彼女の周りを風のような何かが包んでいる。
何か、というのはそうとしか言いようがないからだ。
閉鎖された王宮の大広間に、しかも、彼女の周りだけ風が吹きすさぶのは在りえないと解っているけれど。
彼女の被っていたトーク帽がヴェールごと外れて部屋の隅に転がる。
でもそれを誰も気に留めない程に、その場にいる全員が、目の前に起きているその光景に目を奪われていた。
ことの経過を順を追って記すなら彼女 マリカ皇女が神殿長の卑劣な脅迫の果て。
神殿に『聖なる乙女』として仕える。
と口にする直前、二つの影が奔り、彼女の胸元に飛び込んだのだ。
本来だったら激突。
良くて彼女の腕の中に落ちて留まる筈だったそれは、まるで彼女の中に吸い込まれるように、解ける様に消えてしまった。
二つの影の正体が机の上の籠で目を閉じていた獣であると、気付くより早く
『下がれ 無礼者』
太い声が聞こえた気がした。
と同時
「ぐあああっ!!」
神殿長ペトロザウルは何かに弾かれるように、大きな悲鳴と共に尻もちをついた。
我々には彼が何故倒れたのか見えはしなかった。
けれど…
「マリカ?」
真横に立つ第三皇子妃様が目を見開きながら声をかけても、まるで聞こえないかのようにマリカ皇女は伸ばした手を静かに降ろす。
ペトロザウルを吹き飛ばしたのは、もしやマリカ皇女から放たれた力、であったのだろうか?
『黙って聞いていれば駒の分際でいい気になって。
人の命を何だと思っているんだ。お前達は』
さっきの太い声とは明らかに違う、少し高めの。
けれど、明らかにマリカ皇女のものとは違う男性の声に、頭を振りながらペトロザウルは顔を向けた。
「あ、貴方様は…まさか?」
『我らは貴様らが『精霊神』と呼ぶモノ。この大地に生きる子ども達…人間を守り導く使命を持つモノだ』
『良くも僕らの目の前で、子どもの命を奪うなどと言い放ったものだ。
しかも、マリカを脅迫し手に入れる為に? ふざけるな。命をなんだと思っているんだ!』
明らかに憤りを隠さない声は、凛と張り詰めている。
聞いているだけで震えの来る声、人の放つものではないと解る。
『精霊神』
その名乗りが素直に真実だと理解できる。
改めて良く見れば、マリカ皇女の周囲が不思議に揺らめいていた。
屋内だというのに風を纏うかのようにたなびく髪。
彼女の外見は変わらない。けれどその背後に朱と緑の幻影が浮かんでいる気がした。
「! 貴方。精霊獣がいませんわ」
妻の囁きに私は、ハッとテーブルの一つに目をやる。
言われてみれば確かにさっきまで机の上の籠で目を閉じていた獣が二匹とも、姿を消している。
さっきマリカ皇女に飛び込んでいった二つの影は、彼等だったのだろうか?
両膝をつき、地面に頭を摺りつけるペトロザウル。
「『精霊神』様。
どうかお怒りをお鎮め下さい。
私は忠実なる『神』と『精霊』の僕にございます」
『ほほう。僕が、我らが娘。人と精霊を繋ぐ皇女の首に鎖をつけ縛らんと?』
「そ、それは…」
圧が増した。
見ているだけでも冷や汗が出るほどに、圧倒的なそれは力であった。
『不滅の命を手に入れて、驕ったか?
駒の分際で、命の取捨選択をする権利が自分にあるとでも…?』
「い、いえ…私は、ただ…。
マリカ姫を神殿にお招きしたかっただけで…。
『聖なる乙女』は神殿にあってこそ、『神』や『精霊神』方々と人を繋ぐ役割を果たせると…。
私は、『神』と『精霊』の為を思って!」
『その為に、幼子の命を道具のように扱ったのか?
幼子は未来を創る者。『星』の宝だ。
決して貴様如きが弄んでいいものではない!』
マリカ皇女を包んでいる紅い光。
深く、腹に響く雷霆のような怒号に、押されてペトロザウルは絞り出す様な声を溢す。
「せ、『精霊神』よ。
マリカ姫を神殿に迎え入れるのは『神』の御意志の筈。
従属神たる貴方方とはいえ…それに逆らう事は…」
『勘違いするな。愚か者』
と、皇女を包み込む光の色が変わった、今度は淡い緑。
優しい色合いだが、ペトロザウルに向けられる空気は柔らかくなった訳ではない。
むしろ冷徹さを増したようにさえ見える。
『我らは『神』に従属する訳ではない。
『神』本人ならともかく、駒ごときに命じられる言われも無い』
パチンと、指が鳴る音がした。同時
「ぐ、ああっ!」
ペトロザウルの法衣が形を変えていく。
まるで身体を拘束するかのようにぐるぐる巻きにされ、身動きできなくなったペトロザウル。
『『神』と『精霊』の名を悪用する愚か者に罰を与える』
彼にゆっくりと歩み寄るとマリカ皇女の容をした『精霊神』は己の握りしめた拳から、ぽたり、と一滴何かを彼の口元に落とした。
「ぎゃああああっ!!」
今迄ペトロザウルの口から零れたモノが悲鳴であるなら、それは正しく、絶叫だった。
熱湯を喉か注らぎ込まれたような叫びと共にペトロザウルは床を転がりのたうち回っている。
泡を吹き、意識を失ったらしい彼は、どこかにぶつけたのか、額から血が流れていて…。
「え?」
血が、流れている?
不老不死者の身体から?
大貴族達もそれぞれ気付いたのだろう、会場中が騒めき始めた。
見つめる皇族の方々も顔面蒼白だ。
『命を弄ぶモノよ。貴様には不老不死は早すぎた。
限りある命の意味をもう一度、考え直すがいい』
感情の見えない声と瞳でそうペトロザウルを見下すと『精霊神』は皇女の身体のまま、皇王陛下と私達に一歩、歩を進めた。
スッと、真っ先に跪いたのは皇王陛下であった。
孫の姿をした者に一切の躊躇いも無く頭を垂れた姿に、その場にいた全員が…勿論私も追従する。
『聞くがいい。我が子達よ』
緑色の光を纏った『精霊神』はさっきまでペトロザウルに見せていた厳しい顔つきから、慈悲深く優しいモノに変わる。
少女の顔つきをしているのに、感じるのは若い青年の雰囲気。
けれども、恐ろしいまでの威圧感は気軽に頭を上げる事を私達に許さなかった。
『お前達に与えられた不老不死は恩寵であると同時に呪いでもある。
命の意味をもう一度、考え、問い直せ』
『我々は、常にお前達を見ている。
見守ると同時、その行動を見ているのだと知るがいい』
スッと、皇女を取り巻いていた光と風と威圧が消えた。
ポン。
という微かな音と共に足元に二匹の獣が皇女の足元に戻り、伏す。
同時、皇女の身体がかくん、と力を失い崩れた。
「マリカ!」
傍らにずっと寄り添っていた少年騎士がその身を支え、父母と祖父母が駆け寄るのを見ながら、私達はこの日。
自分達が『精霊神』を見た事。
そして世界が変わる、その最初の瞬間に立ち会った事を感じていた。
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