とある再会の日の夜。
アルケディウス孤児院にて。
ただ三人、いや二人以外見る事も、聞く事さえ叶わなかった『会話』
精霊達の内緒話。
それは、皇女の視察を終えた深夜の事だった。
気心の知れた優しい少女であっても、外部の人間を招き入れるのは緊張するもの。
孤児院の人間達はその夜、早々に皆、眠りについた。
厳重に戸締りがなされた館の中で、誰も予想もしないことが起きようとしていた事を知るよしもなく。
ゆりかごに寝かされたまだ生後数か月の赤子。
まだ骨も身体も固まり切っておらず、柔らかで身動きさえままならない筈のその子は、自らの力でくるりと腹ばいになるとずりずりと、ゆっくり籠から這い出し床に降りた。
赤子の腕の力は生後すぐでも思いの外強いと言われている。
自分の身体位上手くすれば支えるのだそうだ。
けれど、この光景を見たがいたら驚愕に顔を歪めるだろう。
こんな成長発育は在りえない。と。
赤子は同じ部屋で授乳の隙間、熟睡する世話役や乳母、乳兄妹に見る目もくれずひたすらに床を這い窓を目指した。
外に出ようとしていたのかもしれない。
扉は高く、大きく簡単に手が届かない。けれど窓には手が届くかも。
と。
けれど、そんな赤子の渾身の願いは、希望は目標は。
「戻れ。お前を俺が逃がすと思うか?」
この場に在りえない筈の声に遮られた。
籠から抜け出すのに必死で気が付かなかった、と赤子は目を見開く。
窓枠に腰をかけ、こちらを見つめる少年。
その存在を『彼』は良く知っていたからだ。
「布団に戻って、子どもらしく眠れ。
そうすれば見なかったことにしてやる」
まだ声帯も未発達、ただ泣く事でだけ外界に意思を訴える赤ん坊はけれど、泣きだすことは無く、聞こえない『声』で叫びを上げる。
少年もまた、同じ『声』で応える。
同種、同型の精霊のみに伝わるその『声』を特別に、同時通訳するとしよう。
『なんで! なんでこんなところにお前がいるんだ! アルフィリーガ!』
『それは、こっちのセリフだ。フェデリクス・アルディクス。
俺が殺して転生した筈の貴様が、マリカの孤児院にいるなんて、信じられないを通り越して笑ったぞ』
『やり直しを要求する! どうしてこの僕が、こんなところでこんな屈辱を味わうことになるんだ!』
『貴様は転生は初めてか。最初はいつもそんなものだ。
肉体は初期化されて、0からのやり直し。最低でも2年は自分の身体が成長するまでひたすらに待つしかない。
ある程度自分の意志で動ける様になって、そこからがやっと新しい人生のスタートだ』
幾度となく転生を繰り返して来た少年の語る言葉が真実であると赤子は、今我が身をもって実感していた。
『基本、どこにどう生まれるか、俺達に選択権は無い。
ただ、できるだけ安全に育つことができる場を、どうやら『星』は選んで下さっているようだ』
比較的まともな養い親の元に拾われたり、逆にまったく人の通わない洞窟に落ちた事もあったけれど、生まれ落ちたと同時死を迎えるように羽目にはあまりならなかった。
と少年は言う。
あまりということは何度かあったのか、と赤子に問い返す気力は無い。
『神も一応は貴様が安全に育ち、生きられる場所を選んだのではないか?
少なくとも孤児院は今、世界で子どもが一番、幸せに生きられる可能性の高い場所だ。
他の場所に落とされていたら、良くて放置。悪くすれば奴隷として酷使される羽目になっただろう』
と少年は言う。
それもまあ、事実ではあろうけれど。赤子には納得は当然できない。
大聖都に転生させて貰えれば、神官長もいる。
保護されて最短で体制を取り戻せた筈だ。
『そうかな? 貴様達は大神殿で集めた子ども達をどう扱っていた?
思い返してみるがいい』
少年に睨みつけられ、赤子は『思い返す』
勇者の転生を探す過程で幾人かの子どもが大聖都に連れ込まれることはあった。
だがそんなに簡単に見つかって連れて来られるような子どもが『真実の勇者の転生』で在る筈は無い。
連れて来られた時点で、違うと証明されている。
殆どは返却、放置。
身目麗しかったり、異能を持つ者は残して下働きに使ったりしていたがそもそも『神』が子どもを必要としていない以上大切にする理由はどこにもない。
奴隷とほぼ同じ扱いで『子ども上がり』と呼ばれるまで子どもが育つ率は他国よりもむしろ低かったろう。
『神官長に見つけられるまでどんな目に合されていたか解らないぞ。
それに比べたらここは安心して生きられると思うがな?』
彼の言葉は事実だと…赤子は押し黙る。
少なくともここでは寒さに震えることも無く、飢える事もない。
女の乳を吸わなくてはならないことは屈辱ではあるが、それがこの身体を育てる上で一番有益なことは理解できている。
『俺は、お前が『大神官』に戻らない限りは殺すつもりはない。
無論、マリカや孤児院の子ども、ホイクシ達に危害を加えるつもりなら即座に処理するが…』
『『神』の手足である僕にお前は孤児院にいろ、というのか?』
『ああ、そうだ。
お前を逃がさず、ここに括りつけておく。どこの誰に転生するか。と怯えるよりはその方が安心だし安全だからな』
キーン。
音にするならそんな響きが二人の耳に届く。
無論、これは彼らが精霊だから聞こえたこと。
常人の耳には届く筈も無い、術の発動音である。
『! 何をした?』
『魔術師にこの孤児院に結界をかけさせた。簡易的なものだが。
侵入者を弾き、許可のない者が外に出る事を封じる。
貴様の得意技だろう?』
『ふざけるな! いかに魔術師だろうとこの結界術が簡単にできてたまるか!
これは『移動』と『維持』を司る『神』から僕が、僕のみが授かった『維持』の力だ!』
『そうだな。あの時まで『移動』の俺にはできなかった。『星』の精霊エルフィリーネの力も、魔王城に貼られた結界もあくまで敵である『神』の力、魔性や不老不死者を感知、弾くだけのものだ』
『なら、どうして!』
『今までは…だ。俺は、お前を『殺した』時、その情報と特性を取り込んだ。
今はお前の持つ力の一部を使用できる。それを使って魔術師に術を練らせただけのこと。
まあ、所詮は一部でしかない。
お前が力を完全に取り戻せば一蹴されるだろうが、力の大半を失っているお前と今の俺だったらどっちが強いかな』
床に這いつくばる赤子は目の前に立ち自分を見下ろす少年。その冷酷な眼差しから顔を逸らす。
比べるまでも無い。
元々戦闘特化の先行機に、人心把握と状況維持を目的として作られた後継機である自分が叶う筈は無い。
だから、とにもかくにも逃げ出そうとしたのに。
この身体はあまりにもひ弱すぎてどうしようもないことを、赤子は身に染みて知っていた。
『さっきも言った。お前がこの孤児院で子どもとして生きている限りは、俺はお前に危害を加えるつもりはない。
だから、せめて身体が動かせるようになるまで三年、ここで『レオとして』生きて見ろ。
その上で、やはり神の『手足』として俺と相対する、というのであればその時は、遠慮なく、容赦なくまた相手をしてやる』
圧倒的不利な提案でも、赤子はそれを受け入れるしかない。
受け入れなければまた『死』ぬ。
再び転生されるとしても、それがいつ、どこになるか選べないとすれば、今の生存環境を捨てるにはあまりにも部の悪い賭けだ。
それに考えようによっては、自分が監視されているのと同じように、アルフィリーガ達も監視できると、大神官であった赤子は思いつく。
いつか、『取り戻す為』にも『星』の精霊達の出入りするここに自分が存在する事は、情報収集の意味からしても無益では無いだろう。
もしかしたら『神』はその為に自分をここに落したのかもしれない。
『…解った』
渋々の態ではあっても状況を受け入れた赤子の返事に満足したのだろう。
少年は赤子を慣れた手つきで抱き上げた。
『ならば、寝床に戻れ。
そして眠れ。
俺は、俺達はお前が『レオ』として生きる限り、お前の命を守り導いてやる』
昼間、抱き上げられた時には気付かなかった感覚に赤子は顔を上げる。
彼に殺されたのはほんの少し前。
一月さえ経ていないのに、彼はあの時とは別人のようだ。
『君は…思い出したのか? アルフィリーガ?』
『思い出した訳じゃない。理解しただけだ』
『だったら! 君は帰って来るべきだ。この星の、人間達の、何より『子ども達』の平和と安息を守っているのは『神』なのだと解る筈だろうに!』
『…思い出した訳ではないと言っている。
だが俺にとっては『神』とは…お前に乳をやるあの女…自らのせいで離れていった女を取り戻そうと騒ぎ立てるあの男と変わりない。
俺を騙し、貶め、尊厳を奪い…それでもお前が必要なのだ、戻れと喚くのか? たちの悪い悪夢だな』
『それは、君が必要とされているからだろう? 『神』は今も君を求め、愛しているのに?』
『都合のいい『愛』に縛られてやるつもりはない。
俺は『星』の元で、マリカの元で…本当の『愛』を知ったからな』
『『星』とて、結局は君を利用しているじゃないか?』
『違うんだ。それでも。今のお前には、解らなくても仕方ないが…』
『それに、マリカ様、ではなく、マリカ…と?』
「…できるなら、お前も知るがいい。神の手先では無い。『星』の祝福を受けて、生まれた一人の人間として…」
すれ違う会話と想いを諦めてか少年は寂しげに微笑むと赤子を褥に降ろし消えた。
思念では無く、最後の思いを言葉で紡いで。
夜に溶けるように。
赤子は柔らかい布団に包まり、身体が求めるまま、瞳を閉じる。
今日は疲れた。
あいつの言う通りにするのは癪だが、とりあえず、今は眠ろう。
考えるのは後でいい。
為すべき事も、あいつの言葉の意味も。
今の自分はあいつの言う通り、まだ赤子なのだから。
戻ってきた少年を、銀髪の魔術師が迎えたのはそれから本当に直ぐの事であった。
「すまなかったな。フェイ。
忙しいのに呼び出して」
「いえ、構いません。貴方が僕を頼ってくれてむしろ良かった」
魔術師は清々しい笑顔で少年を見つめる。
その眼差しは本心から、少年が一人で抱え込まずに自分に秘密を明かしてくれたことを喜んでいた。
「でも、本当にいいんですか? 孤児院にアレを放置して。子ども達やホイクシに危険が及ぶことは?」
「釘は十分に指しておいたし、後一~二年は大丈夫だろう? あいつも馬鹿じゃない。
身体がそれなり育つまでは、世界で一番安全な場所を捨てようとはすまい」
「そうですね…」
魔術師は目を閉じる。
彼は大神官の転生に対し、少年程信用も楽観もしてはいないが、代わりに覚悟はしているつもりだ。
いざとなったら、彼の代わりに手を下そうと。
彼女は悲しむかもしれないが、彼を再び失うかもしれない事を思えば迷う必要は欠片も無い。
「この孤児院は世界で一番子どもに優しい場所。
マリカの夢と願いの表れだ。ここに触れて、それでも奴が変わらないようならその時は俺がちゃんと方を付ける。
それが、奴を殺し、また生かした同種としての責任だからな」
「リオン…」
魔術師は解っていた。
少年が覚悟をもって、そして自分を信じて今の一言を発した事を。
ならば、自分はそれに応えるだけだ。
余計な事を聞く必要は無い。
少なくとも今は。
「随分と力を使いましたが、大丈夫ですか?」
「問題ない。むしろ楽になったくらいだ。
あんな感じで力を使う方法は他には無いかな?」
「理論は色々あるんですよ。ただ、精霊力が薄まったこの世界では難しかっただけで。
リオンが協力してくれるのなら、色々と実験してみましょうか?」
「ああ、いくらでも使ってくれ」
気心の知れた相手との、たわいもない軽口。
自分の意志で、選んだ道を自分の足で歩く事。
こんな当たり前のことが『神』の元では叶わなかった事を知っている。
解放された今、何が有ろうと戻るつもりはない。
昔の自分が何を考えていたとしても、考えていなかったとしても。
神の檻の中で、奴が言う『愛』を受けていたとしても。
今以上の幸せでは、決してないと断言できるから。
少年は一度だけ、孤児院を振り返る。
心の中で小さく『星』に祈りながら。
願わくば、あの子も檻の存在に気付き、そこから抜け出る事ができるように。
そして幸せが見つかるように…と。
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