私は、リオンの前世の名を知らない。
前世の名は『リオン』ではないと聞いていたけれど真実の名を聞いたことは無かった。
前世を知るお父様。勇者の仲間。
戦士ライオットも城の守護精霊エルフィリーネもリオンの事を「アルフィリーガ」と呼ぶ。
だから、エルフィリーネやシュルーストラムは知っているかもしれないけれど。
リオン自身が誰かに伝えたのでない限り、生きている人間は誰もリオンの事を他の名では呼べない筈なのだ。
「マリク。こちらへ」
「はい」
目の前に立つこの人はリオンをそう呼んだ。
リオンはその名に抗わず、何かを噛みしめるように頷くとその歩を進めた。
彼の前に。
一切の抵抗なく。
彼の紡ぐ単語が本当に、リオンの前世での『名』なのだとしたら。
『マリカ』は私の前世からの名。
リオンがくれた、大切な人。
精霊国 エルトゥリア女王の名。
『マリカ』と『マリク』
どこからどう見てもどう聞いても、一対として設定された名前としか思えない。
意味を持つ『マリカ』の名前があり、その男性形がきっと『マリク』としてリオンに与えられたのだ。
その意味は…。
「ここに来て…見えますか?」
彼はスーダイ様の天蓋付きベッドの横に立つと、紫の薄布をそっと手で持ち上げた。
「マリカ様、もしよろしければ『精霊の貴人』のお力をお借りしたいのですが」
「あ、はい…」
私も訳の分からないまま、彼の促しに従ってベッドサイドに向かう。
そこには荒い呼吸で横たわるスーダイ様がいる。
「王子はまだ、完全に魔性の力に屈服した訳ではない。
魔性は王子の力を喰らいきってはいない。
だから、魔性を移動させ、外に引きずり出しなさい。
貴方なら、それが出来る筈です」
「はい」
彼の指示、命令に何の疑問も口にすることなく頷くリオン。
何も知らなかったら、暗示にでもかけられているように感じるかもしれないけれど、リオンの目には虚ろなものはない。
むしろ、絶対の信頼と喜びがある。
ただ、今はそれを口に出したりしない。
胸の内を、紡ぎたい言葉を噛み殺し、敬愛の籠った目で彼とやるべき事を見つめているだけだ。
「マリカ様。
王子の身体に触れて祈って下さい。
力を使おうと意識しないで構いません。
ただ、王子の中にいる虚ろな存在を見るようなつもりで容を与え、出て来いと、願う、いえ命じるだけでかまいません」
「解りました」
私は彼の言う通り、ベッドサイドに膝を付き、王子のぷっくりとした手を取ると両手の中に握りしめた。
目を閉じて集中すると、不思議な事に王子の身体の中の異物感が『解る』
怪しい何かが確かに、王子の中にいる。
これが、王子を苦しめているもの…
(王子の中から出ていけ。そこはお前の居場所じゃない!)
目を閉じて渾身の思いで祈ると、確かに靄のようだった虚ろな存在が、身体の中に実像を結んだような気がした。
「マリク、エルーシュウィンを」
「はい」
リオンは守り刀を取り出して、スーダイ王子の寝間着の胸元をはだけさせると静かに突く。
首の真下、心臓の丁度真上を。
傷つかない筈の不老不死者の身体からぷっくりと、紅い命の証、血がにじみ出る。
針の先程の小さな傷。
そこにリオンは手を当てて『命じた』
「…姿を持たぬ闇の精霊。
『王』の名に懸けて、我が前に移りその姿を示せ!」
小さな呪文詠唱は、後ろで固唾を飲んで見守るフェイやカマラ達には多分、聞こえなかっただろう。
でも、私には『聞こえた』
「あっ!」
リオンの呼び声に従う様に、スーダイ様の身体から何かが立ち上って、はっきりと容をとる。
『ぐ…ぐあああっ!!』
と言っても、まだ靄のような実体のないもので、宙に浮かび私達に襲い掛からんと臨戦態勢を取っているようだ。
けれど、それでも『これ』なら、リオンは倒せる。
間違いなく。
「アルフィリーガ!」
「はい!」
彼の声にリオンは背筋を伸ばし剣を構える。
揺ぎ無い、迷いのない眼差しで敵を睨み付け
「これで、終わりだ!」
飛びかかって来る靄に短剣を一閃。
それで、本当に、終わっている。
『ギャアアアア!!』
響く音では無い断末魔と共に、靄はかき消す様に、解ける様に消失していた。
「あ、スーダイ様は?」
スーダイ様を見れば、さっきまでと比べれば格段に呼吸は落ちつき、顔色も良くなっている。
「良かった…」
「…どうやら、第一段階は無事に終わったようです。
良くやりましたね。アルフィリーガ…」
「はい…先生」
「先生?」
ポンポン、とまるで子供をあやす様に褒めるように頭を撫でる彼を、泣き出しそうな顔でリオンは見つめる。
ううん、本当に泣いてる。
溢さないように懸命にこらえながらも、その頬には煌めく雫が零れていた。
リオンのこんなにはっきりした涙を見たの、初めてかも知れない。
そんなリオンを少し困ったように見下ろすと、彼はもう一度頭を優しく撫でて。
それから一歩、後ろに下がり私の前に跪いたのだ。
「お久しぶりです、とかそんなご挨拶が相応しいかどうかは解りませんので改めまして。
マリカ様。
尊き我らが女王
『精霊の貴人』」
優しい笑顔で『自己紹介』をする彼。
「エルディランドの騎士貴族 ユンを名乗るこの身の前世の名はクラージュ」
「え?」
「精霊国 エルトゥリア騎士団長 クラージュ。
五百余年の時を経て、女王陛下の御前に、再び罷り越してございます」
私の手を取り、指先に口づけ微笑む。
その仕草はユン君と同じだったのに、本当に、全く、完全な別人の顔をしていた。
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