アルケディウスの皇女が国王陛下に軟禁されて、もうすぐ一刻が過ぎようとしている。
火の刻が終わり、間もなく風の刻になる。
父上が、私達を排除し、愚行に出てからほぼ同じ時間。
理由もなく中枢から排除され、黙っていろ、とは言われたがこの国の王太子として黙っているわけにはいかない。
「良いか? 皆、手筈通りに。
これ以上。アルケディウスの方達にご迷惑をおかけするわけにはいかない」
後宮最奥、正王妃の宮で私は集まった兵士や使用人達を前に言い聞かせた。
「まず、我々が最優先すべきは姫君の随員達の保護、確保だ。
父上がマリカ皇女にいう事を聞かせる為に、彼らを利用しないとも限らない」
「部下など見捨てればいい話では?」
「確かにそうではあるが、貴族待遇の者もいるし、何より皇女が御心を痛められるだろう。
このシュトルムスルフトにおいて『聖なる乙女』に、部下の髪の毛一筋さえも何かを失わせることがあってはならない。
姫君の説得と救出は私自ら行う。それぞれに誠実にアルケディウスの信頼を失わないように対処せよ」
「はっ!」
「では、行け! 時間が無い!!」
ここにいるのは後宮の女、宦官、護衛の騎士達まで。
母上が数百年の間、育て信頼してきた特別な臣下達だ、躾は十二分に行き届いている。
それ以上、余計な事を言わず、聞かず、彼、彼女らは動き出してくれた。
「マクハーン」
「母上」
臣下達が散ったのを確かめ、私も動き出そうとした丁度その時、私を呼び止める声がした。
振り返れば、そこには母上がいる。
月光を織り上げたような銀の髪、オアシスの泉のような蒼宝石の瞳。
若々しい肢体と清らかな相貌を持つこの女性は、外見から想像するような深窓の令嬢などではない。シュトルムスルフトの後宮を知略と恐怖で治める支配者だと男以外の誰もが知っている。
「行くのですね。マクハーン」
「はい。母上」
私は膝をつくと母上を仰ぎ見た。
「ファイルーズとその子が作り上げてくれたこの好機。逃せばきっと、二度と同じ機会は訪れぬでしょう。初代『聖なる乙女』ザウラ様と代々の乙女達。そして汚名を着せられたマシャリク女王もきっと加護を与えて下さる筈です」
「本当は、もう少し時間をかけて皇女やファイルーズの子に協力を仰ぎ、連携することができれば、良かったのですが、あの人も箍が外れてしまった様子。仕方ありません
目先の利益に気がとられ、大局を見ることができない。あの人は、昔からそうでした。
シュトルムスルフトの、良くも悪くも『男』を具現しているのです」
不老不死時代五百年を連れ添った相手だというのに、母上の父上を語る眼差しは冷ややかだ。
「私は、もう我慢する事にも、沈黙する事にも飽きました。
この国は、私達からあまりにも多くのものを奪ってきた。いい加減、返してもらってもいい筈です。
行きなさい。アマリィヤ。
我が国に訪れた運命を動かす風、女王を救い出すのです」
「はい」
「其方の上に『精霊神』様の加護があるように」
私は立ち上がり、ニカブ(マスク)で顔を隠すと先に動き出した者達の後を追って、動き出したのだった。
正直、時間との勝負になると解っていた。
父上は、アルケディウスの『聖なる乙女』マリカ皇女が我が国に精霊の恵みを齎すと知って後、彼女を手に入れると決め、もうなりふり構わなくなったからだ。
私がファイルーズの素性を調べて、少し王宮から目を離したスキに文書偽造に虚偽、脅迫、おまけに誘拐と、世が世なら戦争になりかねない悪事を言い逃れのできない連鎖でしでかすとは思わなかった。
昔はここまででは無かった気がするのに。
プラーミァの精霊神の復活と、勇者の来訪は父上をはっきりと解るほどに変えてしまった。
この国になんとしてでも『精霊の力』を取り戻す、と。
私達を排除し、兄上、侯爵と自分のいう事を聞く者だけを集めて。
まあ、そんな話は後でいい。
今は、まずマリカ皇女と連絡を取り合い、話をして協力を仰ぐことが先決だ。
私は水差しを抱いて、控えの間に向かう。
謁見の間に程近いこの部屋は、国王に謁見する為の身支度を整える為の間。
父上が完全にやり込められた交渉の後、彼女達をここに捕らえたことは解っている。
準備が整い次第、マリカ皇女に脅しをかけ、入手の為の行動に出るだろう。
その前になんとしてでも、彼女と話をしなくては。
扉を守る衛兵に私は頭を下げる。
「アルケディウスのご一行に、飲み物をと命じられて参りました。
どうかお取次ぎを」
水差しを抱える私はアパヤに全身を包んでいる。顔もニカブで隠しているし、特徴ある銀髪もカツラの下だ。
声も意図して高めにしているから、王太子だとは誰も思わない筈。
そうだ。王太子が女であるなどと、誰も思わない筈だから。
「飲み物?」
「はい。今は興奮しておられるだろうから、少し冷静になって頂けと」
「そうだな。
何やら国王陛下の決定に異議を唱え、くってかかっていたようだが、冷静になれば国王陛下に逆らう事の愚かさにも気付かれるだろう」
入れ、と衛兵は膝をつく私に向けて首を動かした。
ところが、中に入った瞬間、私は水差しを取り落とす。
ピューターの落ちる音が、ガシャンと我ながらやけに遠く、聞こえた。
「どうした! 何があったんだ!」
「マリカ皇女がいません。それどころか、中には誰も……」
「なんだと!」
慌てて中に飛び込んでくる見張り達の顔から血の気が引いた。
室内は正しくもぬけの殻。
誰一人いないのだ。
着替えなどの準備を行う部屋。窓も無いし、外に抜け出す通路なども当然ない。
なのに、何故?
「直ぐに国王陛下に連絡を!」
「いつ? 一体どうやって外に出たというんだ!」
大混乱の部屋の中で、私は立ち尽くす。
不思議に懐かしく、優しい気配がある。
澱んだシュトルムスルフトを変える風、いや大嵐が、今まさに吹きぬけようとしていた。
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