なんとか第一皇子への説明昼食会を終えた翌日のとある日。
私は王都の神殿に程近い一角にやってきていた。
同行者はライオット皇子と、お付きの文官が一名。
ガルフの店に馬を置き、街を歩いている。
私のコンパスに合せてか、ちょっとゆっくりめだ。
皇族の、しかも第三皇子がこんなに平気で街歩きしていていいのかな、とも思うけれども多分、国の皆さんは慣れっこなのだろう。
すれ違っても気にした様子もないし、にこやかに会釈するくらいで声もかけてはこない。
基本的に身分が上の者にこちらから声をかけてはいけない、というルールもあるからかもしれないと、ちょっと思った。
今まであんまり意識したことは無かったのだけれど、このアルケディウスの王都は丸に近い形をしていてぐるりと城壁に囲まれている。
市民街と貴族区画が半円くらいに中城壁で別れていて王城は最奥に小高い丘の上にあって、南の大門から入ると真正面の遠くにぼんやりとお城が見えるのは幻想的でファンタジー風景。
中央広場を取り巻くように目立つ商店、商会が軒を連ね、そこから城壁に繋がる路地は主に職人街だ。
鉄工と木工、アルケディウスを支える工房の多くがそこにあり、中央広場に屋台を出して作った品物を売っている。
ガルフの店の第一号本店は職人街の真ん中にある。
中央広場からはかなり離れているが、毎日行列ができるので他の店の迷惑にならないようにという配慮があったらしかった。
大神殿は中央広場からそう離れていない貴族区画に通じる大通りの横。
貴族門の程近く、神殿からもそう離れていない所に豪商や貴族用の四号店があって、最近は神殿の人間からも予約が入るという。
で、話はずれたけれども、神殿の程近く。大通りから少し離れた路地裏の目立たない場所にその工房はあった。
印刷ギルド。
アルケディウスで今の所ただ一か所『印刷』を行う場所である。
「邪魔をするぞ。店主」
「これはこれは。ライオット皇子」
事前に先ぶれを送っていたのだろう。
突然の皇族、皇子の来訪に特に驚く様子も無く、店主、もしかしたら工房長かもしれないけれど、立派な服を着た男性が出迎えた。
外見年齢50代。恰幅の良い男性だ。
「わざわざご足労頂くとは恐縮でございます。
かわいいお連れ様を同行されて」
皇子に店主が跪くと同時に私にも跪く形になる。正直焦る。
「植物紙がご入用でしたらいつも通りご注文頂ければ配達いたしましたのに、工房に直接いらっしゃるとは一体…」
逃げるように視線を逸らして私は部屋をぐるりと見回した。
印刷工房、という名前から私がイメージするような、大きな機械やインクの匂いはまったくない。
ごく普通の店舗に思えた。
私達がいるのは扉を開けて入ってすぐのところはエントランスで、少し行いった先の応接間にすぐ案内された。
清潔に掃除された部屋の中央には長四角のかなり広いテーブル。
木造りの椅子が何客か用意されていた。
壁沿いにはマガジンラック、というよりブックシェルフかな?
本の表紙を見せるように並べられた大判の本がいくつも並べられていた。
「あれは…植物紙の本?」
私の質問というより独り言に、男性が答えてくれる。
「そうです。羊皮紙の本は基本的に手書きで作られます。
この工房で、印刷という技術で作られている本は全て植物紙の本。
エルディランドから輸入した紙で聖典や、貴族向けの娯楽本、あとは貴族の方々の年鑑などを作っております」
「拝見しても?」
「どうぞ」
聖典の次は実用書や勉強の本では無く娯楽本なのか、と思ったけれどこの世界の大半を占めるのが既にある程度の知識を持ち立ち位置が決まっている大人なので、新しく本を使って勉強しようという気持ちはあまりないのかもしれない。
あ、あれティラトリーツェ様に見せて頂いた勇者伝説の本。
四人の仲間がポーズを決めているイラストが表紙に描かれている様子は現代日本の本みたいだ。
あ、でもよく見れば解る。これ活字印刷じゃないや。
全部ガリ版印刷だ。文字も手書き。
ということは、まだ活版印刷の技術はないのかな…。
ロウ原紙や道具が揃えば比較的手軽にできるガリ版印刷と違って、活版の活字印刷は道具を作るのが超大変だからなあ。
「本の販売もここで?」
「いいえ。聖典は神殿の注文を受けて印刷をしているので神殿で販売しております。
娯楽本は版がエルディランドからの輸入なので、専門の商会が貴族の方からの注文を受けて受注印刷。
販売もそちらが担当しています。ここにあるのは見本本のようなものです」
なるほど。
一冊が十万円クラスの本だもんね。
なるべく無駄は出したくないだろう。
納得。
「植物紙の輸入もここが一手に引き受けている。
現在、国の申請書類などは羊皮紙と植物紙が半々だな。
マリカ」
「はい!」
っといけないいけない。
ぼんやりと本に目をやっていた私はライオット皇子の声に意識を前に戻す。
大事な商談。
「工房長 こいつは食料品扱い ゲシュマック商会の店主名代だ。
今度、『食』がアルケディウスの主産業になることは聞いているな? その為の印刷物の発注をしたい、とのことだ」
「ゲシュマック商会 ガルフの名代で参りました。マリカと申します。
大貴族の方々に配布する重要書類の印刷をお願いしたく参りました。どうぞよろしくお願いします」
ライオット皇子の紹介を受けて、私は工房長と呼ばれた人物に丁寧にあいさつをする。
手を胸に当てて足を引き、深く頭を下げる。
同等の立場の者同士の挨拶だ。
本来なら子どもの身分を考えると私が跪くべきなのかもしれないけれど、そうすることは多分、紹介者の皇子や店の立場を潰す。
仕事の発注者で在り対等な立場だと、あいさつでしっかりと示しておかないといけない。
「これは…。ご挨拶が遅れ失礼いたしました。
私がアルケディウス印刷工房を預かる者。名をリブレリーと申します。どうぞお見知りおきを」
工房長の私を見る目が変わった。
ライオット皇子にくっついてきたおまけの子ども、から仕事を持ってきた商会の代表、に。
子どもだからと侮らないで、ちゃんと対応ができるあたりちゃんとした人だな、って思える。
「ありがとうございます。
では、早速、ご相談させて頂いてよろしいでしょうか?」
「もちろんです。どうぞこちらへ…」
促されるまま、私は長方形のテーブルの、長辺に座る。反対側に工房長。私の横にライオット皇子が付きその背後に文官さんがつく。
城でシュウが作ってくれた手提げのバックから私は原本を差し出した。
「発注する本は二冊。部数は初回各五十部。
一冊は図録でページ数は三十ページ。絵がメイン。
もう一冊は文字が中心の手引き書でページ数はこちらも三十ページになります」
今回印刷するのは昨日の会見で第一皇子から許可を貰った食品植物図録と、食品の納入マニュアルだ。
図録の方はガルフの店で運用している食品植物をギルが絵にしてくれたものに、リードさんの手で簡単な説明と食べる為の加工方法が書いてある。
そして、それを店に納入する為の基準と方法が書いてあるのがマニュアルだ。
麦の種類を分ける。野菜などはこの成長度よりも小さいものは出荷しない、などを思いつく限り、でもできるだけ解りやすく記載している。
せっかくの果物野菜を熟す前に収穫されたり、長く置きすぎて腐らせたりされたら無駄になってしまうから。
その辺を説明したら皇子は驚く程あっさり許可を出してくれた。
私は羊皮紙で作った原稿を差し出す。
「随分と大きな仕事になりますな。一冊の印刷だけでも五十冊となると支払いは金貨数十枚になるのですがよろしいですか?」
工房長は私を確認するように見つめる。
皇家の商会の仕事だ。引き受けないという選択肢はないと思うけれどもちゃんと支払いができるか、という心配はあるのだろう。
「問題はありません。羊皮紙で同レベルのものを作ろうと思うとどのくらいかかるか解りませんから。
ただ、可能であるなら早めに。最低でも三十部を秋の大祭までには仕上げて頂きたいと思います。
そして大貴族の方達が長く使う本になるので、厚い良い紙に、丁寧にお願いしたいです」
植物紙はざっと見る限りモノが和紙なので何度も読み返すマニュアルなどにはあまり向かないとは思う。
まあ、原本渡せば写すとかして下さるだろう。
多分。
「納期もなかなかに厳しい。これからエルディランドに紙と原紙を発注し二カ月。その間に…インクや印刷の準備をして、正直ギリギリかと」
「絵が多いのでガリ版でも版を作るのも大変ですものね。
最低、大貴族の方々が冬に領地にお戻りになる前にお渡しできる分ができれば、後はゆっくりでもかまいません」
「それなら娯楽本の印刷を少し後ろに回せばなんとかなるかもしれませんな」
図録の方は絵と文字が合わさった形でなので多分かなり手間がかかると思う。
ガリ版印刷の技術があって、絵も印刷できると解らなければ頼めなかった。
「手引書はゲシュマック商会の食材納品基準ですから、一般向けではないかもしれませんが、図録の方は今王都で話題となっている『新しい味』を作る為の食材の本ですから一般販売もできるかもしれませんよ」
「権利をお譲り下さる? と」
「勿論、タダではありませんが、こちらも難しい仕事をお願いするのです。勉強させて頂きますよ」
版を作るには手間がかかるのは解っている。
特にガリ版印刷は一枚一枚、専用の用紙を道具でガリ切りして作ることになる。
あまり大量印刷はできないけれど、ギリギリまで使ってなるべく多くの利益を得たいと思うだろう。
エサと言えば言葉は悪いけれども、工房にも得になることがあると思って貰った方がきっとやる気も出て来ると思う。
工房長の原稿を見る目がさらに真剣さを帯びる。原稿と空中と私。
視線が回っているのは原価や、手間、その他が頭の中を周っているからだろう。
「確かに、面白く、また魅力ある商材です。その辺は販売担当のフィラーク商会と相談してからお返事いたします」
「よろしくお願いします」
後はこまごまとした納期やその他を確認して、発注書を書いて依頼は終わりだ。
費用は聞いた通り一冊高額銀貨五枚ほど。
最終的には金貨五十枚くらいになると思われる。国からの補助もあるし、そんなに問題になる額じゃない。
「とても良い仕事をさせて頂けそうです。特に印刷についてのご理解がある方だと話が早くて助かります」
工房長さんがそう言ってくれたことにはホッとした。
余計な事は言うなと言われているので、印刷知識がある、とは言わないけれど、手続きの待ち時間。
「こちらの印刷工房は紙も、娯楽本の版も全て輸入なのですね。この国独自で紙を作ったり、本を作ったりしよう、などということはないのですか?」
ちょっと気になることを聞いてみた。
「紙は製法その他を教えて頂いておりません。あくまでここは印刷工房ですから。
原紙などは譲られておりますし、こちらで新規の本を作ることは禁止されているわけではないのですが、新しい本を書けるような作者がいないというのが正直なところですね。
ですからアルケディウス独自で本を作れるのは初めてで嬉しいですよ」
なるほど。
本の作成のそのものが禁止されているわけではないのなら、作者がいれば本を作るのはいいんだよね。
「では、今後も本の作成をお願いしてもいいでしょうか?
それから植物紙を購入したいです。定期的に、なるべくたくさん」
工房長さんが眼を瞬かせながら私を見た。
「本の発注と、紙の輸入、ですか? 紙一枚で初期に比べるとかなり安くなってはいますがそれでも少額銀貨一枚はしますよ」
「問題ありません。ゲシュマック商会は『新しい味』を皇国のみならず、世界に広めることを目的としておりますので。
あと今まで木板や羊皮紙を使っていた事務に植物紙を使うことも検討したいのです」
紙は欲しい。とにかく欲しい。
今までかさばる木の板に書いていたレシピや勉強に紙を使えたら凄くやりやすくなる。
国交の問題さえなければ自分で作りたいくらいだけれど、今はとりあえず自重する。
「こちらも商会とエルディランドの販売元に確認しても良いでしょうか?」
「勿論です。良い返事をお待ちしています」
工房長の言葉に頷いて取引はとりあえず終了となった。
「マリカ。紙と印刷にも知識がある、と言っていたな」
店に戻る帰り道、工房でほぼ無言、聞き役に徹していたライオット皇子が私にそんな問いを落とした。
「料理程詳しくはありませんが…、製紙の製法の基本くらいなら…」
周囲に人影なし。お付きの文官さんは契約書類を持って先に帰った。
私は頷いて見せる。
「紙はアルケディウスで作れるのか?」
「柔らかい木が製紙には向いているので適している、訳ではないですができる可能性はあると思います」
「後で詳しい話を聞かせるように」
「はい」
やっぱり、中世で製紙業は国を動かす話になるか。
皇子の言葉に私は唾を飲み込む。
あくまで私達が紙や本を必要とするのは情報の維持伝達の為。
どうするかは皇子にお任せしよう。
「それから、解っていると思うが絶対に洩らすなよ。情報は身を護る武器にもなるが狙われる原因にもなる」
「はい」
そんな会話で真剣になった私は随分後まで気付かなかった。
ガリ版印刷。
正式には孔版印刷、謄写版印刷と言われる印刷方法の日本独自の俗称が、何故通じたのかを。
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