスに、花柄のスカートに、フリルのパーカーを羽織っている。


由香ちゃんは、週に2回くらい出勤して、主に経理業務をやっているのだ。


パソコンでクラウド会計ソフトに繋げて、領収書を打ち込んだり、給与計算ソフトで給料や社会保険料を計算したり、銀行に繋いで振り込み依頼をかけたり、結構忙しい。学生でここまでできるなら、インターンは合格だ。


俺は心を込めて珈琲を入れて、由香ちゃんに持っていく。


「由香ちゃん、はい、珈琲」

「あ、ありがとうございます」


由香ちゃんはそう言って、書類の散らかった机を片付けて、珈琲を受け取る。


「うちの仕事には慣れたかい?」

「はい、何とか……」


「由香ちゃん頑張ってくれてるから、そろそろ太陽興産への推薦をしようかな、と思うけどどうかな?」


すると、由香ちゃんはモジモジして言う、

「あ……、その事ですが……」


「ん? 嫌なの?」

「そうじゃなくて……、このまま、こちらでお世話になる事は出来ますか?」

「え? うちで働きたいって事?」

「マーカスさん、クリスさんとか凄い人が居る会社、実は最高なんじゃないか、って思えてきてるんです」

キラキラ瞳を輝かせて言う。


確かに、世界一のエンジニアと、神様がいる会社はうちしかない。でも、新卒を受け入れるような会社じゃない。そもそも会社は隠れ蓑だからな。


「うちは吹けば飛ぶような会社だよ? 3年後無くなってるかもしれないよ」

「それでもこのまま居たいなぁ……って思うんです」

由香ちゃんは、そう言って両手を組んで、上目遣いでこちらを見つめる。


可愛い女の子に、真剣に頼まれると弱い。


「う~ん、なるほど……、ちょっとクリスに聞いてみるよ」


俺はメゾネットの階段を上り、赤ちゃんに付き添ってるクリスの所へ行った。


クリスは穏やかな顔をしながら、赤ちゃんに手をかざしている。

もう3日目だから、相当に疲れているとは思うが、全然疲れているように見えないのはさすがだ。


「クリス、申し訳ないね。赤ちゃんの具合はどう?」

「…。かなり安定してきたから、そろそろ付き添わなくても大丈夫になるだろう」

「それは良かった、ありがとう」


赤ちゃんをそっと覗き込むと、小さなピンク色の塊が羊水の中で浮かんでいる。

まるでウーパールーパーだが、これが本当に人間になるのだろうか?


頭では理解していても実感がわかない。


「あ、そうだ、由香ちゃんだけど、うちに就職したいんだって。どうする?」

「…。予定通りですよ」


「え? 最初からうちに就職させるために呼んだの!?」

「…。秘密です」

そう言ってクリスは優しく微笑んだ。


うーん、クリスは何手先まで読んでいるんだろうか?

そもそも、俺の彼女候補として呼んだはずだったのに、なぜ社員にするのだろうか?


釈然としなかったが……赤ちゃんの面倒で大変なクリスに、あまり絡むのもどうか、と思うので部屋を後にする。


由香ちゃんは、両手を組んだままこっちを祈るように見ている。


俺はにこやかに笑って、


「クリスもいいってさ、では来年4月からは、うちの社員という事でよろしく!」

「え!? そんなに簡単に決まっちゃうんですか!?」

「うちはクリスがOKなら、何でもOKなんだよ」

「ふぅん。でも良かった! 就職先が決まった!」


晴れやかな笑顔の由香ちゃんだが……カミングアウトタイムだ。


「ただ、うちの社員になる以上、秘密も話さないとならないな」

「え? 秘密?」

キョトンとする由香ちゃん。


「……。うちはね、本当は会社じゃないんだ」

「はぁ?」

由香ちゃんが口を開けて、固まってしまった。


「形式上、法人にした方がうまく回るので、会社の形態を取っているだけで、本当は会社じゃないんだ」

「え? じゃ、何なんですか?」


「人類の問題を解決してくれる『人類の後継者』を作ろうという、深層後継者計画の秘密組織なんだ」

「人類の後継者?」

「人類は残念ながら、このままだと近い将来滅びるだろう、と我々は考えている。少子化や温暖化に歯止めをかけられない人類は、確実にいつかは滅びちゃうんだ」

「えっ? そんなに深刻なんですか?」


ただの就活をしていたら、人類の滅亡を予言されてしまう由香ちゃん。

ちょっとかわいそうな気もするが、避けては通れないイニシエーションだ。


「このままだと、人類という種はもう100年も続かない。そしてそれは、人類は自力では解決できそうにない」

「そんな事…… 考えた事もなかった」


「で、これを解決してくれる存在が欲しいよね?」

「そう……ですね」


「じゃぁ作ろう!」

「えっ!?」

由香ちゃんは固まってしまった。


「俺達には、世界一のAIエンジニアチームも神様も金もある。俺達にできなければ誰にもできないんだよ」

「そんなに……」


「でも、そんなこと公言したら狂人扱いされるし、ちょっとヤバい物扱ってるから、捕まってしまうかも知れない。だから俺達は必死にAIベンチャーの体裁を取り繕って、秘かにうまくやってるのさ」

「ヤバい物……ですか?」


百聞は一見に如かずである。見てもらう事にする。


「おいで」

そう言って、メゾネットの階段を上がって、赤ちゃん部屋に連れて行く。


「クリス、由香ちゃん連れて来たよ。見せてあげてくれるかな?」


クリスはにっこりとほほ笑み、赤ちゃんを指さした。

恐る恐る近づいてくる由香ちゃんを、俺は赤ちゃんのそばまで誘導して言った。


「これがヤバい物、無脳症の人間の赤ちゃんだよ」

「赤ちゃん!?」


「無脳症で堕胎されて、医療廃棄物として処理される途中の、赤ちゃんを貰って来たのさ」

「え? 無脳症?」


「この赤ちゃんは病気で脳が無いんだ。だからまともに育たないし意識もない。だから普通殺されちゃうんだ。それをAIの学習のために使わせてもらう」

「人体実験!……ですか?」

由香ちゃんは丸い目を見開き、驚いて言う。


「まぁ、そういう事になるな。どうだい、それでもうちで働くかい?」

「えっ? それは…… この人体実験は必要なんですか?」

「他に手は思い浮かばない」


もちろん、人間に近いロボットを作れば、できない事もないかもしれないが、それでも人間が感じる世界とは、大きくずれが生じてしまう。人類をちゃんと理解するためには、どうしても人間の肉体を使わざるを得ない。


「なら……仕方ないですね…… もちろん私も仲間に入れてください。その深層後継者計画に!」

「いいのかい? もう後戻りできないよ?」

「人類の後継者を作る極秘プロジェクト、最高じゃないですか!」

両手にこぶしを握って興奮気味に言う。


「そう?」

「そうですよ! 私、これを……これを探してたんです!!!」


「これ? というのは?」

「何の迷いもなく、人生をかけられる仕事ですよ!」

「そんなに?」

「そうですよ! 深層後継者計画は人類に必要な仕事です! 私も仲間にしてください!」

すごいノリノリである。


「あー、そう? じゃ、よろしくね」

「はい!!!」

由香ちゃんは満面の笑みで言った。


「さっそくですが、私でもできる事ないですか?」

「できる事……? 由香ちゃんは血液型何型?」

「え? AB型……ですけど……」


俺はガッツポーズをした。


「じゃ、とりあえず血液を下さい」

「え……? もしかして、赤ちゃんに使うんですか?」

「そうそう、定期的に人工胎盤の血液を、変えないといけないんだよ。今は俺一人なので大変なんだ。頼むよ」

「そのくらい全然大丈夫ですよ!」

由香ちゃんはニッコリと笑う。とてもいい娘である。


やった、これで少し楽になる。一応、薬とか服用していないか確認として……


「由香ちゃんは、病気持ちだったりしないよね?」

「もちろん健康……あ、まぁこれはいいのかな?」


「え? 何か病気あるの?」

「いや……そう言う訳では……ないんですが……」

モジモジしながら、はっきりしない由香ちゃん。


クリスが由香ちゃんの方をジッと見て、頷いて手をかざした。


由香ちゃんの身体が淡く光り、少し浮かぶ。


「えっ!?」

そう言いながら、自分の身体を見回す由香ちゃん。


そのうち、気持ちよさそうに恍惚の表情を浮かべた。

何か、治療されているようだ。


しばらくして光が消え、ゆっくり着地をすると


「あっ! マズいです!」

と言って、腰を引いた姿勢で固まった。


俺はビックリして、由香ちゃんの身体を支えて、

「大丈夫!?」と、聞くと


「ちょっと、放してください!」

「いや、具合悪いなら無理しちゃダメだよ」

そう言って、由香ちゃんの身体をしっかり支えた。


「ダメダメ! 放して! もぅ、誠さんのバカ!!」

そう言って俺の手を振り切ると、走って部屋を出て行ってしまった。


「バカ……?」

唖然とする俺。


「…。今のは誠が悪いよ」

そう言って、クリスがクスクス笑っている。


「え? どういう事?」

「…。彼女はトイレに行ったんだよ」

「え……?」


トイレに行く病気?


「あ、便秘だったのか……」


でも、それって言ってくれなければ、分かんないよなぁ。

手に残る、由香ちゃんの柔らかな手触りを思い出しつつ……複雑な表情をする俺を見て、クリスは笑いだしてしまった。


「…。誠はこないだから女難続きだな」

「何とかならないかなぁ?」


「…。まだまだ、女難の相が出てるぞ」

そう言ってニヤッと笑うクリス。


「マジすか!?」

賑やかな未来が俺を待ってるらしい。冴えないエンジニアの俺が女難の相だなんて、全く似合わないが、神様の予言は当たってしまうだろう。今から憂鬱である。














4-3.未来からの神託


二日ほどして、赤ちゃんも安定したので、由香ちゃんの歓迎会を開く事にした。


でも、俺も由香ちゃんも血液を提供する関係上、お酒は飲めない。

ちょっと残念。


せめて食事は美味しい物にしたいので、ふぐ料理屋を選んだ。


みんな揃って乾杯である。

「Hey Guys! Yuka-chan will officially join us! (由香ちゃんが入社する事になりました!)」

「カンパーイ!」「Cheers!」「カンパーイ!」「Cheers!」「Cheers!」「Cheers!」


俺はジンジャーエールで、由香ちゃんのグラスに合わせる。


「これからよろしくね、期待してるよ!」

「お役に立てるかドキドキなんです……。でも、頑張ります!」

いい笑顔だ。


美奈ちゃんが、ビールのジョッキをぶつけながら言う。

「せんぱーい、もう逃げられませんよ!」

「大丈夫! もう、決めたの!」

由香ちゃんは力強く言い切る。


「てっさでございます」

店員がふぐの刺身を持ってくる。

大きな皿に、薄い刺身が綺麗に並べられて、まるで大きな花の様だ。


「Oh! サシミ!」

マーカスが感激して叫び声をあげる。


「Sashimi!」「Sashimi!」「Sashimi!」


お前らうるさいよ


「こんな立派なてっさ、初めてですぅ」

由香ちゃんがウットリとしている。


「いただき!」

美奈ちゃんは一気に5、6枚取っていく


プリップリの ふぐをポン酢につけて一気食いである


「う~~~、うま~~~!!!」

感動で綺麗な顔がクシャクシャである。


「美奈ちゃんズル~い!」


「そうだぞ! 一度に取っていいのは3枚まで!」


そう言ってる間に、マーカス達が10枚くらいずつ持っていく


「あ~、おまえら!!!」


ダメだ、制止するより取った方がいい。


「由香ちゃんもどんどん取って!」

「はい!」


クリスはそんな様子を、楽しそうに眺めている。


「クリスも早く取って! 無くなっちゃうよ!」

「…。そうだな、少しいただくか……」


大皿一杯のてっさは、一瞬でなくなってしまった。


何なんだお前らは!


「うふふ、楽しい会社ですねぇ」

由香ちゃんは楽しそうである。


美奈ちゃんが声をかける。

「折角だから、誰か呼んであげようか?」

「え? 呼ぶって?」


「もう亡くなっちゃった人で、話したい人居ない?」

「え? 死んだ人を呼べるの?」

「そうそう、呼べるのよ~」


呼ぶのは君じゃない、クリスじゃないか。


「うーん、呼べるなら……織田信長かな?」

「え――――!? なんで?」


「なんで、って、興味ないですかぁ?」

「無いわよ! 女子大生が興味ある様な人じゃないわ!」

「でも、話したいの!」


由香ちゃんは決意が固そうだ。『歴女』というんだっけ? 歴史オタクの女子。


「じゃぁ……クリス、織田信長呼べる?」


美奈ちゃんは恐る恐るクリスに聞く。

いや、クリスでもそんな昔の人、無理なんじゃないかなぁ?


「…。昔の人は……ちょっと大変ですね。でもお祝いですし、頑張って呼んでみましょう」


クリスは美奈ちゃんの手を取って、目を瞑る。

美奈ちゃんがトランス状態に入った――――


しばらくして、美奈ちゃんが目を開いた。


美奈ちゃんはゆっくりと部屋の様子を見ると


「なんじゃ、お前らは!」

太い声を上げて、いきなり怒り出した。


「織田信長……さんですか?」

由香ちゃんが恐る恐る聞く。


「ワシの眠りを邪魔したのはおぬしか!」

なんだかすごい怒ってる。


「あ、初めまして、私、宮田由香と申します。ぜひ、お話しをしたくてですね……」

「お話しじゃと? 小娘の遊びで気軽に呼ぶでないわ!!!」

「あ、いや、遊びというわけでは……」

「不愉快じゃ! 帰る!」

そう言って、美奈ちゃんはがっくりとうなだれた。


相手にも話したい意向が無いと、上手く会話にならないようだ。当たり前だけれども、今まで気が付かなかったな。


「あぁ……」

由香ちゃんはがっくりしている。

憧れの人が目の前に来たのに、怒られてしまったのだから仕方ない。


「…。相手が悪かったようですね。他の人にしましょうか?」


由香ちゃんは、ショックでうなだれたままだ。


「ふぐのから揚げでございます」

店員が次の皿を持ってきた。


ふぐはから揚げも美味い。

皆、無言で貪っている。


由香ちゃんも無言でゆっくり、から揚げを味わう。


俺も、骨付きのから揚げの肉を剥がしながら考えたが、呼び出す人は結構難しい。ばぁちゃんを呼び出そうかと思った事もあるが、今更何を話したらいいのか分からない。


何か思いついた由香ちゃんが、顔を上げてクリスに聞く。

「死んだ人じゃなくて、未来の自分と話したり出来ますか?」


俺は思わず横から言った。

「何言ってんの! 無理に決まって……」

「…。できますよ」


クリスが事も無げに言うので俺はビックリ!


「え――――!?」

改めて神様のすさまじい能力に、唖然とさせられた。


「そしたら、死ぬ直前の私を出してください!」

由香ちゃんが祈る仕草で、目を輝かせて言う。


死ぬ前の自分と何を話したいのか想像を絶するが、彼女なりに何か考えがあっての事だろう。


美奈ちゃんは、

「先輩、すごいチャレンジャーですね! 私だったら無理だわ~」と、笑って言う。


離れたところで話を聞いていたマーカスも、目を輝かせながらやってきた。

「Oh! クリス スゴイネ! キョウミシンシン!!」


美奈ちゃんは

「じゃ、先輩行きますよ~」と、いいながらクリスと手を繋ぐ。


やがてうなだれて……そして目を開いた――――


「……。うふふ……。この時を……待ってたわ」


心なしか、しわがれた声で美奈ちゃんは口を開いた。

そして周りを見渡して、


「あはは、みんな揃ってるわ、そう、そうだったわ~」

と、とても上機嫌である。


由香ちゃんが聞く、

「あなたは私ですか?」


美奈ちゃんは、由香ちゃんをじーっと見て、


「そうよ、あなたの時からず――――っと長い、なが――――い戦いを経た後のわ・た・し」

人差し指を揺らしながら言う。


「私の人生はどうでしたか?」

「ふふっ、最高だったわ~。本当に……。もちろん、あの時はこうしとけば良かったとか、いっぱいあるわよ、でも、今はそういう失敗ひっくるめて、満足してるのよ」

そう言って満足げに目を細めた。


「良かった! 何かアドバイスありますか?」

「アドバイス? うーん、これ、言っちゃっていいのかな……」

「え? 何でも言ってくださいよ!」

「すごくすごく言いたいんだけど……。私の時も教えてくれなかったからな。まぁ、お楽しみって事で」

未来の由香ちゃんは、そう言ってニヤッと笑った。


「え――――! ヒントだけ、ヒントだけお願いします!」


未来の由香ちゃんは少し考え込むと……


「このメンバーの中にヤバい人がいるわ、本当にヤバいの。でも……おっといけない」

「え? クリスの事じゃなくて?」

「ふふふ、ひ・み・つ!」

そう言って人差し指を口の前で振った。


「え~~っ!」


「そうそう、追い込まれたら、クリスの言葉を一字一句しっかりと考えるといいわ」

「そんな事があるの!?」

「最高の瞬間は、最悪の危機の顔をして現れるのよ」

そう言って未来の由香ちゃんは、本当に嬉しそうに笑った。


「えっ!? えっ!?」

「ふふっ、そろそろ行かなきゃ」

「え、まって!」

「Good luck!」


そう言うと、美奈ちゃんはガックリとうなだれた――――


もう行ってしまったようだ。

静けさが広がる。


由香ちゃんは、言われた言葉の意味を、一生懸命反芻しているみたいだ。


「ヤバい人って誰だろう?」

俺はそう言ってクリスを見た。


「…。おかしいな……。そんな事言うはずないんだが……」

クリスも不思議がっている。


「はい、てっちりです。鍋、ここ置かしてもらいますね~」

店員がコンロに大きな鍋を置いて、火をつけた。


「未来の人から話聞いちゃうと、因果律が狂うから駄目なんじゃないかな?」

俺はジンジャーエールを飲みながら、クリスに聞いた。


「…。確かにちょっとやり過ぎだった。今後は止めようと思う」

そう言ってクリスは、ジョッキのビールをぐっと空けた。

一瞬、俺も未来の自分の話を聞いてみたくなったが、因果律をゆがめて悪影響が出るリスクを考えると、止めておいた方が賢明のようだ。


てっちりをつつきながら、未来の由香ちゃんの言った事を思い出す。


『ヤバい人』って誰だ……?


日本側はただの一般人だから、エンジニアチームの誰かか?


でも、『ヤバい』というだけで、悪人という訳でもないのだろう。裏切者が居たとしたら『ヤバい』とは言わないと思うが……。いや、言う可能性は捨てきれない。

とは言え、由香ちゃんの人生は最高だったわけだから、深層後継者計画も、ポジティブに推移したと考える方が自然……の様にも思うが……、後悔や失敗があるって言ってたから、そうとも言い切れない。


結局、何も分からないじゃないか!


未来の由香ちゃんは、モヤモヤだけを残して去って行った。














4-4.黄泉がえりの第三岩屋


翌日、由香ちゃんがやってきて、赤ちゃんの部屋で採血を行った。

クリスが丁寧に、由香ちゃんの左腕に注射針を入れ、血を取り出す。


由香ちゃんも1リットル。身体小さい分、俺よりも負担は大きそうだ。

血を抜きながら、クリスは癒しの技で由香ちゃんの造血をフォローする。


癒しの淡い光の中で、由香ちゃんは言った。

「クリスさん、昨日の未来の私の話、一体どういう事なんでしょうね?」

「…。私もなぜ、彼女があんなことを言い出したのか、分からないのです」


「未来の私は、何かすごい伝えたがってましたよね」

「…。そうでしたね。でも本当に伝えてしまったら因果律が狂ってしまうので、伝える内容がなくなって、そもそも伝えなくなってしまうので、伝える事自体ができないのかと」


「なるほど……つまり、具体的な事は、結局何一つ言えないんですね」

「…。そうですね。それに未来の可能性は無限大です。昨日出てきた彼女もその無限の可能性の一つに過ぎません。だからヤバい人が居るというのも、当たってるかどうか怪しいとは思っています」


「でも、当たっている可能性も、そこそこありますよね……」

「…。ありますね……」


俺が横から口を出す。

「もう一回呼んでみたらどうかな?」


クリスはちらっと俺を見ると、言いにくそうに答えた。

「…。実は……すでに昨晩、密かに呼んでいるんです」

「え~!? なんて言ってました?」

由香ちゃんが驚いて聞く。


「…。『ヤバい人なんていない』って言ってました」

「それってどういう事?」

「…。未来の可能性は無限大なので、最初に出てきた彼女とは、違う未来を生きた人が出てきた、という事ですね」

「ヤバい人が居ない未来もある、って事ですね」

「…。ただ……ヤバい人が居る、という未来がある事の意味は、重いんですよ。いるけど発覚しない事は考えられますが、いないのに『居る』と言う事はないので……。あるとすれば嘘をついたという事ですが……」

「嘘をついてる感じじゃ、なかったなぁ」

「…。そうなんですよね……」


クリスは、由香ちゃんを癒しながら目を瞑り、思索にふけった。

しかし、眉間にしわがよるばかり……納得いく結論は出ないようだった。


俺は、人工胎盤の血を由香ちゃんのに交換した。

赤ちゃんに必要な栄養は、主に点滴の要領で、人工胎盤経由で与えていく。酸素は、人工胎盤に繋がった簡易な人工肺を使い、酸素ボンベから与える。

そして、簡単な透析装置を使って、人工胎盤の血は浄化される。ここで赤ちゃんの尿は、こし取られるのだ。


でも、ミネラルや、微量のホルモンや、血液の健全性を保つためには、血は新しい方がいい。

俺と由香ちゃんは、変わりばんこで、血を1リットルずつ提供し続けるしかない。


クリスは人工胎盤に癒しをかけ、感染症にならない様に、血液の免疫を活性化させた。


赤ちゃんを見ると、心持ち大きくなっているようだ。


クリスに聞くと、実は成長を促進させるスキルを持っているらしく、赤ちゃんを普通より速く、成長させる事もできるらしい。

このペースだとあと3か月で出産となる。

誕生も待ち遠しいが、それより断酒が終わる方が、俺にとっては切実かもしれない。





寝る時間になり、洗面所で準備する俺に、珍しくクリスが声をかけてきた。


「…。誠、ちょっといいかな?」

「ん? いいよ、何かな?」

俺は歯磨きを止めて答えた。


「…。もし、私が倒れるような事があったら、行って欲しい所がある」

「倒れる事って……。ま、いいや、どこへ行くんだい?」


「…。江ノ島に洞窟があるだろう?」

「あ、あるね、昔行ったよ。江戸時代の石仏が並んでた」

「…。第一岩屋と第二岩屋とあるんだが、実はさらに向こうに、隠された第三岩屋も有るんだ」

「え? そうなの? 全然気づかなかった」


「…。そこは大潮の干潮の時に、入口がちょっとだけ顔を出す。普通は行けない」

「もしかして……そこに行くの?」

なんだか凄い、命がけのアタックが必要な予感……。


「…。そうだ。その中に石仏があるんだが、その指さす先に行って欲しい」

「行くと何があるの?」

「…。行けば分かる」


行かないとわからない……のね。神様はこういう所セキュリティが堅い。


「ま、クリスが倒れなきゃいいんだよね」

「…。そうなんだが、ヤバい人と言うのが気になっている」


いつも自信満々のクリスには珍しく、慎重である。


「そもそもクリスにとってヤバい人なんているの?」

「…。人間は脅威にはならないね」

そう言って自信を見せる。


「殺されても3日後に復活するんでしょ?」

「…。ははは、まぁ3日もかからないよ」

「なら、倒される心配なんてないじゃん」

俺は少し安堵して笑った。


「…。敵が……人間だったらね……」

クリスが渋い顔で言う。


「え? 人間じゃない人が、うちのチームにいるってこと?」

「…。もちろん、メンバーは全員スクリーニング済みだ。怪しい人はいない」

「だったら……」


「…。偽装されている可能性は排除できない」

そう言って、クリスは目をつむって首を振る。


「クリスを騙せるほどの敵がいる可能性……か……」

「…。万が一そういう場合になったら、岩屋へ行ってほしい」


「うーん、分かった! 行ってみるよ!」


クリスは俺の目をまっすぐに見て、言った。

「…。頼んだよ」


俺は笑顔でうなずいて返す。


神様に頼みごとされるなんて、凄い不思議だ。


しかし……神様にも解決できないような事態で、俺が役に立てるんだろうか……。

自室に戻るクリスの後姿を見ながら、心細くなった。


いろんな意味で『ヤバい人』というなら、美奈ちゃんだよな、お騒がせな女神様。

しかし、彼女が豹変して、クリスを倒す事なんてあるんだろうか? クリスを倒して神の力を奪って悪事を働きたい? でも、美奈ちゃんは今でも十分人生楽しそうだし、そんな事どうでも良さそうに見える。やはり他の人だろう。だとすると誰だろう?


いろいろ考えてみたが、クリスにも分からないこと、俺に分かるわけがない。


歯ブラシを動かしながら、第三岩屋をさっそく検索してみたが、ネットにはない。

多分秘密の洞窟なのだろう。


あそこは結構波が高い。大潮の時でしか行けないような所となれば、まさに命がけだ。ちょっと行きたくないなぁ……。

クリスには元気でいてもらわないと……。



――――しかし、願い空しく、この後、誠は行く羽目になる。それも最悪な形で。





由香は夕方、会社帰りに大学に寄った。

木枯らしの中、肩をすくめてキャンパスを歩いていると、サークルの同期の女の子、沙也加さやかから声をかけられた。


「あら、由香じゃない!」


ピンクのダッフルコートに白ニットワンピースの沙也加は、獲物を見つけたかのように行く手をふさいだ。


由香はちょっと引きつった笑顔で会釈をする。


沙也加は威圧的な調子で続ける。

「就職決まったんだって? おめでと!」


「小さな……AIベンチャーだけどね……」


「ふぅん、私は東京陸上保険、就活ランキング3位企業よ」

そう言ってニヤッと笑う。


「良かったね、おめでとう」

由香は素直に祝福する。こんな人気企業、単なる幸運だけでは行けない事を知っていたからだ。


「そのベンチャー、後輩が創ったって奴よね? 大丈夫なの?」

沙也加は冷ややかな笑いを浮かべ、小馬鹿にした調子で言う。


「ふふっ、確かに傍目はためには失敗に見えるかもね。でも、うちの会社は人類の未来を切り開く会社、今はとてもワクワクしてるの」

由香は目をキラキラさせながら答えた。


しかし、それを沙也加は気に食わなかった。


「折角王京入ったのに、そんな所でいいの?」

そう、不快感をぶつけてくる。


すると、いきなり現れた美奈が由香の胸に飛び込んだ。

「せーんぱい、みっけ!」


「うわぁ!」

驚く由香。


美奈は、しばらくハグして由香の柔らかさを堪能した後、クルっと振り返ってニッコリ笑って言った。

「沙也加先輩、お久しぶりです。うちの話、してました?」


沙也加は生意気な後輩の乱入に、イラつきが抑えられなくなった。

「あなた、由香雇える余裕なんてあるの?」


「100億円あるから余裕よ、ねぇ先輩?」

そう言って美奈は由香を見る。

由香は

「そう、余裕なのよ、ねぇ美奈ちゃん」と、笑う。


「ひゃ、100億……。で、でも会社と言うのは信用力が重要よ、その点、東京陸上保険なら、誰でも知ってる堅い信用力があるんだから!」

沙也加は必死に取り繕う。


「あー、東京陸上ね……今、中国の天安グループが買収かけてますよ、知ってます?」

美奈が、ちょっと意地悪な笑いを浮かべて言う。


「え!? 本当?」


「うちの社長、天安グループのトップと親友だから、東京陸上の社長もうちのメンバーから選ばれる……かもね!」

そう言って美奈は、小悪魔の笑顔を見せた。


「何言ってるの!? そんな事あるわけないじゃない!」


「由香先輩、社長……やる?」

「うーん、美奈ちゃんが副社長やってくれるなら、やってもいいかなぁ……」

由香は悪乗りし、人差し指を顎に当てて上を見ながら言った。


「ちょっ! ふざけないでよ!」

沙也加は余裕を失い、大声で怒鳴った。


「あら、未来の社長にそんな事言っていいのかしら?」

美奈は涼しい顔をして煽る。


沙也加は真っ赤になって、うつむいていたが……、


「ご、ごめんなさい!」

そう叫ぶと走って逃げて行った。


美奈と由香は思わず吹き出してしまい、二人してケラケラと笑った。


由香は就活のバカらしさに改めて気づいた。数か月前まで血眼になって就職ランキングを睨んでいた自分の愚かさを、心から反省した。社会は広く複雑で、1億人もの生き様が絡み合ったエコシステム。ランキングの数字は単なる優越感ゲーム、こだわる意味などなかったのだ。


美奈は由香に聞いた。

「先輩、本当に社長やる?」

「まさか、冗談よ」

「あらそう? なら私、やろっかなぁ~」

美奈はそう言ってニヤッと笑った。





4-5.人類の手で翼を


エンジニアチームは、引き続きマウスでデータを取りながら、赤ちゃんとの接続準備を行っている。

人間の赤ちゃんを動かすAIは、マウスの様にはいかない。処理しなくてはならない情報量は格段に増えるから、サーバーも増強して本番用の体制への移行が必須である。


AIチップを、さらに10ラック分追加することにした。約12億円である。IDCの利用費用も月間300万になる。

まだまだ金はあるとはいえ、12億円の振り込みをするときは、手が震えた。


AIチップ担当のマーティンも、これだけ巨大なシステムは初めて。この規模を安定的に動かすのはさすがに大変で、時間も相当かかるらしく、大変さを一生懸命説明してくれる。

でも、早口な英語なので、半分くらいしかわからない。ごめん、この情けない英語力を許してほしい。


IDCでのラックへの設置作業は、朝から社員総出で行った。


IDCの倉庫にはAIチップサーバー50台、特注のハイエンドサーバー20台と、巨大SSDストレージ10台の段ボールが、山のように積みあがっている。総額12億円の山である、思わず武者震いがする。

まずは、これらを一つずつ開梱し、順次ラックへ取り付けていく。


持ち上げてみると……相当に重い。

重さにめげてる俺を横目に、マーカスがヒョイっと軽々と持ち上げる。


「マコトサーン キンニクハ セイギ ヨ!」

そう言って笑いながら、事もなげにラックに設置していく。


うーん、規格外の筋力だ。


俺も筋トレ始めようかな……。


美奈ちゃんは

「Sweet!(すごーい!)」

と言って、マーカスが作った、二の腕の力こぶにぶら下がって歓喜の声を上げている。


俺も、女の子を喜ばせる男にならないと、イカンのではないだろうか? やっぱりジムに通うしかない。


サーバーは全部で80台もあるから、マーカス一人に頼ってはいられない。

俺はコリンとチームを組んで、二人がかりでサーバーを、ラックのレールにはめていく。


これだけで午前がつぶれてしまった。設置するだけで大変なAIシステムとは圧倒的なスケールだな。


「Let's go out for lunch! (ランチ食べに行こうよ!)」


俺はそう言ってみんなをお昼に誘った。


すると、由香ちゃんが、


「あれ? この小さな箱はいいんですか?」

と、隅っこの小さな段ボールを指さす。


「ん? 何それ?」


俺は箱を開けて、顔が青くなった。

中にはたくさんの増設メモリが、ずらっと並んで入っていたのだ。


「うわ! メモリ増設するの、忘れていた!!」


マーティンが駆け寄ってきて、


「Holy cow! (なんてこった!)」

と、頭を抱えている。


計画では、50台のAIチップサーバーに、増設メモリを挿してから、ラックに設置する予定だったのだ。設置にばかり注意が行っていて、すっかり忘れていた。

当然、ラックに設置したままでは、メモリは挿せない。一度取り外さないとならない。

3時間かけて取り付けた物を、もう一度全部取り外して再設置……気が遠くなる。


「誠さん! 何してくれてんのよ!」

美奈ちゃんがプリプリしながら、俺をなじる。


「ゴメンよ、すっかり忘れてたよ……」

「私はもう、力仕事なんてできないわよ!」


いや、君は応援してただけじゃないか……と思ったが、応援は応援で大切だしなぁ。

反論できずに立ち尽くしていると、遅れてクリスがやってきた。


美奈ちゃんの膨らんだ頬を見て、微笑みながら


「…。迷える仔羊たちよ、どうしたのです?」

そう言うと、美奈ちゃんが訴える。


「誠がポカやったのよ! 午前の作業が台無し!」

ここぞとばかりにアピールする、美奈ちゃん。


俺はうなだれて説明する、

「メモリを挿しそこなったまま、設置しちゃったんだ……」


するとクリスは、


「…。誠よ、何を言ってるんです。挿しそこなったメモリなどありませんよ」

と、穏やかに笑った。


「いや、クリス。ここにたくさんあ……!? あれ!? ない!!」


箱を見ると、さっきまで確かに、たくさんあったメモリが、一つもなくなっていた。


「…。メモリはみんな挿されてますよ。さぁお昼に行きましょう」

そう言って、クリスはみんなをねぎらって、ランチへといざなった。


試しに1台起動して見ると、確かに増設メモリは認識されていた。


クリスが挿したのか? 一瞬で?


あっという間に、50台の筐体の中に挿したという事だろうが、どうやって挿したのか、俺には全く分からなかった。物理的には不可能だ。


さらに、正しい位置のスロットに正しく挿さないと、メモリは認識されない。

クリスがなぜ正しい位置を知っていたのか、想像を絶する。


ランチに行く道すがら、美奈ちゃんはご機嫌で話しかけてくる。


「あんな事できるなら、クリスに頼んだら、完成したシアンが出てくるんじゃないの?」

あんまり考えたくないが、その可能性は否定できない。

俺が考え込んでいると、さらに追い打ちをかけてくる。


「料理番組みたいに、『はい、完成したシアンがこちらです』って後ろから、出してくれるんじゃない?」

そう言ってケタケタ笑った。

俺はちょっとイラついて、


「いや、人類の後継者は人類が作らないとダメだ。神様に頼っちゃダメ!」

俺がそう反駁すると、


「もう十分頼ってるじゃん」

美奈ちゃんはそう言って、意地悪な顔して笑う。


「いや、あくまでもサポートの範囲だから……」

と、答えたものの、確かに痛いところを突かれてる。


しかし、クリスに『完成したシアン出して』って頼んで、出てくるとも思えない。やはり、自分たちでやり遂げないと、ダメなのだろう。


と、ここまで考えて気が付いた。クリスは人類の後継者くらい自分で作れるはずなのに、なぜ作らないんだろう? 最初は『AI分からないから』と言ってたが、今回のメモリの件にしてもAIシステムを相当理解してる節がある。絶対に作れるに違いない。


ではなぜ自分で作らないで、俺たちにやらせるのだろう?

やってはいけない規則でも、あるのだろうか?

しかし、神様を縛る規則などあまり合理性を感じない。

やはり、クリスは人類に人類の後継者作りをやらせる事、そのものに意味があると考えている事になる。


ここに、クリスが何者かを解くカギがあるかもしれない。クリスは傍観者として、人類の発展を見守ることに徹する存在……つまり、実験者であり観察者なのだろう。クリスは人類を実験台にして、何かを観察しているのだ。しかし、何のために?


考えれば考えるほど、謎は深まるばかりである。


ランチのペンネアラビアータは、味がよくわからなかった。





午後は400Gbスイッチなどの、ネットワーク機器の取り付け作業から開始する。


取り付けが終わると、最後にそれぞれを繋ぐネットワークケーブルの配線が待っている。

これが一番大変だった。


事前に設計図は書いてきたものの、実際には、用意してきたケーブルが長すぎたり、短すぎたりして、てんやわんやだった。


美奈ちゃんは短いケーブルを強引に引っ張って、


「あとチョットなのよね……えいえい!」

「No! No! Mina-chan!! (ダメダメ! 美奈ちゃん!)」

と、マーティンに怒られていた。


LANケーブルは、引っ張ったら壊れる、という事をしっかりと、教えておかなければならなかった。


「でも長いの使うと随分余るのよね……。美しくないのよ……」

と、勝手に正当化するが、壊れてしまっては何の意味もなくなってしまう。


由香ちゃんは段ボール箱を潰して縛ったり、梱包材をゴミ置き場に持っていったり後方支援だ。

段ボール箱だけで100箱以上ある訳だから、決して楽ではない。

それでもみんなに気を配ってくれる。


「はい、誠さんどうぞ!」

温かいお茶のペットボトルを、持ってきてくれた。


IDCの中はエアコン全開なので、めちゃくちゃ寒いのだ。厚着をしていないと凍死してしまう。まるで冬山だ。

みんなで温かいお茶をカイロ代わりにして、暖を取る。





みんなの頑張りで、夕方にはラック設置作業は完了。

続いて動作チェックに入る。


「Oh! line B34-G55 seems dead! (接続が死んでる!)」

マーティンが叫ぶ。


俺は指定のケーブルを探すが……無数に並ぶケーブルの山で、どれだか全く分からない。

総出でケーブル探しである。


「見つけたわよ!」

美奈ちゃん、お手柄である。


でも、そこは美奈ちゃんの担当だったはず。


「これも引っ張って壊しちゃったんじゃないの?」

「濡れぎぬよ! 濡れぎぬ!」

そう言いながら、目を合わそうとしない。


ケーブルを変えたら繋がったので、やはりケーブルの問題のようだ。

「ケーブルは精密品だからね、要注意!」

「アイアイアサー!」

美奈ちゃんは敬礼して答えるが、こっちを見ようとしない。悪い子だ……。


その後も何カ所か不具合があり、その度に試行錯誤しながら直していった。

結局朝から頑張って、終わったのは深夜、皆もうへとへとである。


でも、マーティンを見ると……ラックを見てうっとりとしている。

12本に渡るラックには、LEDランプが一面キラキラと明滅している。何の変哲もない緑のランプ群だが、苦労してきた我々にとっては、イルミネーションの様に美しい。


AIチップを使ったので12本で済んでいるが、計算能力自体はラック100本分に相当する。

まさに人類の英知を凝縮した、至高の12本のラック、人類の後継者にふさわしい佇まいである。


ここにAIの魂を宿すのだ!


「The future of humanity is here!(人類の未来はここにある!)」

俺がそう声を上げると、


「Yeah!」「There you go!」「Woo-hoo!」

そう言いながら、みんなはハイタッチをやりあった。


見てろよ、シアン、人類が人類の手でお前に翼を与えてやる!













4-6.ママという称号


年が明け、新年を祝う時期となった。

正月と言っても、赤ちゃんの世話は休むわけにはいかないので、毎日出勤している。

赤ちゃんは思いのほか順調に育ち、今や身長は40cmを超えている。覗いてみると、透明なバッグの中で元気にキックを繰り返している。


「シアン!」

と声をかけると、聞こえてるのか、ぴくぴくと反応するのが可愛い。





さらに2週間ほどして、いよいよ出産の日が来た。

出産と言っても、羊水バッグから取り出すだけなんだけれども。


テーブルに大きなタライを用意して、人肌のお湯で満たす。

そして人工胎盤に繋がってる、点滴やら人工肺やら透析装置を、全部止めて外す。


もう戻れない――――


「いやぁドキドキするぅ!」

由香ちゃんが緊張して、少し離れたところで作業を見つめている。


クリスが祈りをささげ、シアンはバッグから取り出された。

シアンは、何が起こったのか良く分からず、蠢いている。

俺は大きなクリップで、へその緒をお腹の前で止め、余った所をはさみで切る。


チョキン!


その瞬間、シアンは大きな声で泣いた。


ほっぎゃぁ、ほっぎゃぁ!


かわいい声を出して、大きく泣いた。

出産成功である。


俺と由香ちゃんの血で育った赤ちゃんだから、俺もある意味、親と言っていいだろう。

たった10gしかなかった、ピンクの小さな生き物は今、3kgに達している。

少し目頭が熱くなる。

由香ちゃんも、ちょっと目が潤んでいる。


クリスが、ゆっくりとシアンをお湯の中に漬け、俺がタオルで全身をぬぐう。

肌には、白い垢がいっぱいついているので、丁寧にとる。

ただ、シアンは無脳症、首から上は顔しかない。頭の部分がすっぽりと無くなっている。


美奈ちゃんは

「ほんと、頭無いのね……」

と、眉間にしわを寄せて、ちょっとグロテスクなシアンを、まじまじと見つめた。


さすがに、このままだと困ることになりそうなので、サイズを測って、人工の頭を付けてやらないとならない。


綺麗に洗ったら丁寧に拭いて、オムツとベビー服をセットして、由香ちゃんに渡す。

由香ちゃんは、おっかなびっくり受け取ると、


「うわ、思ったより重いですねぇ!」と、言いながら、ぎこちなく抱いた。


赤ちゃんは一瞬目を開けると、次はゆっくりとあくびをして、口をもごもごと動かした。

「うわ、可愛いかも!」


「先輩、私も~!」

と、美奈ちゃんが手を伸ばしてきたので、次は美奈ちゃんに渡される。


「ほんとだ、重~い!」

「私と誠さんの血の重みですよ!」

そう言って胸を張る由香ちゃん。


それに反発するように、


「シアンちゃん、ママでちゅよ~!」

と、シアンに声をかける美奈ちゃん。


「え~、ママは私です! 返して!」

由香ちゃんがそう言いながら、すかさず美奈ちゃんからシアンを取り返した。


由香ちゃんとしても、血をあげ続けた自負があるらしい。

「うふふ、じゃ、パパは誠さんかな~?」


そう言って、いたずらっ子の表情で由香ちゃんをからかう。


「えっ? そ、そういう意味じゃ……」

そう言って、シアンを抱きながら赤くなっている由香ちゃん。

俺も思わず赤くなる。

赤ちゃんを通じて、可愛い女子大生と縁がある、何とも不思議な事態だ。


シアンは口を大きく開け、モゴモゴと唇を動かす。


「ママの母乳欲しいのかな~?」


また余計なことを言う美奈ちゃん。


由香ちゃんはハッとした表情で、胸に抱きかかえたシアンを見つめ……


「うぅ、ママ失格かも……」

変な所でしょげている。すっかりママになった気になっているようだ。


「先輩ほど立派な胸なら、出るんじゃない?」


どうしてそう余計な事を言うかな、美奈ちゃんは……。


由香ちゃんはちょっと自分の胸を触って、


「なんか本当に出そうな気になってきたわ……」

と、まじめな顔して言っている。


おいおい、そう簡単には母乳なんて出ないぞ……と、思ったが、保育園の保育士が母乳出た、って話は聞いた事あるし、本心から『自分がママだ』と思い込めたら出てくるのかもしれない。


「誠さん、揉んであげなさいよ!」

いきなり、とんでもない事を言い出す美奈ちゃん。

由香ちゃんは、赤くなってうつむいている。

俺は焦って


「ハイ! セクハラ! レッドカード!!」

そう言って腕を×にして却下した。


セクハラ呼ばわりが気に入らなかった様子で、美奈ちゃんは、

「なによ! だったらまた私の胸揉む?」


そう言って、俺に向かって胸を突き出したポーズで、挑発してくる。


う……。


「ほれほれ!」

調子に乗って、胸を近づけてくる美奈ちゃん。


情けない事に返す言葉が浮かばない。

「も、も、揉むって……」


「ははは、冗談よ! 意気地なし~!」

美奈ちゃんはそう言って、俺の額を人差し指で押して、ケラケラ笑いながら部屋を出て行った。


唖然とする俺たち。


「うーん、困った姫様だな……」

折角のおめでたいシアンの誕生が、変な事になってしまった。


由香ちゃんは、シアンをゆっくりと揺らしながら、


「『意気地なし』って事は、本音は『口説いて欲しい』って事でしょうか?」

と、真面目に美奈ちゃんの言葉を考えている。


「いや、そんな深い意味ないと思うよ。口説いて口説けるとも思えないしね」


「口説けたら口説きたいんですか?」

由香ちゃんが俺をじっと見て、鋭く突っ込んでくる。


う……。

また言葉に窮する俺。


「さ、さぁどうかなぁ……」

「ふぅん、否定はしないんですね」


由香ちゃんはそう言って、シアンをベビーベッドの方に持っていって、寝かしつけた。


「誠さんはもういいですよ、私が夕方まで様子見てるので」

淡々と事務的に言う由香ちゃん。


「あ、そ、そう? じゃ、お願い」

居場所を失った俺は、そう言って部屋を後にして、トボトボとオフィスの方へ降りて行く。


どこかで言葉を間違えた気がするんだが……どこをどう間違ったのかが分からない。

モヤモヤする。


今は、シアンが無事生まれた事を、素直に喜ぶべきなんだが……。

何だろうこれは……すごい負けた気がする。

それも、誰にどう負けたのかすら、わからない負け方に、俺は途方に暮れた。




















4-7.心肺停止に女の勘


シアンは、誕生後しばらく様子を見て、呼吸や胃腸が安定したら、AIとの接続手術を実行する予定だった。


しかし、誕生した日の深夜、付き添っていたクリスから電話があった。


どうやらシアンは、心臓が止まりかけているらしい。無脳症の症状が出てきてしまったようだ。

急いでシアンの部屋へ行くと、シアンはぐったりとしていて、測定機器は、ピーピーと警告音をたてていた。


「あー、これはヤバいね。何が原因だろう?」


俺は必死に動揺を抑えて言った。


「…。見たところ、内臓周りに異常は見られない。やはり脳周りの問題だろう」

「では、手術をして原因を特定するしかないか」


こんな事なら、胎盤に繋がっているうちに、手術した方が良かったが、もはやそんな事言ってる場合ではない。

もう へその緒は切られたのだ。緊急手術に突入である。


急いで簡易無菌室を展開し、マニュピレーターを起動し、メスなどの機材一式を消毒して揃えた。

誕生したその日に、手術台に乗せなきゃいけないとは……。


「シアン、ごめんな、頑張れよ」


そう言って、シアンに小さな酸素マスクを着けて、クリスに頼んで点滴を設定し、無菌室に用意した小さなベッドに横たえた。


まずは手術の方針についてブリーフィング、切開カ所の決定と調査部位の確認を行った。

俺はペンで、シアンの顔の裏の切開位置に、丁寧に線を描き、メスを入れやすくした。


クリスは手術服を身にまとい、ゴム手袋の手を前に掲げながら、無菌室に入っていく。


連絡を受けたメンバーも、次々に部屋に集まってくる。

由香ちゃんは入ってくるなり、部屋の物々しい様子に驚いて両手で口を覆い、涙目で固まっている。


俺は優しくハグをして、小さな声で、


「大丈夫、クリスがちゃんと解決してくれるから」

と、元気づけた。


無脳症とは言え、脳が全く無い訳ではない。だから羊水内では、内臓の管理などは出来ていた訳だが、誕生して負荷が大きくなったことで、耐えられなくなったのかもしれない。


内臓の管理もAI側でやらなければならないとなると、事実上難しい。例えば血糖値が上がったら、膵臓からインスリンを分泌させるとか、そういう制御を無数にやらないとならない。それにはデータもノウハウも全く足りていないので不可能だ。何とか生命維持部分が復活してくれると良いんだが……。


クリスはまず、麻酔薬を注射した。麻酔薬は多くても少なくてもダメだ、新生児など量を少し間違えただけで死んでしまう。


クリスは目を瞑って、何かを感じながら慎重に麻酔薬を注入していく。


続いて癒しの技をかけながら、ペンでマークした位置にメスを入れた。表皮を切開し、クリップで固定する。

そしてマニュピレーターに着いた顕微鏡カメラで、観察しながら奥に進み、状況を丁寧に見ていく。

俺達も、外部に繋げたモニターを使って、クリスの手術をリアルタイムで見ていく。


クリスは、器用にマニュピレーターを操って切開していく。神経線維を傷つけないように少しずつ、組織を繋いでる膜を丁寧に、マイクロ鋏でチョンチョンと切り開くのだ。


膜を切ると神経線維に沿って少し奥に進み、また膜を切るを繰り返し、異常の原因を探っていく。


美奈ちゃんは椅子に座って、静かにクリスの技を見ている。

いつになく神妙だ。


「どうしたの?」

俺が聞くと


「昼間バカな事で騒いじゃったからね、ちょっと反省してるの」

と、珍しく素直である。


「俺も反省してる。今は手術の成功を祈ろう」

「そうね」


静けさのなか、クリスのマニュピレーターだけが動いていた。


「あっ!」

美奈ちゃんが突然声を上げる。


「その右上の組織、何か変よ」

「え? どれ?」


確かに何か白っぽいが……俺は医者じゃないから、何とも分からない。


クリスがマニュピレーターで、その組織を指して答える。


「…。これかな? 確かに何かちょっと変ですね」


クリスはマイクロ鋏で、その組織を軽く切ってみた。


すると白い組織がドピュっと飛び出してきた。


「うわぁ!」「うぇ!」


ギャラリーから声が上がる。


「…。あー、これが原因かもしれませんね」

どうもこの白い組織は腫瘍で、これが膨らんで神経線維を圧迫していたらしい。


「おぉ、美奈ちゃんお手柄じゃないか!」

「うふふ、やる時にはやるのよ!」


「なんで医療の知識なんかあるの?」

「そんなのないわよ! 勘よ勘! 女の勘をバカにしちゃダメよ!」


オーバーにふんぞり返って得意げだ。


「美奈ちゃんすごい……。私、全然分からなかった……」

「先輩は、もっと場数踏んで女の勘を鍛えなきゃだわ!」

「場数……」


後輩に指導される由香ちゃん、でも、こんなのを見つけられる方が異常だ。美奈ちゃんは、一体どんな場数を踏んできたのだろうか? 大学2年生の女子大生に踏める場数など、たかが知れていると思うのだが……。謎が多い娘だと改めて思う。


クリスは騒ぐ外野を無視して、淡々と白い組織を切除し、吸い取っていく。

10分くらいで腫瘍は全部吸い取り終わった。


「…。手術は完了です」


さて、効果はあったか……。

皆、祈る思いで、バイタルの数値の変化を見守った――――


「あ、ちょっと上がった!」

由香ちゃんが、数字が変わったのを見て声を上げる。


「いや、まだまだ分からない」


案の定また数値は落ちてしまった。


「あぁぁぁ……シアンちゃん! 頑張って!」

由香ちゃんの想いは、思わず声に出てしまう。合わせた手にすごい力が入っていて、ヤバい感じである。


数分たって、徐々に数値が安定して、改善していくようになった。


「大丈夫? もう大丈夫なの?」

由香ちゃんが俺に聞く


俺がにっこりガッツポーズをすると


「良かった――――!」

と、由香ちゃんはぐったりと脱力し、その拍子に椅子からズリ落ちた。


ガンッ! ガラガラ


椅子が倒れて音を立てる。


「おいおい! 由香ちゃん大丈夫!?」


見ると、由香ちゃんは床で仰向けになって、幸せそうな表情を浮かべている。


「良かったぁ……」


そこまでシアンの事を思っているとは……、もう心は完全にママなんだな。3か月間ずっと、血液を与え続けて来た事は、由香ちゃんにとっては単なる献血ではなく、自分の一部を赤ちゃんと共有する尊い営みだったのだ。


「ありがとう」

俺はそう言って、優しく由香ちゃんを引き起こした。




















4-8.AIを纏う赤ちゃん


俺はクリスに声をかけた。

「クリス、グッジョブ! 折角だから、BMIの設置までやっちゃおうか?」


BMIとは、コンピューターと身体を接続する機器の事、つまり赤ちゃんをAI化してしまおう、というわけだ。

また麻酔をかけて、一度切開した所をまた切開、となると赤ちゃんにも負担だろう。


「…。そうだね、1時間くらい様子を見て、問題なければやってしまおう」

「了解! 準備してもらうよ」


俺はエンジニアチームを集め、事情を話した。彼らは深夜にも関わらず、快く引き受けてくれた。

マーカスが、大きな声で気合を入れてくれる。


「It's a long night! Cheer up, guys!(長い夜が始まる、気合い入れていこう!)」

「Sure!」「Great!」「Yeah!」


俺はBMIフィルムとケーブル、それから頭に埋め込む予定の、AIと電波接続をするトランスミッタを一式そろえ、消毒を行う。

いよいよ本番である。マウスとは違うのだ、人類の未来を左右する違法な人体実験、もう後戻りはできない。震える手で消毒しながら、俺は覚悟を決めた。


エンジニアチームは、各自席につき、忙しく動き始めた。


「Deep network No.1 to 15, OK! (AIの1番から15番までは、準備OK)」

「Transmitter connection No.1 to 5, OK! (電波接続の1番から5番までは、準備OK)」

「Oh! data link from No.13 to No.18 is dead! (データ連携の13番~18番が切れてる!)」

「Restart the session No.13! (13番のセッションをやり直し!)」

「No.13 Sir! (13番了解!)」


深夜のオフィスが、にわかに活気づく。


由香ちゃんが丁寧に珈琲を入れ、メンバーに配る。

クリスはシアンを左手で癒しながら、ゆっくりと珈琲を啜った。


俺はクリスに手術の計画図を見せ、最終確認を行う。

人間の背骨は35個の骨でできている。そして、その一つ一つから左右に神経が出ているので、合計70カ所に、BMIフィルムを巻き付ける必要がある。

そして、脳幹の所にもBMIフィルムを、設置しないとならない。

また、目玉は義眼のカメラに、耳はマイクにそれぞれ換装する。

それぞれのフィルムや機器から出た配線は、全て頭の所に引き回し、そこからトランスミッタでAIと接続する。


実に非人道的な手術ではあるが、人類の後継者となるために、申し訳ないが赤ちゃんには犠牲になってもらうしかない。





あっという間に1時間が経ち、バイタルを確認する。


「安定を確認!」


俺はメゾネットの上の柵から、下のオフィスのメンバーに檄を飛ばす。


「Let's start the operation! Are you all ready? (手術開始だ! 準備は良いか?)」

「Sure!」「Great!」「Hell yeah!」「Yahoo!」

みんなの気合も十分だ。


午前2時過ぎ、いよいよAI接続手術を開始する。


新しい手術着に着替えたクリスが、ゴム手袋を付けた手を胸の前に構え、俺が開けた簡易無菌室の入り口を入っていく。


小さなベッドに、うつ伏せに横たわるシアン。


クリスは麻酔薬を少しずつ注入し、シアンの反応を見ていく。

無事全身麻酔状態になると、いよいよオペの開始だ。


マウスの時にやった要領で、クリスは背骨の脇にメスを入れ、クリップで切開部を固定し、マニュピレーターの顕微鏡で、神経線維を探す。


神経線維を見つけたら、周りの膜を切ってスペースを作り、金のナノ粒子溶液を垂らした上で、BMIフィルムをそっと巻き付ける。

何度見ても、ほれぼれする様な神の技である。太い糸に、数ミリ四方のサランラップを巻くような作業なので、とても俺ではできない。


その上から固定用のテープを巻き付け、BMIフィルムがずれないようにする。

この段階で一旦止まって、電気処理を入れる。


画面を見ていたマーカスが声を上げる

「No.1! Create Connections! (1番接続!)」

「No.1 Sir! (1番了解!)」


トランスミッタからの指示で、BMIのケーブルに電圧がかかり、BMIフィルムの端子と神経線維の間に、微細な金の回路が構成される。

数分待ってから次の場所に移る。これを80か所繰り返すのである。


クリスは丁寧に一カ所一カ所切開し、フィルムを巻き付けていく。正確無比のその技はまさに神業だ。

俺達はモニター画面を見ながら、クリスの神業を見守った。



       ◇



夜通し手術は続けられ、結局すべての作業が終わったのは、朝の9時過ぎ、外はすっかり明るくなっていた。


最後に接続の確認試験を行う。


クリスは、シアンの足の指先から、ゆっくりと指先でなでて、部屋の大画面モニターに表示される、神経電位図の変化をチェックした。


「No.1! Check Deep linking! (1番接続!)」

「No.1 Sir! (1番了解!)」


クリスがなでるたびに、モニターの一部が赤く明滅する。約80箇所全てのエリアで、身体のどこを触っても、どこかが明滅するのを丁寧に確認した。どうやら、うまくいっているようだ。


マーカスがニヤッと笑って、俺に親指を立てて見せた。

俺は、メゾネットの柵の所から大声で言った。


「Deep linking Process Complete! (手術完了!)」

「やったー!」「Yeah!」「ヒャ―――――!」「Hi yahoaaa!」

オフィス中に歓声が響く。


俺はマーカス達と、次々とハイタッチをしたのだった。


ただ、由香ちゃんは、手術の成功を喜びながらも、やはり人体実験に使われてしまうシアンの事を思い、暗い表情でいる。

生まれた後に、数時間ではあるが、一緒に過ごした赤ちゃんはもういない。

あくびをして、ムニャムニャ口を動かしていた、愛くるしいあの赤ちゃんは、もうAIに接続されて動かなくなってしまった。

由香ちゃんは、手術のために脱がしたベビー服で、顔を覆い、動かなくなった。

俺は由香ちゃんの隣に座ると、


「大丈夫、シアンは死んだわけじゃない。シアンの心は、ちゃんとあの体の中にあるよ」

「でも……操り人形にされちゃうんでしょ?」


「AIの根底の部分は、身体を無視できない、逆にAIを根底で操るのは、本能的な情動であってそれはまだ、シアンの中に息づいているんだよ」

「本当……なの?」


ベビー服を少しずらし、真っ赤な目で、俺を真っすぐ見る由香ちゃん。


「逆にそれが無かったら、そもそも人体実験なんて要らないんだよ。人間の身体に、AIを接続する事で出来上がる知的生命体、これが深層後継者計画の目標であって、AIの行動も、赤ちゃんの心は無視できないはずだよ」


「なら……良かった……」

由香ちゃんは少しホッとして、ベッドの上のシアンを見つめた。


すると、


「うぇ、誠さん、これどうすんの?」


向こうで美奈ちゃんが、ステンレスケースの中を見て、声をかけてくる。

そこには、摘出した赤ちゃんの目玉が入ってる。


ヤバい!


そんなの由香ちゃんが見たら、卒倒しかねない。


「あー、適当にやるから放っておいて」


俺は平静を装って適当にあしらう。


「適当にってどうすんのよ? その辺に捨てるわけには、いかないでしょ?」

「いいから、放っておいて!」

「何よ! 私には言えないようなこと?」

「いや、そうじゃないから黙ってて!」

「黙れってどういう事よ!」


やりあってる俺たちを見て、由香ちゃんが美奈ちゃんの方を見る。


「何ですかそれ?」

「何でもない、見なくていいよ~」


俺は冷や汗をかきながら、ごまかそうとしたが……


「これよこれ! 目玉」


美奈ちゃんが、目玉を由香ちゃんに見せてしまう。

由香ちゃんの顔が真っ青になった。


「えっ!! 目玉取っちゃったんですか!?」

「い、いや、目玉はカメラに取り換え……」と言い訳をする間もなく、

「鬼!! 悪魔!! ひとでなし!!!」


由香ちゃんは、ベビー服を鞭のようにして、俺をビシビシと打ち据え、


「うわぁぁぁぁぁぁぁ!! シアンちゃぁぁん!! うわぁぁぁぁぁぁぁ!!!」


号泣してしまった。


オロオロしていると、


「もう! 信じらんない!!」


ベビー服を俺に思いっきり投げつけ、部屋から走り出て行ってしまった。


美奈ちゃんは『やっちまった』という感じで、ひどく申し訳そうな顔をしている。


俺がにらみつけて、あごで『追いかけろ』とドアの方を指すと、


「ちょっとフォローしてくるわ!」


由香ちゃんを追いかけて、出て行った。


冷静に考えれば、由香ちゃんの方が正常だ。狂ってるのは俺たちの方だろう。


俺は大きく息を吐いて頭を抱える。

由香ちゃんには改めて、自分たちがやっていることの非道さを、突きつけられてしまった。

たとえ無脳症であっても、人類のためであっても、人間は一人一人かけがえのない存在である。こんなことはやってはいけないのだ。俺はこの罪を一生背負って生きねばならない。















4-9.女難の相


シアンはもう、AIの制御下なので、放っておくと何も動かない。呼吸や心臓の鼓動くらいまではやってくれるが、自分の意志で動かす動作は、全て止まってしまっている。

しばらくミルク飲みは無理なので、栄養は点滴で摂ってもらう事にする。


次の工程は、全ての感覚神経と運動神経のマッピングである。赤ちゃんのすべての神経線維をAI側に確実に接続していくのだ。これはマウスの時に経験済みではあるが、規模が圧倒的に増えているので、手間と難度は格段に高い。エンジニアチームには申し訳ないが頑張ってもらうしかない。

結局、この作業には1週間を要した。





接続が終わったので、いよいよ本格的な学習フェーズに入る。まずは、AIの好奇心回路から発生する欲求を、手足の筋肉の運動に繋げ、その結果を感覚で、フィードバックを得てもらうようにした。

シアンは最初は、手足がピクピクするだけであったが、そのうち、手を上げ下げするようになった。

しばらくして、上からアンパン〇ンのおもちゃを垂らすと、手を伸ばすようになってきた。最初は、ぎこちなく触るだけだったのが、そのうち段々と動きが速くなってきて、最後にはパンパンと叩き始めた。


さらに、声をかけると「あー」とか「うー」とか返事をする。


学習のためには多様な刺激を与えた方がいい、という事で、子守はメンバーが変わりばんこで対応している。


俺はシアンの目の前で、アンパン〇ンのぬいぐるみを動かしてみる。

目がぬいぐるみを追いかける。


近づけたり遠ざけたり、右に左に動かすと…… ちゃんとついてくる。


では、これはどうかな?


右手から左手に、素早くぬいぐるみを投げる…… ついてくる。


うーん、すごい。


今度は、メロンパ〇ナちゃんのぬいぐるみも出してきて、2つを同時に動かしてみる。


二つを目の前においてアンパン〇ンは右に、メロンパ〇ナちゃんは左にそーっと動かしてみる。

すると目が、左右に別々に開いて行ってしまった。

アンパン〇ンだけ動かすと左目だけ動いてる。


左右の目が別々に動くというのは、初めて見たが、極めて気持ち悪い。


さすがにこれはマズいのではないかと思い、マーカスを呼ぶ。


「Hey! マーカス!」


マーカスは見るなり、

「ウヒャー! コレハ ダメ デース!」

と、天を仰いだ。


AI的には、それぞれの物を追いかけるのは正しいのであるが、人間の後継者になるなら、人間の目の動きをトレースしてもらわないと、人体実験の意味がない。


「I'll fix it! (直すよ!)」


そう言ってオフィスに降りて行った。


しばらくして、直したというので、もう一度やってみると、今度は両目がちゃんと同期している。

メロンパ〇ナちゃんは無視し、アンパン〇ンだけ追いかけ続けるようになった。

メロンパ〇ナちゃんより、アンパン〇ンの方がお気に入りらしい。


シアンといろいろ遊んでいると、美奈ちゃんがやってきた。


「はーい、誠さん、交代よ!」

「あー良かった。結構疲れるんだよね、子守」


そう言って出て行こうとすると、美奈ちゃんに後ろ襟をガシッと掴まれた。


おえっ!

首が締まって吐きそうになる。


「ちょっと待ちなさい! これを見て!」

美奈ちゃんはそう言いながら、シアンのオムツを開いた。


黄土色のねばねばが、異臭を放っている。

うんちだ。


「乙女に、こんな物を処理させようとしたわね!」

「え? ちょっとまって、気づかなかっただけだよ!」

「うんちに気づかないなんて、ちゃんと子守やってたの!?」


言い返す言葉が無い。


「……ごめんなさい」


俺はお尻ふきと紙オムツを持ってきて、シアンのお尻を丁寧に拭く。

アソコの所にも、うんちがついてしまっているので、丁寧に拭く。


「あら、誠さん上手いじゃない」

由香ちゃんがニヤニヤしながら褒めてくる。


「それもセクハラだぞ」


うんちがアソコの所に残ると、感染症になるので、綺麗に拭かないといけない。

俺は臭いにおいに顔をしかめながら、丁寧に拭く。


あらかた拭き終わったら、新しい紙オムツをお尻の下に敷いて、後はテープを留めるだけ。


「はい、さっぱりしまちたね~!」


俺はうんちの紙オムツを丸めながら、シアンに話しかける。


「あー」


シアンは半ば機械的に返事を返す。


「女の子の扱い方上手じゃない! 慣れてるの?」

美奈ちゃんはニヤニヤしながら言う。


「残念ながら慣れてないんでちゅよ~」

そう言いながら、シアンの足を優しく動かしてみる。


「うー」

オムツは上手くフィットしているようだ。


改めて、マシュマロより柔らかな赤ちゃんの感触に、感動するとともに、こんな繊細な生き物を、ちゃんと育てて行けるのか不安がよぎる。


「こんな赤ちゃんが、人類を背負う後継者になるとか、まだ想像できないよなぁ……」

「何よ、急に弱気になって」

「弱気って訳じゃない、ただピンと来ないってだけ」

「えー」

シアンが何かを言っている。


「ほらシアン、何かすごい所見せてやって!」

シアンに無茶振りする美奈ちゃん。


「えー」


「まだ無理だよなぁ?シアン」

「ぶー」


「……この子、言葉分かるの?」

「あー」


「いや、まだ音声認識回路は、出来上がってないと思うんだが……」

「ぶー」


「ねぇ、シアン、私って綺麗?」

「あー」


「ほら、分かってるわよ」

美奈ちゃんは嬉しそうに言う。


「いや、その確認方法はおかしい」

俺は腕組みをして、首を横に振って言った。


「えぇ……、じゃぁ……私がママよ~!」

「ぶー」


「ママは由香ちゃんだよな?」

「あー」


「むむ、認識してるっぽいな」


不機嫌になった美奈ちゃんは、嫌なことを言う。

「なによ、シアン、面倒見てやんないぞ!」

「ぶー」


「そんな大人げない事言っちゃダメだよ」

「あー」


「誠は先輩ばっかり贔屓ひいきして、私には冷たいの! 酷いと思わない?」

「あー」


「あぁ、シアン、あなたは分かってくれるのね!」

「あー」


「いやいや、贔屓なんてしてないって!」

「ぶー」


「ほらほら、シアンはちゃんと分かってるんだから。こないだだって先輩のことハグしてたじゃない」

「いやいや、あれはすごいショックを受けてたから……」

「私がショックを受けてる時は放置なのに~」

「ぶー」


「んんん? ショックを受けてる時なんてあった……?」

「ほら、私の事なんて全然見てないのよ!」

「ぶー」


「悪かった、悪かった」


俺はすかさずハグしようとすると、


「今やれ、なんて言ってないわよ!」

そう言って俺の手を振り払う。


一体どうしろというのか。俺はシアンに聞いてみる


「シアン、この女心分かる?」

「あー」


「ほら、赤ちゃんにでも分かる事なのにねぇ」

「あー」


なんだよ、お前達! 俺は理不尽な主張をする、女子大生と赤ちゃんのペアにムッとした。


「じゃぁ! 俺がショック受けてる時は、ハグしてくれるの!?」


俺がそう憤慨すると、美奈ちゃんはハグしてきた。


「なに? こうやって欲しいの?」

俺はふわっとブルガリアンローズの香りに包まれ、動けなくなった。


「い、いや、別に今やらなくてもいいよ……」

「今やらなくていつやるの?」

そう言いながら、ギュッときつくハグをしてくる。


いや、これは本格的に……マズい。

柔らかく温かい美奈ちゃんの胸が押し付けられ、俺は理性が飛びそうである。


「……。お、俺がショック受けた時にお願い」

「なに? 嫌なの?」

「い、嫌なんかじゃないよ……」

「ならいいじゃない」


ガチャ!


そこに由香ちゃんが、ドアを開けて入ってくる。


「シアンちゃん、新しいオムツ、よ……」


抱き合う俺達を見て固まる由香ちゃん。

持ってた紙オムツのパックが床に転がる。


「あ、由香ちゃん、こ、これは……」


バタン!


由香ちゃんは走って出て行ってしまった。


「あーあ」

俺をハグしたまま、嬉しそうに言う美奈ちゃん。


「ちょっと! 誤解を解かなきゃ!」

「何? 逃げるの?」

「社内で抱き合ってるなんてマズいよ!」

「自分は先輩とハグしてたのに?」

「いや、あれとこれとは……」

「何が違うの?」

「え? な、何がって……?」

「なぁに?」


勝ち誇ったように、嬉しそうに言う美奈ちゃん。


「そ、それは……」

「冗談よ!」


そう言って美奈ちゃんは、俺を軽く突き飛ばした。

「早く行きなさい、私はシアンの子守だから」


そう言って、シアンのベッドのわきの椅子に座った。

いきなりハグされ、そして突き飛ばされる。俺は翻弄されて頭が回らない。ただ、美奈ちゃんなりに不満がたまっていた、というのだけは良く分かった。


「……。悪かった……よ。気配りが足りてなかった」

「バカじゃないの! 早く出てって!」

美奈ちゃんはそう言って、紙おむつを俺に向かって投げた。


俺は転がる紙おむつを拾い、棚に置いて、

「ごめん……、後はよろしく」

と、力なく言って部屋を出た。


怒られてしまった……。

トボトボと階段を下りる俺。


オフィスフロアで、由香ちゃんはPCに向かって仕事をしている。


俺はためらいながらも、頑張って言葉をかけてみる。


「あー、由香ちゃん、さっきのは美奈ちゃんがふざけてただけだから……」


由香ちゃんは、PCの画面を見ながら淡々と言う。


「なんでそんな言い訳じみたこと、私に言うんですか?」


「あー、いや、俺と美奈ちゃんが、特別な関係だと思われちゃうとちょっと……」

「別に、誰が何してたって自由じゃないんですか?」


由香ちゃんはPCを見たまま、棘のある声で答え、さらに追い打ちをかけてくる。


「それより早く領収書清算してください! いつも遅くて困ってるんです!」

「あ……ごめん」


俺はトボトボと自分の席に戻る。

一体どこで間違ってしまったのだろうか? 俺は頭を抱える。


エンジニアチームとは揉めてない事を考えると、女性の扱いに問題があるようだ。しかし、そもそも女性の扱いなんて、誰からも教えてもらった事がない。

ママには捨てられてしまうし、俺は女性とは相性最悪なのかもしれない。


女難の相……

俺はクリスの言葉を思い出して、深くため息をついた。















4-10.損得勘定の毒


翌日、マーカス達は、マウスの際に使ったルーチンを援用して、シアンのミルク飲みプロセスを、立ち上げた。


これから実際のテストである。

俺は、消毒した哺乳瓶でミルクを作り、人肌にまで冷ました。


「ほーらシアン、ミルクだぞ~」


哺乳瓶の飲み口を口の所にまで持っていくと、上手く吸い付いた……が、


ケホッケホッ!


あぁ、気管に入ってしまったようだ。

すかさず、クリスが、癒しの技でシアンをフォローする。


「咳は自動で出るのにな~。なぜ飲むのは自動にならんのだ!」

俺は、シアンを苦しめてしまっている現実に耐えられず、つい愚痴ってしまう。


モニターで見ていたマーカスが


「タイミング カエタ モウイチド!」 と、言ってくるので、再度チャレンジ。


シアンの息をゆっくりと確認し、落ち着いたのを見計らって、再度哺乳瓶をあてがう。


チュウ……


お、上手く飲み込んだ……かな?

あれ? 止まっちゃった。


俺はすかさず、監視カメラに向かって叫ぶ。


「Hey! Marcus! The process is stopped! (止まっちゃったよ!)」

「チョット マッテネ!」


マーカスはエンジニアチームに何かを早口で指示している。


しばらくして、シアンが動き出した。


チュウ、チュウ、チュウ、チュウ……


ケホッケホッ!


あぁ、また気管に入ってしまった。

クリスは素早く癒しの技を使う。


「Oh! チョットマッテ!」


マーカスが、また何かキーボードをカタカタやっている。


後ろで、心配そうに見ている由香ちゃんが


「見ていられないわ……」と、目に涙を浮かべている。


ママを自認する由香ちゃんとしては、自分の子供がいじられているのが、耐えられないのだろう。

おれは由香ちゃんの方を向いて、


「大丈夫、こういういくつかのハードルさえ超えてしまえば、シアンは人類最高性能の天使になるんだから」

俺は無理にポジティブに話を持っていく。


「天使?」

「シアンはまさに神の使いだと、俺は感じているんだよね」

「天使になんてならなくていい! 元気なかわいい子に、なってくれるだけでいいの……。目もくりぬかれちゃって……。シアンちゃん……」


そう言ってうつむいた。

由香ちゃんは、すっかりママの視点になってしまっている。あまり感傷的になられ過ぎても実験に影響が出てしまうが、どうしたら良いのだろうか。


美奈ちゃんが、ちょっと意地悪な顔で俺に耳打ちする。


「今日はハグしないの?」


また余計なことを言ってくる。


「そう言う雰囲気じゃないよ」


俺はひそひそ声で答えたが、由香ちゃんには聞こえていたようだ。


「もう! 二人ともあっち行って!」


由香ちゃんは、俺を押しのけて俺の席を奪った。

そして……シアンを愛おしそうに見つめ、シアンの口元に垂れたミルクを、ガーゼで丁寧に拭いた。


席を取られた俺は、部屋の隅で美奈ちゃんに小声で言った。


「余計な事言うから!」


美奈ちゃんは、言い返してくるのかと思ったら、なぜかしんみりとして、


「私、ショックだった……」


「え?」


一体どういう事だろうか。俺は美奈ちゃんの意図をつかみかねた。


さらに美奈ちゃんは

「ショック受けたの……」

そう言ってしんみりと下を向く。


「え? 何に?」


俺がキョトンとしてると、美奈ちゃんはキッと俺を睨み、頬をピシッとはたいて


「バカ!」


そう言って部屋から出て行ってしまった。


俺は、はたかれた頬をさすりながら、またやってしまった、とブルーになった。


女難の連鎖が止まらない。

なるべく『相手の心に寄り添うコミュニケーション』を取ろうと思っているのだが、そう簡単にはうまく行かない。そもそも、AIを開発する事が目的のチームなのだから、開発に集中してる時は仕方ないと思うのだが、女の子には怒られ続けてしまう。


正直なところ、理不尽な感じすらする。

俺には、向いていないのかもしれない……。





ミルク飲み学習の方は、その後何回かトライをして、ようやくシアンはコツを掴んだようだった。


チュウ、チュウ、チュウ、チュウ、チュウ、チュウ、


順調に全部飲み干す事に成功した。


パチパチパチ、オフィスに拍手が響く。


俺はシアンの点滴を外すと、縦に抱きかかえ、背中をポンポンと叩いた。


「あれ? ゲップ出ないね?」


「誠さん、私に貸して」


由香ちゃんは、シアンを受け取ると優しく抱きしめ、そして背中をポンポンと叩いた。


ケプ


「はい、出まちたね~。いい子でちゅね~」


由香ちゃんは、目を瞑って幸せに包まれながら、シアンをなでた。


「あー」


シアンも心なしか嬉しそうである。


こういう一つ一つの交流が、AIとしてのシアンの学習にとって、とても貴重なのだ。

生身の身体を持たない限り、この感覚は絶対に理解できない。


人類の後継者となるためには、こういうスキンシップの一つ一つを体感し、人として真っ当な、発想の基盤を持たないとならない。

そう言う意味で由香ちゃんは、とても大切な役割を果たしている、と言えるだろう。





そう言えば、怒って出て行った美奈ちゃんは、どこへ行ってしまったのか?


メゾネットの上からオフィスを眺めたが……いない。


うーん、どうしたものか。

スマホを取り出し、メッセンジャーで


「いまどこ?」


と、送ってみたが既読スルーされてしまう。


そもそも美奈ちゃんは、マーカスと仲良くしてたわけで、俺にちょっかい出してくる事には違和感を覚える。


しかし、俺の気配りが足りないことも原因ではあるので、寒い中、駅前のカフェをいくつか回りながら、探し歩いた。



テーブル席で突っ伏して寝ている美奈ちゃんを、3店目で発見。


俺はカフェアメリカーノを持って、美奈ちゃんの隣の席に座った。

珈琲を啜りながら、美奈ちゃんを見つめた。


両手を組んで、突っ伏して寝る美奈ちゃんは、呼吸に合わせて少しずつ揺れている。

わがままな女神さまも、こうやっていれば、ただの可愛い女の子である。しばらく揺れている美奈ちゃんを見ながら珈琲を啜った。


そして、

「姫様、ディナーの時間ですよ」

俺は耳元でささやく。


美奈ちゃんは、顔を向こう側に動かして黙っている。


「なんか美味しいもの食べに行こうよ」


美奈ちゃんはボソッと言う。

「要らない」


「僕、おなかすいちゃったな」

「……勝手に食べればいいじゃん」

「姫と食べた方が美味しいんだな」

「先輩と食べた方が美味しいわよ」

「どうしたの? 最近変だよ」

「ただの生理だから放っておいて」


なかなか手ごわい。


「あ、あそこのイタリアンいかない? スパークリングワインが美味しかった所」

「……」


「あそこの薄焼きのピザ、美味いんだよなぁ」

「……」


お、手ごたえ有りかな?


「あ、そうだ、今度会社のWebサイト作るじゃない? そのデザインで、美奈ちゃんの意見聞きたいんだよね」

「……」


「アドバイスしてくれると助かるんだけどな。ピザでも食べながらどう?」

「私と二人で行ったら、マズいんじゃないの?」

美奈ちゃんはボソボソと答える。


「あー、じゃ、クリス呼ぼうか?」


俺がそう言うと、美奈ちゃんはバッと勢いよく立ち上がると、荷物をまとめて、

「バカ! 知らない!」


そう言って怒って出て行ってしまった。

取り残される俺。


周りの客の、チラチラっという視線が刺さる。痛い……。


ほとんど成功していたのに、最後の答えに失敗してしまった。


二人でディナーは大丈夫か、と聞かれたら、胸張って『大丈夫』と言えるほど俺には余裕も経験もない。美奈ちゃんは桁外れの美人だし、いきなりデートっぽいディナーには抵抗を感じる。

俺は大好きだった母に捨てられた男、また好きになった人に捨てられたらきっと正気を保てない。俺は自分の心を守るのに精いっぱいだった。


そもそも、美奈ちゃんが俺に、ちょっかいを出してくる理由が全く分からない。彼女の美貌ならどんな男でも選び放題だ。応京大なら将来有望なイケメンなど、幾らでもいるだろう。気の利かないエンジニアの俺にちょっかいを出して、何をやりたいのだろうか? どう考えても理屈に合わない。

うがった見方をすれば『俺から口説かせる遊び』をしている様にすら、見えなくもない。


とは言え、あんなに目立つ美人を怒らせたまま、こんな夜の街で一人で歩かせたら、面倒な事になる。追いかけなきゃ。


急いで店を出ると、美奈ちゃんは信号待ちをしていた。


俺は耳元で言う。

「今晩は姫様の言う事なんでも聞くから、機嫌直して」


「じゃぁ今すぐ死んで」


とんでもない事をサラッという姫様に、軽く眩暈めまいがする。


「いやいや、それは……」

「なんでも聞くんじゃないの?」

「……。」


美奈ちゃんは青になった信号を渡り始めた。


俺も仕方なくついていく。


「どこ行くの?」

「……。」


仕方ない、ついていくしかない……。


しばらく歩いて運河に架かる橋に出た。


美奈ちゃんはそこで立ち止まると、欄干に手をかけて夜景を眺めた。

運河沿いの建物の照明が綺麗だ。


俺は美奈ちゃんの機嫌をうかがう……

色白の透き通った肌に整った目鼻、綺麗な瞳……

俺は、その瞳に映る夜景につい惹き込まれていた。


「正解を教えてあげるわ」


美奈ちゃんは運河を見ながら、俺に言い放つ。


「正解?」


「誠さんはね、損得勘定ばかりだからダメなの」

「え?」


「私の狙いは何かとか、付き合う事になったら面倒くさそうだとか、周りからどう見られるかとか、そんな事ばかり計算してる」


「ん? でも社会を生きていく上では、そうしないとマズいだろ?」

「全然マズくないわ。私、そんな事しないけど、困った事なんてないわ」


え……。俺は固まった。


思い起こせば、確かに美奈ちゃんは、やりたいことを自由にやるばかりだ。


「仕事は全部損得勘定よ、でもプライベートに損得勘定持ち込むから、心が死ぬの」

「え? 心が死ぬ?」

「そうよ、誠さんは知らず知らずのうちに、自分の心を殺してるの」

「いや、常識的に生きるというのは……」


美奈ちゃんは俺をキッと睨むと、

「それよ! 何が常識よ、バカじゃないの? 常識なんて仕事でやってりゃいいのよ。人生に常識持ち込まないで」

そう言い放った。


俺は言葉を失った。そんなこと考えたも事なかった。


思えば損しないように、波風立てないように、そればかり考えて生きて来てしまっていた。


もちろん、一定の処世術と言うのは必要だろう、でも処世術だけでは、生きてる意味がなくなってしまう。


二十歳の女子大生に、そんなこと教えられてしまうとか、俺は今まで何をやってたのか……。

自分を恥じた。


「まぁいいわ、誠さんはまだ若いんだから、これから修正して行けばいいわ」


かなり年下の女の子に、若いとフォローされてしまった。とても情けなく感じる。


「なんだかすごい大切な事……教わった気がするな」

「ふふっ……」


美奈ちゃんは得意げにほほ笑んだ。


風が強く吹いて街路樹がざわめいた。


「止まってると寒いわね」


美奈ちゃんは襟元を閉じる。

俺はそっと後ろから、美奈ちゃんにハグしようとした。


手を回すと、美奈ちゃんは俺の手をはたいた。


「ダーメ、誠さんは、ハグする権利をもう失ったの」


俺は、はたかれた手をゆっくりとさすりながら、


「でも、いつかまた復活する事もあるんだろ?」


美奈ちゃんは、

「ん~、それはどうかな?」


いたずらな笑顔でこっちを見る。


美奈ちゃんの笑顔が、いつに増して眩しく感じる。

しばらく俺は、美奈ちゃんの琥珀色の瞳に、キラキラ反射する夜景に惹き込まれていた。


また強い風が吹き、美奈ちゃんの髪の毛が大きく泳いだ。


寒い、いつまでもこんな所にはいられない。


「家まで送るよ」

俺はそう言って右手を出した。


「……。ありがとう、でも今は一人になりたいの……」


そう言って、美奈ちゃんは俺にそっと近づくと、頬に軽くキスをした。


「また明日!」


美奈ちゃんは軽やかに、夜の街の中に駆け出していった。

ネオンと雑踏の中に、静かに溶けていく美奈ちゃん。

俺はキスの跡を指先で軽くなぞり、いつまでも美奈ちゃんが消えた方向を見ていた。










4-11. 母性


半年ほど時はさかのぼる。

静かな京都の夜、百万遍ひゃくまんべんのコンビニにクリスがいた――――


レジカウンターにペットボトルの水を置き、中年の女性店員を呼ぶ。


「…。すみませーん! お願いしまーす」


客はいないと安心しきっていた店員は、焦って返す。


「すぐ行きまーす!」

自動ドアが開いた音はしなかったのに、と不思議がりながらカウンターに走り、バーコードを読み取り、言った。


「108円になります」


クリスは硬貨をトレーに並べ、微笑みながら言う。


「…。失礼ですが、誠君のお母さまですよね?」


店員はビクッと肩をこわばらせ、硬貨を見つめたまま凍りついてしまった。指先の震えが尋常ではない。


「…。そんなに構えなくても大丈夫ですよ、いいお話です」

クリスは諭すように、ゆっくりと温かく伝えた。


「あ、あの子に何か……あったん……ですか?」


「…。誠君と会社を立ち上げる事になりました。それをお母さまにもご報告しようと思いまして……」


誠の母、神崎静江しずえは恐る恐る顔を上げ、クリスを見た。


「あの子、会社をやるんですか? それは……よかった……。でも、私はあの子を捨ててしまった最低の母親です。いまさらあの子に関わるなんて……。どうか……放っておいてください……」

そう言って、うつむいた。


「…。出資者は田中修司さんですよ」

「えっ!?」

静江は両手で口を覆い、動かなくなった。


「…。外のカフェで待ってますので、終わったら来てください。ゆっくりお話ししましょう」

静江は呆然としながら、ゆっくりとうなずいた。





カフェでクリスが珈琲を啜っていると、静江が入ってきた。

静江は伏し目がちで、ちょっと警戒するように歩き、席に着いた。

ホットコーヒーを注文する。


「…。お母さん、そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。田中修司さんと誠君の事を知っているのは私とお母さんだけです。出会ったのも偶然ですし、出資を引き出したのも誠君のプランが素晴らしかっただけです。あなたの息子さんには才能があります」

クリスは微笑みながら、丁寧に説明した。


「あの子は……元気ですか?」

静江はうつむきながら、こわばった声を出す。


クリスはプリントした写真を3枚ほど出すと静江に渡した。そこには飲み会ではしゃぐ誠やオフィスでくつろぐ誠のスナップが写っていた。


「…。ご覧の通り凄く元気ですよ。精力的に事業を進めています。なかなかいない若者です」


「マコちゃん……。よかった……。それで……どんな会社をやるんですか?」

静江はゆっくりと視線を上げる。


「…。お母さん、驚かないでくださいね」

そう言って、クリスは深層後継者計画の全てを丁寧に説明した。


「え!? バレたら逮捕……ですか!?」

青ざめる静江。ただでさえ『人類を救う』という荒唐無稽な目標を掲げているというのに、やる事が人体実験、もはや正気の沙汰とは思えなかった。


「…。誠君の発案です。彼はこの計画に人生をかける覚悟なのです」

「マコちゃん……なんて事を……」

静江は胸に手を当て、何度か大きく息を吸った。

気持ちを落ち着けると、運ばれてきたコーヒーを、まだ少し震える手でそっとすすった。


洋楽のヒットナンバーが店内に静かに流れていた。


そして、静江は何かを意に決すると、クリスの目をまっすぐに見つめ、言った。


「分かりました。それでは全ての罪は、私がかぶるように取り計らってください。赤ちゃんも私が産みます」


「…。本気……ですか?」

クリスは眉をひそめ、聞いた。


「あの子を守るためなら、私は命も惜しくないの……。全てをこの計画に捧げるわ。この身体、全部使ってください」

静江は吹っ切れたように、すごく嬉しそうな顔をして答えた。


クリスは静江を見つめ……そして、腕を組んで目を瞑った。


「何でもやります! もちろん報酬も要りません!」

静江は熱を込めて言う。


クリスはチラッと静江を見て、また目を瞑り、首を傾げた……。


親らしいことを、何もしてあげられなかった静江にとって、これは罪滅ぼしのチャンスであった。


しばらく思案したのち、クリスはほほ笑んで言った。

「…。分かりました。お母さんのお申し出は受けましょう」


「よかった……。でも、あの子には秘密にしてくださいね」

「…。いいんですか?」

「私はね、あの子の役に立てるだけで本当に……本当に嬉しいの……」

静江は目に涙を浮かべて答える。


クリスは涙を見つめ……言った。

「…。分かりました。では詳細はまたご連絡します」


こうして、誠の知らぬ間に、静江は深層後継者計画のキーパーソンとなっていたのだった。





シアンがミルクを飲めるようになって1週間、手足を随分と上手に動かせるようになってきた。


由香ちゃんが

「シアンちゃ~ん、アンパン〇ンですよ~」

そう言って、アンパン〇ンのおもちゃをシアンの前で動かすと、

「うー!」

と、言って、それをガシッと掴み、奪い取って口に入れて感触を確かめる。

口唇期という奴だろう。

まずは、口を使って世界を理解する、それが人間の基本なのだ。

AIにも、まずは口で、いろいろな物を理解してもらおう。


一通り、口でしゃぶり尽くすと、今度は指先でアンパン〇ンの目をつつく。

「うー!」

「目をつついたら、アンパン〇ン痛い痛いよ!」


由香ちゃんが声をかける。


「う”ぁおおお、ばふぅ!!」


シアンが何か言っている。


「これ?なんて言ってるの?」

由香ちゃんに聞いてみたが、


「うーん、何なんでしょうね? もう少しで、わかりそうな気がするんですが……」


由香ちゃんにもわからないようだ。


「あ”らばこぶぅ!」

うーん、謎だ。


シアンの頭脳のAIは、IDC内の12本のラックで、エアコン120台分の膨大な電力を消費しながら、24時間体制で、学習のフィードバックをかけ続けている。

この謎の言葉の裏にも、複雑な思考が隠れているんだろうけど……良く分からん。


シアンの子守は、深夜から朝にかけてはクリスが、後は、オフィスに居るメンバーが適宜交代しながら、面倒を見るようにしている。

クリスは夜間、成長促進をシアンにかけながら、面倒を見ている。


俺はだいたい、8時に目が覚めたら8時半にはオフィスに行って、クリスと交代するようにしている。

その後、10時あたりにメンバーが出社してくるので、適宜交代してもらっている。

誰も子守ができない時は、AIを一旦止めて、スリープモードにして寝かしつける事にしているが、なるべくそうならない様に、みんなで手分けして分担している。





手厚い子守体制で、さらに1か月、シアンはついに寝返りに成功した。

クリスが成長促進をシアンにかけているので、一般の赤ちゃんよりは相当に成長は速い。

地面にあるものを拾えるようになり、おもちゃを重ねたり、組み合わせたり、今までよりも複雑な思考ができるようになり、さらに学習が進んでいるようだ。

今のところ、予想以上に順調で怖いくらいだ。


俺がシアンのそばで、仕事しながら子守をしていると、由香ちゃんがオムツを替えに、部屋に入ってきた。

それを見たシアンは、すかさず由香ちゃんを指さして言った。


「マンマ!」


由香ちゃんは、思わず、持っていた紙おむつのパックを落として、駆け寄ってきた。


そして、シアンを抱きあげて、

「そうよ、シアンちゃん、ママよ~!」


目が潤んでいる。


「マンマ!」

「あぁ、シアンちゃん!」


由香ちゃんは、目を閉じてシアンに頬ずりをし、全身で幸せを感じている様だった。

ここ何か月も、由香ちゃんはシアンを献身的に世話してきた。その自分の分身のような存在であるシアンから、自分を認めてくれたら、感慨もひとしおだろう。


ただ……

さっき俺にも「マンマ」と言っていたんだよね……。

単に『ミルクが欲しい』って意味なのかもしれない。

秘密にしておかないと……。





「あー、由香ちゃん、今日からタブレット学習をするよ」

そう言って、マウスの時にも使ったタブレットを見せた。画面には、美奈ちゃんと戦った時の、二次方程式の問題が出ている。


「え? こんな難しい事、シアンに分かるんですか?」

「多分、すぐに解けるようになるよ」

「だって言葉もまだですよ?」

「これ、マウスの時にすでに解いてたんだよね」

「マウスはマウスです! シアンは女の子なんです!!!」

由香ちゃんは怒ってしまった。どうも自分の子がマウスと同一視されることに、納得がいかないようだ。


「まぁとりあえず見ててよ」

そう言って、俺はタブレットを、ベビーベッドにセットした。


「はい、シアン! 今日からお勉強だぞ!」


俺はシアンに、一番簡単な問題の画面を見せて、シアンの指を引っ張って、正解のボタンをタップさせた。

ピンポーン!

チャイムが鳴って、小さな玉子ボーロが一つ落ちてくる。


シアンは

「きゃははは!」

と言って玉子ボーロをつまみ、じっくり観察している。


俺は

「ウマウマよ! ウマウマ!」


そう言って食べるゼスチャーをして見せた。

シアンは、恐る恐る口に入れて、モグモグした。

まだ歯も生えていないのだが、玉子ボーロはすぐに溶けて、甘味を口の中に広げた。


「きゃははは!」

甘味に反応して喜んでいる。

シアンはもっと欲しくなり、画面を掌でバンバンと叩く。

でも、たまたま正解した時しか、玉子ボーロは出てこない。


「うー!」

不満そうである。


でも、ここは自分で乗り越えてもらわないと。

10分くらい、試行錯誤していくうちに、どうやら回路が出来上がったようで、100%正解できるようになった。

まだ『●』の数の多い方を押すだけの、簡単な問題だが、それでも100%ならバッチリだ。

隣で、ハラハラしながら見ていた由香ちゃんも、ここまでくると安心したようだ。


「ほら、シアンは賢いだろ?」

俺がニヤッと笑って言うと、


「この位はできますよ! でも二次方程式なんて……」

「じゃぁやってみようか?」


俺はそう言って、タブレットの問題を入れ替えた。


「マウス時代にシアンは、この問題で美奈ちゃんに勝ってるんだよ」

「え? 美奈ちゃんに!?」


と、その時いきなりドアが『バン!』と開いた。


「聞き捨てならないわね! 勝ったのは私よ!」


美奈ちゃんが乱入してくる。


この娘は、なぜこんなに地獄耳なのだろうか。

ちなみに俺は、まだハグをする権利を回復してもらってない。









4-12.倒錯の女神


確かに、美奈ちゃんは訳の分からない早業で、勝ったのは勝った。しかし、あの異常な回答速度はインチキ臭かったのだ。


「あー、最初負けたじゃん?」

「最後には勝ったのよ!」

そう言って、誇らしげに胸を張る美奈ちゃん。


由香ちゃんは何の話をしているのか、ポカンとしている。


「昔、2台のタブレットで解答速度を競ったんだよ」

「先輩もやってみれば分かるわ!」 そう言って、悪だくみをする美奈ちゃん。


「二次方程式の答えを、早く解答した方が勝ち、って話?」

「そうそう、応京大生なら赤ちゃんに負けちゃダメよ!」


ナチュラルにハードルを上げる美奈ちゃん。


「いやいや、シアンはまだ●の数しか答えられないんだから、勝負はまだ先……」

「誠さん! 由香ちゃんばかり贔屓ひいきしてる~!」


俺を非難の目で見る美奈ちゃん。


「いや、シアンにはまだ解けないって……」

「やってみなきゃわからないじゃない! 私の時はぶっつけ本番でやらせたくせに!」

「いや、また日を改めてね……」


しどろもどろの俺を見て、由香ちゃんは、


「誠さん、大丈夫ですよ、二次方程式解けばいいだけですよね?」

「そ~う、そう! 簡単よ!」

ちょっと意地悪な顔でそう言う美奈ちゃん。


「あ~……。じゃ、やるだけやってみる? まだ競争とか言うレベルじゃないと、思うんだけど……」


由香ちゃんに予備のタブレットを渡した。


「シアン、難しいかもだけど解いてみてごらん」


俺は競争の準備を整えた。


「では、用意……スタート!」


タブレットの画面に二次方程式の問題が出る。

画面をじっと睨む二人。


マウスの時の学習回路が、シアンの中でどこまで生きてるかがカギだろう。大幅に構造は変わってしまったから、いきなりでは動かないと思っているのだが、どうだろうか。


二人とも必死に画面を睨む。


「あー、これは答えの選択肢を代入しちゃえば速いのね!」 そう言って暗算し始める由香ちゃん


その隣でシアンが、おもむろに正解をタップ!


ピンポーン!


「え!?」


由香ちゃんが思わずシアンを見る。


一度解き方が分かったシアンは、無敵だ。


ピンポーン!ピンポーン!ピンポーン!ピンポーン!ピンポーン!ピンポーン!ピンポーン!


あーあ……。


由香ちゃんは唖然として凍り付いた。


「シアンちゃん……あなた……」


「先輩! 応京大生として勝たなきゃダメですよ!」


美奈ちゃんがニヤニヤしながら言う。


「こんなの勝てる訳ないわよ……」

由香ちゃんがしょげる。


「私は勝ったわよ! ね、誠さん?」

「まぁ、確かに勝った……かな?」

「何よ! その歯切れの悪い言い方!」

膨らむ美奈ちゃん。


「え? 美奈ちゃん本当にこれに勝ったの?」

「そうよ! 血の滲む苦労を重ねて圧勝したのよ!」

「あー、勝敗はあまり関係ないよ、要はシアンが、ちゃんと成長してるかどうかを体感してもらうための……」

「何言ってんの!? 勝負は勝たなきゃダメなのよ!!!」


妙にこだわる美奈ちゃん。


「じゃぁ美奈先生! 模範演技をお願いします!」


由香ちゃんが、美奈ちゃんの手を取ってお願いする。


「え?」


墓穴を掘る美奈ちゃん。


「確かにそこまで言うなら、勝者のお手並みを見せた方がいいかと……」


俺も控えめに追い込む。


「い、いいわよ! その代わり、私が勝ったら『シアンのママ』の称号は貰うわよ!」


また意地悪な事を言い出した……。


「え!? そ、それは……」


うつむく由香ちゃん。


「勝負は命がけよ! 何かご褒美が無きゃできないわ!」


美奈ちゃんは意地悪な笑顔でにっこり笑う。


由香ちゃんは、しばらくうつ向いていたが、意を決して顔を上げて美奈ちゃんを見た。


「……。いいわよ、その代わり、負けたらオフィスで、誠さんにベタベタするの止めてね」


美奈ちゃんの表情がこわばる。


なぜそこで俺が出てくるんだ?


「え!? ちょっ……」


言いかけた俺の言葉をさえぎって、美奈ちゃんが言う。


「ベタベタって何?」

「ハグしたりキスしたり、良くないと思うわ」


なんだかヒートアップしてきた、マズい感じがする。


「先輩だって、こないだハグしてもらってたじゃない!」

「誠さんからするのはいいの! 女の子から頻繁に行くのは、ちょっと見苦しいわ」

「ふ~ん、じゃ、条件を変えるわ、私が勝ったら、いつでもどこでもベタベタするわよ! 負けたらやらない! これでどう?」


俺はたまりかねて口をはさむ

「ちょっと待って、二人とも、冷静に……」


「誠さんは黙ってて!」「誠さんは黙ってて!」

二人がハモりながら、有無を言わさない圧力で俺をにらむ。


「は、はぃ……」


由香ちゃんは美奈ちゃんをにらむと、

「いつでもどこでもベタベタ、って猫じゃないんだから、おかしいわよ」


「実際にベタベタするとは言ってないわ、権利の問題よ。負けたらダメだと禁止されるなら、勝ったら自由にやらせてって話」


しばらく由香ちゃんと美奈ちゃんは、にらみ合った。二人の間には見えない火花が、激しくバチバチ飛び散っている。

俺はおろおろするしか、できなかった。


由香ちゃんが口を開く。

「……。分かったわ、その代わり、相手はシアンじゃなくて私がやるわ」


「え? 先輩が?」

ちょっとバカにした感じで笑う。


「私だって応京大生よ、舐めると火傷するわよ!」

いつになく強気である。でも、前回の美奈ちゃんの高速解答の姿を、見てる俺としては、由香ちゃんが勝てるとは思えない。


「いやいや、由香ちゃん、美奈ちゃんの解答速度は異常だよ。普通にやったら絶対勝てないって」


「強敵なのは知ってるわ。でも、女には逃げてはいけない勝負、と言うのがあるの」


いや、これは逃げていいと思うんだけどな……。


「ただ、1問勝負、新問題にして」

由香ちゃんは美奈ちゃんを見て言った。


「ふぅん、考えたわね……、いいわよ」


美奈ちゃんは余裕の笑みを浮かべる。


え? 美奈ちゃんは新問題でも大丈夫なのか?

俺はてっきり、正解を暗記してたんだと思ったんだが……。


「誠さん、早く準備して!」


由香ちゃんに急かされて、新しい問題を作ってタブレットにセットした。


雨降って地固まるという事もあるしな、まずは正々堂々戦ってもらうのが一番かもな。

俺はタブレットを一台ずつ渡した。


二人はそれぞれ目を瞑って何かを思っている。勝負は一瞬で決まる、精神の集中具合が勝敗を分けそうだ。


「はい、準備は良いかな?」

二人はゆっくりと頷いた。


「俺としてはこんな勝負は……」 そう言いかけたら


「いいから早くやって!」「いいから早くやって!」

また二人にハモられた。


実はこの二人、息ピッタリじゃない?


オホン!

軽く咳払いをして――――


「それでは始めます……」


張り詰めた緊張感が、部屋中を覆う。


「用意! ……スターッ」


ピンポーン!


由香ちゃんのタブレットが鳴り響く。


えっ!?


俺も美奈ちゃんも唖然とした。


俺が開始の信号を、タブレットに送ったと同時に、由香ちゃんは解答をタップしたのだ。


「はぁ!?」


思わず固まる美奈ちゃん。


無言で力強く、ガッツポーズする由香ちゃん。


「私、この手の勝負で負けた事ないの……」


満面の笑みで美奈ちゃんを見る。


「ハッ、ハハッ、、ハッハッハ、ハッハッハッハッハー!」

美奈ちゃんが笑いだした。


俺は由香ちゃんに聞く。


「問題見ずに押したよね?」

「え? ちゃんと問題見て、解きましたけど何か? 私の勝ちですよね?」

にっこりと笑顔で返す由香ちゃん。


いやいや、解けないって。

問題表示とほぼ同時だったから、最初から押すボタンを決めていたのだろう。決め打ち。勝率は50%、すごい賭けに出たな。


「うん、まぁ、文句なく由香ちゃんの勝ちだけど」


美奈ちゃんは延々と笑っている。

「ハッハッハッハッ……ヒー、おかしい!」


「何がそんなにおかしいのよ!」

憤慨して由香ちゃんが言う。


美奈ちゃんは居住まいを正すと、急に真剣な目で由香ちゃんを見て言った、

「先輩! 先輩の漢気に惚れました! 付き合ってください!」


いきなり愛の告白を始めた。


「え? 何? いきなりどうしたの?」

うろたえる由香ちゃん。


「私、人間に勝負で負けたのは、初めてかも知れない。ビビッと来ました、先輩!」


人間にって……まぁ確かに前回はAIのマウスだったけど……。


「え? 私は……そういう気はないから、女性とは付き合えないのよ」

必死に逃げる由香ちゃん。


「えー? 女同士も……いいものよ。ふふふ」 そう言いながら、危険な眼で由香ちゃんの手を、ガシッと掴む。


さすがにまずいので、

「美奈ちゃん、そういう嫌がる事しちゃダメだよ」

「そ、そうよ、気持ちは嬉しいけど、私には応えられないわ」

「えーっ!? この気持ち、どうしたらいいの?」


由香ちゃんの胸に飛び込む美奈ちゃん。


「柔らか~い……。せんぱ~い、もう離さない……」


由香ちゃんは仕方なくハグし、困った顔を俺に向ける。

俺は肩をすくめて首をかしげた。


心のままに生きるというのは、こう言う事だよね。

本人は良いかもしれないけど、周りは大変だわ。

















4-13.救世主の敵、告白


シアンの育成は順調だ。ある刺激に対して適切な反応を返す。それも人間よりもかなり高度に返す。

しかし、ここまでなら、今までのAIと本質的に変わらない。シアンが人類の後継者たるには、自我を持って、自発的な行動をできるようになる必要がある。

基本的な学習が済んだ今、いよいよシンギュラリティに達するかどうか、が焦点になってきた。


今、俺の生活はシアン中心の生活だ。

朝起きてから寝るまで、ほぼシアンとべったりなのだ。

シアンを胸に抱きながらmacで資料を作り、書類にハンコを押す。


由香ちゃんなどのメンバーと交代できるし、クリスがいるから病気の心配はないし、夜もぐっすり寝られるわけだが、それでもしんどい。

一般の子育て家庭は、一体どうやっているのか、想像を絶する。

夜中も1時間おきに起こされるとか、看病するとかしているのだろう。その気の遠くなるような戦いに、脱帽せざるを得ない。

俺も母には相当迷惑をかけたのだろう、確かにシングルマザーがこれを一人でやったら心を病んでも仕方ないのかもしれない。だからと言って子供を捨てていい訳ではないが、母が背負っていた闇を少しだけ理解できた気がした。





俺がmacを叩きながら、シアンにおもちゃを渡すと


「ちが~!」と、おもちゃをはたき落とされた。


横で見ていた由香ちゃんが、別のを渡すと


「あい~!」と、言って、満面の笑みで受け取った。


好き嫌いは自我が芽生えてきた証拠、好ましい事ではあるんだが……。

もしかしたら、俺が嫌われているだけなのかもしれない。

その場合も好ましいこと……なのだろうか?


人類の後継者のAIにとって、望ましい在り方というのは、実はすごい難しい問題だ。

例えば愛憎で考えてみても、『愛』だけでは人間の事は本当には理解できない。でも『憎』が多すぎては人類にとって災厄になってしまう。

基本に『愛』があり、『憎』は発現しても、すぐに『愛』に覆い隠されるようなバランスを、作ると良いと思うのだが、それを実現するためにどう育てたらいいのかは、よくわからない。

こればかりは、育てていく中で見極めないとならない。





さらに2週間くらい経つと、お座りとハイハイができるようになっていた。

なんという成長速度だろう。こんなに早く育ててしまって、本当に大丈夫なのだろうか。

まぁ二次方程式を瞬時に解答できるのだから、もっと育っていてもいいのかもしれないが……。


変わりばんこにメンバーが、シアンの相手はしているが、もはや我々が相手にするだけでは、シアンの好奇心を満たせなくなってきた。

次はコンテンツを与えてみよう、という話になり、NHKの教育番組を見せることになった。

由香ちゃんがあぐらをかいて、シアンを足の上に乗せてTVを点けた。ちょうど歌の番組をやっている。

最初シアンは、何が起こったのか、怪訝そうな表情だったが、すぐに気に入って、画面を食い入るように見つめた。


「はい、シアンちゃん、お手々叩きましょうか?」


由香ちゃんは、シアンの両手を持って、パンパンとTVの音楽に合わせて叩いた。


「はい、パンパンパン、パンパンパン」


シアンはどういう事か、最初は戸惑っていたようだが、


「ぱんぱんぱん……きゃははは!」


どうやら気に入ったようである。


「ぱんぱんぱん……ぱんぱんぱん……きゃははは!」


音楽も大切な人類の文化、こうやって、身体を使って音楽を楽しむ事が、人類の後継者には必要だ。


そのうちシアンは、転がっているおもちゃを叩き出した。


コンコンコン!


「あら、シアンちゃんお上手~」

「きゃははは!」


それに気を良くしたのか、シアンはTVそっちのけで、転がっているおもちゃを次々と、叩き始めた。


カン!

キンキン!

ゴッゴッ!

カカカカ!


「これは何をやってるんでしょう?」


由香ちゃんは俺に聞く。


「いい音が出るおもちゃを、探しているのかな?」

「楽器探しって事ですか?」


そこに美奈ちゃんが入ってくる。


「由香の姉御! おはようございます!」


美奈ちゃんはあれ以来、由香ちゃんに絡むようになってる。


「おはよう美奈ちゃん。姉御は止めてって言ってるでしょ!」

「了解です! 姉御!」


どうやら通じていないらしい。


「誠さんに変な事されてないっすか?」

「変な事って何よ?」

「ハグとかキスとか……」


一体俺を、何だと思っているのだろうか?


「大丈夫です!」


由香ちゃんが少し赤くなって答える。

美奈ちゃんは由香ちゃんにピタッとくっ付いて、こっちを睨む。


シアンは大人の事情には無関心で、積み木を全部ぶちまけて、一つ一つ音の違いをチェックしている。

カンカン!

コンコン!


すっかり匠である。


「で、シアンはこれ、何してるんすか?」

「どうも楽器を作ろうと思ってるらしいのよね……」

「楽器!」


シアンは納得いくまで積み木の音をチェックしたら、今度は積み木を並べて叩き始めた。

コンコンカン!

コンコンカン!


「きゃははは!」


ご満悦だ。


「あら、シアンちゃん、さすがだわ!」


由香ちゃんがシアンの頭をゆっくりと撫でた。


美奈ちゃんはムッとした感じで、積み木をいくつか並べると


「シアン、こうよ!」


コココッカン!

コココッカン!

カンカンコココッカン!


と、叩いて見せた。

シアンは

「きゃははは!」と、喜んでる。


「由香の姉御! 私もさすがでしょ?」


と、両手を広げてハグを求める。

俺は困惑する由香ちゃんを代弁して、


「いや、美奈ちゃん、それは無理筋じゃないかな……?」

「何よ! シアンの教育にこれだけ貢献しているんだから、ご褒美が必要だわ!」

「分かったわ、美奈ちゃん、よくできました!」


由香ちゃんが美奈ちゃんをハグしてあげる。


「きゃははは!」


シアンはなぜか嬉しそうだが、俺は腕組みして悩む。


「うーん、何かがおかしい気がする……」


その後、シアンは


コココンカン!

コココンカン!


と、上手にリズムを取り出した。

とは言え、まだ腕の筋力が足りないので、これ以上は厳しそうだ。


俺はタブレットにパーカッションアプリを入れた。

タップするだけで、ドラムの音が出るので、これならシアンでも行けそうだ。


タブレットをシアンにわたすと


「うわー!」

と、言って、受け取って、手のひらで画面をバンバン叩いた。


叩くたびに


ポン、ポン、カコン!

といろんな音が出る。


「きゃははは!」


シアンは喜んで、両手でバンバン叩きまくる。


「シアン、貸してごらん!」


美奈ちゃんが、横から器用にタブレットを指先で叩く。

コッカッココカッ!ドッ!

コッカッココカッ!ドッ!

ドン!ココカッココカッカコンコン!


「きゃははは!」


シアンは


「しぁんもー!」


と言うと、タブレットを独り占めして、指先でたたき始めた。

コッカッコココカッ!ドッシャーン!

コッカッコココカッ!ドッシャーン!


「きゃははは!」


絶好調である。


美奈ちゃんは、演奏アプリを自分のスマホに入れて、ピアノでセッションし始めた。

ジャーン、ジャジャ、ポンポロポロ♪


「きゃははは!」


コッカッコココカッ! コッカッコココカッ! ドッシャーン!


なるほど、これは乗らねばなるまい。

俺はベースで由香ちゃんはサックス


各自好き勝手に弾くが、そのうちだんだん合ってきた。


ボーンボンボンボン……

パーッパップロプロプロパパパパッパッパーパーパー!!

ジャーン、ジャジャ、ジャーン、ジャジャ、ポンポロポロ♪

ドコドコドコドコチャッチャチャタタンタンタン シャーン!


数フレーズが上手くハマって


「きゃははは!」


シアンは大喜びである。そうそう、こういう体験がシアンには大切なんだよ。


「イェーイ!」


美奈ちゃんは、シアンの手を取ってハイタッチ。

シアンも喜んで、今度は自分からハイタッチ。

俺も由香ちゃんとハイタッチ。

嬉しくなって、目を合わしてニッコリ。


「あ、そこ! ダメ!」


美奈ちゃんが由香ちゃんを捕まえる。


「もう、油断も隙もないわ!」

「なんだよ、ハイタッチくらいいいじゃないか!」


俺が文句を言うと、


「次はハグしようとしてたくせに!」

「えー!?」

「誠さんにはハグする権利はないの!」

「そんな事ないよな、由香ちゃん?」

「え、まぁ、時と場合によりますけど」

「ダメ! ダメダメ!」


困った娘だなぁ。


と、そこにクリスが入ってきた。

「あー、クリス、ちょっと美奈ちゃんに何とか言ってやって」


目をそらす美奈ちゃん。


俺が事情を説明すると、クリスはしばらく考え込んでから言った。

「…。美奈ちゃん、あまり若い二人を困らせないであげてください」


美奈ちゃんはクリスをキッとにらむと、何か言いかけて……やめて、ゆっくりと言った。

「……ふぅん……まぁいいわ。私も一応20歳なんだけど……ね」


美奈ちゃんはそう言うと、由香ちゃんにハグをして耳元で何かささやいてる。


次に俺の所にやってきて、耳元でひそひそ声で言った。


「『ヤバい人』って実は私なの、内緒にしててくれたら今度教えるわ」

そう言って胸を張り、ウィンクして部屋から颯爽と出て行った。


俺は、いきなりのカミングアウトに動揺して動けず、出ていく美奈ちゃんを、ただ見送るだけだった。


由香ちゃんは

「納得してくれたようでよかったわ」


と、晴れ晴れした表情だったが、俺はそれどころじゃない。

でも、内緒という条件であれば……ここでは何も言えない。


「そ、そうだね……」

お茶を濁すしかなかった。


美奈ちゃんは確かに、色々かき乱す『ヤバい人』ではある。でも、さっきの口ぶりではそういう意味合いの『ヤバい人』という感じではなかった。


何かもっと、重大な意味を含んだニュアンスを感じた。

やはり、未来の由香ちゃんが言っていた『ヤバい人』なのだろう。


しかし……、クリスが警戒していた『ヤバい人』はクリスを倒せる……つまり、クリスより強力な奇跡を使える存在の事。美奈ちゃんが、そんな『とんでもない奇跡』を発動できる……なんて事があるのだろうか? もし、できるのだとしたら、そんな神様以上の存在が、なぜ女子大生なんてやっているのか? また、そんなすごい存在が、俺や由香ちゃんに、つまらないちょっかい出したりするだろうか?

どう考えてもつじつまが合わない。単なる混乱目当てのブラフ、という線が強そうにも思う。


そもそも、内緒にしていたら話す、というのはどういう条件設定なのか?


秘密の共有に、何らかの意味があるという事か……それとも単に分断したいだけか……。

考えれば考えるほど混迷は増すばかり。


とりあえず折を見て、ちゃんと聞くしかない。

ここの所、美奈ちゃんには振り回されっぱなしだ……。












4-14.ブルータビー&ホワイト


NHKの教育番組は、実によくできている。

歌以外にも踊りにコミカルな短編アニメ、非常にクオリティ高いコンテンツだ。


俺はシアンを膝の上に乗せながら、一緒にNHKをボーっと見ていた。

大人が見ると、癒される効果があるかもしれない。


ただ、それでもシアンは、最近飽き始めてしまったようで、TVが点いていても、遊びをせがむようになってきた。


由香ちゃんは、駄々をこねるシアンを抱きあげると


「そろそろ、何か別の物を用意しないと……」

と、言った。


「うーん、何がいいかなぁ……」

「ペットとかどうかしら?」


「え? ペット……。ただでさえ子守が大変なのに?」

「ペットは情操教育に良い、ってどこかの偉い人が言ってたわ」

「うん、まぁ確かにそうなんだけどね……」


そこに、美奈ちゃんが『ガン!』と派手に音を立ててドアを開け、入ってくる。


「猫よ猫! 猫飼うわよ!」


なぜ聞こえてるのか? この地獄耳には毎度驚かされる。外で聞いて待ってたのではないかと思えるくらいだ。


「猫? 誰が世話するんだよ? ハムスターとかにしようよ」 と、渋る俺を無視して、由香ちゃんも


「あ~、猫いいわね! スコティッシュフォールドとか可愛いし!」 と、乗り気になってる。


「耳の折れた猫ね、あれもいいわね! 可愛い!」

「そうそう、可愛いは正義よ!」


二人で手を合わせて、キラキラした瞳で盛り上がってる。


「いやいや、俺は反対だよ! 病気になったら誰が病院連れて行くんだよ? 可愛いだけじゃ無いんだよ! 大変なの!」


俺は徹底的に反対した。


どれだけ猫を飼うのが大変か、事例を挙げて全力で口を酸っぱくし、延々と反対した――――


で、今、猫売り場に居る。なぜだ……。


「スコティッシュフォールドは無いんだって……」


由香ちゃんがしょんぼりする。


「あ、この子可愛いよ」


美奈ちゃんがメインクーンを指さす。


「どれどれ……あっ、かわい~ぃ!」


俺も覗いてみた。ブルータビー&ホワイトの生後2か月半の子猫だ。


クリっとした丸い目に、ふわっふわの毛並み。こちらを気にしてキョロキョロと動くしぐさ……何だこれは……全てが愛おしい。


ダメだ、頭では飼うのに反対してるのに、抗えない……。何という魔力。可愛いは正義。


「この子よこの子!」


美奈ちゃんも盛り上がっている。


すかさず店員がやってくる。


「抱いてみますか?」

「えっ? 抱けるの!? ぜひぜひ!!」


店員はケージをあけて、そっと子猫を抱きあげて、美奈ちゃんに渡す。


「あっ、温かい……柔らか~ぃ……」

うっとりしている。


美奈ちゃんの美貌とかわいい子猫の組み合わせ、もはや芸術作品である。

見てるだけで幸せ。俺もうっとりしてしまう。


「美奈ちゃん、次は私!」

「待って、もうちょっと……」


美奈ちゃんはゆっくりと、子猫をなでなでしながらトリップしている。


「早くぅ! ……!」


しびれを切らした由香ちゃんが、半ば強引に子猫を奪う。


「……あぁ、本当だ……柔らかーい……」

由香ちゃんもトリップしてしまった。


これは俺も抱かせてもらわねば……


「次は俺だぞ!」


「何言ってんの! 反対してた人はダメで~す!」

そう言って、美奈ちゃんは子猫を奪う。


えー……。何、その仕打ち……酷い……。


「誠さんはこれでも反対ですか?」


由香ちゃんは、少し意地悪な顔して言う。


「う、俺は世話をどうするか? という問題をだね……」


「ふぅ~ん。じゃ、ちょっと抱いてみて」


由香ちゃんは、美奈ちゃんから子猫を取り上げると、俺に渡した。


おっかなびっくり受け取ると……温かくて……柔らかい……。


あ、これはダメな奴だ……心の奥底が虜となってしまって、もう逃げられないのを感じる。

軽く頬ずりすると、ふわっふわの温かい感触が天国にいざなう。

俺もトリップしてしまった。


「これでも反対?」

「……。分かった……俺の負けだよ……」

俺は子猫に頬ずりしながら言った。


「じゃぁ決まりね!」


由香ちゃんはにっこりと笑うと、店員について行って、買う手続きを始めた。


お値段248,000円、その他食器にキャットフード、ベッドにケージ、トイレに砂……

これら飼育セット一式合わせて約30万、こんなの経費で落ちるのかな……。





子猫を連れて帰り、オフィスで早速シアンとご対面。


「シアンちゃーん、猫ちゃんですよ~」

由香ちゃんが子猫を抱いて、シアンの前に座る。


シアンは初めて見る生き物に、ビビっている。

ちょっと後ずさりして、ジッと猫を見つめる。


猫もビビッて緊張している。


「大丈夫よ、ほぅら、触ってごらん」

そう言って、シアンの手を子猫に触れさせる。


シアンは

「うひゃー!」


と言って、柔らかな手触りに何か反応をしてる。


そのうち、気に入ったのか自分で撫で始めた。


「……きゃははは!」


最高の笑顔で笑うシアン。


どうやら子猫の可愛さに、目覚めたようだ。


「そうよ~、仲良くしてね!」

由香ちゃんが嬉しそうに言う。


そう言えば、名前をまだ決めてなかった。


「名前はどうするの?」

と、由香ちゃんに聞くと


「何がいいですかねぇ……」

「男の子だから、虎徹とかかな?」


美奈ちゃんがサラッというが、こんなに可愛いのに虎徹はないだろ。


「じゃ、何がいいのよ!」


確かに、何がいいんだろう?

俺は子猫を優しくなでながら聞いた。


「お前は何て呼んで欲しいんだ?」


そうすると子猫は


「みぃ……」 と、小声で答えた。


「『ミィ』らしいよ、『ミィ』にするか?」

「何それ!? そんな名づけ方ってあるの?」

美奈ちゃんは気に入らないらしい。


するとシアンが

「みぃ! きゃははは!」と、笑った。どうやら気に入ったらしい。


「どうやら『ミィ』で決まりらしいよ」

俺は美奈ちゃんに言う。


「え~……」

そこにマーカスが、にこやかに入ってくる。


「Hey! Guys!」

そして子猫を見つけると、目を丸くして口を開けて固まった。


「WOW! Supah kawai! (わー、かわいい!)」

俺はすかさず紹介する


「He is MIE(ミィちゃんだよ。)」


これを発音が同じ「He is me.(子猫は俺だよ)」と勘違いしたマーカス、


「What!? マコト コンナニ カワイクナイネ!」

と言って首をかしげる。


ハッハッハッハッ!


美奈ちゃんがウケて笑い出す。


俺も、しまったと思って言い返すが……


「No! No! MIE is not me……(ミィはミーと違うんだ……)」

「What!?(なんだって?)」


全然伝わらない、何言ってんだ俺は……。


美奈ちゃんが笑いながら言う。

「ハッハッハ、そら見なさいよ! ハッハッハー!」


「だからと言って、虎徹はないだろ」


揉めてるとシアンが

子猫を抱きあげて


「みぃ!」

と、言った。


「Oh! コネコ ミィ ネ!」

マーカスは理解したようだ。


「えー! 他の名前にしようよ~」

美奈ちゃんは不満げである。


そして、マーカスの方を向いて、色っぽいポーズを作って聞いた。


「Hey! Marcus! Which is better MIE or KOTETSU?(マーカス、ミィと虎徹とどっちがいい?))」

「『You!』 HAHAHAHHA!(『me(私)』が選択肢なら美奈ちゃん、あなただね! はははは!) 」


またくだらないオヤジギャグを……


美奈ちゃんは脇のテーブルを


バンッ!


と叩くと、


「……What? (何ですって?)」

今にもマーカスを殺しそうな目をして、言った。


「HA,HA……」

マーカスは、ギャグが通じなかったことに気づく。


部屋中が凍り付く。


マーカスは小さくなって早口で言う


「Oh! sorry, but I just remember I have to do……. (あ、やんなきゃいけないこと思い出した!)」

そういって、急いで部屋から出て行ってしまった。


「信じらんない!」

憤慨する美奈ちゃん。


「まぁまぁ、シアンのために飼ったんだから、シアンが呼びやすい名前にしようよ」

俺が説得する。


「みぃ!」

シアンはそう言って譲らない。


「仕方ない、赤ちゃんには負けるわ」


そう言って、シアンからミィを抱きあげると、頬ずりをして言った。


「虎徹、ごめんね、私の政治力が足りなかったわ……」


政治力って何だよ。





シアンはミィと手を取り合ったり、おもちゃで一緒に遊んだりして、一緒に過ごした。

赤ん坊と子猫が仲睦まじく遊ぶ姿は、とても絵になる。

俺は珈琲を飲みながら、仲よく遊ぶ様子をゆっくりと眺め、心が満ち足りていくのを感じていた。


シアンは眠くなったミィを、愛おしそうに抱いて、ゆっくりと撫でる……


尊い……


AIと猫が仲良く遊ぶ世界線、実にいい光景じゃないか。

みんなもこの微笑ましい光景を、いつまでも見ていた。


シアンは人類の後継者として、着実に正しい進化を続けている――――















4-15.割れた頭、女子高生を倒す


ミィの相手で、しばらく収まっていたシアンの好奇心だったが、最近ぶり返してきている。『遊べ遊べ』と、またうるさく言うようになってしまった。


遊び終わっても10分もしたら


「まこ~、ここ~!」 と、声がかかるようになってしまった。


何しろシアンは寝ない。厳密には、記憶の整理などのバッチ処理が夜間に走るため、30分くらい横にはなるんだが、その程度だ。疲れ知らずで、常に全力で遊びを要求してくるのは本当に疲れる。寝なくていいというのは羨ましくはあるが、相手をする方は大変だ。


退屈させるのも本意ではないので、ネット情報へのアクセスを許す様にした。

もちろん、子供に有害なページへのアクセスは禁止して、無難なコンテンツだけアクセスできるようにした。

シアンがボーっとして見える時は、どうやらネットサーフィンをしているらしい。


部屋のモニターに今シアンがどのページを見ているのかを表示させてみると、写真を次々と追っているようだった。動物やキャラクターや人物や乗り物など、無難な物を凄い速さで次々と鑑賞している。


そのうちにWikipediaなど、情報サイトを漁り始めた。

読む速度は異常に速く、一つのページに1秒くらいしか滞在していない。そして読み終わる前に複数のリンク先ページにどんどん飛んでいる。

後でログを見てみたら、同時並行で数十コンテンツを読んでいるようで、もはや人間の目には追えないレベルである。知識が豊富になるというのは歓迎すべきではあるが、それにも限度がある。思考が発達する前に、知識ばかり過剰に持つことは、副作用の方が大きいのではないだろうか。


俺はみんなを集めて、シアンの学習方法についてディスカッションを行った。

俺の懸念には、マーカス達も同意しつつも、では、代わりに好奇心旺盛なシアンに何を与えたら良いのか、で止まってしまった。情報の過剰摂取は良くないが、退屈させるのも良くない。ではどうしたら良いだろうか?


由香ちゃんが言う、

「そろそろ外出とかどうですか?」

「うーん、普通の赤ちゃんと違うから、変な人に目をつけられたら、嫌なんだよね……」

「でも街での体験も学習には必要でしょ?」

「いやまぁ、おっしゃる通り……」


とりあえず、外出プランを試す方針で行く事になったが、とても嫌な予感がする。人体実験の証拠を、大衆の目にさらして持ち歩くという事になるのだ、心穏やかでない。バレたら逮捕だというのに、そんな大胆なことやってしまっていいのだろうか?

シアンが普通じゃないのは、赤ちゃんに慣れている人が見たら一目瞭然だろう。そういう人たちの目に留まらないように、気を付けながら行かないとならない。


俺は覚悟を決めて、抱っこひもで胸の所にシアンを固定し、街を歩いてみる事にした。


シアンにとっては、生まれて初めての外出。由香ちゃんもついてきてくれるので、3人でお出かけである。

初めて見る外の景色に、シアンは凄い興奮気味だ。

頬に当たる風、眩しい太陽、走り過ぎる自動車たち、カラフルな看板のお店、すれ違う人、全てに驚き、興奮し、


「う~!」 と、目をキラキラさせながら、あちこちを指さしている。


こんな事なら、もっと早く外出させればよかった。


地下鉄を乗り継いでショッピングモールに着いた。

モールの中は吹き抜けになっていて、たくさんの店舗がずらっと並んでいる。


アパレルやカフェ、活気ある店内を覗き込んでは


「う~!」


他の子供連れとすれ違っては


「う~!」


楽しそうである。


ベビー用品店に行き、服を見繕う。

折角の機会なので、何着か買っておきたい所だ。


恐竜の着ぐるみみたいなパジャマや、かぶるとクマになるお包みなど、いろんな商品に目が移るが、ここは実用重視で行きたい。


と、思ってるそばから由香ちゃんは


「きゃ~! かわいぃ~!」 と、次々手に取ってしまう。


「いやいや由香ちゃん、洗う事考えて実用重視で行こうよ」

「え~~! 折角かわいいのに~~!」

「いやいや!」


由香ちゃんは、握りずしのエビを模した服を持ってきて、シアンにあてがう。

「ほら、シアン寿司になったよ!」

「えみ”! きゃっ! きゃっ!」


シアンは上機嫌である。


「いやいや、エビを誰が洗うのよ!」

「誠さんノリ悪いわよ!」

「いやいやいやいや」


店員がするすると近づいてきて声をかけてくる。

「お父さま、こちらは洗濯も簡単ですよ!」


ヤバい事になった。何とかやり過ごさないと……。


「お母さま、こちらはこういうのもありますよ!」

由香ちゃんは俺と目を合わせて、困惑している。


「では、こぇひとつください!」

シアンが勝手に発注する。


「えっ? もうこんなに話せるんですか!?」

驚き、固まる店員。


俺は冷や汗かきながら、

「あ、オウム返しみたいなものです。気にしないで下さい」

と、言ったが、追い打ちをかけるようにシアンが言う。


「オウムで~す! きゃははは!」


目を丸くする店員。


「あ、構わなくて大丈夫です、普通のつなぎはどこにありますか?」

と、言ってその場を濁し、逃げ出した。


結局つなぎを3着、帽子と靴を買った。


店を出ながら、胸に付けたシアンに言い聞かせる。

「シアン、勝手に他の人に話しかけちゃダメ!」

「だめ! きゃははは!」

「今度やったらメってするよ!」

「メっ! きゃははは!」

分かってんのかな……。


近くのカフェで一休みする事にする。


ベビーチェアにシアンを乗せて、パンケーキをつつきながら珈琲を飲む。

「あ~、重かった。結構シアン重いわ」

「おむ~い!」

「そうそう、お前はもう8kgもあるんだ。付けて歩くには重いのだ!」

「はちきろ! はちきろ! きゃっ! きゃっ!」


どこまで認識しているんだろう?

少なくともWikipedia読み込んでいるんだから、文章は理解できてるはず。

だから俺の言う事も分かってるはず。


「シアン、ここどこか分かってる?」

「よついふどうさん~! うりあげいっちょ~はっせんおく~!」


店内にシアンの甲高い声が響く。

確かにここのショッピングモールの母体はそこだが、目立つような事は止めて欲しい。

店員のおねぇさんが、怪訝な顔でこちらを見てるじゃないか!


「シアン、ちょっと声が大きすぎるかも」

「おおきすぎ~! きゃはははは~!」

う~ん、どうしたものか。

人目が気になるので、早めに切り上げて、芝生の公園に移動する。





シアンを芝生の広場に放すと、元気にハイハイでどんどん移動していく。

そして今度はごろごろ転がって……


「きゃはははは~!」

と大喜びである。


シアンは、せわしなくあちこち移動しながら、最後はよちよち歩きにチャレンジ。


一歩……二歩……あぁ!

尻餅をついてしまった。


少しだけ歩く事ができるようになったようだ。筋肉が相当ついてきた証拠だ。


俺はベンチに座りながら、隣の由香ちゃんに言った。

「芝生でこんなに喜んでくれるなら、もっと早く連れてきてあげればよかったね」

「そうですね、赤ちゃんが嬉しそうにしていると、こっちも嬉しくなりますね!」

由香ちゃんがニコニコして言う。


「お~! らぶらぶ~!」

シアンがこっちを見ながら言う。


「何言ってんだお前!」


由香ちゃんは赤くなっている。


「らぶらぶ~! きゃはははは~!」


通りすがりの女子高生が、怪訝そうにこっちを見ている。


「シアン! シーッ!!」

俺は必死に黙らそうとする。


「らぶらぶ~! きゃはははは~!」

「いう事聞かないと、もう連れてこないぞ!」


俺が怒ると、急に真顔になって、


「Yes! Sir!(わかりました!)」 と、言って敬礼したが、バランスを崩して後ろにコケた。


「あっ!」

コケた拍子で、頭のカバーが外れて転がってしまった。


「きゃははは!」

本人は笑ってる。


シアンは無脳症なので顔しかない。だから頭はただのカバーなんだが、そのカバーが外れて転がった。

頭がコロコロと転がって、そばを歩いていた女子高生の足元まで行ってしまう。

髪の毛がついた、マネキンの頭部みたいなものが、足元に来た女子高生は


「うわぁぁぁ!」

そして、顔だけで笑うシアンを見て


キャ――――――――――!


そう叫ぶと、気を失ってその場に倒れてしまった。

ヤバい! 大変な事になってしまった。


急いで俺はシアンの頭を直し、由香ちゃんは介抱。

幸い、他の通行人には、見られていなかったようだ。


由香ちゃんは女子高生の衣服を整えて、苦しくない姿勢にさせて見守った。


「いやー、まずいねこれは……」


俺は由香ちゃんと目を合わせて、ため息をつく。

ほどなくして、目を覚ます女子高生。


「大丈夫ですかぁ?」

由香ちゃんが優しく聞く。


ボーっとしていた女子高生がハッとなって

「あ、赤ちゃんの頭が!!」


「赤ちゃんがどうしたんですかぁ?」

「コロコロって転がって……」


俺はシアンを抱きかかえて女子高生に見せた。

「赤ちゃんなら大丈夫ですよ」

「いや、でも、コロコロって転がってきたんです!」

「頭転がったら、死んじゃうじゃないですか」

そう言って、にっこりと笑って見せた。


「いや……まぁ……そうなんですけど……」

「何か今ストレスを抱えていませんか?」

俺がさり気なく誘導する。


「ストレス? あぁ……志望校を決めないといけないんです……」

「あー、受験、大変ですねぇ。それで何か錯覚を見たのかもしれませんね」

錯覚という事にしないと……


「ちなみにどういう大学が候補なんですか? お手伝いできることもあるかも」


由香ちゃんが、なるべく話を別の事に引っ張ろうとする。


「MARCHなんですが……応京とかも……」

「あ、私、応京ですよ」


由香ちゃんがにっこりとする。


「え!? 応京生ですか!?」


憧れのまなざしで、由香ちゃんを見る女子高生。


「そう、文学部。あなたは理系? 文系?」


ちょっと自慢気な由香ちゃん。


「私は数学苦手なので……文系です」

「文学部なら数学いらないから大丈夫よ」


シアンが横から口をはさむ

「しゃかぃ、えぃご、しょーろんぶん!」

目を丸くする女子高生


「シアンはいいの!」

俺はシアンを抱きあげて、これ以上余計な事を言わせないように、距離を取る。


由香ちゃんは引きつった笑顔で

「ちょ、ちょうど彼と入試の話をしていた所だったんで、横から聞いて覚えていたんですね……」

「赤ちゃんって……こんなに話すんですか?」

「こ、この子は早熟みたいですね」

冷や汗が浮かぶ由香ちゃん。


「失礼ですがお母さま……ですか?」

「いや、この子は親戚の……」

由香ちゃんがそう言いかけると……


「ママー! ママー!」

シアンが設定をぶち壊して叫ぶので、由香ちゃんの額に怒りの色が浮かぶ。


「わ、私が産んだ子ではないんですが、ママとして育てているんです」

「ママー! ママー!」


「ちょっと! 大人しくしなさい!」

俺が言い聞かすが、聞かない……。


「ママー! ママー!」

仕方ないので一旦由香ちゃんに戻す。

由香ちゃんはシアンを抱っこして、必死に冷静を保ちながら頭をなでなでした


「言う事聞かなくて困るんですが……可愛いんです」

「じんこうしきゅう で うまれたの!」


またシアンが余計なことを言い出した。


女子高生が怪訝そうな顔で言う。

「人工子宮……?」

「し、親戚の不妊治療でできた子なんです」


由香ちゃんの必死のフォロー。


「そのまえ は マウス だったの!」


そう言って、両手で掴んだ餌を食べるしぐさをして、左右をキョロキョロ警戒する真似をした。


「うまいうまい! 前世がネズミだったのね!」

女子高生にはなぜかウケている。


「にじほうていしき おぼえて たたかったの!」

「二次方程式?」

怪訝な顔をする女子高生


「ママがもんだい みないで かったの!」

女子高生が混乱する。


「くりす がね! ぱーって きせき やったの!」

ここまで言うともはや安心の妄言である。


「クリス? あー、キリストが奇跡起こして前世のマウスの時代に二次方程式おぼえてママと戦ったのか? 凄いな君は!」


女子高生は楽しそうに、シアンの言葉を整理する。


「きゃははは!」


全部実話だがどれ一つとして実話には思えない。すごいな。ここまで突き抜けていれば、子供のたわごとで済ませられそうだ。


「あー、そろそろ我々は行かないとなので……」

俺はそう言って、シアンを抱っこひもでお腹に付けた。


「受験、頑張ってくださいね! 応京いい所ですよ!」

由香ちゃんも励まして荷物を整理する。


「はい、シアン、バイバイして」

「ばいばーい!」

こうして無事女子高生と別れた。


「シアン、他の人と話しちゃダメだよ、怪しまれたら連れてかれちゃうぞ!」

「Yes! Sir! (わかりました!)」

と言って敬礼して、


「きゃははは!」

と笑った。


絶対理解してないなこいつ。

確かに外出は、人間社会を理解させるうえで、重要なのは分かった。でも、相当に危険だという事も思い知らされた。今日の事だって、目撃者が女子高生一人だったから良かったようなものの、俺みたいなエンジニアだったら、一目ですべてを見抜かれてしまっていただろう。割れた頭の中にトランスミッターを見つけたら、何をやってるかなんて一目瞭然である。

もっと安全なやり方はないだろうか……。

帰りのタクシーの中で、俺は腕組みをして眉間にしわを寄せながら、思い悩むのであった。

レンタカー借りるか……。でも車から見るだけでは学習にならないし……。

うーん……。


……。


「誠さん、着きましたよ!」

由香ちゃんが俺の肩を叩きながら起こす。どうやら眠ってしまっていたようだ。


「疲れているんですね、無理しないでくださいね!」

そう言ってにこやかに笑った。

由香ちゃんはいい娘だな、美奈ちゃんだったら、きっと『しっかりしなさいよ!』とか怒ってきたに違いない。

寝起きのボーっとした頭で俺は、お出かけは次も由香ちゃんがいいな、とぼんやり考えていた。




















4-16.社長+部下+AI


最近シアンは、コンピューターサイエンスに興味がある。

技術資料を大量に、延々と読み続けながら、pythonを使った簡単なコーディングまでやり始めてる。

データベースに、良く分からない膨大なデータ流し込んで、良く分からない処理をさせたりしているのを見ると、そろそろシンギュラリティに到達しているのかもしれない。

また、サーバーのセキュリティにも興味があるようで、自分でいろんなサーバーを立てては、そのセキュリティホールを丁寧に洗っていたりする。

とても危うい技術なので積極的にはやらせたくないが、とは言え好奇心を止める訳にも行かない。

俺がいいと言うまでは、他人のサーバーのハッキングはしない、という約束で許可する事にした。


俺はオフィスで珈琲を飲みながら、シアンがアクセスしている外部リソースを、画面に表示させて見ているんだが、最近はもう、何をやっているのか全く分からない。

以前は文字や画像だったのが、最近では無数のサーバー間で数値バイナリのデータが延々とやり取りされてたりして、もはや俺の理解を超えている。

世界を理解する上で、インターネットの理解も必要ではあるんだけど、やり過ぎていないのかとても不安になる。ただ、本格的にヤバくなったら、IDCのネットケーブルを引っこ抜けば悪さできなくなるので、大丈夫なのだが。


また、ネットの世界だけだと偏るので、なるべく外出するようにはしている。

その際は、たいてい由香ちゃんと3人だ。


由香ちゃんは、

「私達、街の人からはどう見られてるかなぁ?」と、嬉しそうに聞いてくる。

「AIを学習させるベンチャーのスタッフ、だなんて想像もできないだろうね」


由香ちゃんは、耳元で小声で、

「きっと、幸せな若夫婦だと思ってるわよ」

そう言って嬉しそうに笑った。


「奥様としては由香ちゃん、若くない?」

俺が突っ込むと、


「そんな事ないわ、適齢期よ! ねぇシアン?」

と言って、ベビーカーのシアンに声をかける。


シアンは、

「まことさん、どんかん、きゃははは!!」

と言って、笑った。


俺は、

「ちょっと待て、その質問にその回答はおかしくないか? どこか壊れてる?」

と、怪訝な顔をすると、由香ちゃんは、


「いや、シアンちゃん、さすがだわ~!」

と、何やら納得している。何が『さすが』なのだろうか……。





しばらく歩いて、シアンお気に入りの芝生の公園に来た。

ボールを転がしてやると


「きゃははは!」 と捕まえ、こちらに投げ返してくる。

相当高度な事が、できるようになってきた。


俺が軽く蹴ってやると、シアンも蹴り返そうとして……コテン

転んでしまった。


「おい、シアン、大丈夫か?」


駆け寄ると


「きゃははは!」 と笑ってる。


今度は頭は割れてない、セーフ!


シアンはヒョイっと起き上がると


「きゃははは!」と、笑って上機嫌にステップを踏み始めた。


「お、踊ってみるか?」


俺はスマホでダンスの曲を流した。


シアンは

「きゃははは!」 と笑いながら踊り始めた。


リズミカルに軽く腰を落としながら、足を開いて右行って左行って、手はクラップ。


「おぉ、いいぞ、そうだ!」


俺が喜んで言うと由香ちゃんは


「え? なんで? シアン踊れるの!?」


すごい驚いている。


そのうち、リズミカルに左右に重心を移しながら足をシュッシュと伸ばし、肩を回しながら腕を回し、収める、回して、収める。

だんだん調子が出て来て、足もクロスさせ始めた。


「お、いいよいいよ!」

俺は拍手しながらシアンを応援する。


ところが由香ちゃんは、急に怪訝そうな表情になる。


「これ……美奈ちゃんね……」


すごい、なぜ分かるんだ。


「マ、マウス時代に美奈ちゃんが教えたんだよ」

俺が不穏な空気にビビりながら説明すると、由香ちゃんはおもむろに立ち上がり、

「シアン、ママの踊りを真似しなさい!」 そう言って踊り始めた。


シアンが、美奈ちゃんのダンスを踊るのは許せないらしい。

女の子同士の微妙な関係は、男には全く理解できない。


肩を怒らせ、腕をクロスし、伸ばし折り伸ばし折り、ステップ踏みながら軽く回る。

「こうよこう!」


「きゃははは!」

シアンは余裕でまねる。


「次から踊る時はこう踊りなさい!」


由香ちゃんとシアンが並んで、ピッタリと息の合ったダンスを繰り広げる。

右足、左足、右右左左、


いいぞいいぞ!


気持ちのいい芝生の公園で、赤ちゃんと女の子が楽しそうに踊る姿、

うーん、いい絵だ……

人生って、こういう幸せを集める旅なんだよな……


と、感慨にふけっていたら

二人がクルっと回った所で、パチパチという拍手が上がる。

ふと後ろを見ると、なんとたくさんのギャラリーが!

スマホで撮ってる人までいる!

ヤバい!


「あー、ごめんなさい! 見世物じゃないので、撮影はご遠慮くださーい!!! 本日のダンスは終了でーす!」


俺はそう言って、ギャラリーを解散させたが、一人名刺を出してくる男がいる。

嫌な奴に見つかってしまった……。


名刺には「YTプロダクション 佐川雄二さがわゆうじ」とある。

最近YouTuberをたくさん抱えて、羽振りの良い会社だ。


「先ほどのお子様のダンス! 最高でした! ぜひ、ネットで動画を配信させてください!」


ほうら来た。

佐川は穴の開いたジーンズに、小汚いカーキ色のジャケット、業界人っぽい風貌でニヤニヤしている。

俺は、極めてまずい事態に追い込まれたのを感じていた。


俺は深呼吸を一つすると、冷静に冷徹に言った、

「どんなにウケようが、お金になろうが、うちは絶対にやりませんので、お引き取りください」

「いやいや、そうおっしゃらずに、1億PVで年収4億、どうですか?」


金で釣ろうとする、困った奴だ。


「うちは、見世物は絶対にやりません」

「お子さんの才能を花開かせたい、と思いませんか?」

「うちの子の才能は、ダンスだけではないので間に合ってます」


俺は帰りの片づけをしながら、追い払い続けた。


「お話しだけでも聞いてくださいよぉ」

しつこい……が……変に付きまとわれても困るので、話してやるしかない。


俺はゆっくり深呼吸をして、気持ちを落ち着けてから、佐川に向き合った

「我々はお金も名声もいらないんです。なぜだと思いますか?」

淡々と言った。


「え?……な、なぜでしょう……ね?」

「我々は蘇ったキリストを尊師として崇める、新興宗教の団体だからです。人類の救済以外に興味はありません」

「え? 宗教? ……ですか?」

「そうです。たまにあなたの様に、我々のファミリーにちょっかいを出してくる人が居ます。これ、非常に困るんです。先日、そういう男の一人が、マンションの10階から墜ちました」

「え!?」

佐川の顔が引きつる。


「『うぎゃぁぁぁ~!』と言って墜ちていきました。今でも耳に残っています。でも、これで彼の魂は救済されました。今頃は天国で幸せに暮らしているでしょう」


俺はそう言って十字を切り、目を瞑って手を合わせた。


「……」

佐川は固まってしまった。


「まぁ、信じられないでしょうね。それでは神の力の一端をお見せしますか」


俺はシアンを抱きかかえると、名刺を渡した。


「このおじさんの事を教えて。自由にやっていいから」

「さがわ?」

「そうそう、さがわゆうじさん」

「きゃははは!」

シアンはそう嬉しそうに笑うと、目を瞑った。


「なんで……赤ちゃんが漢字読めるんですか?」

佐川がビビりながら聞いてくる。


「この子は選ばれた神の子です。漢字など読めて当たり前です」

俺は偉そうに言う。


するとシアンが淡々と情報を話し始めた


「とうきょうと せたがやく たいしどう 3ちょうめ ×‐× さがわ ともこ、 さがわ ゆい、 たいしどう だいにしょうがっこう 3ねん」


まずは会社のサーバーに入って、年末調整のデータか何かを、引っ張ってきたようだ。


「な、なんでそんな事分かるんだ!?」

佐川は驚く


「神の子の力が分かりましたか?」

「い、いや、こんな力があるんだったら、もっとPV稼げるじゃないですか!」

まだ諦めないようだ。


「かわかみ えみ と なかよし」

そうシアンが言うと佐川の顔色が変わった。

今度は佐川のメールか、SNSのアカウントをハックしたようだ。


リアルタイムで、次々と個人情報をハックし続ける赤ちゃん。想像以上の性能に、俺も驚愕してしまった。これ、世界中誰でも瞬時に丸裸にできるって事だよね? まさかこれ程までとは……

自由にやらせたのは失敗だったかもしれない。










4-17.「愛してる」と言わせる魔法


とは言え、今は佐川に集中しないとならない。シアンは違法な人体実験で作られたAI、バレたら逮捕されて一大スキャンダルになってしまう。絶対に隠し通さないとならない。

浮気っぽい情報がとれたのは、攻めるチャンスではある。


「あれ? 奥さんがいるのに恵美さんと仲良し……どういう事なんですかね?」


俺はニヤッと笑って追い込む。


「な、仲良しって、仲がいいのは、別に何の問題もないじゃないか!」

「きのう ふたりで ホテル……」

「し、し、失礼だな! 誰が何しようが勝手じゃないか!」


佐川は真っ赤である。


「もちろん、浮気する自由は、誰にだってありますよ。でも付きまとわれない自由は、我々にもある。諦めるか……奥様とお話しさせていただくか……どちらを選びますか?」


「脅すのか?」

「とんでもない、平穏な教団での暮らしに、土足で上がってきているのは、あなたの方ですからね、自衛措置ですよ」


「くっ!……しかし……惜しいな、世界一の才能を見つけたのに……」


ここまで追い込んだのに、まだ諦めきれないらしい……しぶといな……。


バレない様にするためには、佐川にはすっぱり諦めてもらう以外ない。未練を持たれてこっそり調査されてしまうようなリスクも、潰しておきたい。


「分かりました、最後にチャンスをあげましょう」

「え!?」

「神の子とジャンケンしてください。10回やって1回でも勝てたら出演しましょう。もし、1回も勝てなかったら二度と我々には近づかないこと、近づいたらあなたにも、マンションの10階へ行ってもらいます」


「え? 1回勝つだけでいいの?」

佐川は大喜びである。


由香ちゃんは

「そんな条件でいいの!?」 と、驚いているので


「僕たちの子供を信じなさい」


そう言ってにっこりと笑った。


「シアン、ジャンケンで勝ってくれ」

俺がそう言うとシアンは


「きゃははは!」 と、嬉しそうに笑った。


「じゃあ行きます。1回戦目、最初はグー! ジャンケンポン!」

赤ちゃんの小さな手がチョキを出し、パーの佐川に勝った。


「まーだまだ! あと9回ある!」

佐川は余裕の表情だ。


「2回戦目、最初はグー! ジャンケンポン!」

またシアンの勝ち。

その次もシアンの勝ち……


この辺りで佐川は気が付く。


「なんだよ……あいこにもならない……。どういう事だよ……」

最初の勢いはどこへやら……なんだか可哀想である。


「神の子は偉大です。人間に勝てる訳がない」

俺はちょっと自慢気に言い放つ。


実はシアンは、単純に後出しをしているだけなのだ。佐川の出す手を見てから、グーチョキパーを選んで出しているのだが、その後出しが0.1秒の早業なので、佐川には分らない。


やけくそになる佐川が全敗するのに、1分もかからなかった。

ストレートの10連敗である。


俺はにこやかに言った。

「はい、では約束通り、二度と我々には近づかないでくださいね」


これで解決だろうと、思ったのだが……。


佐川はしばらくうつむいていたが、俺の目を見てこう言った、


「神の力は素晴らしい! 俺もぜひあなたの教団に入れてください!!!」


なんだよそれ……斜め上の回答に驚かされた。

また厄介な話になってしまった……。


「動画なんてもうどうでもいい、神のおそばに私も置かせてください」


俺はウンザリしながら言葉を選んだ。


「神の力をご理解いただいて何よりです。ただ、我々の宗教は、一般人を信徒に迎えません。高潔なる心の持ち主しか、神は信徒として認めないのです」


「俺じゃダメ……なのか?」

哀しそうな目で俺を見る。嘘の設定に喰いつかれるのは、非常に良心に堪える。早く何とか切り抜けたい。


「浮気をしているような方では無理です」

「浮気はダメって、そもそもウチの奴が、ヤらせてくれないから、こんな関係になったんだ。俺のせいじゃない!」


どうもセックスレスらしい……なぜ俺は赤裸々な夫婦事情を、カミングアウトされているのか? どんどん泥沼にはまっていく。早く逃げ出したい……。


「えーと……浮気は奥さんが原因だという事ですか?」

「旦那をほったらかしにする、あいつのせいだ」

佐川は強気にそう言い放つが……浮気しておいて、それはないだろうと思う。盗人猛々しい。少しイラっとした。


俺はこの難局を乗り切るべく、必死に考えた。浮気を奥さんのせいにするクズを、どう説得するのか……。しかし、そう簡単にいいアイディアなど思い浮かばない。嘘に嘘を重ねてここまで来てしまっているのだ。この設定からどう突破口を作るのか……。


マジで逃げたい……。


俺は胃が痛くなってきた。


でも、今逃げたら追いかけてくるだろうな……。


俺は必死に頭を絞った……


そもそも夫婦間の不和の原因は、お互いの尊重の不足にある、と聞いた事がある……で、あれば……


「奥様に『ありがとう』とか『愛してる』とか、ちゃんと伝えてますか?」

「え!? そ、そんな事言わねーよ」


まぁ、そんな所だろう。でも『ありがとう』くらいは、日ごろから言わなくては、人間関係など維持できないのでは?


「では、川上恵美さんにはどうですか?」

「え!? そ、それは……」


黙ってしまった。言っているらしい。

釣った魚には餌をやらないタイプの様だ。気持ちはわからないではないが、それでは夫婦関係が壊れてしまうだろう。


「せ、先生の所はどうなんだよ? ちゃんと毎日言ってるのか?」


佐川は、俺と由香ちゃんを交互に見る。


え!? 俺は驚いた。

俺と由香ちゃんを夫婦だと思ってるようだ。しかし、どう説明したらうまく逃げられるのだろうか。何かいい方策はないだろうか……。


すると、由香ちゃんがにっこりして言った。

「もちろん言ってくれてますよ」


オッケーそれで行こう、由香ちゃん!

俺もにっこり笑って、由香ちゃんの設定に合わせる。


「ただ、今日はまだ……聞いてない……かなぁ……」

由香ちゃんはそう言って、首をかしげて意地悪な笑顔で俺を見る。


何というトラップ!

この状況を利用して、俺にいたずらを仕掛けるとは! 美奈ちゃんの影響受けすぎ! と、思いつつもここは冷静に切り抜けねばならない。


「そ、そうだっけ?……いつも、ありがとう……あ、愛してる、よ?」

棒読みにならない様に気をつけつつ、でもちょっと理不尽な恥ずかしさで、声が変になってしまった。


「私もよ!」


由香ちゃんはにっこり笑った。

またいい笑顔だなぁ、由香ちゃんいい娘だなぁ……。

俺も思わずにっこりしてしまう。


それを見ていた佐川は、何か感じる所があったようで、

「分かりやした先生! あっしが間違ってやした! ウチの奴ともう一度向き合ってみやす!」 そう言って晴れやかな笑顔で笑った。


どこの方言だろう?


俺は何とか出口が見えてきて、安堵した。


「それがいいでしょう。神のご加護がありますように」

そう言って、十字を切って手を合わせた。


俺達はそそくさと荷物をまとめ、その場を去った。

佐川はいつまでも俺達の姿を見送って、何度も頭を下げていた。


彼は奥さんと仲直りできるだろうか……帰りのタクシーの中で、俺は佐川の行く末を色々と考えてみたが……多分無理だろう。

人はそう簡単には変われない、もう何年もかけて硬直してしまった関係が、改善する可能性はそもそも低い。

人は心の生き物、人間関係は心を共鳴させる事で維持される。共鳴が止まったら心は閉じ、関係も切れてしまう。そして一度閉じてしまった心は、そう簡単には開かない。

俺としては、佐川にも幸せになって欲しい、と思っているが……今までの業が深すぎる。


とは言え、未婚の俺には、まだ結婚生活の大変さが分からない。散々偉そうなことを言ってしまったが、自分の結婚生活が破綻しない自信など全くない。そもそも俺は親に捨てられた愛を知らない男、結婚する資格があるかすら怪しいのだ。


ちらっと横を見ると、由香ちゃんがシアンを愛おしそうに撫でている。

こういう家庭を作れたら、上手くいく……のだろうか?


「由香ちゃんは結婚したい?」

セクハラにならないように、さりげなく聞いてみる。


「うふふ、どうしたんですか?」

何だか嬉しそうにニッコリと笑う。


「そりゃぁ……したい……ですよ。誠さんは?」

「俺は……分からない」

そう言って軽く首を振った。


「どうしてですか?」

由香ちゃんが首をかしげて聞く。


「実は俺、保育園の頃に親に捨てられてるんだ……」

言った後、余計なこと言っちゃったなと思った。つい口が滑った。


由香ちゃんは、

「ごめんなさい、余計なこと聞いちゃった……」

そう言って萎れる。


「あ、気にしないで、忘れて!」

そう言って、ちょっと引きつった笑顔で、由香ちゃんをフォローする。


タクシーの中には、AMラジオのコマーシャルがうるさく流れている。


「その……捨てられたことが……トラウマになっちゃってるって事ですか?」

「うーん、まぁ、捨てられちゃうとねぇ……」

「誠さん、気さくで楽しそうに見せて、ハグとかするけど、巧妙に、踏み込んだ人間関係にならないように逃げるじゃないですか。そこに原因があるのかも……」

「え? 俺ってそんな?」

「そんなですよ」

由香ちゃんは、なんだかちょっと不機嫌になった。


「なぜ捨てられたのか、一回ちゃんと話聞いた方がいいとは思ってるんだ」

「聞きましょうよ」

「でも……いまさらどんな顔で会いに行くのか……」

「私が聞いてきましょうか?」

「いやいや、これは俺の問題だから」

「人生一回しかないんですよ? トラウマなんてどんどん潰しましょうよ」

俺は大きくため息をつき、軽く首を振った。


由香ちゃんは他人事だと思って、正論をバンバンぶつけてくる。しかし、世の中の問題は正論が解決してくれるわけじゃないのだ。


「……。あ、そのマンションの前で降ろしてください」

俺は運転手さんに声をかけ、降りる準備をして逃げた。

由香ちゃんは、ちょっと不満そうだった。





その晩、由香は京都駅ビルのカフェにいた。綺麗な花の内装で、振り返ると煌びやかな夜景が広がっている。

珈琲を頼み、しばらく待っていると、中年の女性が手を上げて近づいてくる、静江だ。白のシャツにブラウンのチュニックワンピースで、ネックレスをしていた。


「由香ちゃんね、はじめまして! こんばんは!」

なぜかとても歓迎している。


「こ、こんばんは。すみません、いきなり……」

「いいのよ、わざわざ京都まで来てくれて、ごめんなさいね」

「いえいえ、会社からここまで2時間ちょっとです。意外と近いですよ。……。クリスからお母様の陰の貢献を聞きまして、居てもたってもいられなくなったものですから……」

「貢献……ね、あれは私からクリスさんに頭下げてお願いしたの。別にそんな大層な事じゃないわ。それより……由香ちゃんこそ誠とシアンちゃんの面倒をいつも見てくれてありがとう。クリスさんが丁寧に報告してくれるのよ」

「あら、全部筒抜けだったんですね……ちょっと恥ずかしいです……」

「由香ちゃんがフォローしてくれるから、安心していられるの。本当にありがとう」

「いやいや、そんな……」


静江も珈琲を頼み、軽く水を飲んで、言った。

「で……今日はどう言ったご相談?」


由香は居住まいを正すと言った。

「誠さんは、お母様の失踪を、いまだにトラウマとして持っているそうなんです……」


静江は動きを止め……下を向き、大きく息を吐いて言った。

「そう……そうよね……」


由香は慌てて言った。

「あ、別にお母様の事をどうこう言うつもりはないんです、人生色んな事がある、単純じゃないって、私も分かってるつもりです」


静江は絞り出すような声で言った。

「私は誠を愛してるわ。身ごもってからずっと……。これを見て……」

そう言うと静江は、財布の中から一枚の写真を取り出した。丁寧にラミネートされながらもあちこち擦り切れた年季の入った写真、赤ちゃんの頃の誠だった。


「毎日、この写真を眺めてるわ。一度だって忘れた事ないの……。こんなに愛しているのよ。だからあの日、なぜ、あの子を捨ててしまったのか……まったく理由が分からないの」

「理由が分からない?」

「あの子が良く熱を出すものだから、そのたびに保育園から呼び出されてたの。だから、職場で疎まれていた事が凄いストレスだったのはあるのよ。でも、だからと言って、なぜあの子を捨てるような事をしたのか……私も良く分からないの……」


由香は首をかしげ、どういう事か必死に考えていた。


「あの日、保育園から呼び出されて、新宿の街を駅に向かって歩いていたのね、そしたら大阪行きの高速バスが目の前を横切って、そこに『京都』って書いてあったのよ。その瞬間、緊張の糸がプッツリと切れたの。本当に切れる音がしたわ『プツッ』ってね。その後はもう催眠術にかかったかのように、当たり前のようにバスに乗り込んだのよ」

これは一体どう考えたらいいのか……。オカルト然とした初めて聞く話に、由香は困惑した。


「京都の安ホテルで深夜に我に返ったわ。でも、もうすべては手遅れ、あの子は祖母に引き取られ、私は勘当された……当たり前よね。でも、放心状態の中、身ごもってから6年の束縛から解放された開放感が、私を癒していたのもまた事実なのよ。シングルマザーは私には無理だったという事なのよ」

「大変……だったんですね……」

「いや、もっと大変なシンママなんて幾らだっているわ、私が足りなかっただけ……」

「そんな……」

「これが真相よ、私が足りずにあの子にトラウマを植え付けてしまった……ダメな母親だわ。一生呪ってもらうしかないわ……」

そう言って静江はうなだれ、ポトッと涙がテーブルに落ちた。


由香はそっと静江の手を取ると、

「そんなに自分を責めないでください。過去に何があっても大切なのは未来です。誠さんとの和解のお手伝いをさせてください」

そう熱を込めて言った。


静江はしばらく肩を揺らしていたが、バックからハンカチを取り出し、丁寧に涙をぬぐって言った。

「ありがとう……あなた……あの子のお嫁さんになって……」


由香は突然の申し出に驚いて、

「お、お、お、お嫁さん……ですか!?」

「私、応援しちゃう」

静江はそう言って、無理に涙を笑い飛ばし、由香は真っ赤になってうつむいた。


そして、静江は、

「分かったわ、ちょっと待ってて」

そう言ってバッグからアンティーク調のレターセットを取り出すと、手紙を書き始めた。

静江は何度か書き直しながら、謝罪、シアンを産んだ経緯、毎日思い出し愛していることをつづっていった。

由香は、一生懸命悩んで言葉を選ぶ静江を見ながら、誠がトラウマから解放されることを祈った。





翌日、俺が紙おむつのパックを抱えてシアン部屋へ行くと、由香ちゃんがシアンをあやしていた。


「由香ちゃん、いつもありがとうね」

そう声をかけると、由香ちゃんは、


「誠さん、シアンのママって誰か知ってる?」と、聞いてきた。


俺はおむつのパックを棚にしまいながら、

「え? ママは由香ちゃんじゃないの?」と、答えると、

「そうじゃなくて、人工子宮の前に誰のお腹にいたかって事」

そう言ってこちらをジッと見る。


「え? 赤ちゃんはクリスが連れてきたから、誰だか俺は知らないなぁ」

「神崎静江さんよ」

俺は固まった。全く予想もしなかった名前に俺は愕然とした。23年間のトラウマの元凶が、俺の日常にいつの間にか入り込んでいたのだ。

俺が言葉を失っていると由香ちゃんが続けた。


「私も昨日知ったのよ。驚いて会いに行ったわ」

「会ったのか!?」

「そうよ、シアンのママなら、挨拶しない訳にはいかないもの」

そう言って、さも当然かのように振舞う由香ちゃん。


「クリスめ、何というトラップを仕掛けるんだ!」

俺がやり場のない怒りをクリスにぶつけていると、


「はいコレ」

そう言って由香ちゃんは、手紙を俺に渡した。


「誠さんには怒る権利があるわ。でも、怒りは幸せを呼ばない。時間がある時にゆっくりと読んでね」

そう言って部屋を出て行ってしまった。


俺は『母より』と書かれた手紙を眺めると、無造作にポケットに突っ込んだ。そして、テーブルをガンと一発叩き、天を仰いで目を瞑った。

こぶしの痛みで、鼻の奥がツーンとするのを感じていた。


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