日が落ちた。
あるいは、咲き誇っていた花が散ってしまった。
そんな感覚が、頭から離れない。
「あの娘がいない。
それだけで、こんなにも静かになるのですね」
政務の報告にやってきた息子が小さな呟きをこぼした。
これは、あの娘が最初に訪れた時は、下民と蔑み、その後は道具として手に入れようと大貴族達を唆し、暗躍にも近い事をしていたと知っている。
そんな息子でさえ、寂しさを感じるのだ。
やはり、あの子がこの国に齎した影響は大きかった。
大きすぎた。
『では、お祖父様、行ってまいります』
私の初孫マリカ。
彼女が大神殿に召し上げられてもうすぐ二週間。
間もなく社交シーズンも夏の戦も始まるというのに、私はまだ城の、国のあちこちに残る鮮烈なあの子の残像を追う自分を感じている。
アルケディウス第三皇子、我が息子ライオットが自分の娘。
隠し子である、と一人の少女を国王会議の場にて披露したのは思い出してみればまだ二年と経っていない。
一昨年の秋の事だ。
マリカの存在を初めて出会ったのは、二年前の丁度今頃であっただろうか?
いや、もう少し遅かった。
あれは、夏の大祭の後。マリカの料理指導が本格的に始まり、麦の収穫により、パンができるようになってからのことだったから。
存在を知ったのは、もう少し前だ。
夏の大祭前の晩餐会で、ライオットが見たこともない菓子を用意し、近頃贔屓にしている商会から料理人を呼んで作り方を教わり買い取った、と自慢げに笑った時。
その料理人は幼い娘。子どもであると聞いたから。
どちらにしても、二年足らずであの娘は北の大地、アルケディウスを引っ掻き回し変えていった。
マリカを『幸せを呼ぶ小精霊』と称したのはプラーミァのベフェルティルングであったが正しく。あの子は我が国のみならず、世界中に幸せをばらまいていったのだ。
「それで、ケントニス。マリカがいなくなってからの食品扱いの方はどうだ?」
「急な事であったので、少し引継ぎなどに手間がかかっておりますが、大きな問題はなさそうです。マリカもゲシュマック商会も適切に動いてくれています」
そう言って、ケントニスは報告を続けた。
「マリカが支配人、店長として管理していた貴族用の実習店舗は副店長の料理人が店長に上がり、今まで通り各国からの留学生の指導を行っています。
新店舗の方は第三皇子家の料理人が指導と全体指揮を行っていますが、料理の腕はあっても店舗経営は初心者なので軌道に乗るまで、一号店の店長が二号店の店長も兼務し、第三皇子家の料理人に指導をしているようです」
「そうか。各国、一人の料理人が検定に合格してもまた直ぐに次を送り込んでくるからなかなか枠が空かないしな」
「ええ。我が国も含め、大貴族達から不満の声も上がっています。かといって店ばかり増やしてもしかたがありませんからね。その辺はゲシュマック商会と打ち合わせながらやっていきたいと思います」
「任せる。農業の方はどうだ?」
「秋植えの麦、春植えのソーハ、パータト、シャロなどどれも順調です。『精霊神』と『木の王』の復活によって大地の力が強まったようで、南部の肥沃な土地だけではなく、北の方も良い手ごたえを感じているとのことでした」
「それは何よりだ。この先、食の需要は増えることがあっても減ることはない。農業従事者が増えるように優遇措置も必要だな」
「いくつか手配もしております。ただ、やはりリアはアルケディウスの気候では難しいようですね。南部で試験的に栽培を開始しましたが発育は良くないそうです」
「そうか。マリカが提案していたヒリョウについてはどうなっている?」
「まだ研究中です。近々、大神殿でフリュッスカイトの大公閣下を招いての技術交換会があるのでその場で、科学に造詣が深い方々の意見を聞いてみるつもりで……どうなさいましたか? 父上」
「いや、気にするな。目にゴミが入っただけだ」
私は無意識に目を擦っていた。
少し話をしただけでも、これだけマリカの残滓を感じる。
どうやら、私は自分が思う以上にあの孫娘に依存していたようだ。
「まったく、いればいたで、いなければいないで、我々を引っ掻き回す存在ですな。
マリカは」
私の気持ちを読み取ったようにケントニスは書類挟みをぱたんと閉じた。
「そうだな。アレがいなかった二年前のことなどもう思い出すこともできぬ」
「はい。アドラクィーレも、子育てについて色々聞きたいことがあったのにとぼやいておりました。私自身もちょっとした時に、マリカの面影を探してしまいます」
ため息のような思いを吐き出すケントニス。
これもマリカが来る前とは別人のように落ち着いた。子が生まれたこともあってか父親としての逞しさのようなものも出てきたように思う。
「昨年は半分の期間外に出ており、城にいた時はそう多くも無かったのに。マリカはもう王宮にはいないのだと思うと、やはり寂しくなりますね。これが子を送り出す親の思い、というものでしょうか?」
「それで言うならライオットとティラトリーツェの方が喪失感を感じておるだろう。我らが弱音など吐いている暇はないのだが」
「ええ。マリカがいなくなった途端に、アルケディウスは精彩を欠くようになった。やはり、アルケディウスにはマリカがいないとダメなのだ。などと言われる訳には参りませんから」
実際に、そんな声も出始まっている。
マリカはそれでもこまめにアルケディウスに渡り、助言や手伝いをしてくれているが、いつまでも甘えている訳にはいかないだろう。
大神殿の運営管理に『聖なる乙女』の任務。
孤児院の指導などに留まらず、さっきもケントニスが言った通り、大陸の中央。
大神殿の利点を生かして各国の技術交換などの仲介もあの子はしているのだから。
「ケントニス」
「何でしょうか? 皇王陛下」
「技術交換会などにはなるべく其方が出るがいい。各国上層部との繋ぎを作り、人脈を作れ。二年の後。マリカ成人の暁には、私は前に言った通り、皇王を辞すつもりだからな」
「!」
「色々、やりたいこともできた。孫にばかり、重荷を背負わせておきたくないのだ」
「私に……できるでしょうか? 父上のような良き王になることが」
「ケントニス」
「時に、不安になるのです。我が子を腕に抱くとき、自分はこの子が生きるに良い国を作っていくことができるのだろうか? と」
いつも、自信満々で周囲を慮ることのできなかった長男は、最近、このように考え悩むことが増えた。自分の力量に自信をもつことは大事だが、疑問を持ち考え、周囲を気遣うことも王には必要だ。
遅きに逸した感もあるが気付けただけでもまだ、見込みはある。
「これは、私は尊敬する方から聞いた話だが、祖たる『精霊神』はよく言っていたそうだ。
世の中の事象は須らく『できるか、できないか。ではなくやるか、やらないかだ』と」
「やるか、やらないか……」
「やった上で、失敗だったら反省してやり直せばいい。我らは不老不死だ。取り返しのつかないことはそうない。だが、やらなければ永遠に始まらないし、結果が出る事はない。
故に、まずやってみることだ」
思えば、この子らが幼かった頃。
ケントニスともだがトレランスともこういう会話をしたことは殆どなかった。王として子を自分の手で育てる事ができなかったことで、心を歪ませてしまったことに気付いたのもマリカが来てからだ。
「『精霊神』というのは思ったよりも行動派なのですね」
「何を今更。獣に身を変え、世界中を飛び回っておられるのだぞ。我々よりもずっと行動的だ。見習いたいくらいにな」
「いや、見習わないで下さい。皇王陛下に今以上に飛び回られては、マリカがいなくなったというのに心労がまた増えるではありませんか」
「マリカと一緒にするではない。あれは『精霊神』よりなお、自由で規格外だ」
「それは、その通りですが……そもそもあの娘は……」
「確かにな。だが、それはそれとして……」
お互いに口元を綻ばせながらマリカのことを話し合う。
話しだせば、苦労話がいくらでも出てくるあたり、やはり、あの子はアルケディウスの太陽であった。
これから暫くアルケディウスは斜陽を免れないだろう。
だが落ち込んで立ち止まっていては置いて行かれる。マリカにも、世界にも。
進んでいかねばならないのだ。例え太陽を失おうとも。
「ともかく、私も勿論、全力でやります。ですが父上が隠居されるのはまだ早いですよ。
マリカは大神殿に行っても必ず、騒動を起こす。絶対、何かしでかす。
なんだかんだで、それを止められるのは父上だけですから」
「ケントニス……」
「ライオットもティラトリーツェもあれには甘いですからね。
父上が怒らないとどこまでも、爆走しますよ」
「失礼いたします」
「なんだ?」
反論しかけた私達の元に、急ぎ足の伝令がやってくる。
話し中だがマリカ関係の何かがあれば、呼べと申し付けてあった。
「皇王陛下。マリカ皇女からの御連絡でございます。
なんでも大神殿の子どもを数名アルケディウスの孤児院に預けたいとのことです。それから大神殿に孤児院を作りたいので職員を研修に出したいと。それから……」
「よい。私が行く。連絡は通信鏡か?」
「はい」
「解った……。笑うでないぞ。ケントニス。こちらの件は任せた」
「かしこまりました」
ほら、と言わんばかり。
笑うなと言ったのに。明らかに笑いを堪えているケントニスを置いて私は奥に足を進めた。
パッと目の前が明るくなる。灯をつけたわけでは無いのに。
既に光を写す通信鏡の向こうでは
「皇王陛下。お久しぶりでございます。今日は緊急でお願いがございまして」
大神官になっても変わらぬ孫娘が微笑んでいた。
ふと、先ほどまでの昏い気持ちが、思いが消え失せる。
別に、太陽は消えた訳ではないのだ。と。
遠くに移っても太陽は太陽。
場所を替えても曇ることなく、輝いているのなら、それでいいではないか。
と、今更ながらに気付いたのだ。
「緊急とは穏やかでは無いな。
また、何かあったのか?」
『また何か、って人聞きの悪い。それじゃあ、私がいつも何かやらかしているみたいではありませんか?』
「やらかしていないというつもりか?」
この軽口の言い合いが楽しい。アルケディウス皇王にこんな口を利くのは、利けるのはこの娘だけだ。
ああ。我ながら子供じみている。と私は自嘲した。
なんだかんだ言っても私は、マリカと離れるのが寂しかったのだ。さながら娘を嫁に出す男親の気分、と言ったらライオットは怒るかもしれないが。
だが、神殿に出してもマリカはマリカ。
我々を見る無垢な瞳が我々には信頼を宿している。
それが心地よかった。安堵した。
『……あ、いえ、そういう話では無くってですね』
「まあ、良い。頼みとはなんだ? 話してみるがいい。聞いてやる」
『はい。実はですね』
賢く、視野が広いように見えて、猪突猛進。一直線のこの小精霊。
可愛い孫が頼ってくる限り。まだまだ引退はしておれぬ。
私は背筋に力を入れた。
縁は切れぬ。いや、切ってやらぬとほくそ笑んで、私は孫娘と向かい合う。
真面目な皇王。
そして頼りになる祖父の顔をして。
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