宴会から一夜明けた風の日。
「当面は一樽、金貨一枚ではいかがでしょうか?」
「酒の値段、としては高い、とは思うが今の世、まだ麦酒の酒造が我々しか無い事。を考えると最初はそのくらいか?
この荘園の貯金はほぼ底をついている。高値を付けて貰えるのは正直助かるな」
「この蔵では年間どの程度の麦酒の製造が可能ですか?」
「一度に醸造できる分は樽十樽ほどだ。それを時期をずらしてなるべく年間を通して新鮮なものを出荷するとなると二種を一年間で各百樽程になるか?」
「樽はこちらで自作されておられる?」
「腕のいい樽職人がいる。むしろ長期保存の酒の保存に使うガラス瓶が高くてな」
「今後は必要分を発注ください。我々が手配します」
朝からリードさんとエクトール様は商談に入っていた。
昨日、あれだけ飲んで騒いでいたのに平気な顔をしているのは流石だなあって思う。
リードさんも、エクトール様も。
まあ、ビールは二日酔いしにくいというけれど。
私は向こうでも遣酔いする程飲んだりしなかったけれど。
ともかく話は麦酒の買い取り金額から権利について、
「麦酒の販売に関する窓口は、我が商会で構いませんか?
領主様としては領地の特産品としたい意志もお有りかと思いますが」
「構わぬ。我々に直接手を差し伸べてくくれたのは其方たちだからな。販売権は当面預けよう。
他の領地、皇族への販売窓口も任せる。
いずれ交渉し、ヴェッヒントリルが買い取るというのならそれでも良いが無下にはしてくれるなよ」
「勿論でございます」
それから輸送についてと話は深まっていく。
「一回二十樽、ですか…それだと僕とフェイ殿の転移呪文だけでは難しいかもしれませんね」
「年下ですし、子どもですから殿付けでなくてもいいですよ?」
「…本当にそう思っておられますか?」
「…まあ、オルジュ殿がそう呼びたいとおっしゃるならご自由に」
うーん、この二人やっぱり微妙な関係だなあ。
杖同士はそう仲悪くも見えなかったんだけど。
「でも、馬車とか使うのは大変だよ。ここ距離もあるし。
輸送中、盗賊に狙われるとかありそう。味も落ちるし」
とりあえず割って入る。
「ですが転移呪文は基本的に手に持ったものを持ち上げるくらいにしか輸送には使えません…」
「オルジュ殿は転移呪文が苦手でおられるようだ。まあ、これは杖の性質もあるので仕方のない事ですが。
でも僕も手に触れたモノを運べるくらいなので当面は二樽分くらいずつ往復して、ということになるでしょうか?
エクトール殿。僕が輸送の為に領地に魔術で入ることをお許し頂けますか?」
転移術が使える術士はやろうと思えば泥棒も可能だ。
だからこそ、術を使うのは慎重に、相手の許可を得て行うのが基本、とフェイは言う。
「いいだろう。王都の第三皇子の魔術師であるのなら店の者達と同様に信用しよう。
輸送は魔術を使い、フェイ、と申したか。魔術師。其方に預け店に直接搬入だな」
「その方が安全かと思います。魔術師もおられますのでいくらかは安心ですが、情報漏えいや情報を狙い入ってくるものにお気を付け下さい」
私が言うと、エクトール様は解った、と頷いて下さった。
「悪質な麦酒を作られるのは困るからな。
正当に作りたいと思い、設備投資までできているのなら教えるのもやぶさかではないが」
「その場合も、きっちりお金は取りましょう。この蔵の努力と研究は安売りしていいものではありません。
今まで、この蔵に入り、居なくなった者はいませんか?」
「…一人、いることはいるが、そいつが情報を漏らす可能性は万に一つも無いと思っている」
アーグストラムの事かな?
信頼されていたのだろう。きっと。
「では、これから入って来る者にはご注意を。必要であれば僕が身辺調査などのお手伝いも致します。
そういうことはオルジュ殿よりも僕が向いています」
「フェイ…」
苦虫をかみつぶしたような顔のオルジュさん。
ホント、フェイはこういう所、子どもっぽい。
そんな二人の様子にくくと、笑いをかみ殺しつつ
「そうだな。今後に向けてその辺もしっかり考えよう」
エクトール様は確約して下さった。
私自身、まだちょっと想像がつかないが今まで葡萄酒しか無かった世界に『麦酒』がどう受け入れられ、どう広がっていくか解らない。
場合によってはヴェッヒントリル様に護衛の軍を用意して貰うことも考えた方がいいかとさえ思っている。
それはもう少し、先の話だろうけれど。
「初回納入は二種を五樽ずつ。
最初の酒は第三皇子を通じ、皇王家と大貴族に納めさせて頂きます。数は三樽ずつ。
二樽は、店での確保をお許し下さい。
ここで、皇王様に献上し、正式な酒造の許可を得られるように働きかけ、
今年の新酒ができたら値段を下げて一般の民にも回す、という感じですね」
「解った」
「秋の大祭で民にお披露目するというのもいいかもしれませんね」
一樽、大体70リットルくらいに思える。
木のジョッキに一杯大体200ミリリットルくらいとみて300人分前後。
10樽として前回と同じくらいの人は捌けるだろう。
麦酒の復活はきっとまた新しい伝説になる。
「その時にはぜひ、この目でその様子を見たい。
我が蔵の五百年が実を結ぶところをぜひこの目に焼き付けたいものだ」
「僕がお連れします。エクトール様」
「オルジュ殿はそれまでに転移術の練習ですね。今はまだ同行者との移動はおぼつかないでしょう?」
「解っている!」
フェイにとってもオルジュはエリセを別にすれば初めて認められる術者。
会話も楽しそうだ。
まあ、どこをとってもフェイの方が上手、なのでオルジュさんには気の毒ではあるのだけれど。
おおよその話が決まって後
「マリカ、頼みがある」
エクトール様が、じっと、私を見つめた。
「なんでございましょうか?」
「麦酒に、名前を付けて貰えないか?」
「名前? でございますか?」
意図が解らず首を傾げる私にエクトール様が頷いた。
「我らは麦酒造りだけに、専心してきた故に外の知識が足りない。
こうしてこうすれば酒ができる、ということは伝えられ、解っていても其方が言う、発酵、酵母などの名前や仕組みを完全には理解していなかった。
あのハーブ。ホップも名も知らず使っていた」
まあ、それはそうだ。
発酵の仕組みがいつから理解されたかは解らないけれど、きっと顕微鏡とかが発明させてから。
向こうの世界でも近年の筈だ。
エクトール様と蔵人さん達には今後の醸造をより的確にするために、パン酵母を例にとって発酵の仕組みを簡単にレクチャーした。
理由も解らず受け継ぎ、守り続けていた蔵の酵母の働きと仕組みを驚いた眼でエクトール様は聞いていたっけ。
ホップについても私が勝手にホップという名だ、とエクトール様に教えてしまったけれどこの世界での名前は解らない。
足元の草一つについても名前がついていた向こうの世界とは違い、役に立つと解っている植物とかでもないと名前もついていないのかもしれない。
植物の精霊は名前を貰って喜んでいる、とフェイが言ってたからそのままいかせて貰う事にするけれど。
「麦酒にもいろいろな種類があるからな。
呼び分けに名前を付けたい。何かいいアイデアはないか?」
「私がつけてよろしいのですか?」
「頼む」
リードさんと視線をかわし許可を貰ってから私は考える。
この世界で長らく呼ばれて行く商品名。
私が思い付きでつけていいものではない。
ならば、最初からあるこの品の正しい名前が相応しいと思う。
「私が考えた訳ではございませんが、太古、麦酒はこのように呼ばれていたと文献にはあります。
『ビール』と」
「ビール…か。悪くないな。呼びやすく覚えやすい」
「麦酒全般を『ビール』上面発酵の味の濃いビールを『エール』下面発酵のものを『ラガー』と呼んではいかがでしょうか?
これも古の文献に有った正しい麦酒の名前でございます」
「醸造したものを呼ぶ名前はあったか?」
「『ウイスキー』と呼ばれていたようにございます」
ビール、エール、ラガー、ウイスキー。
口の中何度も転がすとエクトール様は
「よしそれでいこう。これ以上の名はないというくらいにしっくりくる」
悦に入ったという笑顔で頷いた。
元々、そう呼ばれて世界に広まっていたからね。
きっとこの名も、世界に広がり愛されて行くだろう。
後少し、細々したことを決めて、私達は王都に戻ることにする。
明日は調理実習、麦酒のお披露目には丁度いい。
皇王妃様もいらっしゃる筈だから。
「魔術でも戻るなら案じるも無用ではあろうが、気を付けて戻れよ」
「ありがとうございます」
城門の外までエクトール様だけではなく、オルジュさんも蔵人の形も殆どが見送りに出てくれたのはありがたい。
「今後とも長いお付き合いになるかと存じます。
どうぞよろしくお願いいたします」
頭を下げるリードさんにエクトール様は鷹揚に頷いた。
「お前達のおかげで我々は生きる喜びを取り戻した気がする。
楽しみに待つがいい。今年の麦酒 ビールは一味違うぞ」
「期待してお待ちしております」
既に初回分のビールは送ってある。
持ってきたお土産は既に使い切り、パン酵母の残りは興味を持ったエクトールさんに差し上げたので、私達の手荷物は殆どない。
と、エクトール様は蔵人に向けてパチンと指を弾いた。
すると蔵人さん達がそれぞれに、手の中に納まるほどの小瓶を持ってきてくれた。
数は四本。ガラス貴重なガラス瓶に入っている。ラベルは無い。
私と、リードさんとリオンとフェイ、それぞれに一本ずつ。
「それは金額外だ。余り麦酒を蒸留し、長期保存したもの。
樽にあまり置くと樽の匂いが付きすぎるので、ギリギリのところで瓶に移した。
その辺のノウハウが解ってきた最初の頃のモノだ。二百年少し、経っているか?
俺は良くできていると思うが、正直売り物になるかどうかは解らん。だから貴様らにやろう」
つまりは、ウイスキーの200年物?
向こうの世界じゃ、絶対に飲めない超貴重品だ!
「でも、私達はまだ子どもで…」
「誰かにやるもよし、記念に取っておくも良し、保存しておいて大人になってから飲むのもいいだろう。好きにすればいい。
それは俺達からの礼だ。我々の存在に気づき、見出し、光を当ててくれた、な」
「ありがとうございます。大事に頂かせて頂きます」
リードさんが興味津々の顔で、受け取ってしまったので私達も断れなくなった。
それぞれ、割れないように大事に胸に抱く。
「風の月の始め頃には今年の酒も飲めるようになるだろう。
また来い。連絡する」
「必ずや」
最後の挨拶をして私達はフェイの側に集まる。
術発動の直前
「ああ、マリカ」
エクトール様が私を手招きした。
「何でございましょうか?」
「すまぬがもう一本、持って行ってくれ。ヴェッヒントリルに渡して貰えると助かる」
「解りました」
駆け寄った私に頭二つは違う長身を屈めたエクトール様は、私に視線を合わせて下さる。
差し出された瓶と一緒に、小さな、小さな言葉が私に落とされた。
「頼んだぞ。精霊の貴人」
「え?」
「アーグストラムに、また会う事があればよろしく言ってくれ」
「えええっ!」
他の人には、エクトール様の言葉は聞こえなかっただろうから、私が頓狂な悲鳴をあげた様にしか見えなかったろう。
「ほら、行け! 術者が待ってるぞ!」
「マリカ、行きますよ」
満面の笑顔で私をフェイの方に追いやるエクトール様。
もう準備万端と言う顔のフェイは私の肩に手を置いた。
術がもう発動しちゃう?
慌てて手を伸ばすけれど、してやったり顔のエクトール様はニコニコと手を振っている。
「え、でも、いや、その待って! エクトール様!」
「また、な」
「シュルム・ディエダ!!」
「わああっ!」
私の身体が宙に浮く。
預かった瓶は絶対に落とすわけにはいかないのでしっかり抱えているけれど、転移酔い以前に私の頭はぐるぐるだ。
ホント、一体何?
最後のあの言葉の意味はなんだったの?
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