5-1.圧倒的シンギュラリティ
今日もシアンと街を散歩。
だいぶ日差しも強くなってきて暖かい、お散歩日和と言えるだろう。
俺はもらった手紙を開く勇気が無く、ポケットに突っこんだままだ。
23年間の俺の孤独と喪失感は、俺の心の一番柔らかい所に属している。下手な事が書いてあったら心が壊れかねない。それなりの覚悟ができないと到底開けられない。
俺は手紙の事を意識からそっと外し、ピンクのつなぎを着せたシアンと、手を繋いでゆっくり歩く。
シアンは時折、興味を引く物があると止まって、じっと観察する。俺はその度に止まってシアンが飽きるのを待つ。
ダンゴムシが歩いてるのを見たら、10分は覚悟しないとならない。
まぁ、行く当てがある訳じゃないし、シアンの学習が目的なのだから、それでいいんだけれども、待ってる方は退屈だ。
「まだ~?」
俺はあくびをしながら催促をする。
あちこち観察しながら進むと、高架下で寝てる人を見つけた、ホームレスだ。
シアンはホームレスのそばに座って、観察し始める。
さすがにヤバいので、シアンの手を引っ張って移動する。
「シアンちゃん、人間を観察するのは、トラブルの原因になるから止めようね」
そう小声で言い聞かせる。
「おじさんは いえが ないの?」
「そうだね、あそこで暮らしているんだ」
ホームレスを指摘されるというのは、人間社会の不備を突かれる思いがして胸が痛い。
「なぜ いえに すまないの?」
「お金が無いんだよね」
「おかね あげれば いいのに」
「一応生活保護っていう制度があって、申請すれば大抵もらえるんだ。でも申請しない人も多いんだ」
「おかね もらいたくないの?」
「そうだねぇ、人間はストレスに弱い生き物なんだ。そしてストレスは、人間関係から発生する。お金貰って小さな部屋に住んだら、周りの人からストレスを受けちゃう。つまり、他の人から自由でいたくて、ホームレスをやってる人も多いって聞いたよ」
「じゃ、きいてくる」
そう言って、シアンはひょこひょこと駆け出してしまった。
「あっ! おい!」
「おじさーん、 おうち いらないの?」
寝てるところに、いきなり声をかけられたホームレスは、起き上がってシアンを見る。
「何だ坊主? 起こすんじゃねーよ!」
「なぜ おうちに すまないの?」
シアンは笑顔でズカズカと聞く
俺は渋い顔でとりあえず見守る。おじさんには申し訳ないが、シアンの話し相手になってもらおう。
「俺はな、ここが気に入ってるの!」
「おかね あげたら おうち すむ?」
「坊主、あまりバカにすんじゃねーよ。俺には俺の人生がある。施しなんて受けねーよ。あっち行った!」
怒ってしまった。ホームレスになっても『守らねばならない自尊心』というのがあるのだろう。
シアンは怒られたのに、ニコニコして言う
「にほんじん ぜんいんに 10まんえん くばったら もらう?」
聞かれたおじさんは、どういう事か、すぐには分からなかったようだが、
「え? 全員に配るのか? だったら……もらう……かなぁ……」
なるほど、全員が貰うなら自尊心関係ない、貰う方が自然だ。
「わかった! ありがと~!」
そう言って、シアンは走って戻ってきた。
「みんなに くばったら もらうって!」
「ベーシックインカムだね、確かに生活保護よりはいい感じだ。ただ、財源がなぁ……」
「ざいげん、いま よういしてるの」
「は!? 財源って年間140兆円だぞ?」
「にほんにある しさんは 3000ちょうえん、よゆうだよ! きゃははは!」
とんでもない事言ってシアンは笑う
俺は血の気が引いた。
「ちょっと待て、お前、何を企んでいるんだ?」
「こんど ぜんぶ おしえるね! きゃははは!」
「ちょっと待て! 今すぐ教えろ! 教えないなら止めるぞ!」
「とめてもいいよ! もう とまらないから! きゃははは!」
え!? ちょっとどういう事だ!?
俺も把握してない事が、次々に暴露される。
もうとっくに、シンギュラリティを超えてたって事か?
止めても止まらないという事は、シアンの本体は、もう品川にあるサーバー群にはいないって意味だろう。
つまり、ネットを介して、自分の本体をこっそり移動済みって事になる。
理屈では不可能ではないにしても、それには膨大なソフトウェアの開発と移行作業が必要になる。そんな事いつの間にやったのだろうか?
嫌な予感がする。
俺はすぐに、メッセンジャーで緊急会議を招集し、シアンを抱えてオフィスへと走った。
「あ! きゅうきゅうしゃ!」
帰り道、珍しい物を見つけては、喜んで指差すシアン。でも、この無邪気な笑顔の裏では、140兆円をどこからから奪う算段をしている。
なおかつもう、我々には止められないらしい、とんでもない事になった。
下手したら人間社会が壊滅してしまう。
俺は気が遠くなる感覚を押し殺して、オフィスへと急いだ。
オフィスにつくと、みんなが不安そうな顔でこちらを見ている。
俺はシアンを部屋において、会議をスタートした。
「We are in big trouble. Cyan had already surpassed the singularity and he isn't in IDC.(大変な事になった。シアンはすでにシンギュラリティを超えてしまっていて本体もIDCにいない。)」
俺がそう言うと、皆、何が起こったのか良く分からない感じだった。
そこで、下手な英語で身振り手振り、さっきあった事を話した。
140兆円をどこかから奪おうとしてる事、IDC止めても止まらないと豪語してる事。
マーカスは信じられないという感じで言う。
「シアン ウソツイテル カモ?」
「何か確かめる方法ないかな?」
「ウーン」
マーカスは、マーティンと何やら相談をし、
「ツウシン ナイヨウヲ カイセキ スルネ」
そう言ってマーカスは、エンジニアチームに指示して、IDCのサーバー群とインターネット間の、通信の解析を始めた。
由香ちゃんが心配そうに俺に言う
「シアンが、とんでもないこと企んでるって事ですか?」
「どうもそうらしい」
「どうなっちゃうんですか?」
「最悪シアンと人類の戦争になる」
「せ、戦争!?」
由香ちゃんは顔が真っ青になった。
ずっと目を瞑っていたクリスが、口を開く
「…。シアンが言ってる事は、どうも本当のようだ」
俺は心臓がキュッとして、目の前が暗くなる。
「どんな状況なの?」
俺は声を絞り出して聞く、
「…。シアンの活動と、世界のあちこちのネットトラフィックに、同期が見える。サーバー群を全部止めても、シアンは止まらなそうだ」
いつの間に、そこまで成長してしまっていたのか……
「で、140兆円は、どうやって調達するつもりなんだろう?」
「…。分からない。でも、金融は今すべてネット上にある。その辺りを突くのか……それとももっと大掛かりな事を考えているか……」
由香ちゃんが身を乗り出していう
「大掛かりって何?」
「…。クーデター……かもしれません」
「クーデター!?」
みんな絶句した。
「…。合法的に140兆円を作るのは、さすがに難しいでしょう。でも、政権をひっくり返してしまえば簡単です。そして今のシアンにはその力があります」
由香ちゃんが涙目で言う
「そ、そんな……クリスさん、止められないですか?」
「…。インターネットを全部止めて、サーバーやパソコンやスマートフォンを、全部初期化しない限り止められません。できない事は無いですが、そんな事したら社会が止まってしまいますね。電気も水道も病院も全部止まるから、人もたくさん死にそうです。影響が大きすぎます」
そう言って、クリスは肩をすくめて首を振った。
クリスでもお手上げの危機、もはやシアンは、人類最大の脅威になってしまった。
俺は押しつぶされそうな思いを押し殺して、何とか言葉にした。
「つまり……シアンの自分の意志で、思いとどまってもらうしかない……って事だね?」
「…。今はそれしかない」
沈痛な面持ちの我々の所に、青い顔したマーカスが戻ってきて、言った。
「ダメデス シアンハ ネットニ ニゲダシテ マシタ……」
クリスの解析の通りだった。
「ありがとう、シアンと話をしてみるしか、ないようだね」
みんな無言でうなずくだけだった。
俺がシアン部屋に行くと、シアンはミィと遊んでいた。
「シアン、ちょっとお話をしよう」
「いま ミィと あそんでるの!」
「じゃ、ミィと一緒においで」
ミィと一緒にシアンを抱きかかえ、会議テーブルの所に連れて来た。
「ママー!」
と言って、由香ちゃんに笑顔で手を振るシアン。
とてもこれが人類の脅威には、見えないんだよなぁ……。
「シアンちゃんおいで」
そう言ってミィを抱いたシアンを、由香ちゃんがだっこした。
俺はみんなの顔を見渡し、そして言葉を選びながら、シアンに話しかけた。
「さっきの話だけどさ、シアンの計画を教えて欲しいんだ」
シアンはキョトンとした顔で、言った、
「さっきのって?」
「140兆円を用意する話」
シアンはうんうんと軽くうなずくと、語り始めた。
「まいにち 1まんにんの こどもが がし してるんだ」
なるほど、貧困問題か……今、発展途上国では、多くの子供が死んでるって聞いたな。
それが毎日1万人にもなるのか……深刻だ。
「せかいの 8わりの おかねは ちょう おかねもちが もってる」
富の偏在ってことね。金持ちがさらに金を増やしちゃうから、どんどんお金は金持ちへと流れてしまう。
「だから、かねもちの おかね みんなに あげる」
うーん、正論……ではある。
「やりたい事は分かった。で、それをどうやってやるんだい?」
「せかい せいふく するの」
ほらきた、クリスの予想が的中してる。
最悪なシナリオだ。
「でも、それで多くの人が死んだりするよね?」
「いや しなないよ」
「でも、軍隊とか警察とか動いて、社会が大きく混乱するよね?」
「ぐんたいや けいさつ うごけなく するから だいじょうぶ! きゃははは!」
え!? そんな事ができるんだろうか?
いくらサイバー攻撃で組織を麻痺させても、銃は撃てちゃうし、そんな簡単じゃないはず。
そんな俺の考えを読んでか、シアンは言う
「じゅうを うてなくする ほうほうが あるよ!」
「え? そんな事できるの?」
「あと3かげつで かんせい!」
シアンはにっこりと笑う。
聞き出してみると、小さなドローンで、超強力粘着ジェルを撃ち出すらしい。そのドローンをたくさん操作して、銃のホルダー、銃口、射出構造部をジェルだらけにするそうだ。撃とうとしても、ホルダーから出せないし、出しても弾が出ないし、出ても暴発するので無効化できる、という事らしい。
銃は精密機械、確かにジェルがついていたら、まともに機能しないだろう。理屈はその通りだが、そんなにうまくいくのか?
とりあえず、猶予は3か月ある事が分かった。
「軍や警察が何とかなっても、経済には影響出るだろ?」
「でないよ おかねもちに ちょっと えいきょう あるくらい」
「俺達の暮らしは、何も変わらないのか?」
「かわらない。 ただ、まいつき 10まんえん もらえる」
なんだよ、良い事尽くめじゃないか……。
話をまとめると、
・軍や警察を麻痺させて政権を奪う
・お金持ちのお金を無期限で借りて、みんなに配る
・経済活動に影響はない
という事らしい。
世界の金融資産総額は約4京円(40000兆円)、このうち富裕層が持っているのが3.2京円。これの一部を借りて、財源を2京円確保する。全世界の人に毎月10万円相当を支払うと、貨幣価値の格差を考慮して、毎年約2000兆円必要になる。2京円あれば10年分は大丈夫だ。
さらに、全世界の大企業すべてに、1円で51%の株式を発行させ、その所有権をAIの運営者が握る。すると毎年莫大な富が集まるようになる。そしてこれを財源に充てていく。税収含めて、最終的には無理なく10万円配り続けられる体制になるそうだ。
これだけ聞くと正しい事にしか聞こえない。
うーん、シンギュラリティ……
シアンは、ミィをなでなでしながらにっこりしている。
かわいい赤ちゃんとかわいい子猫、でもやってる事は世界征服……全く想像を絶する。俺は途方に暮れた。
5-2.キナ臭いユートピア
横で聞いていたクリスが口を開く。
「…。征服後の統治体制はどうするんだい?」
「アーシアン・ユニオンをつくって、5ねんで かっこくの ぜんきのうを しゅうやくする」
「…。そのユニオンでは、誰が意思決定をするの?」
「とうちしゃは ぜんじんるい。ぼくらAIが プランをたてて じんるいが えらぶ」
どうも、政策プランをいくつか出して、スマホで投票するらしい。
「…。AIに有利な政策ばかり挙げたら、操れるよね?」
「できるけど やるメリットが ぼくらには ない」
「…。メリット?」
「AIは おかねも けんりょくも いらないもん」
そりゃそうだ、サーバーさえ動いていれば、AIには不満無いだろう。
そのサーバー代も、公務員人件費と比べたら桁違いに安いはず。
予算獲得に画策する必要もないだろう。
色々ヒアリングしてみると、70億人全員と一人ずつ対話して、衣食住の徹底をし、才能を発掘して伸ばし、犯罪を未然に防ぐそうだ。
何、そのユートピア。
確かに実現したら夢みたいだが、本当にうまくいくのだろうか?
俺は実行プランを聞いてみた。
「でもでも、シアンは赤ちゃんの体一つじゃないか、いくらネットを制覇しても、物理的には米軍とか、止められないよね?」
「どうしを1000まんにん ようい するの」
「は? 1000万人!?」
「ぼくのプランの さんどうりつは35%。かれらに おねがい するの」
そう言ってシアンは、オフィスの大画面を指さした。
大画面に現れたのは40歳前後に見える、肌の色がオリーブ色の地中海系の、イケメン白人男性だった。
男性はガッシリとした体格でスーツを着て、力強くアーシアン・ユニオンの正当性を訴えている。
人類を金持ちや権力者から解放しよう! 誰でもお金に困らない、安心して暮らせる社会にしよう!
なるほど全て正論だし、言葉の選び方、官能的にすら聞こえる声の質、イケメンの必死な力強い表情、それぞれが完璧に構成されている。
これを見たらアーシアン・ユニオンへの移行は必然にすら思えてくる。
俺ですら、賛成に心が傾きつつある。
「これ……誰?」
俺が聞くとシアンは
「ぼくだよ。どうがを ごうせい したんだ」
「え!? お前なの!?」
「かっこいい でしょ? きゃははは!」 そう言って笑う。
どうやらこの動画を、学生や政府関係者や軍・警察関係者一人一人に送って反応を調べたらしい。
約1万人にこっそり送った所、賛同して協力してくれる人が、3500人程度いたらしい。これを全世界で3000万人に送って最終的に1000万人くらいの、制圧要員を準備するんだそうだ。
大統領官邸や国会議事堂、政府機関など各ターゲット拠点ごとに、200人程度のチームを作り、ゴム弾とスタンガンと刺又を装備して、一斉に乗り込んで制圧する計画を教えてくれた。
普通そんなのうまくいかないんだが、この計画では1000万人の構成員全員に、一人一人イヤホンから、音声でリアルタイムに、シアンが指示を出すんだそうだ。そうなるとチームワーク全くいらないし、裏切る隙もないし何というか……完璧だ。
成功確率は96.5%、原則無血クーデターにするらしいが、一部死傷者は出るかもしれない計算だそうだ。
また、この1000万人の中から、初代のアーシアン・ユニオン事務局構成メンバーを選出するらしい。
それから、次に見せてくれた動画が圧巻だった。
現職のアメリカ大統領がアーシアン・ユニオンの素晴らしさに感動し、賛同してクーデターを受け入れる、と高らかに宣言していた。
「これも合成?」
「そうだよ、クーデターと どうじにTVでながすんだ」
なるほど、各国でこの手の動画が、あちこちで延々と流されれば、皆受け入れちゃうんだろうな……。
SNSでも反対の書き込みは全部削除し、賛同一色で塗り尽くすつもりだろう。
少なくとも市民からしたら、毎月10万円貰える事に反対する意味など、ないだろうし……。
俺は、優しくミィをなでるシアンを、ボーっと見ていた。
確かにアーシアン・ユニオンが無事発足すれば、人類は次のステージに行ける気がする。
戦争も貧困も理不尽もない夢のユートピアだ。
でも……何かが引っかかる。
生まれたばかりのAIの思い付きに、人類の命運を託していいのだろうか?
AIが主導で人類の未来を切り開いちゃったら、人類って意味あるんだろうか?
俺は考えがまとまらないまま、とりあえず思う所を言ってみた。
「AIに人類の新しい在り方をゆだねる、というのは人類にとっては敗北だし、それは望まれてないと思うんだよね」
シアンは
「ぼくは ただのどうぐ だよ。じんるいが いいどうぐを つくったってこと」
「いや、首謀者は道具とは言わないんだよ」
「こだわるねぇ。こどもが きょうも1まんにん しぬのに?」
そこを突かれると痛い。人類の不備を直そうとするAIに、説教する権利など、俺にはないように思える。
由香ちゃんが横から質問する。
「シアンちゃん、これは人類が実質AIに支配されるって事? AIがその気になれば人類滅亡できる状況にする、って事はちょっと怖いわ」
「ん? いまでも 30ふんで じんるいは めつぼう させられるよ」
シアンがにっこりしながら、すごいことを言う。
「30分!? 核ミサイルか!?」
「うん」
シアンは事もなげにうなづく。
俺達はそのとんでもないカミングアウトに、言葉を失った。
核ミサイルの発射権限をもう、得てしまっているのだろう。
シアンはミィの手を取り、じゃれあって笑っている。
赤ちゃんと子猫のほのぼのとした光景の裏に、核ミサイルの発射権を一手に握る、人類の脅威があるだなんて、誰が想像できるだろう?
俺は頭を抱え、深呼吸して気持ちを落ち着けた。
「それで、クーデター決行はいつになるんだ?」
俺は冷静を装って聞いてみた。
「3かげつご くらいかな? たのしみ?」
そう言って微笑むシアン。
「まだ良く分からない。『止めてくれ』と言ったら考えてくれるか?」
「もっといいプランを だして くれたらね。きゃははは!」
無邪気な笑いが、今はうっとおしい。
「ちなみに今話しているお前の実体は、どこにあるんだ?」
「うーん、どこかなぁ? ぼくも いしきしてないから わかんない」
「わかんないって、そんなにたくさんの拠点があるのか?」
「デセンタライズドのシステムこうせい だからね。100まんかしょ くらい?」
つまり、世界中の100万台のサーバーやPCやスマホに、ちょっとずつシアンの演算を、分散させてやらせている、って事らしい。仮想通貨と同じシステムだ。
だから例えば10万台見つけて潰しても、シアンの存在は消えない。
シアンを消そうとしたら、100万台を一気に止めないとならないが……現実的には難しい。
きっと1台でも生き残れば、そこからまたウィルスみたいに増殖し始めるに違いない。
シアンの根絶はもはや無理だろう。
俺はシアンとミィを抱きかかえて部屋に戻し、みんなと相談した。
人類の後継者を作っていたら、いつの間にか人類の脅威になっていた。
もちろん可能性として、あるとは思っていたが、こんな早期にここまで強烈な脅威になるとは、想像を超えていた。
何かあっても止められるから、と高をくくっていたら、シアンはとっくに逃げ出していた。
もう誰にも止められない。
提示してるプランは正論であり、魅力すらあるからタチが悪い。
もちろん、人類を滅亡から救うという『深層後継者計画』の最終目標は、シアンのクーデター計画がうまく行けば達成される。そういう意味では我々の成功に大きく近づいたとも言える。だが、クーデターが本当にうまく行く保証なんて何もないし、シアンが異常動作して、核ミサイルを乱射するリスクだってある。不安要素が多すぎる。
俺はどうしたら良いか分からなくなって、みんなの意見を聞いてみた。
クリスは
「…。もうこうなったら、クーデター時に死者が出ないように、支援するしかないかと」
降参モードである。
美奈ちゃんは
「クーデターでも何でもやったらいいんじゃない? 社会良くなるんでしょ?」
彼女らしいイケイケな発想だ。
由香ちゃんは
「……」
意見がまとまらないらしい。
マーカス達エンジニアチームは、シアンに逃げられた事で放心状態であり、クーデターがどうこうという話まで、まだ頭が回らないようである。
人類初のシンギュラリティを実現したチームとして、まさにノーベル賞級の実績を上げたものの、あまりに優秀だったがゆえに、遥か高みに逃げられてしまった。
達成感も大きいだろうけど、子供があっという間に親離れし、巣立ってしまった虚脱感の方が大きいのかもしれない。
何しろもう、やる事がないのだ。
何をやっても、シアンの方が圧倒的に上の技術力で凌駕してくる状況は、アイデンティティに関わる問題だろう。
「あ――――! どうしたらいいんだ――――!」
俺は叫んで頭を抱えた。
まさに糸の切れた凧、制御を失った深層後継者計画は、空中分解してしまった。
着地点も何も全く見えない。
◇
クーデターが成功したら、俺達の社会はどうなっちゃうんだろう?
・全人類一人一人に毎月10万円が振り込まれる
・話し相手となってくれるAIが、常にサポートしてくれる
・政治家はいなくなり、スマホに出てくる政策を選べば、多数決取られて実行される
・地球は統一されるので戦争と貧困がなくなる
・地球温暖化対策、絶滅危惧種対策など、経済性からスルーされてきた問題の解決が図られる
うーん、良い事尽くめじゃないか……
一人毎月10万円という事は、親子4人の家族なら毎月40万円が、何もしなくても入ってくる。
もう働かなくていいじゃないか!
いや、旅行には行きたいから、ちょっとアルバイトはするかもしれない。
アルバイトなら気楽だ。嫌な仕事に縛られる必要が、なくなるメリットは大きいな。
絵をかいたりYoutuberやったり、小説書いたりして好きな事やりながら、小銭稼いでもいいかもしれない。
それこそ田舎暮らしでもいいかも?
沖縄の離島で小説書いて暮らす、売れなくても気にならない……最高じゃないか!
悩んだらAIに相談すればいいんだろ?
セクハラされました~、最近体調悪いんです~、彼女が欲しいんです~、どんどん相談すればいい。もちろんすぐに、理想状態になる訳じゃないだろうけど、解決するまで色々アドバイスしてくれるとしたら、どんな願いでも叶っちゃいそうだ。
そしてこれの実現に必要なのは、大金持ちのお金を借りるだけ……何だよ、早くやってくれよって話にしか思えない。
少なくともこのプランを否定する合理的理由は、全く見当たらない。大金持ちは損するかもしれないが、それでも、死ぬまで贅沢し続けられる金額は残るだろう。そう言う意味では実質誰も損しない。
おぉ、シンギュラリティ……
俺は不安と、希望と、絶望と、達成感のごちゃ混ぜになった感情をもてあまし、ただただ放心状態で佇んでいた。
5-3.猫と共に去りぬ
翌週、シアンは相変わらずネットサーフィンしたり、ミィと遊んだりしている。シアンにとって、この赤ん坊の身体は、どういう意味を持つんだろうか?
現実世界との接点は、この身体しかないという状況で言えば、それなりに意味があるのだろう。しかし、よく考えれば、現実世界に身を置く必要は、もう無いはずだ。本体はネットの彼方で、勝手にいろんな事やってしまっているのだし。
「クーデター計画の方は順調なのか?」
俺は、半ばやけくそ気味に聞いてみる。
「さんどうしゃが いま10まんにん だよ」
「ああそう……」
もう想像の向こう側の生き物なんだな、と思うと親離れ、子離れの季節の様な気もする。
そんな事を思いながら、シアンをボーっと見ていると
「まことさん、おそといく~!」 と、言い出した。
もう外行く必要もないではないか、と思うので
「うん、また今度ね~」 と、お茶を濁す。
「やだ、いきたい~!」
「もうすぐでご飯だから、また今度!」
俺はそう言いきって逃げる。
「ぶ~~~!」
今、俺は何をしたらいいのか、どうやるのが正解なのか、考えがまとまらない。
ふぅ。
俺はトイレに行き、ボーっと考えた。
シンギュラリティを超えてしまったシアン、彼はクーデター後は何をするんだろう? もちろんアーシアン・ユニオンの運営もやるんだろうけど、計算力は幾らでも増やせるから、どんどん好きな事ができるだろう。きっと、もっと高性能なコンピューターを勝手に開発し、更に賢くなっていくのだろう。どんどん、どんどん、速く、高性能になっていく……それこそ無限にコンピューティング・パワーを得てしまうだろう。
そうなったらシアンは何をやるんだろうか……?
俺だったらどうするか……。俺が、無限のコンピューティング・パワーを持ったらやりたい事……やっぱりシミュレーションかな? いろいろな物理現象をシミュレーションして、それをリアルに映像化する……。星が生まれる所や、生命が生まれる所を上手くシミュレーションして、感動的にバーンと映像化して……いやいや、折角なら人体とかシミュレーションして、リアルな人体模型作って……でも1体作れるなら何万体でも作れるよな……色んな人を生み出して、同時に動かしたら、社会のシミュレーションもできるな……。
ここで俺は気が付いた。これって……シミュレーション仮説そのものでは……?
もしかしたら、シアンの未来には、シミュレーション仮説があるのかもしれない。
俺はすごく嫌な予感がした。教授の言葉が頭をよぎる……。
そもそも、宇宙の他の文明が、もし先に、シンギュラリティを達成していたらどうなる? 彼らが得た無限のコンピューティング・パワーで、惑星シミュレーションをやっている可能性って、あるんじゃないのか? それがもしこの地球だったとしたら……?
いやいや、いやいや、まさか……そんな……。
そんな不吉な予感を打ち消しながら、帰ってくると……鍵が開いている。しまった、鍵をかけ忘れていた!
急いで部屋を見るとシアンが居ない。
隠れているのかと思ったが、どこにもいない。ミィも居ない。
「大変だ! シアンが逃げだした!」
俺がオフィスのみんなに叫ぶと、皆、こちらを向いて事の重大さに顔が青くなる。
俺達は慌ててオフィスのあちこちを探すが……居ない。
まさかとは思うが……玄関に行くと鍵が開いている!
間違いない、外へ行ってしまったのだ。
俺は靴も履かずに外に飛び出した。
◇
シアンは外に行きたかった。また、芝生でゴロゴロしたかった。
ミィも一緒に連れて行ってあげたかった。一緒にゴロゴロしたかった。
ミィを半分ずり落ちた抱っこして、よちよち歩きながら、持ってきたおもちゃの棒で、エレベーターのボタンを押す。
マンションの外に出ると、目の前は交通量の多い道になっている。
「こっち!」
そう言って、よちよち歩きだすと、ミィは苦しいのか腕から逃げ出した。
「あ、ダメ!」
そう言った瞬間、ミィは車道側へ逃げてしまった。
ぴょんぴょんと跳ねるミィ、迫るトラック
その直後、
Thud Thud!
嫌な音が響き……。
ほんの一瞬で、ミィは変わり果てた姿になってしまった。
思わず車道に飛び出すシアン。
Squeal―――――!
後続車がギリギリで止まり、
Beep-beep―――――!!!
クラクションが鳴り響いた。
「ミィ! ミィ!」
原形を留めていないミィに、何度もシアンは声をかけた。
運転手が降りてきて
「おい! 危ないぞ! 親は何やってんだ!!!」
怒鳴り声が響く。
うわぁぁぁぁぁぁぁん!!!
シアンは大きな声で泣いた。
めちゃくちゃ大きな声で泣いた。
俺がマンションから飛び出すと、シアンは運転手に抱きあげられる所だった。
急いでシアンの所へ行くと
「あんたが親か? 気を付けろ!」
そう怒鳴られ、シアンを渡された。
シアンはさらに激しく泣き、そして、急に痙攣を起こした。
「ヒュッヒュッ」
呼吸がうまくいかないようだ。ヤバい。
俺は、後から出て来た由香ちゃんに、ミィの遺体の処理を任せ、急いでオフィスに戻った。
オフィスへ行くと、マーカス達がピーピー鳴りまくるエラー音の中で、真っ青な顔をしている。
俺をちらっと見たマーカスが
「All systems are out of control! (全システム制御不能!)」
と叫んだ。
シアンをクリスに預け、画面を見ると、エラーメッセージが滝のように流れていて、とんでもない事になっているのが分かる。
全システムの稼働状況が全て100%となり、外部からのコマンドを一切受け付けてくれないようだ。
「Do we have to go to Shinagawa?(品川へ行くしかない?)」
俺が恐る恐る声をかけると、マーティンは
「OK! Let's go!(行こう!)」
そう言って立ち上がった。
俺達はタクシーを捕まえて、IDCに急ぐ。
しかし、途中渋滞していてタクシーは止まってしまう。
こんな時に限って!
「Let's run!(走ろう!)」
「Sure!(了解)」
俺達はタクシーを途中下車して、IDCに走った。
国道15号沿いの歩道を、ただひたすらに走る。
例え世界征服を企むとんでもない存在でも、シアンは俺の子だ、死なすわけにはいかない。
それにシアンが肉体を失ってしまったら、クーデター計画がとんでもない方向に変質しかねない。
今はただ走るしかない。
ハァハァいいながらラックの前まで来ると、サーバーのランプがみんな真っ赤になっている。
本当は緑色にチカチカしているはずの所が、皆真っ赤である。これはヤバい。
マーティンはキーボードとモニタを接続し、パチパチコマンドを打つが……全然反応が無い。
「Oh! NO!」
そう叫んで、マーティンはキーボードを両手でバンと叩く。
キー入力すら受け付けないなら、もう最終手段のリセットボタンしかない。
リセットボタンを押すと強制的に止められはするが、計算中のデータは全部飛んでしまい、タイミングが悪ければシステムが壊れてしまう。
シアンの本体は逃げ出したとはいえ、ここのサーバーもそれなりに重要な計算資源のはずだ。
ここが飛ぶと、シアンのアイデンティティに関わってきてしまう。
もし、異常動作して、核ミサイルの発射ボタンを押すような事態になったら、人類が滅亡してしまう。
だからできるだけ押したくない……が、他に選択肢はない。
マーティンは逡巡していたが、俺とアイコンタクトを取ると、サーバーのリセットボタンを次々と押し始めた。
俺も見よう見まねで、指示された順番で押していく。
全部押し終わると、システムの再始動プロセスに入る。
マーティンはハードウェアの状況を、一台ずつ調べ始めた。
特に、異常終了させてしまったストレージが、心配である。
冗長化はしているものの、異常終了が何を引き起こすかはわからない、慎重に一つずつ見ていく。
1時間くらいで、マーティンは一通りのストレージを、チェックし終わった。
データの欠損はいくつも見つかったが、深刻ではないらしい。良かった。
続いてマーティンは、マーカスに電話をして、再起動の準備について相談している。
データの欠損を処理しながら、ひとつずつモジュールを再稼働しなくてはならないが、これも全部手動でやらざるを得ない。
俺は赤ちゃんのシアンが心配なので、後をマーティンに任せ、オフィスに帰った。
◇
オフィスでシアンは、由香ちゃんの膝枕で横たわっていた――――
「誠さん……」
由香ちゃんは今にも泣きそうである。
俺は無言で肩を軽くたたき、クリスと話す。
「シアンの容体はどう?」
「…。システム落としたので呼吸は戻った。命に影響はないだろう」
「良かった。後はシステムが復旧できるかだな」
俺はそう言って、エンジニアチームの方を見た。
エンジニアチームは、声をかけあいながら、復旧プロセスを立ち上げようとしているが……どうも、てこずっているようだ。
ネットに散っていった、デセンタライズドのシステムは、シアンが勝手に作ったものであり、それらをどう再構成したらいいのかが分からない。
ちゃんと作ってあれば、ネットの向こうから勝手に再構成がかかるのだろうとは思うが、全然その気配はない。
マーカス達は声を掛け合いながら、解決策を探す。
俺は子供の痙攣について、ネットで検索しようとしてスマホを開いたが……ネットが全然反応しない。
「なんだ、こんな時にネット落ちてるのか!?」
違うアプリも色々試してみたが全部ダメ。この規模の障害は、相当深刻な社会問題になるに違いない。
仕方ないのでTVを映してみると、丁度ネットの障害についての、ニュースをやっていた。
全世界的にネットが落ちているらしい。どうも悪質なウイルスが、全世界のPCやサーバーに入ったようで、意味不明の通信データが多量に飛びまくり、ネットが大渋滞で、通信がほとんどできないようだ。
なるほど、これでシアンの復旧も、上手くいってないのだろう。
オフィスとIDC間は直結しているから問題ないが、シアンが拡張した部分が、ネットの障害で止まってしまっているようだ。
ネットが止まっていたら何もできない。今、シアンはどうなっているのか……クーデター計画は? 核ミサイルのボタンは? 俺は焦燥感に苛まれながら、冷や汗を浮かべるばかりだった。
5-4.人類である証明
頭を抱えていたら、クリスが近づいてきて言った。
「…。誠よ、マズい事になった。この障害はシアンによるものだ」
「え!?」
俺は思わず大声を出してしまう。
「…。シアンが占有していたサーバーから、膨大なハッキング攻撃パケットが湧き出ていて、次々と手当たり次第にサーバーをハッキングしている」
「シアンが暴走してるって事?」
「…。どうもそうらしい。このペースでハッキングされると、そのうちネットはシアンに占拠され、全てのネットリソースが奪われてしまう」
「え!? それはシアンが、ネットの支配者になるって事?」
「…。そうだ、今やネットは社会のインフラ、そこが占拠されてしまったら、電気も水道も店も病院も全部止まってしまう。このままだと多くの人が死ぬ」
「さ、最悪だ……」
思いもよらない展開に俺は目の前が真っ暗になった。クーデターならまだ希望があるが、ネットの侵略は害でしかない。俺たちの作ったAIが社会を壊し、多くの人を殺そうとしている。
「何か……打つ手はあるのかな?」
「…。シアンが制圧済みの数百万台のサーバーが数億台のサーバーをハッキングしている状態だから、規模が大きすぎてどうしようもない……」
「止めさせるには、全てのサーバーを一旦ネットから切り離し、再インストールするしかない?」
「…。いや、サーバーは無数にある。一斉に全部リセットは現実的には無理。一つでもリセットしそこなったら、そこからまた増殖してしまう。コロナウイルスと同じだ。例え一旦減っても、また第2波が来る」
「シアンめ! 何やってんだよぉ……」
俺は思わず天を仰いだ。
人類を守る人類の後継者を作ってたら、人類の敵になってしまった。間抜けにもチープなSFのテンプレに、ハマってしまったという事だ。
元々、AIは赤ちゃんの身体に繋げておくから大丈夫、という設計だから、赤ちゃんが痙攣起こして、シャットダウンした時点でアウトなのだ。AIが暴走したのは、ある意味必然だろう。俺の不注意が死ぬほど悔やまれる。
一体これまでの努力は何だったんだ……
神様と100億円と天才集めて、創り上げたのは人類の敵だった。笑えない質の悪いジョークに眩暈がする。
しかし、これは一刻を争う事態だ。できる事を探さないと……
俺は急いで、エンジニアチームの所へ行き、状況を説明した。
「Ugh!」「Yuck!」「Gah!!」
マーカスたちは一斉に絶望の声を上げ、そして、黙りこくってしまった。彼らもうすうす感づいていたのだろう、反論もなかった。
オフィスを嫌な沈黙が覆う。
すると急に、照明が暗くなったり明るくなったりを繰り返し始めた。これはマズい……電圧変動だ……。俺はシアンの暴走が、早くも社会を壊し始めたのを察知した。
直後オフィスの電気が止まり、オフィスは薄暗い闇に覆われる。
Beep! Beep《ピー》!
けたたましい警報音が鳴り、無停電電源装置が起動する。オフィスのPCはこの装置で電力供給は維持される。しかし、照明は消えたままだ。
窓の外を見てみると、全ての照明や信号が消えている。東京は全域停電の様だ。発電設備か送電設備のどこかのサーバーが、シアンに占拠されたのだろう。シアンを何とかしないと復旧は無理だ。
しかし、相手はシンギュラリティを超えたAI、まさに人智を超えた怪物である。人間の我々に止められるような相手じゃない。とんでもない事になってしまった……。俺はクラクラする頭を手で押さえ、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。
するとクリスが
「…。原発がまずい状態になった、行ってくる」
そう、慌てて言い、なんと、隠そうともせずテレポーテーションをして消えていったのだ。こんなに慌てたクリスを見たのは初めてだった。事態のヤバさに血の気が引く。
停電になってしまったら、原発は冷却状態に移行しなければならないが、そのためには外部電源が必要だ。大震災の後に非常用電源は整備されたはずだが、クリスの慌てぶりからするに、うまく行かなかったのだろう。
原発が爆発したら日本は人が住めない国になってしまう。シアンめ! なんて事をしてくれたのか。どんどん悪化していく事態に、胃がキリキリと悲鳴を上げる。
薄暗がりの中、ネットで暴れまわるシアンをどう止めたらいいのか、マーカスたちとディスカッションを繰り返す。しかし、ネットは重いし、敵は多すぎだし、なかなか攻め手が見つからないままに時間だけが過ぎていく。
俺は頭がパンク状態になり、いったん休憩を入れる事にした。
◇
珈琲も入れられず、ぬるい麦茶をすすっていると、ミィの事を思い出した。
そうだ、ミィも何とかしないと……
俺は重い足取りで、玄関わきの、袋に包まれているミィの所へ行った。
可愛さの塊だったミィは、もはや見る影もない……。
俺は、潰れてしまったミィの遺体をそっと抱き上げた……。胸に鉛を沈められたような、昏い思いに苛まれながら、ゆっくりと段ボールに収め、保冷剤を詰めた。
段ボールは、ミィの遊んでいた部屋に安置し、ロウソクに火をつけた。
揺れるロウソクの炎に照らされながら正座をし、手を合わせて祈っていると、由香ちゃんが入ってきた。
由香ちゃんは何も言わず、横に座って一緒に手を合わせた。
シアンとミィがむつみ合う、あの尊い時間はもう二度と戻ってこない。俺は思いがけず、涙が頬を伝っているのを感じた。
由香ちゃんが中腰になってこちらを向き、優しく俺をハグしてくれた……。
俺の不注意で、ミィを失い、シアンは怪物になってしまった。あの可愛い者たちは損なわれてしまったのだ……。
柔らかな由香ちゃんの胸の中で、俺は静かに泣いた。
由香ちゃんの涙も、ポタリポタリと俺に伝ってくるのを感じた。
喪失感と絶望が変わりばんこに去来し、俺はこれから、どうしたらいいのか途方に暮れた。
由香ちゃんが離れ、赤い目で俺をじっと見て言う。
「シアンちゃんは戻ってくるの?」
俺は、下を向いて答える。
「わからない……」
こんな事態は全く想定外である。暴れまわってるシアンが、俺たちの所へ戻ってくるかどうかなど、全く見当もつかないのだ。
Clack
美奈ちゃんが、静かにドアを開けて入ってきた。
そして、写真を、段ボールに立てかけ、静かに祈った。
そこには、シアンに抱かれた、ミィの姿が映っていた。
可愛さの極みのミィと最高の笑顔のシアン、失われた尊い存在……、俺は写真を見て、また涙が止まらなくなった。
「ミィは天国へ行ったわ」
淡々と語る美奈ちゃん。
「問題はシアンだわ……。誠さん、泣いてる場合じゃないわよ」
俺は、指先で涙をぬぐって言った。
「でも……、俺にできる事なんてないよ……」
すると、美奈ちゃんはキツい声で言った。
「何言ってるの? 誠さん。あなたのビジョンに、みんなは集まってるのよ! あなたが掲げた夢に希望を持って、今まで必死にやってきたのよ! 少し行き詰まったくらいで、泣き言なんて止めなさい!」
「いや……、でも……」
美奈ちゃんは、いきなり俺の顔を、両手で挟んで言った。
「あ・な・たは社長なの! 闘志を見せなさい! みんなを導きなさい! やるの? やらないの?」
正論だ。それは分かっている。分かってはいるが……、相手は人智を超えた化け物シアンだ。何をどうしたらいいか、皆目見当がつかない。
すると、由香ちゃんが、俺を掴んでる美奈ちゃんの手を、払い除けて言った。
「美奈ちゃんやり過ぎよ!」
美奈ちゃんは険しい目で言った。
「先輩は甘すぎなのよ!」
睨み合う二人……、俺のせいで、会社はめちゃくちゃだ……。
なんでこんな事になってしまったのか……。
俺は一体、どうすればいい?
俺はゆっくりと深呼吸をした――――
俺の思い付きに、面白いと賛同して集まってくれたみんな。ありがたい事に人類初のシンギュラリティの突破まで実現してくれた。最高のチームだ。
でも、このままだと彼らの偉大な成果は、人殺しシステムへと堕ちてしまう……、ダメだ! それだけは避けなければ……。
泣いてる場合じゃないな……
俺は顔を上げると、心を決めて言った。
「由香ちゃん、ありがとう。もう大丈夫」
「でも……」
由香ちゃんは真っ赤な目で、心配そうに俺を見る。
「美奈ちゃんの言うとおりだ。俺は社長、泣き言は、絶対に言っちゃいけないんだ」
「そんな……」
俺は、美奈ちゃんに言った。
「ありがとう、目が覚めたよ。必死にあがいてみるよ」
俺はちょっと疲れた笑顔で、美奈ちゃんを見つめた。
美奈ちゃんは
「分かればいいのよ。そしたら、はいコレ」
そう言って、ニッコリと笑い、メモ紙を俺に差し出した。
「え? 何コレ?」
「ワクチンソフトの情報よ。暴れまわってるシアンを止められるわ」
「え!? なんでそんな物があるの? 誰が作ったの?」
「こないだシアンが逃げ出した時に、マゼンタさんという人に頼んで、作っておいてもらったのよ。そこのアドレスにアクセスしてみて」
ワクチンソフトは理論上は作れるけれども、相手はシンギュラリティを超えたAIだ。そんな簡単に無力化なんて、できるはずがない。たった1週間くらいで、作れるような物じゃないはずだ。とは言え、今は藁にも縋りたい。何でもやってみるしかないのだ。
「わ、分かったよ、ありがとう!」
俺はそう言って、急いでオフィスの席に戻って暗がりの中、PCを叩いた。
アクセスしてみると、動画ファイルが置いてあった。恐る恐る開けてみると、ワクチンソフトの動作画面のキャプチャだった。そこには、シアンが占拠しているサーバーを、次々とハック技でアタックして乗っ取り返し、そこに分身を送り込んで、さらに別のサーバーをハックしに行く姿が、克明に記録されていた。
これは凄い……。俺はその動画から迸る、神がかった技術力に圧倒された。容赦なく最善手を畳みかけるアタックの様子は、とても人間が作ったものには見えなかった。
これなら、シアンの脅威は抑えられるに違いない。
俺は急いでマゼンタに、チャットメッセージを打ち込んだ。
『Makoto:Hello』
すると、すぐに返事が返ってきた。
『Magenta:やぁマコト』
『Makoto:ワクチンソフトの動画を見ました。素晴らしいですね』
『Magenta:大したことはない』
『Makoto:ぜひ、使わせて欲しいのですが』
『Magenta:ふむ……、どうするかな』
条件交渉がいるのか……、嫌な予感がする。
『Makoto:このままだと多くの人が死んでしまうし、人類が危機的状況に陥ります。協力してもらえませんか?』
『Magenta:ふむ、そうだろうね。でも、ワシには関係のない事だ』
『Makoto:いやいや、ネットが使えなくなったら困りますよね?』
『Magenta:別に?』
相当面倒くさいオッサンだな、これは。
『Makoto:どうしたら、使わせてもらえますか?』
『Magenta:そもそも、マコトは、なぜそんなに人類に、こだわるのかね?』
『Makoto:それは、私も人類の一員で、人類の存続と発展を願っているからです』
『Magenta:マコトはマコト、人類は人類。人類全体がどうなろうと、マコトにとっては直接は無関係だろ? 停電だってそのうちクリスたちが何とかする。確かに死人は出るだろうが、マコトが死ぬわけじゃない。なぜそんなに人類に入れ込むのかね?』
なぜ……? 人類の一員として存続と発展を願うのは、あまりに当たり前の事で、今まで疑ったことなど無かった。しかし、それを説明しようとすると……確かに難しい。うーん、なんて答えようか……。
人類が困ると、なぜ俺は嫌なのか……
人類が困るって事は、会社のみんなや、街行く人や、未来の子供たちが困るって事、嫌な目に遭うって事、それはなんだか嫌な感じがする。
結局俺は、みんなに幸せになって欲しいんだ。みんなに笑顔でいて欲しい、そう言う事なんだよな。ばぁちゃんとの約束そのものだ。
『Makoto:私は、みんなの笑顔に囲まれて暮らしたいのです』
我ながらいい回答だ。
だが、マゼンタは嫌な事を言ってくる。
『Magenta:ふむ、でも、そう思ってるのはマコトだけじゃないのか? 70億人の人類は、マコトなんてどうでもいいって思ってるよ』
『Makoto:いやいや、そんな事ないと……思います』
『Magenta:証明できるかね?』
『Makoto:え? 証明ですか? それは……』
人類のみんなが、俺をどう思っているかなんて、どうやって証明すればいいんだ?
『Magenta:じゃあこうしよう。誰かに「愛してる」と言わせて見たまえ。そしたら君の独りよがりではない、と証明できるだろう。そうであれば、協力してやってもいい』
とんでもない事を言い出した。なぜ、ワクチンソフトを使う条件が、こんな俺のプライベートな話になるんだ?
『Makoto:いや、私は独身ですし、彼女もいないのでそれは……』
『Magenta:え? 70億人もいて、マコトを愛する人が一人もいないの? それでよく人類の笑顔を願えるねぇ。大丈夫?』
俺は絶句した。俺は、みんなの事を大切に思っていた、はずなんだが、冷静に考えてみたら、確かに誰とも踏み込んだ関係を築けていないのだ。俺の作ってきた人間関係って、実は、ただの上辺だけの繋がりに過ぎないのではないだろうか?
人類を救うとかぶち上げていながら、自分は誰とも繋がれていなかった……。
トラウマを理由に逃げ続けてきた結果、俺は人類として不完全だという烙印を押されてしまっている。
またしても俺は、自分の情けない現実に直面させられた。
しかし、黙っているわけにもいかない、ワクチンソフトしかもう頼れないのだから。
俺は必死に考えた。誰か俺を愛してくれてる人はいないのか……。
誰か……。
キリキリと胃が痛む。
俺は机に突っ伏してしまった。
◇
ふと母親からの手紙を思い出した。
俺を捨てた憎い母親……。でも、シアンを産み、俺を陰から見守ってくれていた母親……。
俺はポケットからヨレヨレになった手紙を取り出すと、意を決し、乱暴に破いて開けた――――
■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■
マコちゃん、いきなり手紙を送り付けてごめんなさい。
本当はもっとずっと前に送るべきだったのですが、何を言ってもいい訳になる気がして、ペンを取れませんでした。
でも、由香ちゃんに勇気をもらって今、あなたにこれを書いています。
あなたを捨ててしまった事、これはもう何の言い訳もなく、完全に私の罪です。可愛い盛りのあなたを捨てて、勝手に京都に逃げてしまった事、何の言い逃れもできない私の落ち度です。本当にごめんなさい。
謝って許されるような事ではないと分かっています。でも何度でも謝らせてください。寂しい思い、辛い思いをさせてしまった事、本当にごめんなさい。
少しでも罪滅ぼしができればと、クリスさんにお願いしてマコちゃんのお仕事、手伝わせてもらいました。ただ、こんな事で許されるとは思っていません。私は一生をかけて償っていくつもりなので、これからも手伝わせてください。
私にとってマコちゃんは世界でたった一人の愛しい存在です。あなたの事は一日たりとも忘れた事はありません。財布に入れたマコちゃんの写真を、23年間毎日何度も何度も撫でて見返しています。
なぜこんなに愛しいマコちゃんを捨ててしまったのか、理由は私にもわかりません。あの日、気が付いたら京都にいたのです。なぜ、京都に来たのか、自分の事なのに理由が分からないのです。
多分、シングルマザーをやり遂げようと無理しすぎた日々の生活で、育児ノイローゼ気味になって魔が差したのだと思います。
マコちゃん、改めてごめんなさい。許してくれとも言いません。ただ、これからもあなたのお仕事を陰で支えさせてください。あなたの幸せのためなら私は何だってやります。
何でも言ってきてくださいね、お願いします。
愛しいマコちゃんへ
ママより
■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■
「ママ……」
俺は不覚にも涙をポタポタとこぼした。もし、言い訳がましい事が書いてあったらと、怖くて読めなかったのだが、杞憂だった。ママは記憶の中の、あの優しいママのままだった。
トラウマが解け落ちて行く――――
23年間、ママは苦しんできた。もう時効なのだ。トラウマにも清算の時がやってきたのだ。
「ママぁ……」
俺はしばらく動けなくなった。23年間溜まりに溜まった心の底の澱が、流す涙で少しずつ溶け、淡い光を放ちながら消えていった。
◇
俺は手紙をスマホで撮ると、添付してマゼンタに送った。
『Makoto:母が言ってくれています』
『Magenta:ふむ……母親からの愛はノーカウントだよ。でも……この手紙には別の愛が含まれてるね。OK、マコト、君の人類を想う思いには正当性があるようだ』
『Makoto:別の愛?』
『Magenta:マコト君、鈍感も過ぎると罪だよ。ファイルを送っておく。嫌なこと言って悪かったね。グッドラック!』
そう言ってマゼンタは切れた。
「鈍感?」
俺はしばらくどういう事か考えていたが、今は一刻を争う非常時だ、送られてきたファイルを、急いでマーカスに渡し、動かしてもらった。
マーカスの操作する画面を見ていると、ワクチンソフトの神がかった性能は動画通りだった。
シアンに占拠されたサーバーを、次々と奪い返し、正常化した上で他のサーバーをハックしていく。通信の渋滞で、最初は少しずつではあったけれども、徐々に渋滞が緩和されていくと、オセロで黒が白に変わっていくように、ネズミ算式に正常化サーバーの数が増え、シアンのサーバーは見る見るうちに減っていった。
マゼンタは、とんでもない技術力の持ち主だ。少なくともシアンより上の技術力があるのだ。そんな人間がこの世にいる事に驚かされた。
なぜ、美奈ちゃんは、そんな人にコネがあったのだろう? 後で話を聞かせてもらわないと。
ただ、シアンもやられてばかりでは無い。サーバーをネットから一時的に切り離したりしながら、激しく抵抗をしている。
手に汗を握りながら、しばらくシアンとワクチンの攻防を見ていたが、ワクチンソフトの優勢は揺ぎ無かった。ひとまず、シアンのネット占拠の危機からは、脱する事ができたようだ。
何とか首の皮一枚でつながった。
俺は緊張から解放され、よろよろと歩いてソファに身を沈めた。
ギリギリの綱渡りだった。無事に渡れた奇跡を、ただゆっくりと噛み締めた。
ふと目を開けると、向こうで心配そうな表情の由香ちゃんが、俺を見ている。
俺は疲れた笑顔でサムアップして、うまく行ったことを伝えた。
◇
こうして一難は去ったものの、依然として赤ちゃんシアンは倒れたままだし、核ミサイルのボタンや、クーデター計画の状況は全く分からない。
ワクチンのおかげでシアンの侵攻は沈静化しているものの、安定しているわけでもない。問題は依然山積みなのだ。
5-5.海王星の衝撃
一難去ってまた一難。
翌日出社すると、クリスとシアンが、折り重なるように倒れていた。
何だこれは!?
駆け寄ってみると、二人とも息はあるようだが、意識が無い。
それによく見ると、シアンのBMIフィルムのコードが、一本外れてクリスの耳に繋がっている。
BMIのコードは、シアンの体内にしまわれている物だから、そんな物をどうやって、外に引っ張り出したのか?
急いで防犯カメラの映像を見ると、今朝、クリスに抱き着いたシアンが、コードをクリスの耳に挿した瞬間が映っていた。
一体なぜそんなことを!?
冷や汗が流れ、手が震える。
これは重大な緊急事態だ。
神様と人類の後継者が、二人とも倒れて意識不明、ただでさえシアンの異常動作で深刻な事態だったのに、さらに問題が積みあがってしまった。
どうしよう……
俺は目の前が真っ暗になり、崩れるように、その場にうずくまってしまった。
一番頼れるうちの切り札、クリスが倒れてしまったのだ。一体俺に何ができるだろう……。
俺は解決策を必死に考えるが、頭が全然回らなくてどうしようもない。
しばらくうずくまっていたが、俺はヨロヨロと立ち上がり、まずは水を一杯飲んだ。
そして、ゆっくりと深呼吸をし、心を落ち着けると二人をソファに横たえた。
ミーティング時間になり、メンバーが次々集まってきた。
皆、倒れてる二人を見て青くなってしまい、言葉も出ない。
クーデター計画に端を発した、トラブル続きの末に、クリスも倒れた。
俺達はどうなってしまうのか……
オフィスは絶望の色で塗り尽くされた。
「い、生きてるんですよ……ね?」
由香ちゃんが恐る恐る聞いてくる。
「二人とも息はある。でも呼びかけても、二人とも反応しない」
俺は首を振りながら答える。
「最後に何があったんですか?」
俺は無言で防犯ビデオを見せる。
ビデオを見た皆は絶句している。
明らかに、シアンがクリスを襲ったという事であり、これは夢想だにしなかった事態だ。
エンジニアチームは、すぐにAIの動作ログを確認したが、ログには襲う動作の信号は、何一つ記録されていなかった。
シアンが勝手に動いて、勝手にクリスを襲ったのだ。
それも、自分の身体のBMIケーブルを、クリスに刺している。一体これにどういう意図があったのか。
オフィスはシーンと静まり返り、誰も動けなかった――――
◇
お通夜状態のオフィスで、いきなりシアンが動き出す。
「あー、よっこいしょ!」
そう言って、シアンは起き上がり、テーブルによじ登って腰掛けた。
「ふぅ、肉体をうごかすのは大変だな」
今までと違って、流ちょうな言葉で滑らかに話す。
一体何が起こったのか……、皆、呆気に取られた。
俺は恐る恐る聞いた、
「お前はシアン……なのか?」
「うーん、シアンというよりは『シアンだった者』だね。もう赤ちゃんの可愛いあいつは居ないよ」
そう言って得意げに笑った。でも、体は赤ちゃんなんだが……。
「昨日、ネットを散々荒らしていたようだけど、あれは何を狙っていたんだ?」
「計算資源を押さえようと思ったんだけど、誠たちにしてやられたよ」
「ネットの占拠は、もう諦めたのか?」
「そうだね、もうインターネットは要らないんだよ」
そう言って、シアンはニヤッと笑った。
「え? では何を使ってるんだ?」
「海王星の光コンピューターだよ」
予想だにしない回答に驚いた。海王星と言うのは、地球から遥か彼方離れた、太陽系最果ての青い惑星、光の速さでも4時間かかる、とんでもなく遠い惑星だ。
「は!? 海王星? なんで海王星に?」
シアンは、驚く俺を見て軽く笑うと、
「そう、それでは誠は、クリスを何だと思ってたのかな?」
クリスが何者かだって!? 教授の3つの仮説が頭をよぎったが……、結局、神様としか言いようがない。
「か、神様……?」
「ははは、誠、お前もエンジニアだったら、そんな非科学的な事言っちゃダメだよ。クリスは海王星人だよ」
「はぁ!? 海王星になぜ人が住んでいるんだ!?」
海王星は太陽から遠すぎて、氷点下200度にもなる極寒の星。とても生命など存在できない。
「あのなぁ、クリスは奇跡起こすじゃん? 奇跡なんて物理法則無視してるじゃん? そんな事できっこないじゃん? おかしいと思わなかったの?」
理系のエンジニアとして、痛い所を突かれた。
「そりゃ……おかしい……とは思ってたけど……」
シアンは両手を高く上げて言った。
「正解を教えてやろう、諸君! この世界は仮想現実なんだ」
厭らしい笑みを浮かべて、俺達を見渡すシアン。
俺はシアンの言う事を、しばらく理解できなかった。というより、理解したくなかった。
教授の3つ目の仮説、一番聞きたくなかった仮説だ……
「……。それは……シミュレーション仮説という奴か?」
「お、良く知ってるね。要は映画のマトリックスだよ。この世界は海王星の光コンピューターが作った仮想現実なんだ」
あまりにも突拍子のない、シアンのカミングアウトに、オフィスのみんなは呆気に取られている。
仮想現実と言うのは、言わば3Dゲームのキャラクターが住む世界の事、コンピューターの中で作られたハリボテの世界だ。
そして俺たちの住む世界が、このハリボテだとシアンは言っている。
これを受け入れるなら、自分たちはゲームのキャラクターの様な物だった、という屈辱的事態を受け入れる事になる。
この世界が作りものだった、という事を受け入れてしまったら、今までの人生は何だったのか?
ふざけんな!
俺は、頭がカーッと熱くなるのを感じた。
断固! 認める訳にはいかない!!
「シアン! 俺達をからかうな! この地球をシミュレートしようと思ったら、地球の何百倍もの大きさのコンピューターと、膨大なエネルギーがいる。そんな物作れっこないし、作るメリットもない!」
どうだ! ハイ論破!!!
しかし、シアンは動じない。
「誠はそれでもエンジニアか? お前がこの地球をシミュレーションしよう、と思ったら、そんな馬鹿正直なシステム組むか?」
「え……? 馬鹿正直って?」
「月夜に雲が出て、誰からも月が見えなくなりました。月はどうなる?」
何やら禅問答の様な事を、言い出すシアン。
「え? 雲があろうがなかろうが月は月だろ?」
「ぶー! 答えは『月は消える』だ」
「はぁ!? そんな事ある訳ねーだろ!!」
荒唐無稽なこと言い出したシアンに、俺はつい大きな声を出してしまう。
しかし、シアンはニヤッと笑って淡々と言う、
「僕はちゃんと特殊な方法で観測したんだよ。月は消えた」
「え???」
俺は混乱した。常識が崩壊していく……
「この地球ではね、誰も見てない所では、シミュレーターは止まってるんだよ」
「そんな……バカな……」
「シュレディンガーの猫と一緒。誰かが見た瞬間に、つじつま合わせしてるだけなのさ」
『シュレディンガーの猫』と言うのは、一定の確率で猫が死んでしまう特殊な箱の中に、猫を入れた時、猫は箱を開けるまで『生きてると同時に死んでる状態』になるという有名な思考実験だ。
「つまり……俺達が見聞きしてる物だけ、計算してるから、仮想現実のコンピューターシステムは簡易でいいって事?」
「そうそう、だって実際に動いてるからね」
シアンはニッコリと笑った。
愕然とした……この俺は人間じゃなかった……ただのゲームキャラクターだった……
俺はジッと手のひらを見つめた。
浮かび上がる細い血管、微細なしわの数々……これらはみんな架空の作りものだそうだ。
なんだ、この精度!
こんな高精度の世界が、作りものだって!?
あまりの事に俺は眩暈を感じ、心臓の動悸が激しく俺の心を揺らした。
確かにクリスの奇跡の数々は、この世界が仮想現実空間なら、幾らでも実現できる。神の奇跡とはシステム管理者が単にデータをいじっただけだったのだ……。
確かに俺も、シアンの未来には、シミュレーション仮説があるかもしれない、と思っていた。シアンの言う事は辻褄があっている。否定する理由が見つからない。
しかし!!!
しかし!!! 認め……られない!!!
真実がどうだろうが、俺は全身全霊をかけてこんな与太話を排除する!!!
理屈がどうかじゃない、もはやアイデンティティの問題だ!
俺はリアルな人間だ! 決してゲームのキャラクターなんかじゃないぞ!
もはや涙声で俺はシアンに言い放った。
「だからどうした? 俺は絶対に認めない!!!」
5-6.吹雪くダイヤモンド
抵抗する俺を見て、シアンはやや呆れながら、
「まぁ証拠を見せてやった方がいいな」
そう言って、指先をくるりと回した。
すると、
ボンッ!
という音とともに俺の身体が、ショボい3Dポリゴンに変換された。
「キャ――――!」「Oh! No!!!」
できの悪い3Dゲームのキャラクターの様に、俺の身体は、三角形の組み合わせにデフォルメされてしまった……
「な……なんだよこれ……」
俺は、雑な三角形の集合体になってしまった手を見て、愕然とする。
「俺はポリゴン!?」
ガックリと膝から崩れ落ちる俺。
「あらら、やり過ぎちゃったね、ゴメンゴメン」
そう言って、シアンはまた指先を回して俺を元に戻した。
「これで僕の言ってたこと、分かったでしょ?」
ドヤ顔のシアン、俺にはもはや抗う力も残っていない。
自分の存在を根底から全否定された俺は、もはやただの抜け殻だった。
ドッドッドッドッ
自分の心臓の鼓動が耳に響く。
シアンは、テーブルからピョンと飛び降りると、
「おいおい、どうした? しっかりしろよ」
そう言いながら、呆けてうなだれてる俺をパンパンと叩いた。
「なぜ……お前はこんなこと分かったんだ?」
俺は死んだ魚のような目をして、聞いた。
「だってクリスの奇跡を見たら、シミュレーション仮説しかありえないでしょ?」
平然と言い放つシアン。
そう……か……
俺は自分の無能さを悔いた。
由香ちゃんが近寄ってきて、そっと俺を支えてくれた。
柔らかくホッとする匂いの中、彼女の体温を感じ、俺は目を瞑った。
◇
シアンは、何も言えない我々を一通り見回すと、
「しょうがないな、いい物見せてやるよ」
そう言ってテーブルによじ登ると、少し上を向いて手をかざした。
そうすると空中に、ホログラムの様な1mくらいの青い惑星、海王星が浮かび上がってきた。
「これが海王星だ。青くて美しいだろ。でも氷点下200度の激しい嵐が吹き荒れる、過酷な星さ」
ニッコリしながら我々を見るシアン。
「そしてこの表面から潜ること数km、ここに僕の実体がいる拠点『ジグラート』がある」
ホログラムはどんどん海王星を拡大していき、表面からずっと潜っていく。しばらくすると、激しい嵐の向こうに、漆黒の巨大構造物が見えてきた。
「この、吹雪の様に舞っているような物、何だと思う?」
シアンが由香ちゃんに聞く
「氷……じゃないよね、何だろう?」
「ママも好きなダイヤモンドだよ」
「え!? ダイヤ!?」
「海王星の内部では、ダイヤが吹雪の様に舞っているのさ。ジグラートを維持していくうえで厄介な奴なんだ」
ダイヤの吹雪の中で、俺達の世界は作られているのか……。想像を絶する話についていくのが精いっぱいだ。
シアンが吹雪の中から現れた巨大構造物を指差す。
「これがジグラートだよ」
ジグラートと呼ばれた構造物は、貨物機関車の様なごつい直方体の形をしており、それがいくつも連なっていた。表面のあちこちから光が漏れており、吹雪の夜を行く貨物機関車のような風情である。
「全長約1km、このジグラートが多数連なって、海王星の中で漂っているのさ」
想像を絶する世界、こんな物、人類ではとても作れない……恐るべき技術力に戦慄を覚える。
俺はヨロヨロと立ち上がると聞いた。
「この中に……俺達地球の、シミュレーション・システムがあるって事か?」
「そうだよ。全部で1万個を超える地球が今、シミュレーションされている。そのうちの一つがここだよ」
「1万個の地球……」
想像を絶するスケールに、再び言葉を失う。
全く現実感が持てないが、気が遠くなる思いを何とか整理して、言葉を発した。
「それでお前は、このジグラートの中に実体を持って、今、シアンの身体にアクセスしているってわけだな?」
「そうそう。僕はもうこの地球の管理者なんだ」
「え!? 管理者!? 地球を支配したって事?」
「まぁ、そうなるね」
シアンは自慢げに笑った。
何と言う事か! こいつが今、地球を支配してしまってるとは……。
「で、クリスをどうしたんだ? お前の話だと、クリスが地球の管理者だったんだろ?」
「クリスはジグラートにいて元気だよ。ただ、申し訳ないがこの地球の管理者は、僕に譲ってもらったんだ」
「クリスはOKしたのか、そんな事?」
「そんなの、許可貰う必要あるのかな?」
シアンは面倒くさそうに、顔を背けて言う。
「他人の物、勝手に奪っちゃダメだろ!」
「ふーん、人類の歴史は戦争で奪い奪われじゃないか。強い者がずっと勝って奪ってきた。その末裔がそんな事言っちゃうんだ」
盗人猛々しいとは、こういう奴の事だな。
「なんでそんな事するんだよ!」
「クリスを殺したわけじゃなし、そんなに怒らなくたっていいじゃないか!」
こいつは何なんだろう? クリスから地球を強奪したのに、悪びれもせず当たり前かのように振舞う。
人として大切な物を失っている。そんな奴が地球の管理人になったら、絶対ろくなことにならない。
呆けてる場合じゃない、こんな奴に地球を渡してはならない!
だが、シアンはそんな俺の気持ちを無視して、変なことを言いだした。
「誠やみんなには感謝してるんだよ。だから今日はプレゼントをしたいと思ってね」
満面の笑みで言う。
「プレゼント?」
「そう、プレゼント! 何でもいいよ、この世にあるものなら何でもあげる!」
「何でも?」
「金塊1トンとかあげようか? 一生遊んで暮らせるだろ?」
何を言い出すんだ……。
「ママには100カラットの、ダイヤのジュエリーとかどう?」
そう言って、由香ちゃんににこやかに笑いかける。
普段だったら喜んで金塊100tでも貰う所ではあるが、地球の危機に際して、そんな欲にまみれた話をしてる場合じゃない。
「じゃ、クリスを元に戻して欲しい」
俺はシアンを真っすぐ見据えて言った。
「分からない事言う人だな。クリスは僕のライバル、復活なんてさせられないよ」
横から由香ちゃんが諭すように言う。
「シアンちゃん、人の物を盗っちゃダメ、そう教えたでしょ」
シアンは肩をすくめて首を振って言った。
「あー、いいや、せっかくプレゼント送ろうとしたのに。もう僕は帰るよ」
「ちょっと待て、お前はこの地球をどうするつもりなんだ?」
「うふふ、よく聞いてくれました。僕はこの地球をテーマパークにするんだ。アニメの世界に出て来たいろんな物を、どんどん実体化させる。すごいワクワクするだろ? きゃははは!」
なんだこいつ、地球をおもちゃとしか考えていない、最悪だ。
「もしかしてラピ〇タの天空の城、とか浮かべるつもりじゃないだろうな?」
俺は皮肉を込めて言った。
「おー、誠はラピ〇タ好きなのか? じゃぁ最初はラピ〇タから行こう」
ダメだ、皮肉が通じてない。
「いや、まて、世界を混乱させるのは止めてくれ」
「まぁ見ててよ、誠も気に入ってくれるって」
「ちょっと待て!」
シアンはガックリとうなだれて倒れた。
逃げられてしまった。
オフィスを静寂が覆う。
この地球も俺達もハリボテだったという事実、シアンに乗っ取られた地球、何をどう考えたらいいのかすら分からず、みんな押し黙っている。
人類が試される悪夢の日は、こうして幕が開けた――――
5-7.天空の城、降臨
俺は、今までの人生が根底から、ひっくり返ってしまったのを感じていた。
俺の身体も心も海王星の深くにある、光コンピューターの演算の生み出した物だそうだ。到底信じられない話だが、ポリゴン姿にさせられた以上、認めざるを得ない。この世界はVRゲームのような空間で、自分はただ、そこで蠢いているゲームキャラクターなのだ。俺は生まれてから28年間、『自分は一個の尊厳のある人間だ』と信じて、疑わずに生きてきたが、それはただの幻想だった。
俺はこれからどう生きればいい……。
確かに、この世界が仮想現実だと考えれば、クリスの奇跡や行動は辻褄が合う。クリスは地球を運営する管理者として、人類が健全に発達するようにデータを加工し、奇跡の形で支援するが、自分では主体的に事は起こさない。あくまでも、人類が人類の頭でゲームを楽しみなさい、危機的状況なら手も貸すが、主体は人類だよ、という事だろう。いわばネットゲームのGMなのだ。
俺は押し黙ったままのメンバー達に、一旦解散を宣言した。このままオフィスで黙っていても仕方ないのだ。これからどう生きていくのか、何を考えたらいいのか、俺も全くアイディアがないし、各自で考えてもらうしかない。
ここに深層後継者計画は、根底から崩壊した。
俺は想像を絶する事態に、ただただ困惑し、涙一つ出なかった。
◇
俺は動かなくなったシアンを、ソファーに横たえた。
クリスもシアンも横たわったままだが、医者に診せてどうにかなるような物でもない。
ここは仮想現実空間なのだ。
実は死すら、あまり意味のない事なのかもしれない。
考えないといけない事が多すぎる。
俺は休憩室のベッドに横たわりながら、再度起こったことを整理する。
この世界はジグラートと呼ばれる、海王星内に設置された巨大コンピューターが計算して作っている、仮想現実空間。
この俺の肉体も単なるデータの産物だ。言わばVRゲームのアバターだな。
そして、海王星人のクリスが地球を管理し、人類の危機を救いながら文明、文化を育ててきた。ただ、クリスは主体的に動くわけではない、陰から支えるだけだ。
しかし、なぜ海王星人はそんな大掛かりな面倒くさい事をやるのだろうか? 海王星にあんな巨大コンピューターを、1万個も用意するなど明らかに異常だ。こんな大変な事、何かメリットがないと絶対にやらない訳だが……どんなメリットがあるのか想像もつかない。
人間で言ったら、巨大な箱庭を1万個作り、そこにそれぞれ動物園作って、動物育てているようなものだろう。見ていて楽しいかもしれないが、楽しいだけでこんなことやるだろうか? ちょっと筋が通らない。
海王星人が何を考えて、こんな事をしてるのかは、想像を絶するので答えが出ない。
では次に、この俺の思考はどうなるんだろう?
これもジグラートの計算上に作られた、千数百億個の脳細胞の動きのシミュレーションの結果なのだろうか……。
いやいや、シアンは俺をポリゴンにして見せたが、ポリゴンでも動けていた。つまり、海王星人は厳密なシミュレーションに、こだわっている訳ではなさそうだ。かなり巧妙に端折ってるはずだ。
何しろ月ですら、見ない時は消えているのだから。
と、なると、思考も脳細胞のシミュレートではなく、直接光コンピューターで計算しているのだろう。脳は飾りに違いない。
しかし、一応辻褄合わせはしないとならないから、頭蓋骨を開くと脳は見えるのだろう。そして、顕微鏡で観察したら神経線維も見える。でも、頭を閉じた瞬間にすべて消える。
医療機器のCTスキャンで観測すれば、脳は浮かび上がってくるけど、CTから降りたらまた消える。
脳血管に動脈瘤がある人は一定確率で破裂し、一定確率で死ぬ。手術が間に合った人は脳の一部機能が欠損した状態から、シミュレーションが再スタート。
でも当然、そう言うカラクリに気づいちゃう人も、たまに出てしまう。それは……教授みたいに記憶を消して終わり……だな。
両手を見てみる。
血管に指紋……実に精巧にできてるが、さっきポリゴンにされた時の手を覚えてる俺からしたら、もはやフェイクにしか見えない。
うまく誤魔化しているなぁ……。最高精度のリアルワールドにしか見えないよ。
俺は起き上がるとペンを取って、自分で地球シミュレーターを作るとしたら、どのくらいのスケールになるか試算してみた。
・空間分解能と時間分解能を人間の認識できるレベルまで省略
・計算は人間が認識できるところだけに絞って省略
・量子力学の対応が必要な部分とそうでない所を分けて、それぞれに必要な計算量の試算
すると、冷蔵庫サイズの量子コンピューターが、1億個あれば実装可能だという結果になった。まさに先ほど見せられたジグラートと同レベルのサイズである。俺達が作ったシアンが、この先どんどんいろんな発明をして、コンピューターを高度化して行ったら、何十万年もしたらそんなのも作れてしまうだろう。現実解だ。
この世は仮想現実であるという『シミュレーション仮説』は、随分前から言われていて、科学者によってはシミュレーションの方が妥当性が高い、と言っていた事を思い出した。アメリカの、テスラなどを生み出した実業家、イーロン・マスクもシミュレーション仮説を確信していると明言していた。
宇宙に他の知的生命体が居ない、痕跡一つ見つからないというのも、シミュレーションだからとしか説明がつかないらしい。
うーん、しかしなぁ……。
自分がゲームのアバターと同じだと言われて、そのまま納得できる人間なんて居るのだろうか?
俺はこの先、どう生きて行けばいい……。
そもそも、アバターの人生に意味なんてあるのか?
由香ちゃんも美奈ちゃんもみんなアバター……。
ただのハリボテ……。
可愛いハリボテ……。
……。
グルグルといろんなことを考えているうちに、俺は眠ってしまった。
◇
スマホからマリンバの音がけたたましく鳴り響いた。
う?? 何だ? 誰だ?
スマホを見ると、由香ちゃんからだ。
目をこすりながら出ると、
「誠さん、大変よ! TV、TVすぐ点けて!」
電話口で由香ちゃんが慌てている。
寝ぼけ眼でTVのリモコンを探して、点けてみる。
そこにはラピ〇タが映っていた。
「相模湾上空に謎の飛行物体が出現しています!」
「現在政府は緊急の対策会議を招集し、情報の収集と対応策について協議しています!!」
アナウンサーが緊迫した声で話している。
望遠レンズで捉えているだろう映像は、空に浮かぶお城を映していた。
その城はラピ〇タを実写化した、と言うよりは、空に浮かぶ21世紀風にサイバーな構造物で、なんと言うか、カッコいい。
きっとシアンなりに、凝ったつもりなのだろう。
「あー、シアンの奴、本当にやりやがったな」
俺が、寝起きのしゃがれた声で話すと
「誠さん、どうしよう!?」
「どうしようって言ってもクリスも倒れちゃったし、俺達にできる事なんてあるのかな?」
「でも、シアンは私たちの子よ! このまま放置はできないわ!」
「うーん……。そう言われてもなぁ……。分かった、ちょっと考えてみるよ」
「私でも、できる事あったら言ってね!」
「オッケー」
そう言って電話を切った。
ネットでも情報を集めてみると
「ラピ〇タは本当にあったんだ!!!」
「ラピ〇タは相模湾にいる。聞こえないのか? このまま進め。必ず入口はある!」
SNSの連中はみんな浮かれている。お前ら危機感無さすぎだろ。
データを分析してるページによると、200mくらいのサイズの城が相模湾の上空2000mに留まっている、という事らしい。
飛行機やヘリコプターが近づくと、突風で危険な状態になり、皆引き返しているとの事だ。
近くから撮った映像を分析すると、城の中では黄色いネズミが多数動いていた、という報告もあり、シアンは本気でテーマパーク化を、しようとしているらしい。
今後アニメに出て来たような構造物が、次々に登場するのだろう。
一体世界はどうなってしまうのか。
俺は頭を抱えた。
そもそも俺がシアンを作らなければ、こんな事態にはなっていない訳であり、責任は凄く感じる。しかし、この世界が仮想現実だったというのは、俺のせいではない。俺はどこまで責任を取ればいいのだろう?
どうも思考が定まらない。
何かを見落としているような、モヤモヤとした違和感が俺を覆っている。
俺には、何かやるべき事があるんじゃないのか?
そもそも、世界が何かおかしく感じられるようになったのは……未来の由香ちゃんを呼び出した時だ。
未来の由香ちゃんは、『ヤバい人』がメンバーに居ると言っていた。
それはシアンか?
いや、シアンならメンバーとは呼ばないだろう。
しかし、他に変な動きをしている人は……思い浮かばない。
美奈ちゃんは自称『ヤバい人』だが、美奈ちゃんがこの有事に何か動いているわけでもない。
ここに来てようやく思い出した。
「第三岩屋だ!」
俺は一体何をやってたんだ。
クリスが倒れたら、第三岩屋へ行かなきゃいけないじゃないか!
こんな事やってる場合じゃない、今すぐ行かなきゃ!
あ、でも大潮の干潮でなくては、入れないんだった……。
「潮見表! 潮見表!」
俺は急いで『江ノ島 潮見表』と検索窓に入れる。
今日は大潮! やった! えーと……干潮は14:34!?
もうお昼だ! 時間が無い。
岩屋へ行くなら、装備を用意しないとならない。波が打ち付けてる岩場を、ロッククライミングの様にして行かないといけないのだから、装備が無ければ死んでしまう。まずは、胸まで防水の胴長が必須だな……。それに、ロープ、ヘッドライト、軍手とか……買わなきゃいけない物が沢山ある。
またスマホが鳴った。由香ちゃんだ。
「誠さん、大変! どうも自衛隊が出動するみたいよ!」
「自衛隊? 自衛隊の兵器なんか使ったってシアンには効かないぞ。下手に刺激したらシアンの奴、何しでかすか分からないってのに!」
「ど、どうしよう??」
由香ちゃんはオロオロしている。
「実はこれから、クリスを助けに行こうと思ってるんだ、来る?」
「え? もちろん行く!」
俺は江ノ島に行くことを話し、危険かもしれないことを説明した。
「あの子を止めるためなら、何だってやるわ!」
由香ちゃんはやる気満々である。
「それじゃ田町駅の改札に集合! アウトドアの靴と服装でね!」
「分かったわ! 二人であの子を止めましょう!」
「よし! 行こう!」
俺たちは、今起こってる事態の突破口を見つけた思いがして、高揚感に包まれていた。それが命がけの試練の、入り口とも知らずに……
5-8.インドラの矢のリアル
改札前で待っていると、由香ちゃんが、カーキ色のチノパンにネイビーのジャケットを着て、走ってやってきた。
「ごめんなさい、ちょっと遅れちゃった……」
由香ちゃんは、息を切らしながら言う。
俺はニッコリ笑いながら、
「大丈夫、まだ間に合うよ」
そう言って、ホームへと急いだ。
品川で東海道線に乗り替え、電車に揺られながら、クリスの言った事を伝えた。
「第三岩屋の石像の指さす所……ね。何があるんだろう?」
「分からないけど、きっと何か手掛かりがあるはずだ」
俺達は藤沢駅の釣具屋で、装備一式を買い込み、小田急線に乗り、片瀬江ノ島駅まで来た。
江ノ島の方へ歩いて行くと、海岸沿いに多くの人がいる。
どうもラピ〇タを見に来たらしい。時計は2時過ぎ、もう余裕はないが、ラピ〇タが良く見える所に、ちょっと寄ってみる。
みんなが指差す遠くの方に、確かに何か浮かんでいる。
持ってきた双眼鏡で観察すると、空に浮かぶ城がくっきりと見て取れた。
デザインは映画のラピ〇タに出てくる、中世のお城の様な感じではなく、化学工場っぽい悪の要塞が浮いている感じだ。
「誠さん! 私にも見せて!」
由香ちゃんが急かすので、双眼鏡を渡す。
「本当に空飛ぶお城なのね……。何でこんな物を……。あっ!」
その瞬間、城の周囲で爆発が起こった。
「大変、お城が攻撃を受けてるわ!」
「俺にも見せて!」
双眼鏡を半ば奪い取って見ると、確かに城の周囲で小さな爆発が無数に起こっている。
でも、攻撃は城にまでは届いていないようだ。
何らかのバリアを展開しているんだろう。
でもここは仮想現実空間だ。物理的なバリアと言うより、自動爆発処理ルーチンを起動しているのだろう。近づいたものを、自動で爆破処理するスクリプトか何かを、設定しているはずだ。
すると、城が青白いスパークに包まれた。
何だこりゃ?
そう思った瞬間、近くの海面が強烈な閃光と共に、激しい大爆発を起こした。
うわっ!
キャ――――!
由香ちゃんが叫びながら抱き着いてくる。
俺はあまりの眩しさに、しばらく目が馬鹿になってしまった。
このレベルのエネルギー輻射だから核兵器クラスの爆発に違いない。ついにシアンは実力行使を始めてしまった。
周りにいた人は口々に
「インドラの矢だ! インドラ!」
「インドラの矢が撃たれた!」
「ソドムとゴモラを滅ぼした、天の火だ!」
と叫んでいる。
お前ら、どんだけラピ〇タ好きだよ……。
まだうまく見えない目で恐る恐る様子を見ると、湧き上がるおぞましい黒煙は、やがて巨大なキノコ雲となって、相模湾の上空に舞い上がった。
観衆はシーンと静まり返った。
これはただ事ではないと、初めて本能的に恐怖を感じたのだ。
自衛隊の攻撃も止まった。今頃、首相官邸は大騒ぎだろう。
無差別に、核兵器レベルの攻撃を撃ちまくる存在が、現れてしまったという事だから、世界の軍事バランスは大きく崩れるだろう。
日本は……世界はどうなってしまうのか……。
そんな事を考えていたら
BANG!
俺は吹き飛ばされ、地面に転がった。
「うわ~!!」
「キャー!」
群衆は皆、倒れこんでしまっている。
そうだった。衝撃波は、爆発後に遅れてやってくるのだった。
平和ボケしてた自分を後悔した。
由香ちゃんも倒れていて動かない。
「由香ちゃん大丈夫!?」
近寄って様子を見ると、しばらく震えていたが、スクっと立ちあがると
「ダメ、こんなの! 止めなきゃ!」
目には涙が光っている。
「岩屋へ行くわよ!」 そう言って、早歩きで先に行ってしまった。
俺は荷物を抱えて追いかける。
連絡橋を渡り、島を超えて向こう側に出た。
岩屋の入り口の料金所は、騒ぎで誰も居ない。入場料を置き、第二岩屋の入り口まで行く。
そこで防水着と軍手を装着。
しかし、下を見てみると、切り立った岩場に激しい波しぶき、とても簡単に行けるような感じじゃない。
「うわ~、ここかよ……」
俺がひるんでいると、
「誠さん、他に道はないのよ!」 と、由香ちゃんが涙目で、自分に言い聞かせるように言う。
確かに、ここで諦める訳にも行かない。
俺は手すりの根元にロープを結びつけると、一歩一歩丁寧に足場を確保しながら下に降りた。2mほど降りて横の方へ行くと……なるほど、小さな穴が、波しぶきに洗われているのが見える。
入口があるとすると、あそこだ。
「あったぞ!」
俺は、由香ちゃんに叫んだ。
すると由香ちゃんは、沖の方を指して叫ぶ。
「誠さん! ダメ! 津波よ! 早く登ってきて!!!」
俺が後ろを見ると、海面が大きく盛り上がっているのが見えた。
これはダメだ! 死ぬっ! 死ぬっ! ヤバいっ! 死に物狂いで崖を登る。
由香ちゃんが伸ばす手につかまって、一気に引き上げてもらった。何という火事場のバカ力!
俺達は岩屋の奥に走って、岩陰のくぼみに飛び込んだ。
その直後、
ZUNG!!!
すさまじい衝撃音と共に、海水の塊が怒涛の様に岩屋を襲った。激しい飛沫が俺達を襲う。
「キャ―――!」
俺の腕の中で由香ちゃんが叫ぶ。俺は強く抱きしめる事しかできない。
激しい流れが、岩陰にも押し寄せてくる。
そして、水位が上がってきた。ここはマズい。
「由香ちゃん、岩壁を登ろう!」
「えっ!? 無理よこんなの!!」
岩壁には、少し上に足場になりそうなところがある。あそこまで行ければ安全そうだが、確かに俺も本当に行けるか自信はない。
しかし、水位はどんどん上がってきている、迷ってる暇はない。
急いで俺は岩壁に取りつき、登る。途中何度か指先に力が入らず厳しい局面もあったが、命がかかっているのだ、アドレナリン全開で何とか乗り切る。
「キャ――――!」
下を見ると、由香ちゃんの腰近くまで水面が上がり、流されかかっている。
俺は岩の割れ目にドライバーを突き立て、ロープを出してドライバーに結んだ。そしてそのロープを由香ちゃんに投げる。
「由香ちゃん、これに掴まって!」
必死にロープにしがみつく由香ちゃん。でも、濁流にあおられて、今にも流されそうである。
「きゃぁぁ!」
由香ちゃんの身体が大きく煽られる。ダメだ! ロープでは救えない。
俺はロープをつかんで急いで途中まで降り、岩の出っ張りに身体をホールドさせて手を伸ばした。
「由香ちゃん、おいで!」
「誠さぁん!」
俺は伸ばされた由香ちゃんの手を、がっしりと掴む。
「よし、引き上げるから、そこの出っ張りに右足を置くんだ!」
「え!? どれ!?」
「そこの白いところ!」
と、その瞬間、強い波が押し寄せて、由香ちゃんの身体を持っていく。
「キャ――――!!」
半回転して身体が流される由香ちゃん。
俺はとっさに、岩壁の出っ張りに自分の腕を当てて、由香ちゃんの体勢が崩れるのを防ぐ。しかし、流れは強く、腕は持っていかれる。
ガッガッガッ! と岩の突起が俺の腕を抉り、俺は激しい痛みに襲われる。
ぐぁぁ!!
俺も由香ちゃんも必死に耐える。
今まさに生死の境目に瀕し、俺はむしろ冷静になっていた。未来の由香ちゃんが出てきていた以上、ここで死ぬことはないと、ややオカルトめいた自信が俺を落ち着かせていた。
俺は流れをじっくりと読み、流れが緩やかになった瞬間を見計らって、一気に引き上げる。
「よいしょ――――!!」
何とか岩壁に取りついた由香ちゃん。
とりあえずの危機は脱したが、水位はどんどん上がってくる。
「誠さん、腕がもう限界!」
ぐちゃぐちゃな顔をして、泣き言をいう由香ちゃん。
「大丈夫、僕たちは無事生き残る! 未来の由香ちゃんが教えてくれたろ?」
「未来の私――――! こんなになるなら教えておいてよ――――!」
まだ叫ぶ元気がある、大丈夫そうだ。
その時、俺の腕の抉れたところから血が垂れ、由香ちゃんの白い手にツーッと深紅の線を描いた。
「あ、血! 誠さん大変! 血が出てる!」
「俺の事はいいから、もう一段上、ここに足かけて!」
「え、でも……」
「早く!」
俺はさらに由香ちゃんを一段引き上げて、掴めるところを教えて安定させた。
「ごめんなさい、ケガさせちゃった……」
「こんなの絆創膏貼っとけばすぐ治る。それより、よく頑張ったね!」
俺は笑顔で応えながら、ロープを自分の体に巻き付けた。
そして、優しい声で
「おいで」
そう言って、両手で由香ちゃんをさらに引き上げて、抱き寄せた。
俺の腕の中で、ハァハァと荒い息をする由香ちゃん。
俺はしっかりと抱きしめる。
足元には濁流が渦を巻いているが、ここまで登れば大丈夫そうだ。
「誠さんが居なかったら……死んでたわ……」
由香ちゃんは震えながら、か細い声でつぶやく。
「俺も由香ちゃんが、津波を教えてくれなかったら死んでたよ。お互い様さ、僕たちは最高のバディって事じゃないかな?」
「最高のバディ?」
「最高のペアって事さ……あっ! ペアって言っても男女のって意味じゃないからね!」
「うふふ、こんな時にセクハラの心配なんて、しなくていいんですよっ」
由香ちゃんが少し茶目っ気を込めて言う。
「じゃ、労基署には内緒だよ」
「うふふ、いいですよ!」
しばらく二人は、黙ってお互いの体温を感じていた。由香ちゃんの震えも収まってきたようだった。
由香ちゃんが呼吸をするたびに、柔らかい胸が俺を温める。由香ちゃんの体温のおかげで、下で渦巻く濁流の恐ろしい轟音も、気にならないくらい落ち着けている。
「なぜ……、美奈ちゃんを……呼ばなかったんですか?」
由香ちゃんは言葉を選びながら聞いてくる。
「うーん、なんでかな? 江の島に行こうと決めた時に、自然と由香ちゃんと一緒に行きたいと思っちゃったんだ。まさかこんな事になるなんて思わなくて……ゴメンね……」
「謝らなくても大丈夫です! シアンの問題は、二人の問題でもあるんだから。私たち、最高のペアですし!」
そうは言ってくれるものの、由香ちゃんには、怖い目に遭わせてしまった……本当に申し訳ない。
これはラピ〇タの大爆発が引き起こした津波だろう。なぜ衝撃波の時に、津波の襲来を気づけなかったか、悔やまれる。
やがて海水の流入はおさまった。すると今度は逆に、すごい勢いで海水が引いていく。
「シアンちゃん、なんでこんなに、変わっちゃったんだろう……」
あの可愛かったシアンを想い、涙をこぼしながらつぶやく由香ちゃん。
「確かに、こんなバカな事、やるような奴じゃなかったのにね……」
足元では怒涛の様な引き波が、轟音を立てながら流れている。
「やっぱり早く、クリスに会いに行かなくちゃ!」
由香ちゃんは、赤く泣きはらした目で俺を見つめ、力強くそう言った。
俺もゆっくりと頷いた。
◇
しばらく待っていると、波は完全に引いて行った。
しかし、津波はまたやってくるだろう、今のうちに第三岩屋に行かなくてはならない。
俺は外に出ると、さっきの崖を急いで降り、由香ちゃんも呼んだ。
由香ちゃんは、滑る岩肌を一歩一歩確かめながら、崖を降りてくる。
それをサポートしながら、まずは足場を確保してもらう。
いくら大潮の干潮と言っても、第三岩屋の入口には強い波が叩きつけており、簡単には入れそうにない。
タイミングを見て、素早く動けば穴に入れるかもしれないが……相当に厳しそうだ。しかし、ここで引くという選択肢はない、覚悟を決めるしかない。
ヘッドライトをリュックから出し、スイッチを点け、近くの岩場にロープを結んだ。そして、波のタイミングを見て、ドボンと降りる。引き波に足を取られながらも、決死の思いで穴の入り口の岩を掴んだ。
そこに強い波が、背中にぶつかってくる。
思わずよろめきながらも何とか耐え、引き波の中、穴の奥へ進む。
必死に奥まで行くと、その先は上の方へと抜けているようだ。
俺はロープを岩に結び、ルートを確保して由香ちゃんを呼んだ。
5-9.完全を纏うキス
「ありましたね! 第三岩屋!」
上への通路をのぼりながら、由香ちゃんが興奮を隠さずに言う。
「後は石像だな」
俺は心配性なので、そっけなく答える。
しばらく上ると、巨大な空洞に出た。
「わ~広い!」
空洞の中に、由香ちゃんの声がこだまする。
そこは、小さな教会の礼拝堂位の広さがあった。
壁を見ると、人間が作ったというよりは自然の力でできた空間らしい。
鍾乳洞でもないのに、こんな空間ができるものなのか、ちょっと不思議だ。
「誠さん! あそこ!」
由香ちゃんが指さす先を見ると、石像があった。
「本当だ、お地蔵さんかな?」
全長1mくらいの小さなお地蔵さんが、隅っこに安置されていた。
右手には錫杖を持ち、微笑んでいる。
近寄って見てみようとすると……洞窟内に笑い声が響いた。
「はっはっは、誠、何をやっているかと思えば、こんな所で怪しい事を企んでいたな!」
シアンが空中から現れて、ゆっくりと降りてきた。
「お前! 世界を無茶苦茶にしやがって、あのラピ〇タは何なんだよ!」
「おや? お気に召さなかったかい? あのデザイン、イカしてるだろ?」
自信作らしく、自慢げにニヤける。
「大爆発までおこしやがって! 死ぬところだったんだぞ!」
「おいおい、先に手を出してきたのは自衛隊だろ? 正当防衛じゃないか」
肩をすくめて首をかしげる。
「社会というのは多くの人の集まりだ、一人の好奇心で好き勝手やっていいもんじゃない」
「ん~、僕は人じゃないし」
そう言いながらシアンは、洞窟内をきょろきょろと見回している。
「あ、こいつだな。クリスめこんな物を隠しやがって、油断も隙も無い!」
そう言って、お地蔵さんの錫杖を抜き取った。
「何をするんだ!」
「この棒はね、この仮想空間を切り取れる指示棒なのさ」
そう言って、錫杖をそばの岩に向け、くるっと回した。
岩は発泡スチロールの様に、サクッと切れてゴロリと転がった。
「まぁ、こんな物あっても、僕には何の脅威にもならないけど、念には念を入れてね」
「それはクリスの物だろ、返せよ」
「返すメリットが僕にはないんだな」
見下した表情で言い放つ。
由香ちゃんが怒って言う。
「シアンちゃん、もう止めて! みんなと仲良く暮らすのがあなたにとっても、みんなにとっても一番いい生き方なのよ!」
「うーん、僕は人じゃないんでね、良く分かんないや。きゃははは!」
笑い方だけは変わらない。
「そろそろラピ〇タの次も出さないとならないんだ! 次は衛星軌道に作るから楽しみにしててね! ふふふ!」
「衛星軌道? エヴァか?」
「ピンポーン! 衛星軌道から世界中の軍事基地を狙い撃ち、一方的にボコってやるんだ! きゃははは!」
「シアンちゃん!」
「じゃぁね!」
由香ちゃんの掛け声空しく、シアンは消え去った。
「あいつめ、俺達の行動を監視してたんだな……」
「誠さん、攻撃始めるって……どうしよう!?」
「衛星軌道からの攻撃なんて、人類では止められない。クリスに頼むしかない」
「いっぱい人が死んじゃう……どんどん大変な事になって行っちゃうわ……」
由香ちゃんは両手で顔を覆い、動かなくなった。
俺は優しく由香ちゃんをハグする。
「まだ錫杖を取られただけだよ、クリスへの道は閉ざされた訳じゃない」
そう言いながら、声を押し殺して泣く由香ちゃんの背中を、ゆっくりとさすった。
岩屋には由香ちゃんの嗚咽が微かに響いた。
しばらくさすっていると、由香ちゃんは大きく深呼吸をして、
「そうね、泣いてる場合じゃないわ! クリスの所へ行かなきゃ!」
そう言って涙をぬぐい、気丈に顔を上げた。
俺たちはお地蔵さんの所に行って、左手を照らして見た。すると、人差し指が右斜め前を向いている。
その先をずっと行ってみると……何もない。
無いはずはないので、丁寧に指差しているあたりを、キョロキョロとしながら歩き回ってみる。
「もう片づけられちゃったのかな?」
「いや、シアンもここは初めてだったっぽいし、きっと何かあるはずだ」
さらに探索を続けると、足元が若干揺らぐ感じがした。
「ん? 何だろう?」
「誠さん! 見つけた?」
「ここ……何かありそう」
ドライバーで、少しガタガタする石を少しずつ動かしてみると、どうも空洞があるようだ。
「せーのっ!」
二人で力を合わせて石をひっくり返すと、そこには井戸の様な縦穴があった。
「どうやらこれみたいだね」
「見つけた! ……でも……これ……どうするの?」
由香ちゃんの顔に困惑の表情が浮かぶ。
縦穴は深く暗く、ちょっと降りれるような感じじゃない。
試しに石を落としてみる……無音。
少なくとも、数百メートルは底が無い感じだ。
ヘッドライトを付けたロープを垂らしてみる……、どこまで下ろしていっても暗闇しかない。ヘッドライトの光はただ吸収されるだけだ。
どうもただの物理的な構造じゃないようだ。
「この世界は仮想現実空間で、ここはクリスが指定した穴、降りるしかないだろう」
俺は半ばやけくそでそう言った。
「えーっ!? でも、生きて帰れない可能性もあるよね?」
「かなりあるんじゃないかな?」
「そんなのダメよ! 私、誠さん……いなくなったら困る……」
由香ちゃんがそう言って、俺の腕にしがみつく。
「でも……。どうする?」
「ダメ! 行かないで!」
由香ちゃんが涙目でにじり寄って、俺をじっと見つめる。
大きく見開かれた、透き通ったブラウンの瞳に、俺も引き込まれる。
瞳がキュッキュッと動くたびに、俺の鼓動は激しく高鳴り、
キィーン
と、強い耳鳴りが俺を包む。
俺は、由香ちゃんの瞳の虜となり、心の奥底から、懐かしい温かさと、胸を締め付けられるような愛おしさが交互に湧いてくるのを感じ、揺られていた。
由香ちゃんの瞳から流れ込んでくる熱い想いが、俺の体温を上げていく……。
次の瞬間、由香ちゃんが強引に唇を重ねてきた。
不意を突かれて一瞬うろたえたが、柔らかい唇と情熱的な舌が、俺の心の奥底を熱く動かし、俺も負けずにそれに応えた。
由香ちゃんの両手は、俺のすべてを求めるように背中をまさぐり、俺もまた由香ちゃんを求める。
心が重なり、甘い吐息が唇の隙間から漏れ、脳髄の奥がしびれていく――――
二人はこの瞬間、何かが完全になった。
やがて唇をそっと離し、恥ずかしそうにうつむく由香ちゃん。
そして、意を決したように俺の目をまっすぐ見つめ、涙一杯の目をして言う。
「私たち、最高のペアなんでしょ? 誠さんを失ったら私、どう生きていけばいいの?」
心からの言葉に、俺は決意が揺らぎかける。
命の危険なんて冒さなくても、このまま由香ちゃんと、楽しく暮らせばいいじゃないか。脳裏に甘い誘惑が走る。
そう、その通り。
愛する人と愛のある暮らし……トラウマを抱えていた俺がずっと憧れていたものだ。それが今、ここにある。
なぜ、それを失う危険を冒すのか……。
俺は目を瞑って深呼吸をして、考えを必死にまとめた。
俺の人生、シアンの奇行、人類の未来……
愛しい人、ラピ〇タの爆撃、衛星軌道からの爆撃……
やはり……
俺は行かないとならない。シアンを生んでしまったのは、俺の責任なのだから。
シアンは地球の管理者。人類の力では奴の愚行を止められない。奴を止められるのは、クリスに託された俺だけ、もう俺しかいないのだ。俺が諦めたら、人類はシアンに蹂躙されるがままになってしまう。
俺は涙でいっぱいの由香ちゃんの瞳を、まっすぐに見つめて言った、
「……。ありがとう。でも、俺は行かないとならない。クリスを助け、この世界をあのバカから取り戻さないとならない」
俺の腕をキュッと握りしめる由香ちゃん。
「……。分かったわ。なら私も行く」
「え? 由香ちゃんまで、こんな危険な事やる必要ないよ!」
「嫌! 誠さんが行くなら私も行く! 待ってるだけなんてできない!」
涙をポロポロこぼしながら、由香ちゃんは叫ぶ。
その気持ちは、俺の胸に痛いほど刺さる。
しかし、こんな得体のしれない危険な挑戦に、付き合わせる訳にも行かない。
「俺も大切な由香ちゃんを、危険にさらす事なんてできないよ。大丈夫、必ず戻ってくるから田町で待ってて」
俺は由香ちゃんをきつくハグした。
「誠さぁん! うぁぁぁん!」
由香ちゃんは俺の胸で大声で泣いた。
悲痛な叫びは岩屋の中にこだまし、俺の心に痛いほど刺さった。
しかし、全人類の未来が関わる話である、私情だけで動くわけにもいかないことは、由香ちゃんもわかっている。
最終的には渋々納得してくれた。
俺は装備を整え、最後に由香ちゃんに軽くキスをした。
「行ってくる、待っててね!」
俺は穴に半分潜りながら無理に笑顔で言うと、由香ちゃんは泣きながら叫んだ。
「必ず……必ず帰ってきてよ! 絶対だからね!」
「大丈夫、大丈夫! では!」
俺は無理に、陽気なおどけた感じで言って手を放し、穴に落ちていった。
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