私、異世界保育士マリカの根源は 日本の保育士 高村真里香だ。
高村真里香は保育士と言う仕事が間違いなく好きだったし、今も好きだと思う。
異世界に転生しても、自分が保育士でありたいと思うくらいには。
子どもが好きで、子どもの笑顔を守る為なら、自分にできることは全力でやるという意志に、揺るぎはないと自負している。
でも。
それでも。
私は、今、現代日本に戻り、もう一度保育士をやれ、と言われたら多分二の足を踏むだろう。
保育士と言う職場全てがそうだとは言い切らないけれど。
少なくとも私が経験したその多くが、良いとは言えない環境下。
決して見合うとは言えない低賃金で、子ども達の笑顔とやりがいを報酬に働く事を余儀なくされる、ブラックな職場だったから。
その中で、彼と出会った。
「先生。俺は先生と出会えた事に不思議な運命を感じるんですよ」
そう言った一つ年下の若い男の保育士。
片桐海斗先生
別に本気で口説かれた訳じゃない。と思う。
凄く、仲が良かった、という訳でもない。
ただ、周囲がのきなみ勤続二十年以上のベテラン保育士ばかりで…その中で、二人でなんとか頑張ってきた。
特に彼は三歳児 二十人を一人で担任していたから大変だったと思う。
日々の保育に、毎日の日誌、連絡帳、保育の準備、週案、月案、個票、おたより、行事の準備。
保育士の勤務時間は全て子どもと接する時間だから、休憩もない。
様々な書類作成や保育外職務をやる時間は勤務時間が終わってから。
すなわち残業前提。
でも、残業代は出ない。
私も後で実際に受け持って死ぬ思いだったから。
でも、彼は優しくて時々、私の仕事も助けてくれた。けれど…
ある日、突然彼は帰らぬ人になった。
後に過労死認定されるほどの山ほどの仕事を抱えたままで。
子ども達には彼の死もちゃんと知らされぬまま、ベテラン保育士が仕事が増えたと愚痴っていた事を今でも忘れない。
私もいつかああなるのだろうか。
死にたいけど、死にたくない。
彼の死は、間違いなく私に生と死について間近に考えるきっかけとなったのだった。
意識が覚醒する。
静かな部屋の、ふんわりベッドで目を開けると。
「大丈夫ですか? 姫様?」
私を覗き込む心配そうな顔が見える。
「…あ、カマラ。私…どうした?」
「ユン様とのお話し中に、倒れられて…。ご気分はいかがですか?」
「少し、くらくらするけれど、大丈夫。
あ、王子達は戻られた?」
「まだです」
「だったら、ユン様、クラージュさんを呼んでくれる?
お戻りになるまえに、ちゃんと話しておきたいの。
あと、できれば、私が倒れたことは秘密に。
彼のせいじゃないから、とみんなに伝えて」
「解りました」
程なくして、入室を求める声が聞こえてユン君とリオンが入ってきた。
カマラは私の意図を汲んでくれたのだろう。
静かに一礼して退室していく。
本来だったら婚約者がいるとはいえ、男性二人と主である姫を置いていくとかないから直ぐに戻ってくるかも。
本当に話すのは今しかない。
彼も解っているはずだ。
既にその眼はユン君ではなく、クラージュさんになっている。
「カイトさん、いいえ海斗先生」
「はい。真里香先生」
いや違う、片桐海斗先生だ。
「お会いしたら、お会いできることが有ったら、ずっと、謝りたいと思っていたんです。
…助けられないで、すみませんでした。
先生に、私はずっと助けられていたのに…。私は先生を助ける事ができなかった…」
「ああ、やっぱり、そういう扱いになっていましたか」
頭を下げ布団を握りしめる私に、彼は少し困った様に肩を上げて見せた。
「気になさらないでください。
あれは、今にして思えば多分『星』に呼び戻されたんです。
そうでなければ『俺』は身体も丈夫でしたし、もう少しなんとかできたと思いますよ」
前置き無し。
完全に異世界人「高村真里香」と「片桐海斗」になってする会話に主語はかからない。
「むしろ、すみませんでした。
先生方にその後を、全て押し付ける形になってしまって…。
大変でしたでしょう? 後始末」
「そんな!」
「実際、向こうでの事の方が色々と大変だった記憶があります。
こちらに戻ってからの苦労など『私的には』大したことではありませんでしたよ」
子どもが虐げられる命がけの世界。
けれど、こちらの方がマシだと言い切れる彼を否定できない私がいる。
「海斗先生には向こうでの時代、こちらの記憶があったのですか?」
「いいえ。それはまったく」
ノータイムで首を横に振る海斗先生。
「では、一体何がどうなって…」
「多分『私』はマリカ様を護衛する為に、向こうの世界に遣わされたのだと思います。
ただ何のミスか、バグか。
私は全ての記憶を失って、ただの人間として転生した。
職場で、同僚として肩を並べるようになってもまったく記憶は戻らず、死んでこちらに戻ってきて、初めて自分が転生者になったことを思い出した感じです」
リオンとは違う形の転生者、と言った意味がよく解る。
私と多分彼は、一緒の時に死んで、同じ形での転生を促されたのだ。
「この世界に戻ってきて、私はエルトゥリアが滅んだことや、世界が神に支配された事を知りました。
真里香先生がマリカ様であったと気付いたのもこちらに帰ってからのこと。
直ぐにもエルトゥリアに戻りたかったのですが、私が転生したのは何故か、遠いエルディランド。
幸い、良い商人に拾われて教育を与えられましたが、地位も金も持たない子どもが戻れる距離では無かった。
何故、こんな所に転生させたのか。
星を恨みたい気持ちでいっぱいのまま、私は生きる為に、行動を開始しました」
唇を噛みしめる、ここからは多分クラージュさんだ。
「向こうの世界で読んだラノベやマンガが思う以上に武器になってくれました。
後は保育士として叩きこまれた知識や経験も。
育ての親である商人に頭がいい子だと気に入られたのは五歳の時。
彼に異世界転生者であることを伝え、ラノベを思い出し、一番需要があるであろう製紙に挑戦したのは八歳の頃でした。
製紙業が軌道に乗ったのはその数年後でしょうか?
その間にも、まあ色々と有りはしたのですが…」
色々、なんて言葉で濁しては下さったけれど、子どもに人権の無い世界。
まったく0から、たった一人で自分の生きる場所を作り上げてきたその努力と、忍耐を思うだけで頭が下がる。
「本当に恵まれていたのは、私を拾ってくれた商人が『私』を知識を搾取するだけの存在と見ず、共同経営者として尊重してくれたことです。
だから、私は三十前には製紙、印刷などの工場を管理する存在として一目を置かれるようになりました。
救い集めた子ども達も私の手足となってくれ、余裕が出て来たので醤油とお酒の醸造に着手したのはこの頃です。
何せ、米と大豆が山ほどあるのに打ち捨てられていましたからね。
向こうの世界に良い思い出はそう多くありませんでしたが、食と本の文化は素晴らしかった。
特に食事に意味の無い世界にうんざりしていたので…せめて卵かけごはんが食べたくて、お酒が飲みたくて。
それが醤油と酒を作り始めたきっかけです」
「解ります…」
彼の気持ちは解る。
凄く解る。
もし、私も大豆とお米があったら、きっと豆腐や納豆、醤油を作ろうとしてた。
お米から直ぐにお酒を造ろうとするあたりは男性だな、って思うけど。
「恥ずかしながら「片桐海斗」時代、食事はほぼコンビニ弁当で済ませていましたからね。
もしマリカ様のように料理の知識があれば、そちらから世界を変えられたのでしょうが」
「料理を学んでいたら、という言葉は…そういう…」
「はい。できること、できそうなことからコツコツと進めていったのです。
幸い、私には『自分のやったこと』がどういう結果を齎すかが大よそ見える『能力』が生前からあったので」
クラージュさんの持つ『能力』は自分のやった行動の結果がどうなるか解るというものらしい。
明確に行動に移した後でないと解らないけれど。
例えば製紙で言うのならこの調合で紙を梳いた結果
良い紙ができる。
失敗する。
が乾燥する前にぼんやり解るので、失敗する結果を早くから切り捨て、成功に注力する事ができた、ということか。
実行に移す前には解らないとしたら、多分、口で言う程に簡単な話では無かったのだろうけれど。
「ただ、誤算であったのは立場や金を得れば得る程に、国から出られなくなったこと。
まあ、当然ですね。
私の知識を他国に知らせられては困ると思ったのでしょう。
結局、私は六十五で死にました。一度もエルディランドから出る事叶わず…」
遠い、星を見上げるような顔で己の死を思う彼の胸中に過るものはなんだろう。
私には、解らない。
「不老不死を得よ、という恩人や子ども達の誘いはあったのですが、それをしてしまうと転生者の資格が無くなると解っていましたから。
そして二十年後、転生したのは再びエルディランド。
私の意志を受け継ぎ、事業を継続させていたグアン達の元に戻り、今度は一人の子どもとして機会を待ち、やっと昨年。
『アルケディウスのマリカ』様の噂を聞く事ができ、今年、こうして再会が適ったのです」
「ごめんなさい。本当に…ごめんなさい」
私はベッドから飛び降りて、ユン君に抱き付いていた。
海斗先生の苦労を聞くにつけ、私は自分が在りえない程に恵まれていたと解る。
ライオット皇子に救われ、魔王城に連れて来て貰って何不自由ない生活を送れた。
城の守護精霊も、リオンも、フェイも、アルもいた。
皆に助けられたからこそなんとか異世界でやってこれたのに、彼には誰もいなかった。
「精霊の貴人」に忠誠を誓ったが為に、星に繋がれ苦しんで来た。
本当に、本当に、申しわけない気持ちでいっぱいだった。
私を抱き留めたユン君は、困った様に微笑みながらも私の髪をそっと撫でてくれる。
「謝らないで下さい。
貴女が謝らなければならないことは、何もない」
静かで、優しい口調は何故か不思議な安心感を与えてくれた。
ああ、確かに『私』は知っている。
この暖かく、強い人を。
「確かに何故、エルトゥリアに戻れず遠いエルディランドに生まれなければならなかったのか、と『星』に文句を言いたい気持ちは山々あります。
ですが、こうして再会が叶えば、それはきっと貴女の、マリカ様の助けになる為であったのでしょう。
私の全ては、既にマリカ様に捧げています。
ですから、どうか、マリカ様はマリカ様の信じる道を進んで下さい。私は、それをお手伝いします。
いつ、どこに有ろうとも…」
「先生は、アルケディウスに来ることはできるのか?」
今まで、ずっと、黙って私達の会話を聞いていたリオンの問いに、いいえ、と彼は首を横に振る。
「直ぐには難しいでしょう。
他国の王族に、エルディランドの騎士貴族が仕える、というのは前例も理由もありませんから。
でも、姫君が覚悟を見せて下さったおかげで可能性は、生まれたと思うのですよ」
「え?」
止まらない涙で顔がぐしゃぐしゃになったまま、見上げた彼の視線は、何かを確信しているようだった。
「姫君は、今回の件でアルケディウスや、プラーミァに留まらない、精霊の巫女、聖なる乙女の資質を顕された。
スーダイ様は、貴女を恩人として聖女として慕っておいでです。
上手くすれば『聖なる乙女』の護衛をエルディランドから送る、という形で私がお仕えすることはできるのではないかと思っています」
国の枠を超えた宝、聖なる乙女を守る、と説得してみる。と彼は言う。
そんなに上手く行くかどうか解らないけれど、実際に、彼が私達の元についてくれたら、心強い。
「もう少し、時間を下さい。
いつか、必ず帰ります。エルトゥリアへ。
我らが『星』の希望たる女王陛下『精霊の貴人』の元へ」
そう言って、彼は、私の前に膝を付き、指先へのキスをくれる。
それは、片桐海斗が高村真里香にする仕草ではない。
彼はクラージュさん。
エルトゥリア女王に仕える騎士団長。
この世界こそが彼の「戻る」場所。
クラージュさんにとってもう「片桐海斗」は本当に一時の夢。
きっと、忘れたいくらいの思い出なのだろう。
彼が望んでいるのは異世界、日本での関係の復活では無く、この世界での女王と騎士団長に戻る事だと解ったから。
だから私は涙を拭き、それに応える。
彼が望む女王として。
「はい。待っています。
クラージュ。
私達の騎士。貴方が私達の元に戻ってきてくれるのを」
少しだけ、寂しく感じる高村真里香を心の奥に封じて。
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