「はぁ……、毎日こんなにたくさん、課題を出すなんて……。『教本に書いてある事ばかりですから、内容を確認して復習しておいて下さい』なんて、それなら読んでおくだけで十分じゃない! わざわざ書き取らせるなんて、本当に陰険なんだから!」
アリステアは手にしている鞄の重みを実感しながら、その理由である各教科の教授達から個別に出された課題を思って、忌々しげに呟いた。
「やっぱり権勢のあるエセリア様に媚びる位だから、誰も彼も似た者同士で陰険なのよね。もの凄く納得しちゃった」
「アリステア様、お待ち下さい」
「誰?」
いきなり背後から静かにかけられたその声に、アリステアが全く警戒せずに振り向くと、ウィッグと付けぼくろで扮装したサビーネが、恭しく頭を下げた。
「初めてお目にかかります。私は官吏科に所属しております、リアーナ・ヴァン・ジュールと申します」
それを聞いたアリステアが、顔付きを明るくしながら問いかける。
「あ、ひょっとして、モナさん達と同じ?」
「はい、ご挨拶が遅れて、誠に申し訳ありません」
「良いのよ。『ヴァン』が付くならリアーナさんも貴族だから、あからさまにエセリア様に楯突いたら、家族に迷惑がかかるんでしょう? こっそり挨拶に来てくれただけで、嬉しいわ」
「恐縮です」
「それに貴族なのに官吏科に所属しているなんて、凄い優秀なのね」
ケリー大司教にそう望まれていたアリステアとしては、それを実践している相手に対して、素直に尊敬の眼差しを向けた。しかしサビーネは、首を振って控え目に笑ってみせる。
「私は貴族と言っても、貧乏子爵家の三女ですから。満足な持参金を準備して貰えませんし、貴族として条件の良い婚姻など望めません。ですから自分の能力を最大限に活かす道を模索して、偶々良い結果が出ただけですので」
「それを実現している所が凄いわよ。本当に尊敬するわ!」
「ありがとうございます」
自分の優秀さをひけらかすどころか、卑下してみせたサビーネに、口から出任せではあったものの、自身も聞かされた内容と酷似した境遇であるアリステアは、一層親しみを感じた。その様子を見て、一応の信頼を勝ち得たと判断したサビーネが、本題を持ち出す。
「それで今回、アリステア様にお時間を頂く事にした理由ですが……。最近、女生徒達の集団と目が合った時に、不自然に目を逸らされたりしてはいませんか?」
「そう言えば……、そういう事もあったかもしれないけど……」
「実は最近エセリア様が、グラディクト様の良くない噂をでっち上げて、意図的に流しておられるのです」
「どういう事? だってエセリア様は、グラディクト様の婚約者でしょう? それなのにどうして自分の婚約者の悪評を流す必要があるの?」
辻褄が合わないと感じたアリステアが、困惑しながら問い返したが、サビーネは冷静に話を続けた。
「そこがエセリア様の、狡猾な所です。この学園を卒業したら、お二人の公務への出席が増える他に、挙式や御披露目に向けての準備が進められる事はお分かりですか?」
「……ええ、分かっているわ」
「ですがそれに当たって、成績優秀で品行方正なエセリア様と比べると、グラディクト様は成績で劣っておられて、軽く見られがちです。それに加えて殿下の不行状が明らかになれば、周囲の非難が殿下に集まります。エセリア様はそれを利用して、結婚後の自分の優位な立ち位置を確保しようと目論んでおられるのです」
サビーネの話に、当初沈んだ声で頷いたアリステアだったが、それを聞いた途端、怒りを露わにして叫んだ。
「何ですって!? あの人はそんな事を考えているの? そんな悪辣な手口で、殿下より優位に立とうだなんて!」
「残念な事に、そうなのです」
「でも『殿下の不行状』って何? グラディクト様は何も、非難される事なんかしていなわよね?」
(この人、本気で言ってるのよね? 本当に分かって無いから、尚更タチが悪いわ)
憤慨しながらも困惑しながら問い質してきたアリステアに、サビーネは内心でうんざりしながら、用意してきた台詞を述べた。
「エセリア様が流している噂の中に、『取るに足らない末端貴族の劣等生を側に侍らせる事でしか、自分の優位性を感じられない、私が補佐しなければまともに公務をこなすこともできない、愚鈍な王子』などと、不敬にも程がある内容の物が」
「酷い、あんまりだわ! グラディクト様が可哀想よ! もう我慢できない、文句を言ってやるわ!」
話の途中で、憤然として走り出しかけた彼女の腕を、サビーネは慌てて捕まえた。
「お待ち下さい、アリステア様! どちらに行かれるおつもりですか?」
「決まってるわ! 思い上がっているエセリア様に、ガツンと言ってやるのよ!」
「それはお止め下さい。それこそエセリア様の思う壺です」
「どういう事?」
益々訳が分からないと言う顔つきになったアリステアに、サビーネは噛んで含めるように説明した。
「良いですか? 先程私が口にした内容は、あくまで不特定多数の人間が口にしている、噂の一つにに過ぎません。ですから仮にアリステア様が『意図的に不敬な噂を流している』と主張しても、誰一人として自分が口にしたり耳にしたと、証言する者は出て来ないでしょう。仮にアリステア様が面と向かって非難したら、これ幸いと逆にエセリア様が、あなたを名誉毀損で訴える事は確実です」
「そんな……、グラディクト様がお気の毒過ぎるわ」
愕然とした表情のアリステアに、サビーネが尤もらしく重ねて言い聞かせる。
「悔しいでしょうが、ここは堪えて下さい。殿下は既にこの事は耳に入れていますが、アリステア様の事を想って、口を閉ざしているのですから」
「え? グラディクト様は知ってるの? それなのに、どうして私に黙っているの?」
再び問い質したアリステアに、サビーネは穏やかな笑みを浮かべながら説明した。
「アリステア様が耳にした場合、正義感の強いあなたが必ずエセリア様に楯突いて、あなたが謂われ無き不当な攻撃を受けるだろうと懸念した故です。ですから決して殿下があなたを蔑ろにした訳ではありませんから、そこは誤解なさらないで下さい」
「うん……、分かったわ。それじゃあ私が今聞いた内容も、知らないふりをしていた方が、グラディクト様の気遣いを無駄にしない事になるのよね?」
「さすがはアリステア様。殿下がお側にと望む方でいらっしゃいます。そのお優しさと思慮深さに、胸を打たれました」
サビーネがそう追従を述べると、アリステアは得意満面で断言した。
「これ位、当然よ。だって本でもヒロインは、言われ無き誹謗中傷を散々受けていたもの。寧ろ、お約束通り! この試練を乗り越えてこそ、殿下との絆も一層深まるのよ!」
「……え? 本? 一体何のお話ですか?」
「ああ、何でもないの、こっちの話よ。気にしないで」
「はぁ……、そうですか。エセリア様も下手に事を荒立てると、ご自分が噂を率先して流していたと公になる可能性がありますので、アリステア様を直接攻撃してはこない筈。ですから何を耳にしても、お心を強く持って頂きたいと思い、今回参上致しました」
サビーネがそう話を締めくくると、アリステアが笑って頷く。
「ありがとう。良く分かったわ。陰でこそこそ何を言われていたとしても私は気にしないし、気付いていないふりをするから心配しないで?
「それを聞いて、安心致しました」
「それじゃあ、そろそろ行くわね? グラディクト様と約束しているから」
「お引き留めして、申し訳ございませんでした」
そして頭を下げたサビーネに背を向けて、アリステアは立ち去ったが、再び頭を上げた彼女の顔は、困惑しきっていた。
「何なの? 『本』とか『ヒロイン』って……。やっぱり良く分からない、変な人ね」
サビーネは首を傾げながらも、取り敢えずエセリアからの指示通りに事が進んだ事に安堵しながら、その場を離れて行った。
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