翌日、私は護衛のカマラと侍女頭のミュールズさんと一緒に、第一皇子の居住区に向かった。
アドラクィーレ様は、悪阻が酷いらしくベッドから起きられないという。
許可を得て、私室、寝室に入らせて頂いた。
「アドラクィーレ様。
お加減はいかがですか?」
「マリカ……」
ベッドから軽く身体を起こしただけで、アドラクィーレ様はまたパタンと背中を布団に付けてしまう。
顔色も真っ青
これは相当に酷そうだ。
「最悪の気分です。数日前から吐き気が止まらず、食欲もありません。
身体全体がだるくて動く事さえままならないのです。
これが、悪阻というものなのですか?
「はい。赤ちゃんが身体の中に入ったという印。
個人差はあれ、妊娠した女性は必ず体験することです」
ベッドサイトに花を活け、果汁や果物、チョコレートなど。
甘くてスッと口の中に入れやすいものを用意してみる。
「お辛いとは存じておりますが、水分は多めに取った方がいいです。
オランジュの果汁など如何ですか?」
「……頂くわ」
ミュールズさんに助けて貰って、体を起こしたアドラクィーレ様の背を支えながらオランジュの果汁。
所謂オレンジジュースをお渡しする。
悪阻の時は酸味が強いものが欲しくなることが多い。
お母様もキトロン(レモン)を良く齧っていたっけ。
ジュースをごく、ごくごくと喉に通したアドラクィーレ様は、ふう、と大きな息を吐き出して見せる。
「少し、気分が良くなりました。
吐き気も……出てこないようね」
「それは良かったです。悪阻の時には、今まで食べられていたモノが食べられなくなったりすることが多いです。
水分はしっかりとって、食べられるものを小分けに食すと、辛さが少し和らぐようです」
「それは、ティラトリーツェの時の経験則?」
「そればかりではありませんが……」
異世界で勉強しました、とは言えないのでやんわり濁してから、水差しの水で手持ちのハンカチを濡らして汗を拭いて差し上げる。
脂汗もスゴい。
「……罰が当たったのかしら」
「何の罰です?」
自嘲するように口の端を上げるアドラクィーレ様に私は首を傾げた。
「其方のアーヴェントルク訪問で、皇妃様とお姉様が失脚した、と聞いて私、喜んでしまったの。
だから、その罰にこんな苦しい思いをすることになったのかしら」
「それは違います!」
アドラクィーレ様にぶんぶん、と大きく私は首を横に振って見せた。
「子どもが宿る、ということは罰では無く、むしろ祝福です。
『精霊神』様だってアドラクィーレ様なら、子を大切に、幸せに育ててくれると思ったから、お授け下さったんですよ。きっと……」
「……私は、子が欲しい、と思った事は無いのですけれど、ね」
アドラクィーレ様が体調を崩し始めたのは、私達がアーヴェントルクで右往左往している頃だったらしい。
ここまで酷くなったのはここ一週間程の事だというので、まだあまり目立っていないお腹の様子からしても多分、妊娠二ケ月から三カ月くらいだと思う。
「マリカ。
其方は神殿長として『堕胎術』を禁止しているそうですね?」
「はい。『精霊神』様より、子どもの命を大切にするよう言われておりますので」
「……やはり、産むしかないのですね」
アドラクィーレ様は呟く。
その言葉には妊娠の喜びよりも、戸惑いや辛さ、悔しさが宿っているように思う。
「アドラクィーレ様は、御子の誕生を嬉しい、とは思われないのですか?」
気になって聞いてみた。
私は、せっかく宿った命だ。
できれば両親に愛され、祝福されて生まれて欲しいと思う。
フォル君やレヴィ―ナちゃんのように。
「皇王陛下、皇王妃様、ケントニス様からも産むように言われています。
場合によっては、皇位継承権第二位の世継ぎの皇子になる可能性もありますから」
現在、アルケディウスの皇位継承権は直系、男子継承が基本なので一位が第一皇子、二位が第二皇子、三位が第三皇子。
そして四位が第三皇子の息子であるフォルトフィーグ皇子になっている。
皇子の庶子である私には皇位継承権は無く、皇女であるレヴィ―ナちゃんもほぼ無いに等しい。
ここに第一皇子の子が男の子として生まれれば順位は多分、第二皇子の上。
皇位継承権第二位になる。
「皆様、其方のような孫が、子が欲しいのでしょうね。
ただ私は戸惑いの方が多く、まだ素直に喜べない、というのが現状ですね」
妊娠が判明し、皇王陛下と皇王妃様は、とても喜んだという。
アルケディウスとアーヴェントルク。
二か国の血を引く英傑の才を持つ子になるのではと期待もされているらしいけれど、アドラクィーレ様ご自身は、本当にまだ実感が沸いていないのだと思う。
絶対に、夫の子を産む。
と強い願いと共に嫁いできたお母様と違って。
「私は、アーヴェントルクの皇女として育てられましたが、妾腹。
私を生んだ母から引き離され、皇妃様を母として育てられましたが、抱きしめられた記憶も愛された記憶も全くありません」
皇妃キリアトゥーレは実の娘 アンヌティーレ皇女を溺愛して育てた。
自分の人生で果たせなかった悔いを晴らす、もう一人の自分として。
一方で世継ぎの第一皇子 ヴェートリッヒ様も皇妃様の愛を知らずに育ったというくらいなのだから、アドラクィーレ様がどんな生活を強いられていたかは想像するも容易い。
「そんな私が『良い母親』になれるわけはないでしょう?」
寂しそうに微笑むアドラクィーレ様の気持ちは理解できる。
でも……
「アドラクィーレ様は、良い母親になりたい、とお思いですか?」
「え?」
私は逆に問い返した。
「なれる訳ない、とかではなく、大事なのはアドラクィーレ様のお気持ちです。
アドラクィーレ様は、我が子を愛して睦まじく幸せに生きたいとお思いですか?
それとも、キリアトゥーレ皇妃のように、我が子は道具と思われますか?」
昨日の様子からして、夫であるケントニス皇子も色々と戸惑っている、のだと思う。
でも、良い父親になりたい、思うということは、我が子を愛したいと考えている、ということ。
アドラクィーレ様も多分、同じ。
「自分は良い母親になれる訳がない」
ということは『良い母親になりたい』という願いの裏返しでは、無いだろうか……。
「……貴女とティラトリーツェのように互いを思いあう、親子関係を築いていけるなら……そうしたい、とは思っています。
認めるのは心底、癪ですが」
どこか悔しそうに。でもはっきりと言って下さったアドラクィーレ様にホッとする。
良かった。
そう思う心があるのなら、助ける事はできる。
「であるなら、そうなさって頂きたいと思います。
私を含め、皇王陛下も、皇王妃様も、お母様も全力でお手伝い致しますから」
「本気ですか? 私は貴女の義母を流産させた女ですよ?」
「お母様は、アドラクィーレ様が実際に我が子を宿した事で反省し、謝罪して下さるなら改めて事を荒立てたりはしないとおっしゃっていました。
妊娠出産の経験者として、助ける事もやぶさかではないそうです」
アドラクィーレ様は驚きに目を丸くするけれど、これは妊娠の話を聞いて、お母様と私が最初に話し合った事だ。
『腹に宿った子に罪はありませんし、子を流しても、あの子は戻ってきません。
ただそれだけの事ですから。
弁えているつもりです』
少し寂しげに、でもはっきりとお母様はそう言って下さった。
嬉しかった。
「私も皇王陛下、皇王妃様より、アドラクィーレ様の妊娠出産の介助を行うように命じられております。
留守がちではありますが、知る限りのことはお伝えし、できる限りのお手伝いもさせて頂く所存にございます」
「マリカ……」
皇王妃様とアドラクィーレ様はそこそこ微妙な嫁姑関係。
であるから、自分が口出しするよりは、私が間に入った方が角が立たないだろう。
手助けしてやってほしい。
というのが皇王妃様のお気遣いだ。
なんだかんだで、アドラクィーレ様もアルケディウス皇王家の一員として愛されていると思う。
アーヴェントルクで『精霊神』ナハトクルム様は言っていたっけ。
『今後、世界で子どもの出生率は上がる。
おそらく数年で数倍にはなるだろう』
って。
時期的には少し早いけれど、アドラクィーレ様の懐妊は、きっとその先駆だ。
ならば、ちゃんと作っていきたい。
父親教育、母親教育も含めて。子どもを望む人が安心して子どもを産んで育てられる環境をしっかりと。
そうすることで、きっと後に貴族や大貴族、市民たちも続いていく。
神の仕事や食の拡大よりも、私的にはある意味大事な最優先課題だからね。
「ですので、アドラクィーレ様におかれましては、どうぞお心を安らかにもたれて、健康な赤ちゃんを産むことに御専念されて頂ければと存じます」
「……ありがとう」
小さな声で、でも、はっきりとアドラクィーレ様はおっしゃって下さった。
なら、全力でいく。
頑張るぞ!
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