目覚めて、最初に気付いたのは甘く、優しい花の香だった。
レヴェンダの、思い出の香り。
ゆっくりと開いた瞳に天井よりも先に映ったのは暖かな笑顔。
「え? お母様?」
思わず飛び起きた私の前に柔らかく上がった薔薇の唇。
春の泉のように静かに煌めく水水晶の瞳。
森の中にいるような優しい気持ちにさせてくれる胡桃色の髪。
どれをとっても大好きなその色を、全て併せ持つただ一人の女性は
「おはよう。マリカ。驚かせてしまったかしら?」
そう言って静かに笑う。花のように。
「お母様、どうして大聖都に?」
「貴女が、大聖都で倒れ、意識を失ったと聞いていてもたってもいられなくなってしまったの」
お母様は私の頬に触れながら申し訳なさそうに微笑する。
「子ども達を置いてくる訳にもいかなかったから、最速、という訳にはいかなくて、結局なんの役にも立てなかったけれど。ごめんなさいね」
「いえ、そんなことはないです。とても、とても嬉しいです。お母様に会えて」
その言葉は正直な気持ちだった。
心に決めた一つの結論。
できればそれを最初に伝えるのはお母様にしたかったから。
「お母様」
「なあに。マリカ?」
「私、大聖都の大神官になろうと思います」
「……そう」
多分、色々な事情はもう既にご存じだったのだろう。
お母様は特に驚く様子もなく、声を荒げることもなく、私の話を静かに聞いて下さる。
湖沼の水面のように静かな瞳はどこか吸い込まれるようで……
「私、やっぱり『星』に作られた『精霊』だったみたいです。
私には、期待された何か役割があるようで……『神』は自分の元に来て道具になれ。そうすれば苦しみも悲しみも感じずにすむって……」
私は騒動続きでまだお父様や皇王陛下はおろか、リオン達にも告げていない『神』に囚われていた間の事、そしてたった今見た夢。『精霊神』様との会話まで、全てを話していた。
「……というわけなので、アルケディウスへの圧力を減らす、ということは勿論なんですけれど、大神官と神官長。二つの柱を失った大神殿を放ってはおけないかなって思ったんです。
お飾りかもしれないですけれど、私が立つことで、神殿が一つに纏まって、人々の心のよりどころになればいいな。って」
「それだけ?」
「え?」
「大神官になる理由はそれだけですか? と聞いています」
この時、私は自分の事を話すのに精いっぱいで、お母様の表情を見ていなかった。お母様の顔は静かで決して怒りや他の感情で高ぶったりはしていない。でも明らかに納得のいっている様子ではなかった。
「大神官になるのが、皆の為、アルケディウスの為。というのは解ります。
ですがそれだけが理由で、貴女が自分のやりたいことや思いを我慢して、我が身を犠牲にして、と言うのであれば私は許しません」
「でも……他に選択肢は……」
実際問題として、外堀は既に完全に埋められている。リオンとフェイの正体も知れ、アルケディウスにこのまま戻ればアルケディウスは厳しい立場に置かれることになるだろう。
いっそ、アルケディウスがそれらの有利条件を笠に着て、他国に隷従を迫るような国であれば簡単だったのかもしれない。けれどそうではないし『精霊神』達が復活している今、そんなことをしたらかえって懲罰対象になりそうだ。
大神殿にしても、神官長を失い、今が全てを牛耳るチャンスなのに、トップに立つのは怖い。変わりたくない。今の地位とあり方を失いたくはない。そんな司祭達に任せておけば確かにマイアさんの言う通り、神殿というシステムが崩壊するだろう。
そうすれば神殿関係の職に就いている多くの人達、大神殿の需要で成立している大聖都。
不老不死を与えた『神』を無垢に信じ、心のよりどころにしている世界中の人達が路頭に迷うことになる。
不老不死を解除し、正しい命の理を取り戻すのが『星』の願い。私達の目標ではあるけれどそれで、多くの人達が苦しむことになっては意味が無い。
「そうね。他に選択肢が無いのは確かでしょう。でも、それを『自分の役目だから』『自分を犠牲にして』なんて思うのは貴女らしくないと言っているのです。そんな後ろ向きな思いでは何も救う事はできないでしょう?」
「え?」
「今までの貴女だったら、アルケディウスの神殿長を拝命した時のように。神殿を変える。いいえ、世界を変えて子ども達を救ういい機会だ。とそう言っていたのではないかしら?」
「あ……」
お母様に言われて、私は目から鱗が落ちた気分だった。
私が神殿を変える?
そうだ。夢の中で『精霊神』様にも言われたけれど、私が大神官になれば大神殿の行事や在り方をコントロールすることも可能なのだ。
「アルケディウスの神殿改革は上手くいっているのでしょう? それを大神殿大神官という上の立場から改めて流し直して、各国の神殿も変えていくことはできないのかしら?」
「できる……と思います。私、一人では難しいかもしれないけれど……」
「各国はフェイとリオンを離せ、とは言っていません。むしろ貴女の側に置け、と言っているのでしょう? 新しい食を使って餌付けをしていくのであれば、ゲシュマック商会を通してアルを呼ぶのも難しい事では無い筈。
貴方達四人が揃うのなら、大抵のことはやり遂げてしまうと私は知っていますよ」
「は、はい。私が使うのであればフェイは転移術も使えるし、あ。大聖都が所有する転移陣も自由に使えますか?」
「そうね。誰にでも自由に使わせるのは難しいことでしょうけれど、少なくとも貴女が各国に行くとき長い間馬車に揺られていかなくても済むのではないかしら?」
転移陣を使っていいのであれば各国の『精霊神』様達に私が直接、力を送ったりすることもできる。
『精霊神』様が力を取り戻せば、各国の力も上がり、生活も豊かになるかもしれない。
国全体が豊かになれば、各国の子ども達も生き易くなるし、保護の手も行き届きやすくなる。
各国との通信会議や技術交換も密にできるかもしれない。
今はアルケディウスにある諸国との直通連絡用の通信鏡を大聖都に置いて、相互通信の仲介をすることも……。
「多分、お兄様もそんな意図をもって貴女を大神官にと要請したのではないかと思うの。
貴女であるのなら、各国の仲介役を務められる。
信用できる。国を、大陸を良い方向に導いてくれる。と」
世界七国全てに繋がる『神』のネットワークを魔王が乗っ取ってしまえということか。
考えてみれば美味しい。確かに、かなり美味しい。
私の目が輝き、計算を始めたのを見てくすっ。と小さく笑みが弾けた。
「やっと、貴女らしい顔が戻ってきたかしら。
私は自分が犠牲になれば、なんて押し殺したような貴女の顔は見たくないの。
最初に会った頃。私の前で朗々と子どもの保護や砂糖の取引について語り、世界の環境を整えると告げた貴女の目が、思いが好きなのよ」
「お母様……」
お母様の手が、私の頬に触れる。
心配のかけどおしだから、かな?
一緒に手を繋いで街を歩いた時よりも指が細くなったような気がするけれど、暖かさは変わらない。包み込むような優しさも。
「貴女が決めたことにとやかく言うつもりはありません。
ただ、やると決めたのなら徹底的にやりなさい。それが貴女でしょう?」
「はい」
お母様の言葉に私の前が急に明るくなった気がした。
大聖都の大神官に括られる。自由を奪われる、と思っていたけれど、逆に無限の自由を私は手に入れられるのかもしれない。
「前にも言いましたが、私にとっては貴女が精霊であろうと、魔王であろうと何も変わりません。
貴女は貴女らしく、自分がやるべきだと思う事をしなさい。
私達の愛しい娘、マリカ。それをきっと貴女を生み出した『星』も望んでいる筈ですよ」
「そうでしょうか?」
「『星』が貴女の親であるというのであれば同じだと思います。
子どもを愛し、親になろうとした時、親になる。というのが貴女の持論。
貴女という存在を生み出し、自由を許してくれているのですから」
「はい……」
私は『星』の『精霊』。
心のままに生きることが『星』の願い、だとエルフィリーネは言っていた。
子ども達を守りたい。みんなが笑顔でいられる場所を守りたい。
私の身体が、心が、胸に抱く思いが、願いが作りものでも構わない。
少なくとも、今、私はそうしたいのだから。
そうする自由を許されているのだから。
「お母様」
「なあに?」
「大神官の仕事、週休二日って許されると思います?」
「安息日は一日が原則だけれど、貴女が他の者にも二日の休みを許せば誰も文句は言えないのではないかしら?」
「時々、使用に転移陣を使ってお母様や魔王城に行ってもいいでしょうか?」
「神殿に魔王城直通の通路は繋がない方がいいと思うから、こまめに戻っていらっしゃい」
「大神官になっても、お母様に甘えに行ってもいいですか?」
「当たり前です。貴女は、私達の娘なのですから。可愛い娘を奪い、面会さえ許さない激悪職場環境なら、私が厳重に抗議します」
頼もしい。
私はぽすん、とお母様に頭を寄せもたれかかった。
そんな、私の頭を優しく撫でながらお母様は微笑む。
「マリカ……」
「はい」
「貴女は子どもなのです。もっと我儘を言いなさい。
世界の為であろうとも誰の為であろうとも、たった一人に犠牲を強いる世界は間違っていると私は思います」
「はい」
「皆で分け合い、支える世界を、貴女が作りなさい。私は貴女ならそれができると信じていますし、応援していますよ」
「ありがとうございます」
優しい腕が、そっと私を抱き寄せた。
大丈夫だ。
私は強く思う。
この先、何が有ろうとも。私はこの星を守る精霊であることを誇りに思える。
お母様の信頼がある限り。
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