夜、私は応接間で、木板を見つめていた。
横で護衛のカマラが困っているのは解っている。
夜の刻。大凡夜の十時くらい。
子どもが起きている時間では無いし、私が部屋に戻らないと仕事が終わらないのも。
でもどうしても気になって眠れない。
「何をしているんですか? マリカ……様?」
「もう、夜も遅い。早く寝た方が……」
「あ、フェイ、リオン、アルもいるね。待ってたの。
ちょっと来て、これを見て?」
私は灯りに気付いて足を止めて来てくれたらしい三人にホッとした。
手招きするとメルクーリオ様が下さったフリュッスカイトの『精霊古語』の文字表を指し示す。
三人は三者三様、目を丸くする。
「これは……」
「精霊古語ですね。フリュッスカイトの……水の精霊古語ですか?」
「メルクーリオ様が教えてくれたの」
「へー、これが精霊古語か。普通の言葉とは全然違うのな?」
この世界は一つの統一言語があり、その言葉を覚えればアルケディウスでもプラーミァでも言葉は通じるし、文字も読める。
一般人の識字率は五百年あっても意欲と環境が左右されるせいか高くないけれど、子どもの私達だって本気で半年頑張れば基本の読み書きくらいはできるようになった。
でもこの世界の古代語にあたる『精霊古語』はノーマークだったので全く勉強していない。
法則も違うし文字の形も違う。
「フェイ。前に精霊古語は一種類じゃない、って言ってたよね? これ、読める?」
私がフェイの方に木板を差し出すと、暫く見つめた後、彼は首を横に振る。
「僕一人では読めません。文字の形は魔王城に一番多くあった『精霊古語』のものと似ていますが、少し違うようですね。アルケディウスのものとも違う。
文字の形は全体的に似ているものも多いのですが…リオン?」
「一応、基本文字を使ってるやつだな。割と解りやすい」
「読めるの? リオン!」
首を横に振ったけれど、意外な所から前を向いた返答が返った。
「一応、どの国の精霊古語も大凡、読めはする。書けとか、完全に内容を理解しているか言われると難しいけどな。
精霊古語には基本文字を使ったものと、独自の文字を使ったものと二種類ある。
これは基本文字を使ったやつだ」
少し、困ったような表情をしながらリオンは説明してくれる。
この場合の基本文字、というのはアルファベット二十六文字を言うらしい。共通語の三十二文字も基本文字と言う事が在るけれど、精霊古語の基本文字はアルファベット二十六文字。それを使ったものと、そうでないものがある?
「一番難しいのがエルディランドだ。基本だけでも百文字あって、さらに他の文字も使う。
俺も書くのはちょっと嫌だ」
「読むのは読めるの?」
「頭には入ってるから、多分、なんとか。
アルケディウス、フリュッスカイト、アーヴェントルク、あとヒンメルヴェルエクトが基本文字を使う『精霊古語』だ。読み方や、文章法則、細かい文字は違うけど。
確か、魔王城にある『精霊古語』はヒンメルヴェルエクトと同じ形だったと思う。
プラーミァ、シュトルムスルフト、エルディランドはまったく文章形態が異なる。文字から独特だ」
「どんな文字?」
「書くのは苦手なんだって」
言いながら不器用な手でリオンが書いてくれた文字は、読めないなりに私にはなんとなく見覚えがあった。
「か、漢字? それに、ヒンドゥー文字にアラビア文字?」
はっきり解ったのはエルディランドの漢字だ。つまりは中国語っぽい。
他の二国は解らないけど、文字の形態が独特だからインドと、アラブ系の文字じゃないかなっては思う。
でも、これだけ個性があると逆にはっきりと解る事が在る。
「この世界って、向こうと関連があるのかな?」
「向こう?」
カマラが怪訝そうな顔で首を傾げる。そう言えばカマラには言っていなかったけ。
「私が『能力』で見る『精霊の知識』はこの世界とは違う『精霊の世界』のようなのです。
料理とか、科学の法則とかがこの世界とは違う……」
と、とりあえず濁しておく。でも他の三人は解ってくれている筈だ。
最初に、私は異世界で大人になった経験がある、って伝えてあるから。
「俺には解らない。俺はただ、精霊古語は『かつて精霊神が使っていたこの世界の文字の基本』と叩きこまれているだけだからな」
「『精霊神が使っていた?』」
「ああ、それ以上の事は知らない」
「文字や言葉を教えてくれたのは先代?」
「……まあ、そうだな。解らない事は教えて下さったりもしたから、先代も読み書きはできたと思う。理解も多分、俺よりしてた」
かつて精霊国の王子ポジだったリオンは、多分、その教育の一環として精霊古語を教えられたのだろう。リオンに教えた先代精霊国女王『精霊の貴人』も読めた……。
「フェイ。魔王城の精霊古語の蔵書って何種類あるの?」
フェイは魔王城の千冊以上ある本を全部読んだと言っていた。
完璧な記憶力もあるから内訳くらいは解るだろう。
「精霊古語の本は百冊前後、一番多いのはリオンが言った通り、ヒンメルヴェルエクトが使っているというものだと思います。
基本文字を使い、フリュッスカイトと似た感じですが違う文章法則をもっています。それが大体八割。これは僕でも大凡、読めます。
後二割の殆どがアルケディウスのもので、後の国は数冊ずつ、ですね。実の所、基本文字を使わない特殊な文字の本は、リオンに付きっきりで教えて貰わないといけないので、内容を確認した後は、読み飛ばし状態でした」
「内容は?」
「エルディランドのものは戦記物と、物の考え方、だったと思いますよ。
プラーミァとシュトルムスルフトのものも同じ感じですね。人はこう生きるべき、みたいな」
もしかして、コーランとか、儒学とか、聖書とかそんな感じ?
つまり……
「マリカ。これは一つの仮説です」
混乱する私の心を読み取ったようにフェイが纏めてくれる。
「僕達はマリカの言う『向こうの世界』を良く知りません。
ですが、僕達のいる、今、この世界とは違う、高度な文明をもった別の世界があると仮定した場合、なのですが『精霊神』はかつて、その世界の住人だったのではないでしょうか?」
「やっぱりそう思う?」
「はい。以前、マリカから聞いたり……見たりしたことからして、マリカの知る世界は同じ星の上でも、言葉や文化形態が随分違っていたのですよね?」
「うん。そう」
私は頷く。
地球、私達のいた世界は一つの星に七十億人以上の人間がいて、国が違うと文字も言葉も全く違っていた。
「ならば、きっと始祖たる『精霊神』はかつてその世界の住人だった。もしくはその世界の知識を持っている。そしてどうしてか、この世界にやってきて『精霊神』となった。
この世界と『マリカの記憶にある向こうの世界』はきっと同じ起源をもつのですよ」
「私と同じように、向こうの知識をもってこちらに来たとか?」
「可能性はあると思います。ただ、その真実を知るのは『精霊神』や『神』、後は魔王城の精霊のみでしょうね」
「聞いたら教えてくれると思う?」
「今の状況だと無理だろうな。いつもの奴だ」
言えない。話す権利が無い。
私達には知る権利が無い。
『精霊』達は彼らなりの基準で、情報に厳しく鍵をかけている。
でも……
「精霊古語を教えて、ならいけるかな?」
「マリカ?」
「だって、フリュッスカイトで『精霊神』の端末は公子達に『精霊古語』の読み方を教えたって言ってたもの。『精霊古語』の読み方くらいなら、聞けば教えてくれるかも」
『よく、書を読み、学べ。
そして考える事、考える事を止めない事だ』
フリュッスカイトの精霊神様が下さった言葉はきっとそういう意味だ。
魔王城、もしくは各国のどこかの書物に鍵がある。
それを見つけ出し、理解出来たら、きっと私達は『世界の真実を知る』為の鍵と権利を手に入れる事ができるのだろう。
「見つけ出すの、大変そうだけどな。
各国の秘密の図書館の蔵書とかだったら、目も当てられないと思うけど」
「そこまでインチキはしないと思う。私達がちゃんと探して見つけ出せる場所に答えはあるよ。きっと」
まずは魔王城から。
それからアルケディウスとかもじっくり探してみよう。
「本を読むだけ、なら俺も手伝えるぞ」
「うん、私達が手の届かない国のはリオンにお願いする。でも、ラス様やアーレリオス様。巻き込めるところは巻き込むよ。色々と話をしているうちにヒントをポロッと溢して下さるかもしれないし」
ラス様は以前言っていた。
教えたくない訳でも、隠し続けていたい訳でもない、と。
私達が真実に辿り着けるのを、待っていて下さっているのだと思う。
「僕もやります。マリカ一人に任せておくとまた睡眠時間を削って勉強とかしそうですからね。言語習得とかは僕の方が早いですよ」
「オレもやる。本そのものが隠されていたり、なんか仕掛けがあったりしたら気付けないだろ?」
「俺も、調べ直してみよう。何かが、見つけられるかもしれない。もうじき、先生も帰って来る。そうすればもっと色々な事が解るかもしれない。俺の……も」
「うん。一緒にやってみよう。カマラも、私を助けてね」
「本の調べ物とかはお手伝いできないかもしれませんが、できることがあれば全力でお手伝いいたします」
私は『異世界』に転生したのだと、思っていた。
でも、もしかしたら違うのかもしれない。
この世界と、私達の世界はどこかで繋がっているのかも。
多分、戻ることはできない。
でも、向こうの世界で人間は、宇宙にまで飛び出し、生命の神秘、星の秘密の多くに手をかけていた。
その知識を知ることで、この世界の未来に繋がる何かが手に入れられるかもしれない。
不老不死。
時計の止まった世界が、新しい明日に歩み出す為の何かを。
捜してみようと、私は決める。
『精霊神』様がおっしゃったとおり、それがいつか、私達を照らす灯になってくれると信じて。
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