アリステアが教科書破損事件を自作自演した直後、人気が無い廊下を歩いていると、前方から歩いてきた人物が挨拶してきた。
「アリステア様、お久しぶりです。今少々お時間を頂いても、宜しいですか?」
そうサビーネがお伺いを立てると、彼女が嬉しそうに頷く。
「リアーナさん! はい、大丈夫です。何ですか?」
「アシュレイさんから、アリステア様の教科書の話を聞いて、皆で胸を痛めておりました。それにセルマ教授から、その後、何かお叱りを受けたりはしませんでしたか?」
沈痛の面持ちでサビーネが尋ねると、アリステアが明るく答える。
「大丈夫よ。教授には『不注意で無くしました』と言ったら、『不注意なら仕方ありませんね』って、あっさり言われただけで済んだし。あんな悲惨な物を見せたら、『どうしてこんな事になるのです! 管理がなっていませんよ!』とか言って絶対怒ったと思うし、アシュレイさんの言った通り、やっぱりあれを正直に見せなくて正解だったわ」
「そうですか……」
アリステアは事を荒立てる事が無くて良かったと、本心から思っていたが、サビーネの推測はそれとは全く異っていた。
(それは、多分違うわね。お咎め無しって事ではなくて、セルマ教授は呆れ果てて、叱責する気も失せただけじゃないかしら? それでもこの人の個別授業は止めないなんて、セルマ教授は教育者の鏡よね。本当に尊敬するわ)
サビーネが密かに教授に同情しつつ、尊敬の念を新たにしていると、アリステアが不思議そうに尋ねてきた。
「ところでリアーナさんは、私に何か話があるんですか?」
それを耳にして、気を取り直したサビーネは、ポケットから折り畳んだ一枚の紙を彼女に差し出した。
「こちらがお呼び止めしたのに、失礼いたしました。実はこれをグラディクト殿下に、お渡しして頂きたいのです」
「え? これは何?」
「例の、教科書が切りつけられた日、該当する時間帯に、西棟でエセリア様を目撃したと言う生徒の宣誓書です。アシュレイから話を聞いてから、皆で手分けしてエセリア様を目撃した可能性がある生徒達に、個別に内密に当たっておりました」
それを聞いたアリステアは、本気で驚愕した。
「えぇ!? 本当に当日、エセリア様を見た人がいたの!?」
「はい。ただ、彼女が西棟を歩いている姿を目にしただけで、さすがに教科書を切りつけている所を目にした訳ではありません。ですから、この生徒の証言だけでエセリア様を糾弾するのは、どうしても無理がありますが……」
「ええ、それはそうよね。良く分かっているわ。だからあまり気落ちしないでね?」
「勿体ないお言葉です」
如何にも悔しげに語ったサビーネを、アリステアは落ち着き払った様子で宥めた。
(だって、授業が終わってセルマ教授が教室を出て行ってから、私がそこで使っていた教科書を持参したナイフで切りつけて、鞄に入れてグラディクト様の所に持って行ったんだもの。逆に、そんな有りもしない場面を見た人がいたらびっくりよ)
彼女がそんな事を考えていると、サビーネが力強く告げてくる。
「アリステア様が聡明な方で、安堵致しました。ですが勿論、このままには致しません。こういう証言の積み重ねで、他者のエセリア様に対する心証を悪くして、決定的な証拠を揺るぎ無い物にできるのですから」
それにアリステアは、深く頷いて同意した。
「本当にその通りよね! リアーナさん、これからも私達を助けて支えて下さいね?」
「勿論です。それから、この宣誓書を公にするのは、エセリア様が卒業してから、もしくは卒業間近の時期にして頂きたいのです」
「え? どうしてすぐに出してはいけないの?」
不思議そうに理由を尋ねられた為、サビーネは尤もらしく説明を加えた。
「そこに書いてある者の名前を見て頂ければお分かりのように、その方は貴族です。しかも今年入学したばかりの、教養科の生徒なのです。エセリア様が在学中は、学園長を初めとする教授達への影響が大きいでしょう。もし仮に今の時点でそれが公になれば、エセリア様が彼にどんな報復措置を取るか分かりませんし、逆にそれを恐れた彼が『この宣誓書はグラディクト殿下に強要されて、嘘偽りを書かされた物だ』と、証言を翻しかねません」
それを聞いたアリステアは、愕然として叫んだ。
「どうして!? この人はエセリア様を非難する為に、これを書いてくれた訳では無いの!?」
「残念な事に違います。今の学園内で、エセリア様に面と向かって刃向かおうなどと考える者はごく少数です。私はただ、この日、この時間帯に、この場所でエセリア様を見たかどうかを質して、多少不審に思われながらも言質を取っただけなのです」
「そんな……」
それでは意味が無いじゃないかと考えたアリステアだったが、そんな彼女にサビーネが根気強く言い聞かせた。
「ですから、証言をするのが彼だけですと、どうしても怖じ気づかれてしまいます。ですから今後、地道にエセリア様の非道な振る舞いに対する証言を、地道に集める必要があるのです」
「そうね、『数は力』だわ! エセリア様に不利な証言をする人がたくさん集まったら、きっと安心して真実を証言してくれるわよね!」
「はい、まさにその通りです。さすがはアリステア様。最後まで説明などせずとも、即座にご理解頂けて嬉しいですわ」
すぐに気を取り直し、ローダスの言葉をそのまま引用して明るい展望を述べたアリステアに、サビーネは賞賛の声を送った。それに彼女が、得意げに応じる。
「それ位、少し考えれば分かる事だから。それじゃあこれは、然るべき時がくるまで、殿下と相談してきちんと保管しておかないとね!」
「はい、そのようにお願いします。それでは私は、これで失礼致します」
「ええ、リアーナさん、ありがとう。またね!」
そして機嫌良く手を振って別れたアリステアの姿が見えなくなってから、サビーネは呆れながら溜め息を吐いた。
「あんな名前の生徒は学園内には存在しないけど、あの迂闊王子と常春頭女だと、一々生徒名簿や貴族簿と照らし合わせたりなんてしないでしょうね。エセリア様が『疑ってかかってきちんと調べて私の小細工が露呈したら、寧ろ誉めてあげるわ』とまで仰っていた位だし。正直に言うと、あそこまであっさり信じられると、ちょっと拍子抜けだわ」
そんな独り言を口にしてから、サビーネは何事も無かったかのように、再び歩き出した。
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