とろりと、滴る極上のオリーブオイル。
エメラルドを液体にしたような美しさがあって、見ているだけでうっとりする。
少しのゴミも浮いていない向こうで言うなら最高のエクストラバージンオイルのさらにその上だろう。
化粧品用。貴婦人が肌に付けるものだもの。
最高の技術と努力の結晶だと解っている。
料理にも使いたいけれど、これを使って今度こそ口紅が作れないだろうか。
私はそんなことを思った。
唇に触れる。
私の身体は子どもで、まだお肌も唇もピチピチだけど、冬になって少し乾燥してきている。
肌荒れや手荒れもあるので、ティラトリーツェ様達用に買ったクリーム、私の分も買えば良かったなあと思っているくらいだ。
前ほどではないけれど、まだほんの少し悪寒の残る唇もかさついている。
この世界の化粧品については何度か着付けとかをして貰っているうちに解ってきた。
というか、実は殆ど何もないのだ。
不老不死で身体は基本衰えない。若い女性はお肌ピカピカのまま保存される。
だから、殆どほったらかし。
やって髪にオイルを塗って艶を出すとか、牛乳を入れてお風呂に入るとか、卵で肌や髪をパックするとか。その程度だ。
だから、夏にフローラルウォーターと、シャンプーで大騒ぎになったわけで。
美を求める女性の想いは万国共通。
そのままでも美しくても、もっと美しくなりたいと思うのは人の常、なのだろう。
ハンドクリームを貴族の女性が採りあうくらいに求めているのなら、化粧水、美容オイル、口紅はかなり需要が出そうに思う。
実際、フローラルウォーターの化粧水は皇族女性を虜にした。
金属粉末を使って作るファンデーションとかは無理でも、オリーブオイルが手に入ったのなら、フリュッスカイトの業者と競合しない範囲で化粧品とかクリームを作ってみてもいいのではないだろうか?
一番作ってみたいのは口紅だ。
アレ以降、特にそう思うようになった。
欲しいのはとりあえず欲しいのは蜜ろうと染料…。
「ティラトリーツェ様に、相談、かな?」
私が興味と知識のままに何か作るといつも大事になる。
材料入手をシュライフェ商会に頼む為にも、まずは連絡を入れた方がいいかもしれない。
そろそろ王宮に行く時間でもあるし。
私は皿に出したオリーブオイルを唇に塗る。
まあ、気休めだけど。唇を守る武装のような感じ。
残りに蓋をして、大事に鞄の中に入れた。
「マリカ! その唇はなんですか!?」
大祭後の最初の調理実習。
第三皇子の隠し子という設定が広まった始めての席で、私はプレゼンテーションの為に、フリュッスカイトの商人が置いて行った一般用のオリーブオイルを使った料理を出すことにした。
ラタトゥイユと、牡蠣のアヒージョ、ブイヤベース。
オリーブオイルが無いと作れない。
でもいいオイルが手に入れば間違いなく美味しい三銃士だ。
皇王妃様達もとても喜んで下さったから、フリュッスカイトの商人がオイルを持ってきた時の振る舞いに使おうと決めたのだけれど。
「はい?」
その前、料理の説明に出た時に第二皇子妃メリーディエーラ様に睨まれた。
皇子の娘になった私は、皇子妃様達には義理の姪、皇王妃様には義理の孫という立場になったので、前より少し気安い感じがする。
少し硬くなりながらも、変わらない笑顔で受けれてくれた料理人さん達と合せて凄くホッとしたのだけれど。
突然怒りだしたメリーディエーラ様の怒りの意味が解らず、私は首をかしげてしまう。
「そのツヤツヤと光を放つ唇はなんですか? と、聞いているのです」
「えっと、ちょっと最近空気が乾燥していて唇が荒れてたので、オリーヴァの油を保湿に塗っていますが…」
そんなに目立つのかな?
「オリーヴァの油を塗ると、唇の保湿になるのですか? そしてそのように唇が艶を帯びる、と?」
「今日の料理はオリーヴァのオイルをメインにしましたので、多分皆様方の口元も潤っているのではないかと思っておりますが」
私に言われてメリーディエーラ様は唇に手を当てる。
「確かに、しっとりとしていますね。艶やかにもなっているのかしら?」
「普通に比べると、多分多少は。オリーヴァの油は身体にも良いので食べ過ぎなければ、美容にもかなり効果があると思います」
「まあ、それはステキね」
美容に目が無いメリーディエーラ様だけではなく、他の女性陣も目を輝かせる。
やっぱり不老不死でも美に関する思いは万国共通だね。
「新しくオリーヴァの油についてフリュッスカイトとの取引も決まりましたので、多分、来年からは色々と料理にも使えるようになるかと思います。
あと、蜂蜜や植物油を荒れた時に唇に塗ると、艶が蘇るようです。
不老不死の皆様にはあまり必要のない事かもしれませんが…」
「いいえ、面白い話を聞けたわ。ありがとう」
矛を下ろして下さったメリーディエーラ様に私はホッと胸を撫で下ろしたけれど…。
うっ。
ティラトリーツェ様の視線が痛い。
これは気が付かれたかも。
まあ、元々お話して協力を仰ぐつもりだったからいいんだけどさ。
そうして、調理実習を終えて第三皇子の館。
「で、マリカ。オリーヴァの油の他の使い方とは何です?」
「え? 私そんなこと言いましたっけ?」
「とぼけない。料理『にも』と言ったでしょう? ということは料理以外の使い方を考えている、ということでは?」
「…はい。その通りです」
ティラトリーツェ様は、流石。
私の行動パターンを読み切ってる。
「何をするつもりなの? まさか、フリュッスカイトの美容品を再現できるとでも?」
「ヘアオイルとかはともかく、石鹸やクリームは無理です。
ただ、オイルを唇の保湿に使ったのの応用で、唇を保護して艶と色を出す口紅が出来ないかなとは思っています」
「作り方は、知っているの?」
「はい。ただいくつか材料が必要なので、シュライフェ商会にご紹介いただきたく…」
「いいでしょう。ただし実験はここでやりなさい。私の見ている前で」
「解りました」
「何が必要なのです?」
そうして私はいくつかの品物をお願いした。
細かい道具は自分で用意しよう。
翌々日。
材料をもってシュライフェ商会のプリーツィエ様がやってきた。
「ご注文の品物が届きましたのでお届けに上がりました」
「ありがとうございます」
頼んだ品物を確認する。
蜜ろうと染料。OKちゃんとある。
「はい、大丈夫です」
と品物をうけとったのだけれど…プリーツィエ様は帰ろうとはしない。
なんだか、興味津々の眼差し。
「あの…。もう大丈夫なんですけど」
「その材料を使い、マリカ様が何をするか、とても興味がございます。作業のお手伝いをさせて下さいませんか?」
「ダ、ダメですよ。まだ実験品ですし、上手く行けば多分、また金貨の取引になる品ですよ!」
「であればなおの事、他所に取られる訳には参りません。
皇女様のご提案の品、蜂蜜シャンプー、花の水、エプロン、コックコート。
どれも商会の売り上げ増加に大きく貢献しております。どうか、この品物も市販の際にはどうかシュライフェ商会に…」
なるほど。
その為に、ただのお届けにプリーツィエ様を派遣してきたのか。
「どうしましょう。ティラトリーツェ様」
「気付かれてしまったのなら仕方ありません。材料の仕入れにも伝手がいるようですし、シュライフェ商会がこれを売り出したい、という時には蜂蜜シャンプーと同格の契約を行って後、ということにしてもらいましょう。良いですね。プリーツィエ」
「はい、かしこまりました」
「シュライフェ商会も、一時の儲けに目が眩み、皇子妃の専属や今後マリカが生み出すかもしれない新商品の知識から遠ざかりたくないでしょうから」
「もちろんでございます。皇子妃様と皇女様の信頼を裏切るような事は致しません」
ティラトリーツェ様の目に見えない圧力に静かに頭を下げるプリーツィエ様。
なら、お手伝いして頂こう。
「では、始めます。火を使うので台所へ」
私達は台所に移動すると、料理人であるカルネさんに頼んでお湯を沸かして貰った。
そうして湯煎にした小さな陶器のボウルに、大よその量を計ったオリーブオイルと、蜜ろう、それからプリーツィエ様が用意して下さった赤染料を混ぜる。
「この赤染料って何で作っておられます?」
「今日、持ってきたのは花からですね。もう少し鮮やかな色に染めるときはムシから採れる染料を使う事もありますが。植物や鉱物を粉にして染料を作るのです」
この辺は向こうの世界と同じだなあ、と思う。
因みにムシから赤染料が採れると聞いてティラトリーツェ様は顔を顰めたけど、私はあまり気にしにない。向こうの世界でも赤染料のコチニールはカイガラムシから採ってたもんね。
そして、溶け切った所で秘密兵器。
夏に採取して大切にしておいたローズ…ロッサのエッセンシャルオイルを一たらし。
台所が一気に春の香りに包まれる。
「わあっ! な、なんでしょう。これは?
豊潤な花の香りがこんな冬に?」
プリーツィエ様が目を見開いた。
「以前、お売りした花から生まれる香りの水の副産物、というか普通はこの濃縮油を作る過程で香りの水ができるのですけれど、花の香り成分を集めて凝縮させたものです」
「このような品があるなら、夏の時期に教えて頂く事はできなかったのでしょうか?
お教えいただいた香りの水は、夏の間の大人気商品となっていたのです」
フラワーウォーターは需要が高かったけれども、夏の花期しか作れない上に長期保存が効かないので販売展開が難しかった、というプリーツィエ様の目が、私の秘密兵器を前に輝いている。
「製法が難しい上に、使う機械が特殊なので…。しかも二百個の花から小さなスプーンに一杯、採れるか採れないかくらいの貴重な品なんですよ」
「それは…。来年用に拡大確保した花は、有効に使わないといけないですね」
特殊なコイルガラスがないと蒸留器は作れないので、一般に売りに出すならフリュッスカイトの技術者の協力が必要だ。
とそんなことを考えている間に滑らかに溶けた油を私は、小さなハマグリのような貝の器に流した。
口紅タイプにもしてみたかったけれど、この世界にはシリコンもプラスチックも無いから仕方ない。昔のお江戸の貝紅風で。
少し待って固まれば出来上がり。綺麗な紅色になっている。
「これで、できあがり。リップクリーム…口紅、です」
「口紅?」
「こうして、唇に塗るんです。実習の時に言った唇の保湿と、艶を出し色鮮やかにするのが両立できる優れものですよ」
私は実際に指にとってやって見せる。指についた油を唇に滑らせて。
口紅つけるの向こうぶりだなあ。
「こんな感じです。どうでしょう?」
唇を舐めて表面を滑らかにして、くるりと、振り向いた私の目に映ったのは、不思議に血走った目の貴婦人達。
何、なんだか怖いんですけど。
「マリカ!」
「は、はい!!」
「なんでそれを、今まで黙ってたの?」
ティラトリーツェ様が目を剥くけど、こればっかりは仕方ない。
「え? だって、上質の油が手に入らないと作れない品なんですよ。この間の大祭でフリュッスカイトからオリーヴァの油を手に入れて、やっと作れるかな、って思ったところで…」
「マリカ様、上司と直ちに相談してまいりますので、どうかこの口紅の製法は他者にお売りにならないで下さいませ。ガルナシア商会は勿論、フリュッスカイトにも…」
跪くプリーツィエ様の目も真剣を通り越して必死さが浮かんでる。
「なんです? そんなに売れそうだと思うのですか?」
「勿論です。美しい唇と肌は美女の証のようなもの。
これほどまでに艶やかで、明るい色合いの唇見たことがございません。まるで花が咲いたかのよう。
これが世に出れば老若問わず女性には求められること請け合いです。しかも色のバリエーションを付ければ商圏は無限に広がるでしょう」
「期間限定の香りの水よりも、欲しがるものは多いと思いますよ。手軽に作れるし、利用も配布もできる。一度使えば手放せないし、香りの付加価値をつければ上流階級の貴婦人を蜂蜜シャンプーと同格かそれ以上に虜にするでしょう」
まあ、言われれば向こうの世界でもエジプト時代から口紅でお化粧した女性はいたというし、どの時代でも廃れず現在まで伝わってきたお化粧の技術というものは、やはり女性を魅了して止まないのだろう。例え不老不死であろうとも。
というわけで口紅はシュライフェ商会との契約の後、アルケディウスの女性陣に献上された。私の立ち位置確保の為、そして、口紅の発案者としての地位を確立する為、貴婦人達を味方にしておいた方がいいというのがティラトリーツェ様のご提案だったのだ。
皇王妃様も、アドラクィーレ様もビックリして、でもとても喜んで下さった。
「美容系の情報はティラトリーツェよりも先に知らせなさい、と言ったのに」
渋い顔もされたけどメリーディエーラ様は特に口紅に大喜びで、社交シーズンが終わっていたことを凄く残念がっていた。
艶やかな唇。
見せびらかしたかったよね。うん。
そんなこんなで、第一陣のオリーブオイルがフリュッスカイトから届き、彼らに料理や口紅でその有用性をプレゼンテーションしたりしている間に、アルケディウスの秋、空の二月は終わり、冬がやってきた。
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