何故、世界はこんなにも美しいのだろう。
萌ゆる碧の山並み、流れる水のせせらぎ、実り育む豊かな大地。
人々に力を授ける炎の紅、柔らかな風の音も、営みを照らす光も。
安らぎを与える濃紺の夜でさえも眩しい程だ。
『星』と『精霊神』が育み育てた輝けるアースガイア。
『神』は
「誇りと願いを忘れた劣化コピーだ」
というけれど、私はそれでも輝かしい程に美しいと思う。そこに生きる子ども達と共に。
「リオン!」「リオン兄!」「リオン兄様」「リオン様」
ああ。眩しすぎて目が眩む。
心底邪魔だ。消し去ってしまいたい。
それなのにあいつをエミュレートすることを止められないのは何故だろう。
『幸せだった自分ではない自分の記憶』
認められ、愛され、誰かと肩を並べて歩む。
自分のものではない輝かしい日々の思い出など邪魔なだけだというのに。
「リオン。起きて下さいますか?」
私は『魔王』マリク・ヴァン・ドゥルーフ。
自分ではない自分を呼ぶ声と共に暖かい寝台で目が覚める。
今は、この身体が16年生きてきた名前。リオンとして生きているのだからやるべこことは為さねばならない。
私は寝台から身をゆっくりと起こした。
人が寝台を使って眠るということは知ってはいた。
だが体感してみるとこれは実に具合がいい。
安心できる場所で身体を横たえ、休息するということがここまで高効率の疲労を除去するとは、やってみて初めて知った。
情報のデフラグもスムーズに進む。
「マリカは不在ですが、今日はフリュッスカイトとプラーミァとの警備の打ち合わせがあります。
起きて準備して頂けると幸いです」
「解っている。今起きる」
魔王城にいたころは玉座が私の寝所であった。
あの王座に座ることで、私は『神』の声を聞き、自分自身の役割を再確認していた。
城には玉座以外に人が生活に使用するものは何もなかったことを思い出す。
豪華な城はあくまで人の城の容を真似ただけ。
使う人間がいないのだから当然なのだが。
顔を洗い、用意された服を身に纏う。
人間の生活は不便なところも多い。
魔王時代は衣服の着替えなど必要は無かったのだが。
しかし、それでも悪くないと思う。
人の生活は。
「おはよう、リオン兄」
「今日の食事当番はアレクだよ。スープがとっても美味いんだ。
パンは、アル兄が焼き立てを届けてくれたから。食べてみて」
「あ、ああ、ありがとう」
自分にかけられた曇りのない挨拶。
差し出されるスープのぬくもりと焼き立てパンの香ばしさ。
そんな必要の無いものにこそ価値があるのだと、ちぎったパンを口に運びながら私は感じていた。
食事の後、私は大神殿の仕事に入る。
神殿の護衛騎士団長として警備の指揮を執り、他国に派遣される『聖なる乙女』マリカの安全を守るのが、とりあえずの私の仕事だ。
『来週からは『聖なる乙女』プラーミァに訪問に行かれると聞いたが、どの程度滞在されるご予定か?』
「一週間程だろうと思われる? 新機帆船の進水式を行う目途は?
できれば風の月の早くにして欲しいのだが」
今、行われているのはフリュッスカイト大公との通信鏡会談。
マリカ。『精霊の貴人』を守る上で重要な話し合いだ。
「マリカ皇女、いや。大神官に参列して頂けるのであれば必ずそれまでに間に合わせよう」
フリュッスカイト大公メルクーリオは決意の眼差しを瞳に浮かべていた。
「進水式から、試験運転の開始まではどの程度かかる見込みですか?」
私の横からフェイが問いかける。
それは、私も確認しておきたいところだった。
『一週間ほどになるだろう。本格的な秋になる前に世界一周を成功させたいな。
勝算はある』
「機帆船は外洋に出す予定はまだないのか?」
『いずれは外洋探検も視野に入れたいが、当分は無理だろうな』
「そうか……」
では、やはり海から『帰る』のは難しいか。
私は知らず息を吐きだしていた。
会議を終え、静かになった通信鏡の間で、私は目を閉じていた。
やはり、こうして『魔王』として蘇ったが、今の私には『神』の声が聞こえない。
ここは『神』の神殿。
マリカは巫女にして大神官であるというから期待したのに、直通経路はことごとく封じられていた。
『精霊神』の差し金か。はたまた『神』が攻め込まれる危険性を考慮して封じているのか?
体内に与えられた『神』の力も補給ができない。
現状『私』を維持するのにギリギリだ。
早く『神』の元に戻らねばという思いが胸を支配しているのに、その方法が与えられていないのがなんとももどかしい。
新型の機帆船が実用レベルに達しているなら海から物理的に戻るという手もあるが、これはまだまだ難しそうだ。
まったく『神』はこの孤立無援の状況下で私を目覚めさせて、何をやらせようとしているのか?
早く迎えに来てくれれば、島に戻り、玉座の力を借りて魔王として復帰。
.魔性達を掌握し『神』との経路を復活させることもできるのに。
正直、私は焦りに支配されている自分を感じていた。
早く戻らなければ。
そんな思いが強く自分を支配する。
だが、一方で、戻りたくないと思っている私がいることも理解していた。
『リオン』の残滓だろうか?
怪しまれないようにリオンを模倣すればする程に、ここで生きていることが楽しくなるのだ。
楽しいという感情が自分にもあることを初めて知った。
いや、違う。
楽しいという思いを持っていい事を始めて知ったのだ。
『魔王』時代。
『神』は私に繰り返し告げていた。
『人間は、外の敵があれば団結できるが、敵がいなければ敵を作ってでも相争う生き物だからな』
この『世界』は『星』と『精霊神』が造ったもの。
平和で、実り豊か。
『精霊の力』に守られ、普通に生きていくのであれば不自由はない。
けれど、それに甘え子ども達は、他人を思いやる心をわすれかけている。と。
『こんな世界に、私の子ども達を放つことはできない。
お前は子ども達を成長させ、世界を安定させる為の『悪役』であれ』
『はい』
その役割を果たすことに疑問は無かった筈なのに。
いつから、私はこんな不安定な存在にってしまったのだろうか?
やはり、一度斃され、初期化されたせいだろうか?
記憶を消去され、初期化された筈なのに、最近、不思議と色々な事を思い出す。
『もし、何かが変わっていたら。貴方と私は共に生きる運命があったのでしょうか?』
彼女はよくそう言っていた。
『神』以外で唯一、私と会話した者。
『星』の代行者『精霊の貴人』
命のやり取りをする真剣勝負の中、会わせる剣に思いを乗せて。
『そんなことを考えても無意味だ』
ああ、私はそれにいつもそう応えていた。
『神』の他の者と命令以外の会話ができる時間にいつも心が騒いだことを思い出す。
『我々は、所詮、作られし者。人の為の道具に過ぎないのだから』
『確かに、そうかもしれません。
けれど、道具であろうともこの芽生えた感情は、私のもの。
そしてあなたのものであっていいと、私は思うのです。
貴方を幸せにしたい。いいえ。一緒に幸せになりたい。と』
彼女は楽天家だと、そう思った。
幸せになる権利など、ただの道具に在る筈も無いのに
自分達の役割は人々を幸せにする。それだけだというのに。
ああ、彼女に会いたい。
『精霊の貴人』私と唯一、同じ生き物。
彼女を腕に抱き、共に魔王城に戻れば、この言葉にできない焦燥は収まるのだろうか?
マリカに通じる小型通信鏡に手を伸ばす。
彼女が今、いるのはおそらく『精霊国エルトゥリア』
『星』の本拠であるが故に、私の正体を知るマリカは巧みに私の来訪を妨げている。
でも、この身体は座標を知っている。
通信鏡、精霊の力で経路が繋がれば転移も不可能では無い気がする。
勿論、大聖都や国を阻む結界を飛び越えるのはただでは済まないだろうけれど。このイライラした思いをいつまでも抱えているよりはいい。
けれど伸ばしかけた手を
「ダメですよ。マリク」
静かな鈴を鳴らす様な声が私を止めた。
誰だ、などと誰何の必要もない。
「フェイ」
私の、いや、リオンの魔術師にして大神殿神官長。
フェイがそこに立っていた。
私を諫める、教師のような眼差しで。
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