人間の身体というのはとても精密にできている。
と、言ったのは大学時代に保健福祉を教えてくれた教授だっただろうか?
「痛み、苦痛というのは身体からの警告であり、意識を失う、というのは身体がこれ以上の事態には耐えられない、とブレーカーを切るようなものである。
疲労、眠気なども同じ、身体は休息を必要とすると速やかに知らせてくれる。
その言葉に耳を傾け、真摯に向き合うことが健康への道です」
まったくもって、事実だとは思う。
教えを守ることは向こうでも、こっちでもできていないけれど。
水底から浮上するような意識の酩酊と負荷が身体を襲う。
ドロドロとした何かに意識が蓋をされている。
でも、この先にしか覚醒はない。
解っているから私は、大きく息と気合を胸にため込んで飛び込んでいく。
まとわりつき、意識を引っ張る闇の向こう。
声が聞こえる。光が見える。
『マリカ!』
私はその呼び声に向かって、全力で進んでいった。
意識の暗闇を泳ぎ、現実へと。
「う……ん」
「……マリカ様、お気付きになりましたか?
マリカ様?」
重い瞼をゆっくりと開くと、心配そうなミュールズさんが私を見ている。
このパターンはホントに何度も経験してきた。
恥ずかしいことだけれど。
「……あ、ミュールズさん。
私、また気絶しちゃっていました?」
「はい。光の『精霊神』を御身に降ろし、魔王の闇を打ち払われたのです。
意識を喪失してまる一昼夜。
今は夜の日の朝にございます」
「うわ、一昼夜。
皆に心配かけちゃったね。帰国の予定も……」
「ああ、無理に身体を起こされないで下さいませ。
今、皆にマリカ様がお目覚めになったことを伝えて参ります。
ヒンメルヴェルエクトの王宮にも連絡を。
それから通信鏡を持ってきて、アルケディウスにも報告せねば」
「……怒られるかなあ?」
「怒られるとかそういう問題では無く、皆が心配していたのだとお考え下さいませ」
「うん。ごめんなさい」
ミュールズさんが部屋を出た後、入れ替わりにカマラとセリーナ、ノアールが入ってくる。
「お目覚めになってホッといたしました。
マリカ様に『精霊神』が降りられるのを見るのは初めてではございませんが、あそこまで大きな術を使われるとは。
金色の光に包まれたマリカ様のお姿の神々しさに、私は目を開けているのがやっとでした」
「本当に。見ているだけで足が震えるくらいの圧倒的な力であったと思います」
「『精霊神』というのは、精霊獣を見ているだけでは感じられませんが人知を超える存在なのだと改めて思った次第です」
みんな口々に『精霊神の降臨』とそこから起きた奇跡について教えてくれる。
聞かなくても出て来ちゃうあたり、やっぱり相当に衝撃ニュースだったようだ。
「『魔王』は? その後、どうなったの?」
「マリカ様、いえ『精霊神』が暗闇を払った後、何処かに消えました。
追跡しようという動きもあったのですが、彼の退却に合わせるかのように魔性が襲撃してきてその対応に追われている間に逃げられてしまったようです」
「どうやら、各国でも『魔王』の宣戦布告は見えたそうですよ」
「え? そうなの?」
「はい。詳しくは直接話された方が良いかと。
皇王陛下はとても心配なさっておいででした」
その言葉通り、私の着替えと身支度がおわった後、リオンとフェイが通信鏡をもって私の部屋の応接室にやってきた。
本当は応接室といえど、皇女の部屋に男子は禁制なのだけれど、まだ本調子ではないからと気遣ってくれたようだった。
「無事にお目覚めになられて、安堵しました」
「『精霊神』様からは『世界中の暗雲を払ったから、究極に疲れているだけ。ゆっくり体を休めさせて』と言われていたのですが、やはり皆、心配していて。
ヒンメルヴェルエクトの大公様、公子様達からも幾度となく様子伺いの問い合わせがありました」
「心配をかけてごめんなさい。……リオンの方は、大丈夫ですか?」
「……少し驚きましたが、大丈夫です。
勇者エリクスの名前と身体を借りたあの『魔王』はいずれ俺が、責任をもって倒します」
ミュールズさんがいるから、今はあまりツッコんだ話はできないけれど、色々と謎や解らないことが多い今回の襲撃。
リオンに思う所や、話したいことがあるのが視線で解った。
無言の頷きに、私も同じ仕草で返す。
「信じています。でも、無理はしないで」
「ありがとうございます」
力強く頷いたリオンに元気を貰った私は、今度はフェイの方に顔を向けた。
「通信鏡を開いて下さい。丸一日気絶していたというのなら、心配しているでしょうし、滞在期間が延びたことに対して相談をしないといけませんから」
「解りました」
フェイが通信鏡を起動させる。
通信鏡は受信すると向こうで精霊石が光る仕組み。
鏡の側に人がいないと気付かれるのが遅くなって待たされることもあるのだが、どうやら本当に心配をかけたのだろう。
直ぐに向こうから応答の動きがあって、ソレルティア様が出てくれた。
『フェイ? マリカ様に何かあったのですか?』
「マリカ様が目を醒まされました。皇王陛下との面会を望んでおられます」
『ホントですか? 良かった。今、呼んできます。少し待っていて下さい』
本当に、本当に少しだけ待って、皇王陛下が鏡の前にやってきた。
チラッと映った様子からはお父様も一緒。
『マリカ! 目覚めたのだな。良かった。
どこか体調の不良などはないか?』
「全身の倦怠感や筋肉痛はありますが、その程度です。
ご心配をおかけしました」
『いや、其方が無事であるのならそれでいい。
今回の件ばかりは、お前のせいではないからな』
いつも私のせいじゃないよ、とは言わない。
そんな場合でもないし。
神妙に皇王陛下と向かい合う。
「既に概要は報告していると思いますが、ヒンメルヴェルエクトに『魔王エリクス』を名乗る存在が現れました。
私を拉致しようとしたようですが、それはリオンが阻んでくれて。
世界をかつてのように闇に覆う為の暗雲は、復活したヒンメルヴェルエクトの光の『精霊神』様が払って下さいました」
『そのようだな。……聞いたかもしれんが、おそらく同時刻に世界中に『魔王エリクス』の宣戦布告は響いた。
上空に『魔王』の影が大きく現れ、言葉を発した。その後、すぐ影は消え、背後に従えていた魔性達が地上を襲撃したというのが、確認した限りではあるが五カ国の王都で発生した流れだ。
シュトルムスルフトのみ連絡は早馬だがほぼ同じだろう』
「では、多分、各国に現れたのは幻影、幻のようなもので、ヒンメルヴェルエクトにだけ本物が現れたのだと思います」
『そのようだな』
おそらく皇王陛下は私の意識が戻るまでの間、各国と連絡を取り合っていたのだろう。
全ての国と通信ができるのは今の所、アルケディウスのみ。
アルケディウスを経由すれば、七国は情報を共有することが可能になる。
『不老不死世以前の暗黒時代の再来になるかもしれなかった暗雲が『魔王』の消失と同時に消えたのは、お前と『精霊神』様のおかげだろう。よくやった』
「いえ。私は何にも」
『だが『魔王』は其方が狙いと断言したか……』
「はい。『精霊の力』や『気力』を奪い、この世界を支配する。というのもあるのでしょうけれど、その為に私が必要なのだと」
謎の乙女『大魔王』復活の為に、私の身体と魂が必要なのだと言っていた。
それが、どこまで真実かは解らない。
そもそも『勇者』が『魔王』を倒したとされる「アルフィリーガ伝説」そのものが歪んでいるのだ。勇者アルフィリーガは世界を暗雲に包んだ『魔王』を倒してはいない。
『魔王』『ヴァン・レ・ドゥルーフ』と呼ばれた存在は実在していたがいなくなっている。
少なくともアルフィリーガ伝説が生まれた時にはもういなかったのだから。
なら本当の『魔王』を倒したのは誰だったのか?
『その件に関しては戻ってから詳しく話をするとしよう。
各国まだ色々と混乱しているようだからな』
「解りました」
『其方が意識を失っていた日数を加味し、最大三日までのヒンメルヴェルエクト延長滞在を認める。
ヒンメルヴェルエクトと話し合って、最終的な帰国までの日程を早急に決定報告せよ』
「かしこまりました」
『これ以上、騒ぎに巻き込まれず無事に戻って来るように。と言っても無駄な事は解っているが』
「……努力いたします」
私が頭を下げると通信は切れた。
お父様が何か言ってくるかと思ったけれど、代われとは言われなかったな。
皇王陛下の後ろから、私やリオンを見てただけ。
リオンは、お父様が何を言いたがっていたのか解ったのかな?
「リオン?」
「……ああ、なんでもな……ありません。皇子にも心配をおかけしたようです。
向こうに戻ったら本当に色々と相談しないといけないですね」
噛みしめるようにリオンが呟く。
「そうだね。でも、その前に大神殿にも寄らないといけないんだった。
また、何か言われるかな?」
大神殿にいた筈のエリクスがなんで魔王になったのか聞いてみないと。
でも『精霊神』様達を復活させたことでも色々言われそうだし。
嫌だなあと思いながらも、私達は帰国後のことにもう意識が向いていた。
ヒンメルヴェルエクトでの滞在と、騒動はまだ終わっていなかったのだけれども。
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