私は生まれて始めて『精霊』を見た。
祈りを捧げ、不老不死という恩寵を受けていてもただ、信仰という幻の彼方にのみ存在した『神』『精霊』。この星の超越存在。
それを、生まれて始めて目の当たりにしたのだ。
一人の少女の身体を通して、私は、私達は『神話』の再来を見たのだった。
この大祭は歴史に残るだろうと私、トランスヴァール伯 ストゥディウムは断言する。
数年ぶりに宿敵アーヴェントルクに勝利した夏の大祭は『聖なる乙女』の出迎えによる精霊の祝福という今まで誰も見た事の無い奇跡から始まり。
『精霊神』の復活。『精霊獣』の来臨。
さらには街に『精霊』が降りて来たという噂まで流れて歴史上稀に見る盛り上がりを見せていた。
国務会議でも食の充実に纏わる活発な意見交換がなされ、互いの領地で育成可能な食材。
その交換輸出入についてや試験栽培の手ごたえなどが話し合われた。
アルケディウスという土地そのものが大陸全体では北部に位置することもあり、どうやら土地全体で全ての食材産品が平等に、たわわに実るとは限らないようではあった。
特に『新しい食』の要となる麦は王都以北は自生種の残有量が目に見えて減少し、試験栽培している土地も芳しい成果が見られない。
『精霊神』の復活により多少は生育に期待も出来るが、晩餐会でマリカ様が提案した寒冷地に合わせた食材の育成などに移行した方がいい結果が出せるかもしれない。
北部、辺境領主達もがっかりしながらも新しい希望を見出し、晩餐会で供せられた『新しい食』とアルケディウスの今後に期待を膨らませていた。
そう、マリカ様。
アルケディウスの者であるなら、多くが知っている。
今のアルケディウスの躍進。
その要となるのは一人の少女。昨年秋の大祭、国務会議で存在が公表された幼い女の子であることに。
救世の英雄 アルケディウス第三皇子 ライオット様の庶子で皇王陛下が認めたアルケディウスの第一皇女。
国にとっては不老不死以前から久しく表れていなかった『聖なる乙女』である。
その知識をもって『新しい食』を支え、行き場の無い子ども達を救い、アルケディウスに今までにない活気を齎した事は大貴族全てが認めるところ。
隠し子、と最初は半信半疑であった者達も今は、その多くが彼女の才を認めている。
例えば、だ。
彼女自身が料理した訳ではないだろうが、今日の晩餐会のメニューにも間違いなく助言し関わっていると思われる。
何から何まで絶品であった。一年前の夏の大祭とは比較にならない。
我がビエイリークから運ばれた魚類のフライも最高だったが、何よりも今回は子豚の丸焼きが美味であった。肉の部分が不味いわけは勿論ないのだが、主役は朱を帯びて艶やかに輝く皮とその下の皮目の油だ。皮を齧るとパリッとした食感と共に、じわりとした、濃厚な脂が口の中に広がっていく。
甘みがある。表面に塗られ照りを出しているのは蜂蜜だと聞いた。でも蜂蜜だけの単純な甘さでは無い。肉と脂と皮のカリカリ、サクリとした食感は良くできた菓子のようでさえある。
脂なのにどこかさっぱりとした感さえあるのは、子豚だからなのか、それとも濃厚かつ酸味のあるソースのおかげなのか。ビールで口の中を洗い流せばいくらでも食べられそうだ。
「食材は命を頂くことですからね。大事に使い切りたいと思うのです。」
そう彼女は微笑んでいた。皮から肉まで全て料理に使い、骨は後でスープに使うという。
料理の一品一品に、食材を大切に使い切ろうとする思いが見える。
(「欲しい」)
この皇女が欲しい、好を繋ぎたい。できれば手の中に確保したい。
それは、大貴族全ての心の声だろう。
「あんな幼子でなければ、息子の妃に…」
「いや、養子を取って…」
など彼女の獲得に望みをかける者も少なくない。
既にライオット皇子は自らが育てた愛弟子である少年を、愛娘の婚約者に据えているが、それでも多くが諦めてはいないだろう。
だからこそ、実は舞踏会で始まった神殿からの急攻撃には全員が、息を呑みあっけにとられた。
「『聖なる乙女』は神殿にあるべきでございます」
アルケディウス神殿長 ペトロザウルはそう言い切り、マリカ皇女を神殿に上げよと命じてきたのだ。
国に税金の免除を与えると告げ、職務の遂行は妨げないというが、それが態の良い軟禁。
皇女の確保であるのは明らかだった。
本人の意思は勿論。
娘を溺愛する父、孫を慈しむ祖父がそれを受け入れる筈がない事を多分、理解した上でこの男は最低最悪の手段に出た。
「私が…神殿に上がらなければ、無関係の子ども達を…殺す…と?」
「『神』と『精霊』の名に懸けて『星』にお返しするだけでございます。
御心配なさらずとも、アルケディウスの神殿には後、六人拾われた子どもがおります。
一人や二人減った所で何の支障もございません」
姫君が神殿に来なければ、無関係の子どもを殺すと言い放ったのだ。
アルケディウスでは近年、子どもの保護法が設立された。
子どもを買い取ることそのものは妨げられてはいないが、過度な暴力や虐待行為は厳重に慎むべきとされている。
けれど、神殿は治外法権。
国の法律には妨げられないと、のうのうと言ってのけ、神殿長はマリカ様に決断を促した。
「さあ、どうぞご決断を。『聖なる乙女』
神殿に上がり、その慈悲をもって子ども達を救い、国を、世界を支え、導く職務を全うされるか。それともあくまでご自分の自由を求められるか…」
勝利を確信したような神殿長の笑みに、頭のどこかでこんな方法があったのか。
と思う自分がいる。
驚愕と、相手の非道に血の気を失い、ガクガクと震える皇女。
皇女は、あの男の提案を拒否しないだろう。
と確信できた。
不老不死の世。
大事なものを失う悲しみから解放された我々でさえ、いや、だからこそ命の喪失は忌避したいと強く思う。
眼の前で子どもの命が奪われるなど、一部の悪辣な性癖を持つ者以外は避けたい筈だ。
ましてや不老不死を得ていない皇女が。
子どもに対する強い慈愛を持ち、大貴族の前で朗々とその保護を謳い上げる少女が、己が原因で無関係の子どもの命が奪われるのを見過ごせる筈は無い。
同時に憤りを感じる。
我々は、国の宝とも言える少女を目の前で、何もできず神殿に奪われるのを、黙って見ている事しかできないのか、と。
「わ、私は…」
会場にいる人間全ての敵意を一身に浴びながらも、満面の笑みを浮かべる男は、決定的な少女の決断の言葉を待っていた。
だが、次の瞬間。
影が二つ、奔ったのが見えた。
直後、その場にいた全員が、一人残らず目を見張った。息を呑んだ、言葉を失った。
『下がれ…無礼者!』
「ぐ、ぐああああっ!!」
床にもんどりうつように神殿長が転がり、呻く。
何か、火柱のようなものが立ち上がった様にも見えたが、正直確証はもてない。
だが確かな事が一つある。
『黙って聞いていれば駒の分際でいい気になって。
人の命を何だと思っているんだ。お前達は』
目の前に人知を超えた存在が在る事。
一瞬前まで怯え、震え、崩れ落ちそうな蒼白な表情を浮かべていた少女は、はっきりとした目に見えるかのごとき、濃厚な力を身に纏い。
まったくの別人の顔で、そこに立っていた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!