王宮に、馬以外の生き物が飼われていただろうか?
少なくとも、私は見た事が無い。
服や調度を傷めるし、身体に傷をつける。
そう言われて、私は何百年もの間、馬以外の生き物に触れる事無く生きて来た。
だから、正直、目の前の生き物が本当に『猫』かどうかも解らない。
子どもの頃、本当に昔に見た動物の画集。
その記憶でそう思っただけだ。
何故、私の部屋にそんなものがいるのだろう?
軽いパニック状態になっていた私は、今の今までなにをしようとしてたのか忘れて、呆然と立ち尽くしてしまう。
そこに
「失礼いたします。何かございましたか? 皇女様」
私の声、悲鳴を聞きつけたのだろう。
外見張りの女騎士と、侍女頭、そして子ども達が部屋の中に入って来る。
私と基本的に会話できる側仕えは子ども三人だけだと決められている。
しかし子どもだけでは難しい雑用を助けるために、実は使用人そのものはある程度の人数が宮にはいた。
ただ、護衛騎士は護衛という名の監視だと解っているし、侍女頭などは最初に
『私の仕事は使用人達の指導にございます。
皇女様の直接のお手伝いは致しかねますのでお含みおき願います』
とはっきり言いきっていた。
で、その彼女達も部屋の中にいた存在に目を見開いている。
「子猫?」「どうしてこんなところに?」
「「あっ!」」
私と同じように宮の中に猫がいることを驚く大人と、駆け込んで来た少女二人は明らかに違う眼差しで子猫を見ている。
胸に抱く『どうして』は同じであっても意味が違う。
それに侍女頭も気が付いたのだろう。
「二人とも。あの子猫を知っているのですか?」
厳しく問い詰められて少女達は顔を見合わせると。はいと頷いた。
「時折、どこからともなくやってくるんです。
直ぐに外に出しているんですけど、また直ぐにやってきて……」
「人懐っこくて可愛いので、その、私達……外に出す前に厨房の方にお願いして水や古いミルクを分けてもらったりしていて……」
「王宮の中に素性の知れない生き物などを入れてはいけないことなど、考えなくても解る事でしょう?」
「「もうしわけございません」」
「それになんですか? この花と花瓶は?」
「皇女様のお心を少しでも慰めて差し上げられればと思って、香料作りのお手伝いの時に、庭師の方から分けて頂いたんです」
「皇女の側に置く者には細心の注意を払いなさい、と言っておいた筈です。
皇女様。花瓶が落ちた音がしましたが、お怪我はありませんか?」
侍女頭は呆れた様に大きく息を吐き出して見せると、私の方を向きました。
私は慌てて手で、指先の血を拭います。
これが見つかると、私の為に花を活けてくれた子ども達が叱られるでしょうから。
「だ、大丈夫です。ほら。子猫に少しびっくりしただけです」
「それならいいのですが……。二人とも。子猫を捕まえて外に出しなさい。
二度と宮の中に入ってこないように、街まで連れて行って放すのですよ」
「はい」「ほら、おいで……」
人懐っこい、という言葉の通り子猫は大した抵抗も無く、スッと子ども達の手に抱かれます。
慣れているのでしょうか?
トクン、と心臓が高鳴ります。
「待って……下さい」
「え?」
私は小さく喉をが鳴るのを自覚しながら、意を決して声を上げました。
「その猫に……触ってみたいのですが……ダメ、ですか?」
「皇女様が、猫に? でございますか?」
「私、猫を見るのは、初めてなのです」
護衛騎士と顔を見合わせた侍女頭は、少し考えた後、首を横に振りました。
「皇女様はもう不老不死をお持ちでは無いのです。
決してお身体を傷つける事の無いように、と皇子から厳命されております。
申し訳ございませんが……」
「あっ……」
子ども達に軽く視線をやると、子ども達は少し躊躇いながらも子猫を抱いて部屋を出ていきます。
そして侍女頭と護衛騎士も、落したロッサと花瓶を片付けて外に出ていきました。
私は、また一人に戻ります。
けれど、目を閉じるとさっきの子猫の、紫色の瞳が浮かびます。
そうするとさっきまでの恐怖や狂乱の思いは消え、不思議に安らかな気持ちになるのでした。
翌日
「おはようございます。皇女様」
二人の子ども達が朝食と、掃除道具をもって入ってきました。
私が別室で食事をしている間に、寝室などの掃除を行うのが人員入れ替え後の通例になっていました。
食事は今まで、特別な時にしか出ない者でしたが、マリカ皇女の来訪後、料理人の練習もかねて朝と夜、朝食が私にも支給されることになったのだそうです。
パンとチーズ、ピアンのジャムとスープ。
晩餐会などで出された食事に比べると簡単なモノですが、食べると少し身体に力が湧いてくるようで私はこの時間が、気に入っていました。
普段であれば、二人のうち一人が食事の給仕をし、もう一人が掃除を始めるのですが、なんだか今日はモジモジとして動きが鈍い感じがします。
「どうしたのです? 私の事は気にせず仕事をなさい」
「あ、あの……皇女様!」
「?」
「あ、待って!!」
後ろを振り向いていた少女が私の方に振り返った時です。
ぴょーん。
「え?」
黒い影が少女の手元から跳ねると、私の方に近付いてきました。
瞬く間、というのはこういうことを言うのでしょうか。
私の足元に近付いてきたの昨日の黒猫のようでした。
よく似た子猫、かもしれませんが青みがかった紫水晶のような瞳には見覚えがあります。
「この子は? どうしたのです?」
「昨日の子猫です。皇女様が触れてみたい、っておっしゃっておられたので、その……こっそり」
侍女頭達の目を盗んで連れて来てくれたのだ、という。
「私の、為に?」
「はい。少しでも心のお慰めになれば、と思って……」
「そう……ありがとう」
「「!」」
驚くほどに、すんなりと言葉が出ました。
我ながらありがとうなんて言ったのは、久しぶりのような気がします。
でも、本当に嬉しい時には相応しい言葉が出るモノです。
私は目を見開く二人にお礼を言って、膝を折りました。
私のスカートのリボンにじゃれついていた子猫は、私が手を伸ばすと、少し小首を傾げたあとちょこちょこと小刻みに歩いて、私の掌の上乗って来てくれたのです。
本当に人懐こい、というとおり、爪も出さず大人しくしています。
桃色の柔らかい肉球が掌に触れると不思議に気持ちいい上に、ふわふわの毛並みは極上の毛皮よりも暖かで、触れるだけで孤独に凍り付いていた私の心を癒してくれるようでした。
そして、何より暖かいのです。
自分以外の誰かの体温をこんなに気持ちよく感じたのはどのくらいぶりでしょうか?
「やわらかい……暖かい。ああ、なんてきもちいいんでしょう……」
術で他人の力を吸い取るのとは、まったく別の感じです。
あれは頭の中に、光が弾けて真っ白になる。所謂『快楽』と呼ばれるものなのでしょうけれど、これはまったく違うもの。
心の中が暖かくなって満たされて行く感じです。
なんだか懐かしいような気持ちさえします。
「喜んで頂けて、良かったです。
ずっと、お部屋に置いておくわけにはいかないのですが、もし皇女様が喜んで頂けるのならまた連れてきます!」
少女の一人が、そう言ってくれました。
「お部屋から出られないの、寂しいですものね。
少しでもお慰めになれば……」
できれば、この部屋にずっといて欲しい。
側にいて欲しいと本当に思いました。
でも、昨日侍女頭に言われたことを思い出します。
部屋を傷める、私を傷つけるかもしれない。
願い出ても、許可はおそらく降りないでしょう。
私は罪人、虜囚の身。
彼女達が部屋にいる間だけでも、一緒にいられるなら嬉しいと、私は思ったのです。
「お願い……できますか?」
「はい」「喜んで!」
私の言葉に彼女達は弾けるような返事を返してくれました。
「あ、皇女様。この子に名前を付けて頂けませんか?」
「名前? 無いのかしら」
「はい。今まで猫、とか子猫、とか呼んでいたので……」
「そう。……じゃあ、ナハトというのはどうかしら。古い言葉で夜、を意味するの。
アーヴェントルクの子で、この子には相応しいのではないかしら」
「ステキですね!」「じゃあ、お前は今日からナハトだよ」
「にゃあ!」
二人の少女達が私の手の中の子猫、ナハトに優しく語り掛けます。
と、その時私は改めて気付きました。
「貴方達の名前はありますか? 何というの?」
私は今まで、この子達を名前で呼んだことが無かったのです。
名前があることを知りませんでした。
「あ、少し前までは子ども、とか、それ、とか呼ばれていましたけどマリカ様とヴェートリッヒ皇子様の所に引き取られてヴェルナ、とフィアルカと名付けて頂きました」
「そう……ヴェルナというのは高山に咲く花の名前だった筈。貴女の蒼い瞳に合っているわね。フィアルカの方は菫色の瞳だから?」
「凄いです! お花の名前だよ。花のようにかわいくお育ちって言って頂きました。あと、外仕事をしている男の子は茶色い髪なんでコーン、です」
「松かさ? お兄様ももう少しいい名前を付けてあげればいいのに……」
「あ、でも本人は気に入ってるみたいです。小さくても、いつか大きな木になれるって」
そんな話をしていたので、朝食は少し冷めてしまいましたが、とても楽しくしあわせなものでした。
私のミルクを少しとりわけてあげたらナハトが飲んでくれたのもうれしかったことですが、いつもは黙って給仕するだけであった少女達が、私と会話してくれたことがとても嬉しかったのです。
久しぶりに、誰かと『おしゃべり』ができたことがとても嬉しくて、久しぶりに生き返ったような気持になりました。
誰かと話す事、触れる事、何かを分け合う事。
それがどんなに幸せな事かを、私は、もしかしたら、この日。
初めて知ったのかもしれません。
それから、約束通りヴェルナとフィアルカは毎朝。
約束通り、ナハトを連れて来てくれました。
そして私が知らない、猫の抱き方や撫で方のコツなども教えてくれたのです。
私にとってナハトと遊ぶのが。
ヴェルナとフィアルカ。そして時々コーンも交えて一緒に話をするのは、何もすることが無い幽閉生活の、唯一の楽しみであり、幸せになっていたのでした。
「ぷっは! ナハト様にナハトなんて名前を付けるなんて、我が妹ながら凄い感性ですね」
「笑うな。ヴェートリッヒ。
だが、私も驚いた。我が娘だけあって物事の本質を捕える目。
開けばちゃんと持っているようだな」
「そうだといいのですが。
随分仲良くおなりのようなので、そろそろ第二段階に入ってもいいですか?」
「任せる。其方には悪役をさせることになるが」
「そういうのには慣れてますから、ご心配なく。
目を見開いて、気付いて、後悔して。
そこから前に進めるか。泣き崩れて膝を折るか…」
「ああ、そうだな。ここからが多分、アンヌティーレの正念場だ」
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