奴隷に名前などいらない。
それが僕らのご主人様、ドルガスタ伯爵のお考えだ。
だから、ここに来た順番、もしくはご主人様の気に入りの順番に1、2と呼ばれる。
先に来たものが消えれば数字が上がる。
数字が上がれば上がっただけ、側に仕えご主人様のお役に立つことができる。
僕がこの館に買われたとき4だった。
その時から、ずっと1だったモノがあいつだった。
あの時から年下だったあいつは、けれど金髪、碧の瞳、細い身体のあいつは伝説の勇者アルフィリーガと同じ色、ということでご主人の気に入りだった。
加えて、特別な『眼』を持っていた。
段々に正気を失って行ったけれどあいつが選んだものは全て価値があるもの。
持ち主に幸運をもたらす。
僕が4から2に上がったのは、僕にも特別な力があったからで、心壊れていくあいつに、そして新しい奴隷に、僕はご主人様の命令を伝える役を担っていた。
ご主人様に気に入られ、常に側に置かれていた1が、忽然と姿を消した。
…まさか、戻って来るとは思わなかったけれど。
時々、姿を消す奴隷はいたけれど、大抵が正気を失い心処理される連中。
ご主人様が消失を悔しがり、四方八方手を尽くしても見つからなかった1が消え、僕が1になって三年。
奴は戻ってきた。
アル、という『名前』を持って…。
「ご主人様、…お止めになった方がよい、と存じます」
深夜。
街外れの倉庫前に立ったそいつは、跪き深々と頭を下げご主人様にそう言った。
後ろ手を枷でで拘束され、相当に鞭打たれた筈だというのに躊躇なく。
「何を、止めろと言う?」
「マリカ…。少女の誘いに乗る事です。とても危険です」
奴は予知眼。先を見通す予知の目を持つ能力者。
「はっ! 危険か…」
だがその警告めいた言葉を発した頬を
「その危険、とはどちらにとってのものなんだ? 言ってみろ!」
バチン! とご主人様は平手打つ。
怒りと侮蔑が込められた渾身の攻撃を受け止めきれず地面に転がるそいつの首元を、ご主人様は引き上げさらに平手を見舞う。
一発、二発、三発と闇夜に乾いた音が響く。
「知っているぞ! 貴様、私よりもゲシュマック商会の方に情が向いているな?
マリカや店を、守りたいなどと思っているのだろう?」
噛みしめられた、何かを耐えるような唇は、ご主人様の言葉を雄弁に肯定している
…愚かな奴だ。
「ディ―ナが、
『ゲシュマック商会にいるアルフィリーガの化身の少年を、我が家が粗末にしていると言われ王宮恥をかいた』
『粗末に扱うな、私に寄越せ』
などと言っていたが、ゲシュマック商会とマリカに、自分の待遇を泣きつきでもしたか?
王宮や、街で貴様は随分と情を引いているようだな。
その外見で、マリカや店の連中をたぶらかしているのだろう?」
「っ!」
奴は応えない。応える余裕も無いだろう。
歯を食いしばり、嵐のようなご主人様の怒りを、ただただ、耐えている。
「せっかく手間暇をかけて流した『ゲシュマック商会は、我が家の奴隷を盗んでいた』と流した噂は同情混じりの貴様の人気にかき消されてしまった。
アルフィリーガと同じ色と言うのは得だな? え?」
茶色の髪を振り乱し、折檻を続ける様子は、もしこれが昼間だったら明らかに周囲の目を引いたであろう。
噂は真実であったと。
ご主人様が奴にふんと鼻を慣らし、足蹴にしたのは奴の服に、赤い染みがいくつも滲み始めた頃の事だ。
苦し気に荒い呼吸を奴は懸命に整えようとしている奴に靴の踵を捩じり込みながらご主人様は言い放つ。
「既に万が一のことを考えて倉庫の鍵は開け、中に手の者を忍び込ませている。
ただの穀物倉庫でいくつか小麦の袋が置いてあるだけで、何の仕掛けも無いことは解っているのだ。
少女には貴様を返して欲しければ一人で来い、と指定もしてある。我らに何の危険もある筈はない。
良かったな。随分と貴様はあの少女に気に入られているようだ」
「マリカに…手を…出さないで…下さい」
「黙れ!」
痛みに呻くよりも先に口から紡がれたのは、少女の心配。
ゲシュマック商会の柱だというあの、黒髪の…
「ゲシュマック商会は、大貴族との軋轢を恐れて貴様を簡単に差し出したが、あの少女は貴様の事を心配しているようだ。
お金を払うし、レシピも好きなだけ渡すから貴様を店に内緒で返して欲しいとのことだ。
バカな話だ。何故、返す必要がある。
金もレシピも、あの少女がいればいくらでも手に入るというのに。
貴様というエサに食いつく魚だ。あの少女は。釣り上げてしまえば、あとは煮ようが焼こうがこちらのもの…」
楽し気に笑ったご主人様は僕に顔を動かす。
意図を察する事ができないようでは奴隷は務まらない。
転がった奴の口に布を噛ませてしゃべれないようにする。
「あの少女にはそいつがさりげなく貴様の現状を吹き込んである。
貴様を取り戻そうと一人でやってくるだろう。
…良かったな。明日からは二人一緒に私の奴隷だ」
「う! ううっ!!」
封じられた声は、少女を思う反論だろう。
外での二年間、失っていた自我と人格を取り戻した奴の思いを、身体ごとご主人様は踏みつけにする。
「子どもなど、身体に服従を叩きこんでしまえば何もできない。
ましてや身体を奪い、薬を使えば言うなりにできる。
長く、妻のいいなりと蔑んでいた大貴族や皇子にやっと目に物を見せてやることができるのだ。
貴様はやはり、幸運を運んでくるようだな」
従順を演じていた奴の碧の瞳がはっきりとした怒りを宿しているのが解った。
こいつは、本当に愚かだ。これだけ痛めつけられてもまだ理解しないのか。
心を失っていた昔の方がまだ賢かった。
…奴隷に怒りなど無意味だというのに。
「貴様はこれからも、黙って私に幸運を運べばいい。
そうすれば、せいぜい可愛がって飼ってやる。あの少女ともどもな…」
そこでご主人様の言葉は止まった。
遠くで揺れるカンテラの灯りを見止めたのだろう。
こんな真夜中に、こちらに向かってくるのは他にはいまい。
「来たぞ。中で待ち伏せだ。
貴様は我らが入ったら鍵を閉めろ。鍵が開いていたら中に潜まれていることに気付いてしまう、だろうからな」
「解りました」
合鍵を手の者の一人に渡し、伯爵は倉庫の中に入っていく。
僕は奴を立たせると首輪の紐を強く引いて後を追った。
中に入ったのを確認して、扉の鍵が閉まる。
奴を中央に転がすと僕はご主人様と共に潜み、闇に眼を慣らす。
もう一度、扉が開いた時に、血塗られた宴が始まるだろう。
かちゃん。
鍵を開ける音が、暗闇にやけに大きく響いた。
カンテラの灯りが掲げられ、広くない倉庫の中央を小さく照らす。
と同時、こちらにも中に入ってきた者の顔が見えた。
「! アル!! どうしたの? なんでこんなところに?」
澄み切った高い少女の声。
間違いない、目的の少女だ。
床に転がる奴に駆け寄り膝をつく少女の姿を確認した、と同時。
「やれ!」
「キャアアア!!!」
少女の声は布を裂くような悲鳴に変わった。
「だ、誰です! 放して!」
「主に向けての口の利き方がなっていないな。まあその辺はおいおいしっかりと身体に教えてやるとしよう」
「! 貴方は!!」
少女が床に置いた筈のカンテラが、拾われゆっくり、高々と掲げられる。
主と、背後から男に抱きすくめられ、拘束された少女の姿を照らし出して…。
「何を驚く。
ここに呼び出したのは貴様だろう? 話がしたいからアルと共にここへ来いと」
「でも、ここはゲシュマック商会の倉庫で…鍵がかかっていて…」
「そんなものどうとでもなる。…約束の時間よりかなり早い。我らが来る前に何か仕掛けをしようかと思ったのかもしれんが、生憎私の方が上手だったな」
怯え顔の少女を見て、ご主人様がニヤリと、楽し気な笑みを浮かた。
ぞくり、と背筋に嫌なモノが奔る。
この笑みを浮かべた時のご主人様はかなり高ぶり、荒ぶっていると経験上、僕達は知っている。
…可哀想に。
あの顔を見てしまった以上、彼女にとって、今夜は決して幸せなことにはならないだろう。
「あ…だったら、お願いします。アルを返して下さい!
アルはゲシュマック商会にとって、私達にとって、大事な存在なのです!」
身動きもできない状況で、それでも気丈に少女はご主人様を見て声を上げる。
動ければ、多分地べたに頭を擦りつけて懇願していたのかもしれない。
ご主人様には無意味な事であったろうけれど。
「随分と、私の奴隷を買ってくれているようでありがたいが、残念ながらそんな要望に応えるメリットはないな」
「メリットなら…私にできる限りで…レシピや…少しですがお金も…」
「だから、もう私の所有物になった貴様のものは全て私のものだと言っているのだ」
「私の…って、は、離して!」
賢明に身じろぐ少女だったが、左右、背後から押さえつけられた腕と身体を掴む男に勝てるはずがない。
悠々と近づくご主人様には彼女の抵抗は欠片も届くことなく、もはや彼女は餌食として捧げられた供物と同様だ。
ぎらり、と腰に帯びていた短剣が引き抜かれる。
「あああっ!」
カンテラの薄い灯りに白光が煌めいた。
丁寧に作られたであろうお仕着せが、立てに真っ直ぐ裂かれて少女の白い肌、その前面が顕わになる。
ワンピースであったであろう服をご主人様が左右に広げると、まだ膨らみ切っていない胸元が品定めするような視線に晒される。
ごくりと、息を呑む男達の羨望の眼差しにも。
そこに手を当て、ご主人様はにやりと満足そうな笑みを浮かべる。
「ふむ、薄いな…。だが、こちらの方がむしろ良い。
女は面倒だからあまり好みではないが、味見くらいはしてやってもいい」
「い、一体何を…」
全身を恐怖に粟立たせる少女に、それでも何かを伝えようとしてか、それともご主人様を止めようとする精一杯の抵抗か。
地面に転がされていた奴は、懸命に身体を起こし、少女を押さえる男の一人、その足元に体当たりをする。
「! !!!!」
一瞬男の手が緩み、その隙を見て渾身の抵抗を見せた少女は、自由になった。
「た、助けて!」
だが、そんな抵抗はやはり無意味だ。
ご主人様が、奴を蹴りつける間、床に乱雑に置かれた粉袋に足を取られながらも、扉に辿り着いた少女はそこで絶望する。
「…あっ」
外から施錠された扉に。
「大人しく見ていろ! そこで黙ってこの娘がお前と同じに成るところをな…」
下卑た笑いを浮かべ、邪魔な袋を蹴りつけ、悠々と男達…ご主人様の配下達…は少女を再び捕える。
微かに目線を上げるご主人様。その意図に気付いたように男達は乱暴に娘の足を払うと地面に貼りつけた。
「きゃああ!」
白い粉がバフンと周囲に舞い上がる。
薄い粉袋を褥にするように押さえつけられた少女の身体は暴れているうちに服が肩まではだけている。
それを残酷な、愉悦を含ませた眼差しで眇めるとご主人様は
「アレを出せ」
今まで空気になったかのように何も発せず、何もできずに見つめていた僕に言い放った。
「は、はい」
僕は言われるままに、持たされていた荷物の中から小さな香炉を取り出し、主人に捧げ渡す。
香炉を受け取ったご主人様は、それを面白そうな顔で受け取って、怯えに身をよじらせる少女の前に突きつけるように見せつけた。
「これから、貴様を溶かしてやろう。
苦痛と快楽と香の香りに酔い狂えば、夜が明ける頃には貴様はゲシュマック商会のマリカではなく、この私、ドルガスタ伯爵の奴隷、マリカになっている…」
「い、嫌! 止めて! 放して!!」
「煩い! 大人しくまっていろ!!」
懸命に頭を振り抵抗する少女に、平手を一発。
彼女は沈黙した。
消えた抵抗に満足したのだろうか。
カンテラのシャッターを開き、香炉に火をつけようとした。
正に、その瞬間。
「アル!!」
一瞬前までの怯えは欠片も見えない。
強い、強い意志の篭った声が響いた。
足元に強い衝撃がかかり、僕は尻もちをつき、床に倒れた。
何かが覆いかぶさってきたと思うとほぼ同時。
押さえつけられた身体のまま、僕は見る。
ゴウン!!
大きな音と共に脹れ上がり、破裂した何か。
真っ赤に染まり燃え上がる大気。
「ぐああああっ!」
ガシャン、と音をして何かを取り落し、服に移った炎にのたうち悲鳴を上げる主。
「あ、熱い!!」「痛い!痛い!」「ぐぎぃ…な、なにが、一体?」
同じように爆発の余波を受けたのだろうか、目や顔、火のついた服を押さえ悶える男達。
その深紅の光景の中、真っ直ぐに立ち無表情のまま、泰然と冷たい目線で彼らを見降ろす少女の姿を。
燃え上がる炎が、まるで彼女の顕わにならぬ怒りのようだ、と思ったのが思考の最後。
僕の意識は落ち消えた。
彼女の怒りの炎に焼かれたように。
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