紫の闇の中、彼は私に背を向ける。
『私の居場所はここではない。故に去る。
お前は付いてくるな』
『ダメ! リオン。行かないで!』
『フェイ、行くぞ』
彼の背には人には有り得ないものが生えている。
蝙蝠のような竜のような黒く、大きな翼が。
彼は、私の声など聞こえないかのように、翼をはためかせ空へと闇へと消えていく。
ダメだ。行かせてしまったら、彼はもう二度と戻ってこない。
「イ・イヤアアッ!」
私は自分の絶叫で目を覚ました。
純白のベッド、暗い部屋。さっきまで見ていた風景とは違う。
「よ、よかった。夢?」
ホッと胸をなでおろす。
何せ見たのはリオンが魔性に倒され、体を乗っ取られて悪魔のような姿になって変身。
私達の元を離れて遠くに行ってしまう夢だ。
最低、最悪。
私が死ぬほうがまだマシって言ったら、きっと怒られるのだろうけど。
ホント。夢で良かった。
「マリカ様、どうなさいましたか? 何やら声が聞こえたようですが……」
「あ、ミュールズさん。なんでもありません。ちょっと夢見が悪かっただけ。
もう起床時間ですか?」
「はい。地の刻です。今日から式典が始まるのでいつもより早くお目覚めを、とのマイア女神官長のお言葉ですので、そろそろ準備を始めてもよろしいでしょうか?」
「解りました。お願いします」
私はベッドからもそもそと起き上がって歩き出した。
今日から大神殿での礼大祭が始まる。
朝、地の刻に起床、禊をして朝食。
風の刻には朝食を終えて、着替えて、空の刻には迎えが来る。
夜の刻からの式典に参加。
大聖堂で祝福を与え、歌を歌い、場所を変えて儀式の祭壇でもう一度歌う。
明日、皆の前で踊る本祭に比べればやることは少ないけれど、初めての神殿での祭礼なのだ。緊張しない訳はない。もう心臓はバクバク言っている。
いつもならあまり好きではない禊も、気持ちを落ち着かせるためにはいいかもしれないと思うくらいだ。
「お食事をお持ちしました。姫様。お召し上がりになりますか?」
女神官長 マイアさんが食事をもってきてくれるけど、いつもの味のない麦がゆとスープはちょっと喉を通りそうにない。もったいないけれど。
「緊張して食欲が出ません。果物と飲み物だけ……あら、今日は果物がないのですね」
「ネアに今日は特に新鮮で良き物を、と、頼んだのですがまだ来ていないのです。
申し訳ありません」
「……そう、ネアちゃんに何かあったので無ければいいけれど。
遅れてきたとしても事情があったのなら怒らないであげてくださいね」
「姫君がそう仰せであるのなら……」
ネアちゃんが来ないということは、リオン達からの手紙も届いていないということ。
できれば手紙を見て元気を出したかったけれど仕方ない。
私はそうマイアさんに頼むと果汁を喉に通して、覚悟を決めた。
「準備をお願いします」
「かしこまりました」
そのあとは五人がかりで、前日祭&後夜祭用のドレスを着せてもらう。
ドレスも豪奢だけど、前日祭は踊らないので装飾品が多いのだ。
飾りベルトとか指からチェーンじゃらじゃらとか。
ミュールズさんは女神官さんたちに、化粧水や口紅、香水の使い方を教えてくれた。
昨日は夜の禊の後、髪の毛もシャンプーで洗ってもらったので割と艶々している。
「本当に素晴らしい品ですわね。
アルケディウスの化粧品は」
「輝くような美しさでいらっしゃいますわ」
準備が終わった私の姿を女神官さん達が姿見で見せてくれた。
良かった。
美しい、かどうかはともかくとして、なかなかに可愛い美少女に仕上がっている、とは思う。『聖なる乙女』って言われてもそんなに文句は出ないね。多分。
「これはこれは。
流石、『神』の寵愛篤き真実の『聖なる乙女』」
「神官長様」
「正しく朝焼けに輝く宵の明星。
その美しさの前には花々さえも枯れて踏まれるを光栄と思うでしょう」
「おべんちゃらはけっこうです。もう、時間ですか?」
大げさな口上を無視して私は神官長を見た。約束は風の刻だった筈だけれども。
私の嫌味に苦笑すると、はい、と神官長は頷いて頭を下げる。
「約束の刻限には少し早いのですが。新しい『聖なる乙女』に一目挨拶をと例年以上の者達が集まっています。彼ら全員に祝福を与えると祭壇での儀式の時間が押してしまうので姫君さえ宜しければお早めにお出まし頂きたく」
「解りました」
「ありがとうございます。では……」
ヴェールの縫い留められたサークレットを頭に乗せ、薄布を下げてもらうともう前はよく見えない。神官長の長い聖衣の裾を見ながら、私はゆっくりと歩き出した。
案内されたのは大聖堂の正面大門。
普通の人が入る場所と一緒だったのは意外だけれども
『聖なる乙女 入場』
中から響く声に従って開かれた扉からゆっくりと大聖堂の中に入った。
大聖堂の中は人でいっぱい。
席に座れず立ち見のように壁沿いに集まっている者たちもいる。
彼らの視線を一心に受けながら、中央を歩き、壇の上、神官長にお辞儀をする。
その後は指定された立ち位置へ。
顔を上げて周囲を見れば、久しぶりの顔を見ることができた。
(アレク!)
楽師席にアレクがいる。軽く手を振ってくれたのが嬉しい。
手を振り返すことはできなかったけれど。
私の登壇を待って、神官長が話し出した。
創世神話から始まる『神』の偉業。そして魔王を倒した勇者アルフィリーガの偉業と、彼の願いで世界の人々に残らず不老不死を齎した奇跡と慈悲を、美しい言葉で。
黙って後ろで佇んでいるだけの私は正直苦笑するしかなかった。
魔王にされた人物の転生が舞台の上で『神』への賛美を歌うとかないよね。
「礼大祭は世界を支え、人々を愛しお守りくださる『神』への感謝を捧げる祭り。
明日は『聖なる乙女』と共に感謝と力を『神』に捧げましょう」
神官長が私を見て、スッと壇尾の中央を譲る。
わたしの出番、ってことだよね。
前に出た私の登場に合わせてアレクがリュートを引いてくれたので、私は大きく深呼吸。
歌い始める。
向こうでも経験はあるけれど、こういう曲には感情は込めない。ただ、静かに美しく歌詞を歌うだけだ。
尊き我らが神よ。愛しき精霊よ。
我等を守り給え。
貴方の愛に包まれるなら、我々に恐れはない。
神と精霊の名において、我らはその務めを今、果す。
我らの力と思いをここに捧ぐ。
どうか我らを導き給え。
あえて精霊達にも来ないでとか言わなかったから、気が付けば周囲に光の精霊達が舞っていた。私が手を差し出すと、周囲を楽しそうにくるくる踊ってくれてる。
うん、中々に綺麗。そして、その後、私は参拝客の挨拶を受け、一人一人に祝福、というか精霊達に側で踊ってもらった。
なんとなくだけど、最近は一度出てきてくれた精霊は、言葉に出さなくても私の気持ちがわかるのか言うことを聞いてくれるようだ。
見てる人達からも歓声の声が上がっていたし、ガルフやギルド長、シュライフェ商会の人達も喜んでくれていたみたいなので、多分、望み通りのお役目は果たせたんじゃないかな。とこの時までは思っていた。
大聖堂での讃美歌のあと、私にはもう一度歌うお役目があった。
『神』の祭壇での挨拶の儀式。
一般人はごく一部以外、シャットアウトだけれども、リオン達が来てくれることになっていた。だから、気合いを入れていたのだ。
神への祭事はともかく、綺麗な衣装と私が頑張るところを見て貰おうと。
でも
「え?」
祭壇の前に並んでいたのはカマラとミーティラ様だけ。
リオンどころか、フェイもいない。
(な、なに? どうして?もしかして、何かあった?)
悪い予感が頭を過る。
朝の悪夢と合わせて冷静さを完璧に落としてしまった。
パニックになった私は歌詞こそ間違えなかったものの、気持ちが歌に入らず肝心の舞台で、精霊を呼ぶことができなかった……。
人々の軽い失望の視線がちょっと痛い。
「歌や、踊りで精霊を呼び集める時点でとても素晴らしい事。
アンヌティーレ様の時にも全ての儀式で精霊が表れていた訳ではございませんのであまりお気に病まれる必要はございません。
ですが、大聖堂でできて、祭壇でできないというのはおかしな話。
祭壇で姫君は集中を切らされたのではないでしょうか?」
儀式の後、奥の院で私はマイアさんに怒られた。
慰めているようで実は怒ってというか機嫌を損ねているいるのが言葉の端々に感じられる。
そして、きっぱりその通りなので反論もできない。
「姫君は間違いなく『精霊』に愛されし『真実の聖なる乙女』
明日の本礼祭ではそのお力を発揮されることを望みます」
確かで間違いのない忠告は、でも、私の頭の中にはに綺麗さっぱり入ってこなかった。
別のことで不安で、いっぱいだったから。
(リオン! 一体どうしたの?)
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