この家で家族4人がそろう時間はそう多くない。
父さんは単身赴任でこの家にはいない。週末、仕事がひと段落すれば帰ってくることもある、程度だ。母さんは夕方にパートに出るので朝はゆっくりだ。俺らが家を出る時間に起きてきて、俺らが学校から帰ってくる時間にパートに出勤する。
朝6時に妹の紬は目を覚まし、ひとしきり朝の支度を終えると俺に何らかの打撃を加え起こす。これが我が家の朝の光景である。妹の打撃に1分ほど悶絶した後居間に降りる。
朝に男性のうめき声が聞こえる家庭というのは中々に前衛的なものだが、確実に起きることのできるこの方法は痛さに対する恨みこそあれど、圧倒的に感謝のほうが大きい。
妹が朝食の準備をしてくれているので俺も手伝い、朝食を食べ、諸々の準備を済ませ俺も妹も7時過ぎには家を出る。
俺も妹も基本は徒歩である。坂が多いこの町では下手に自転車を使わないほうが楽だったりする。
登校中はお互いに友人を見つければ自然と別れるし、見つからなければ妹の中学校は通り道なので妹を見送ることもある。
わりかし兄妹仲はいいほうだが学校までついてこられると妹は少しばつが悪そうな顔をする。
「お兄、友達見つけたからもう行くね」
「ん、気を付けてな」
「お兄もね」
今日は友達をうまいこと見つけられたようで足早に俺のもとを立ち去る。
明るい声を出しながら友達のもとへと駆け寄る姿は兄として喜ばしいものでありながら、家では見せないその姿ほんの少し不安のようなものを感じている自分もいた。
歩道側に一人分の空白を残した通学路は春の朝にしては少し肌寒い風が吹き抜ける。春の花を落とし青く染まった木々の匂いと潮の匂いがいっぱいに広がる。
この年にもなると妹との付き合い方を少し考えた方がいいのかもしれないと考えるときもある。
毎朝途中までは一緒に登校している訳だが、それに対して疎ましいと感じているかもしれない。
ちょうど2年前、紬は反抗期だった。父親も母親とも触れ合うことの少ない我が家でその反抗の標的は俺になった。
一番顕著だったのは無視だった。どんな言葉をかけても首の一つも振ることは無い。そんな日々だった。家ではそんな振る舞いだった半面学校では明るく振舞っていたらしく、中学校に入りたてで、学校で自分らしくいられない反動が家で返ってきていたと、今になってみれば容易に想像がつくし、どうにか波風を立てず紬の悩みを聞いてやることもできたかもしれないが、当時は俺もまだ中学3年生である。そんな器用にできるわけもなく、虫に対しては無視で返すと意固地になってしまい、かえって関係に溝を深めることになった
紬の反抗期はそんなに長く続いたわけじゃなかった。一年弱といったところか。その後はずいぶんと落ち着き、今の仲を取り戻してはいるが、反抗期の時は俺も精神的に参ったものだった。ある日突然、再び一緒に登校するようになり、徐々に以前の中を取り戻したというわけだ。
仲直りこそすれ、あの日の記憶は今でもたまによぎる。学校で家では見せない楽しそうな顔をされればなおさらだ。
胸の中にわだかまったものを吐きだすように息を吐く。かわりに入ってきた少し冷たい空気は先ほどの居心地の悪さを解消してくれるかと思ったが、そんなことは無く、それもまた靄のように胸の中で留まってしまった。
そこに一人分の空白を埋めるように影が差した。
「お家じゃしっかりお兄さんなのね風見くん」
「委員長」
我らが委員長こと生駒海夕だ。朝の涼やかな空気とそれになびく彼女の黒く長い髪はよく調和している。
「ちょっと見直した」
「まあな」
「あと、ちょっと寂しい顔してたわよ」
それには心当たりがあった。あんなことを考えていれば寂しい顔にもなるだろう。ほんの少しだけ頬が熱くなった。
「んなわけあるか」
兄妹仲が良いことにほんの少し恥ずかしさを覚えているのはどうやら紬だけじゃない。人前で素直になれないのは俺も一緒のようだ。
「別に恥ずかしがることじゃないわよ。それくらい仲がいいってことなんだから」
「そりゃどうも」
何か違和感を覚えた。朝にこんな風景が今まであっただろうか。その原因は深く考えるまでも無くすぐに判明した。
「そういや委員長、今日は朝ゆっくりなんだな」
「そろそろテストだからね。生徒会もお休みよ」
「なるほど」
「テスト勉強の方はどう?」
「多分大丈夫だと思うけど」
「これで大したことない成績とってごらんなさい。優葉に勉強教えられなくなるわよ」
「分かってるよ。俺もあいつも大丈夫」
「本当かしらね」
「大丈夫だって。俺、特技は有言実行だから」
「知ってるわよ……から」
風がひゅうっと耳元を吹き抜けた。
一瞬、うまく聞き取れなかったが大体予想はつく。
「いつもなら調子乗んなって言ってくるくせに」
「別にいいじゃないの、たまにくらいほめたって。ありがたく受け取りなさいよ」
「そりゃどうも」
「出会ってこの方初めてかもしれないな、委員長に褒められるのなんて」
「嘘、そんなことないわよ。絶対あります」
珍しく委員長がむくれた顔をして怒りをあらわにする。普段怒り慣れていないのだろう、どことなくぎこちない様子で、いまいち怒りの度合いが伝わってこない。
「委員長に褒められたら流石に覚えてると思うぜ。俺、委員長のこと尊敬してるし」
虚を突かれたように委員長が目を丸くした。そしてすぐさま顔を背ける。ここで赤く染まった耳が髪の毛の間から覗いているのがお約束なのだが、彼女のつやのある黒い髪は耳を完全に覆い隠してしまっており、その様子を窺い知ることはできない
呼吸を整え彼女が少し上目遣いにこちらを睨む。
「そういうこと恥ずかしげもなく言うわよね風見くんって」
「俺は正直者だからな」
「嘘ばっかり」
彼女はまたむくれた顔をしてぼそっと恨み言を吐く。
俺は再びからかってやろうと思い彼女の方に顔を向ける。
首を振ったその時、ふっと花の香りが鼻を衝いた。なぜだかは分からない、分からないがその匂いは無視できなかった。
よく見てみるとそこは見覚えのある場所だった。
目に入ってきたのは『香月』という表札。どうして昨日この花の香りに気が付かなかったのだろう。
思わず足を止めてしまう。俺につられ委員長も一緒に歩みを止めた。
「カーテン、今日も締まってるわね」
「あぁ」
優葉の部屋を見て委員長は言う。彼女は寂しそうな顔をしていた。きっと俺もそんな顔をしていたのだろう。
「今日も行くんでしょ?」
「そのつもり」
「本当に大事にしてるのね」
「まあ付き合い長いからな」
『付き合いが長いから』
それはあまりにもあっさりと出てきた言葉。上澄みを掬いとっただけのような、綺麗だけどその奥にどろどろと沈んでいるものが透けて見えるようで、淀みなく出てきた言葉だったのにあまりにも自然すぎて逆に嘘くさく感じられてしまう。そんな気がした。
俺たちはまた再び歩き出した。
香月家を通り過ぎるとき一つの疑問が解消された。
鼻腔を満たした匂いの正体は庭先に植えられた黄色い百合の花だった。それはたった一輪だけ、春にふさわしい明るい色でその強い匂いとともに存在感を示している。
「ほんと、嘘ばっかり」
なにが嘘なのだろうか。彼女が言う『嘘』の対象を見つけることができなかった。
坂を上っていくにつれ緑の香りはより強くなり、もう鼻の奥に残っていた百合の匂いはどこかへ消えてしまった。今となってはどんな匂いかも思い出せない。それどころか本当にあの匂いが百合の匂いであったのかも定かではない。
ただ一つ確かなことがある。それはこの目を閉じたとき、瞼の裏で太陽のように鮮烈に輝くあの黄色だ。
「どうしたの風見くん。目にゴミでも入った?」
「いや、」
空を見上げると青の中に花開く太陽の姿があった。
「何でもないよ」
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