音楽祭当日。昼食を済ませてからマリーリカと合流し、自分と彼女の友人達と談笑しながら会場となっている講堂に向かったエセリアだったが、その入り口に仁王立ちになっていたグラディクトを認めて、僅かに眉根を寄せた。しかし何食わぬ顔で歩み寄ると、彼女に気付いたグラディクトが、意外そうな顔になって告げてくる。
「ほう? 逃げずにちゃんと参加するとは、なかなか感心だな」
その物言いに、彼女の周りの者は無言で顔を顰めたが、エセリアはおかしそうに笑いながら言い返した。
「まあ、殿下。授業と同様、れっきとした学園行事に参加するのは、生徒としての当然の義務ですわ。どうして逃げなければいけないのでしょうか?」
「そんな余裕な顔をしていられるのも、今のうちだ。発表者は全員最前列に、発表順に座る事になっている。勝手に場所を変えるなよ?」
軽く「普段授業をサボってる、あんたに言われる筋合いはないわ」との皮肉を込めてみたものの、どうやらそれは理解しないまま彼が平然と去っていくのを見て、エセリアは無言で肩を竦めた。
それから友人達と別れ、マリーリカと共に舞台前の最前列に移動したエセリアは、顔見知りの出演者達と挨拶を交わしてから指定された席に着いたが、ふと斜め前方を見ると、そこに設置された長机に、グラディクトとアリステアとソレイユが並んでいるのに気が付いた。すぐにマリーリカもそれに気が付き、更に机の前面に表記された肩書を見て、呆れたように感想を述べる。
「いい気なものですわね。名誉会長も実行委員長も」
「放っておきなさい。目が覚めるまでの話でしょうから」
「はい。目を覚まさせてあげましょう」
こんな人目のある所で、能天気そうに笑い合っている二人を見て、エセリアも溜め息しか出なかったが、ここでアーロンが歩み寄って二人に声をかけてきた。
「エセリア嬢、マリーリカから聞いて、演奏を楽しみにしています」
「まあ、アーロン殿下。ご期待に沿えるよう、頑張りますわ」
「マリーリカ、いよいよ発表だね。頑張って」
「はい、お姉様と共に、きっとアーロン様を驚愕させてみせますから」
「それは楽しみだ」
開始前に激励に来たらしい彼とマリーリカの仲睦まじい様子を、エセリアは微笑ましく眺めた。
(相変わらず、アーロン殿下とマリーリカの仲は良好みたいね。それにしても……、ソレイユ教授は平然としているように見えて、こめかみに青筋が……)
二人から問題の長机に視線を戻したエセリアは、その端に位置しているソレイユの能面のような顔を見て、心底同情した。
(きっと段取りを整えたり物品の準備をしたりするのを、あの二人に丸投げされたのよね。なんだか一気に、教授の白髪が増えそう……。ミランに頼んで売れ筋の白髪染めを購入して、近いうちに贈ろうかしら?)
この音楽祭が終わったら早速ミランに相談しようと、エセリアが密かに決心していると、開催予定時刻になった為アーロンが離れていくのとほぼ同時に、ソレイユが立ち上がり、注意を促す拍手に続いて大声を張り上げた。
「皆さん、静粛に!」
それでざわめいていた講堂内が静かになり、立ち歩いていた生徒達も全員着席する。それを確認してから、ソレイユがグラディクトに声をかけた。
「それでは殿下、お願いします」
「ああ」
すると彼は重々しく頷いて立ち上がり、同様に席を立ったアリステアを連れて、横に設置されていた階段から舞台に上がった。そして斜め後ろに彼女を控えさせてから、広い講堂内に向かって声を張り上げる。
「皆、私は本音楽祭、実行委員会名誉会長のグラディクトだ。これよりクレランス学園、第一回音楽祭を開催する。それでは実行委員長から、開会の挨拶を行う。アリステア」
「はい!」
彼から全生徒に紹介され、促されたアリステアは、満面の笑顔で頷いて一歩前に出た。そして妙に明るい声で呼びかける。
「音楽祭実行委員会委員長のアリステア・ヴァン・ミンティアです。皆さん! 学園生活は勉学だけではありません。この機会にもっと沢山、音楽に親しんで下さいね! 今回、このような有意義な催し物を企画できて、光栄の至りです。皆、一緒に、今日のひと時を楽しく過ごしましょう!」
今まで彼女の事を知らなかったものにしてみれば、いきなり出て来て何を言っている程度の感想しか持てず、彼女を良く知っている生徒達に至っては、この挨拶で完全にしらけ切ってしまった。
「……何だ、あれ?」
「何様のつもり?」
生徒達がそんな事を囁き合い、ざわめいている中、ふいに最前列の辺りから拍手が起こった。
「ちょっと。エセリア様が……」
「お姉様は本当に、お人がよろしいですわ」
「そう言わないで。誰も拍手しないと、私が睨みを利かせているからだと、言われかねないもの」
「本当に腹立たしいですわ」
微塵も躊躇うことなく真っ先に拍手したのはエセリアで、苦笑しながら隣のマリーリカも倣う。王子二人の婚約者が拍手しているのに、周りが拍手しないわけにはいかず、最前列から徐々に後方へと拍手の波は広がり、出足は悪かったがとにかく講堂中が拍手で満ちる事となった。
それに満足したグラディクトは手振りで拍手を止めさせてから、笑顔でアリステアを引き連れて階段を下りる。
「グラディクト様、私の挨拶はおかしくなかったですか?」
元通り席に座りながら彼女が尋ねると、グラディクトは笑顔で答えた。
「ああ、堂々としていて、立派なものだったぞ? ソレイユ教授、何をボケッとしている。さっさと始めないか」
「……畏まりました」
素っ気なく催促されて、ソレイユのこめかみの青筋が更に一本増えたが、彼女は傍目には冷静に立ち上がり、会場に向かって声を張り上げた。
「それでは発表に移ります。まず一人目は、キリエ・ラグレーヌさん。フルートの演奏で、曲目は『憧憬』です」
それと同時に一人目の発表者が立ち上がり、先程の階段を上って舞台に立つ。生徒達からの拍手が沸き起こる中、彼女は一礼して持っていたフルートを口に当て、演奏を始めた。その彼女の演奏が終わり、拍手の中一礼して舞台を降りると、すかさずグラディクトの指示がソレイユに飛ぶ。
「次だ。さっさと進めろ」
「それでは次は、三重奏になります。演奏者は……」
そんな風に傍目には順調に進行していったが、発表の合間に斜め前方に目をやっていたマリーリカは、不思議そうに首を傾げた。
「お姉様。先程から一人終わる毎に、殿下は教授に何を仰っているのでしょう?」
何を言っているのかは分からないが、この単調な流れでそんなに頻繁に言わなければ事があるのかと、不思議に思ったマリーリカだったが、チラリとそちらを見たエセリアは彼の性格を考えて、何となく想像がついた。
「進行の指示でも、出しているのではない? それが名誉会長の任務とか」
「ご自分は座ったままで、一々教授を立たせてですか? 随分お気楽な任務ですこと」
呆れ顔になったマリーリカだったが、エセリアは先程から彼女とは違う事が気になっていた。
「それにしても……、先程から皆さん、今日は調子が悪いのかしら? 殆どの方が間違ったり、音を外したりしていない? それに普段なら、もっと難度の高い曲を演奏されている方が、何人もおられると思うのだけど……」
その疑問に対しては、マリーリカが笑って答えた。
「エセリアお姉様や私が、全く音楽室で自主練習をしていなかったので、皆さん適当に流しておけば良いと判断されたらしいですわ」
それを聞いたエセリアは、少々困った顔になった。
「それは……、皆様に悪い事をしたわね。でも音楽室であれを演奏したら、当日のインパクトが半減するもの」
「長期休暇の間に、二人でしっかり練習しておいて、良かったですわ」
そんな事を囁き合っているうちに、とうとう二人の番がやってきた。
「それでは次の発表者に移ります。独唱者マリーリカ・ヴァン・ローガルド、ピアノ伴奏エセリア・ヴァン・シェーグレンによる、《光よ、我と共に在れ》です」
「それでは行きましょうか」
「はい」
つい先程までの参加者へのそれより、何割増しかの拍手を受けて二人は立ち上がり、落ち着いて階段を上がって行った。そして舞台上で客席に向かって一礼すると、更に大きな拍手が沸き起こる。そんな会場を冷静に観察したエセリアは、隣のマリーリカに囁いた。
「特に後方の生徒の皆様は、睡魔の国に片足を踏み入れておられるみたいね?」
「それでは、そこから引っ張り上げて差し上げるのが、私達の役目ですわ。次の方には期待できそうにありませんもの」
「そういう事ね」
互いに笑顔で頷いてから、マリーリカは舞台中央やや前方寄りに立ち、エセリアは真っ直ぐピアノに向かって椅子に座った。
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