黒く深く。
それは傷だらけのアルの背中の中央に抉るように刻み込まれていた。
焼き印と多分呼ばれるもの、だ。
向こうの世界で獣などに昔、押し付けるなどしていたけれど今は、非情だと言われて殆どされていない筈。
けれどダークファンタジーの小説やマンガなどでは偶に見る事もあった。
…所謂、刑罰や奴隷への烙印として。
でも、実際に見てみたらこんな酷いものだとは思わないくらいに酷い。
握りこぶしくらいの大きさ。いくつかの文字を組み合わせたような細い線の文様が円の中に描かれている。
深々と焼き入れられた刻印は真皮どころか皮下組織まで届き、真っ黒だ。
最低でも二年、もしくはもっと前のものだというのに、皮膚と傷の境目は今も蚯蚓腫れのように引きつっている。
頭が最悪の光景を幻視した。
小さな体を押さえつけられたアル。…背後には煙の上がる真っ赤な鉄の焼き鏝を持った男。
ニヤニヤと笑いながら、躊躇いなく白い背中の真ん中に押し当てられて…。
絞り出す様な絶叫と肉が焼ける煙と匂いまで感じるようだ。
「うっ…」
吐き気と共にふつふつと、怒りが溢れて来る。
いいや、怒りなんて生易しいものじゃない。
前にアルに傷を見せて貰った時にも思ったけれども、どうして子どもの身体にこんな酷い事ができるのか?
…許せない。
こんなことを、子どもにするなんて絶対に許せない!!!
と、館の扉が開く音がした。
皆が戻ってきたのかもしれない。慌てて私はアルのシャツを元通りに着せるとベッドに横たえ毛布をかけた。
直後に開く扉と、入って来る皆。
「アルが倒れたって?」
「体調が悪かったのですか?」「店を出る時にはそんなことは無かっただろう?」
ラールさん以外の住人がみんないる。
アルを見つめる瞳には心配が溢れんばかりに宿っていた。
そんな彼らをベッドサイドの椅子から見上げ
「顔色が良くありませんね。呼吸も荒い。
本当に何があったのでしょう」
「…ねえ、ガルフ。リードさん。ちょっと聞きたいことがあるんですけれど」
「なんです?」「なんでしょうか?」
「もし、今、仮にアルの元の主がここにきて、アルを返せ、と言ったらどうなりますか?」
私は問いかけた。
アルの具合とは関係ない。
関係ないけれど、顔を見合わせた二人は真剣な顔で応えてくれる。
「…アルが、元主の所有物だと証明されれば、返さなくてはならないと思われます。
皇子が調べて下さったのですがドルガスタ伯爵は、アルの不明後、盗難という形で届を出しているようです。
証明するものが何も無ければ、他人の空似として言い逃れられる可能性もありますが、証明するものがあれば伯爵は所有権を主張してアルの返却を要求して来るでしょう」
「最悪、アルを盗んだ犯人か、と責められる可能性も無くはありません。
ただ、犯人を示すものは何も残されてはいないとのことなので、店としては知らずに拾った、買い取ったと言い逃れることは十分にできると思っております」
「アルを買い取る、という提案をすることは?」
「あちらが売る、と言って下されば買い取ることはできますが、売らないと言えばそれまでです」
多分、二人と皇子はアルが元持ち主に見つかり、返せと言われる可能性も考慮して、色々と調べていてくれたのだろう。
板に水が流れるように返事はさらさらと確実に返る。
「…証明するもの…か」
ぐしゃぐしゃと髪の毛をかき乱すリオンとそれを苦い顔で見つめるフェイ。
「二人は知ってた…よね。助けたんだし、お風呂にも入ってたし」
「知ってたのか? マリカ?」
ハッと顔を上げて私を見つめるリオンに私はそっと頷いた。
さっきの話からして多分、ガルフとリードさんも、皇子も知ってる。
貴族との取引が本格化するにあたり、アルは自分から話したのだと思う。今後の為に。
背中に刻印が刻まれている事を。
「所有の刻印が解らなくなれば、とりあえず強硬な手段は取れないでしょう。
消した、と疑われてもそれを証明する事はできませんからね」
「でも、不老不死世界で医療というものは、今、世の中に殆ど残ってはおりません。
深い刻印を消すほどの措置を施せば、アルの命が危険です」
「…私、やってみようか?」
私の変化のギフト。
自分のケガとリオンのケガを治した事はある。
私のケガは、私自身のギフトが治してくれた可能性が高いのだけれども、それでも治してあげられるかもしれない。
最悪刻印の形を変えるとか…。
人の身体にギフトを使うのは、とても怖いけれど。
「僕達も、前から言っていたんですよ。マリカに治療して貰ってみてはどうだって…。
でも…」
「…オレが、嫌だって…って言ったんだ。消したくない…って。
この傷と烙印と、痛みはオレが、オレである理由だから…」
「アル!」
私達の視線が一斉にアルに向かう。
「アル!」「気が付いたのか?」
「心配かけて…ゴメン。でも、多分、これから、もっと迷惑かける…。見つかったんだ。オレ…」
「見つかった…って、まさか、あの子」
アルが倒れる直前、路地裏で会った子ども。
お仕着せのような服を着た少年を思い出す。
目を閉じ、アルはベッドに背中を付けたまま。
でも確かにアルは頷いて見せた。
「オレが飼われてた時、殆ど人間の生活できてなかったけど…世話、みたいなものをしてた奴がいたんだ。
顔も殆ど覚えてないけど、…覚えてる。
オレの頭の中に、突き刺さるようなあいつの『命令』…」
『ご主人様の命令だ。選べ!』
自分が何をしているか、何を選んでいるのかも解らないまま、指し示されたものから、輝く方に手を伸ばす。
それが、自分の役割だったと、アルは言う。
自分の手が光を掴む事は決してなかった、とも。
「聞こえたんだ。あいつの声。あの時と同じ頭に突き刺さる声。
『裏切り者…』って」
多分、冷静に考えるならテレパシーか何かのギフトだ。と思う。
視覚という強制的に流れ込んでくる能力がコントロールできず、苦しんでいたアルに命令を伝える役割があったのだろうと思える。
「オレは、一人逃げ出した。あいつ等を置いて…、裏切って…」
でも、そんなことはどうでもいいことだ。
「何が裏切りなんだ! お前は何も悪い事なんてしてないだろう!」
「リオン!」
感情を爆発させたリオンがアルの苦し気な呟きを切って捨てる。
「お前を、あの貴族の所から連れ出したのは俺の我が儘だ!
あのままお前をあそこに置いておいたら死ぬ。
絶対にそんなことをさせたくない! そう思ったオレが勝手に忍び込んで、無理やり連れだしたんだ。
そこにお前が取らなきゃいけない責任なんて、何もない!」
「リオン…兄」
部屋どころか屋敷中に響く怒号は病み上がりの子どもに向けるモノではないけれど、まったくもって私も同意見。
「でも、せっかく助けて貰ったのにオレがアルケディウスに浮かれて…外に出たせいで、あいつに見つかった。
多分、これからあいつは、俺を口実に…店に圧力をかけて来る。
レシピを教えろとか、マリカを寄越せとか、きっと言ってくる。
オレのせいで、みんなに迷惑がかかるんだ…」
目元を手で隠すアル。その下には涙が見えて
「よし、ドルガスタ伯爵、潰そう」
「え?」
私は椅子を蹴り飛ばして立ち上がり、呟いた。
怒りが、完全、臨界点を超えた。
アルの身体に消えない傷をつけ、今も心を傷つけるドルガスタ伯爵と、この、子どもが笑顔で生きられない世界、全体にふつふつと、怒りが燃え上がり沸騰する。
「ガルフ。ドルガスタ伯爵からのオファーが来たら、私に繋いで。
アルを返せと言って来たら、まずは交渉して取り戻す。それから…」
「待てよ! そんなことを言ったらレシピ全部寄越せとか、マリカと交換、とか言ってくるぞ。絶対」
ベッドから飛び起きるように身を起こしたアルと、私の視線がバチンと合う。
アルの深い、夏の碧色の瞳が鏡の様に私を映す。
「レシピなんて全部渡したって別に構わないでしょ?
アルを完全に自由にしてくれる、っていうんなら、私が伯爵の所に行ったっていいし」
我ながら目が完全に据わっていると思う。
私を見るガルフとリードさんの顔つきも、急展開に驚き顔だ。
でも、私にとっては自明の理。
アルや子ども達の命以上に大切なものなんてない。
「バ、バカ! 冗談でもそんなこと言うな!
あいつは、大貴族で、ホントに、ホント―に、最低な奴なんだ!」
「だっら、なおの事、そんなところにアルを渡さないし、他の子ども達だって置いておかない。
仕掛けて来るなら、全身全霊でぶっ潰す!」
「相手は大貴族だぞ。しかも殺しても死なない不老不死! この間のチンピラとはわけが違うんだ!」
「だから、それがどうした、って!」
大貴族だろうと、チンピラだろうと子どもを傷つける奴は絶対に許さないのは同じだから!」
「マリカ…」
もう決めた。
アルが何と言おうと、皇子やリオンが止めようとが悪意を持って伯爵が仕掛けて来たら全力で潰す。と。
「…そうですね。明確な犯罪者であれば貴族位の剥奪や幽閉もありうると、皇子はおっしゃっていました。
子どもを人間と思わずこんなことをする相手です。叩けば埃が出る事でしょう」
「フェイ兄…」
静かな微笑みをアルに向けながらもフェイの氷色の瞳は、冷酷に温度無く煌めく。
多分ドルガスタ伯爵を退ける手段を考えてくれていることだろう。
「アル…」
ベッドサイドに歩を進めたリオンを見止め、私はそっと場を譲った。
リオンはそのままアルの真横、枕元に腰を下ろし揺れる頭を抱き留める。
「…辛いよな。
自分一人が幸せにいた時、苦しんでいた奴がいるかもしれない、なんて。
自分のせいで、誰かを傷つけ苦しめた、なんて思い知らされたら、苦しいよな…。
解らないけど…解るさ」
「リオン…兄」
ああ、そうか。と気付く。
アルは、伯爵のところに残された子ども達の事を気に病んでいたんだ。
自分が逃げたせいで、辛い思いをさせられているのではないか、と。
「そうですね。僕達は気付きませんでしたがアル以外の子どもも飼われていて、アルが逃げ出した事で酷い目に合されることがあったのだとしても、その責任を負うべきは僕とリオンです。
アルには一切の責任はありません」
「フェイ兄…」
「今度はアルがそいつらを助ければいい。
俺はそいつらを助けるお前を、助ける。
お前を助けると決めたんだ。
それが、二度でも三度でも同じ事」
「リオン兄」
「俺を、俺達を信じろ」
「リオン兄!!!」
リオンの胸に全てを預けて、泣きじゃくるアル。
まるで堰を切ったような、心の全てを叩きつけ泣き続けるアルと、それを全て受け止めようとするリオン。
そして、黙って二人を見つめるフェイ。
「ガルフ…。明日、朝一で皇子に連絡して。
夜にでも店に来て頂けないか、って。ティラトリーツェ様には、私が直接話、するから」
「解りました。ゲシュマック商会の総力戦でいきましょう」
当たり前のことだから、言葉になんて出さない。
でも決意する、誓う、心に刻む。
絶対、必ず、アルを取り戻す。
子どもを虐げる悪魔のような伯爵から、アルと、残された子ども達の自由を取り戻して見せる。
と。
ゲシュマック商会に、ドルガスタ伯爵からアルの身元確認と返却の依頼書が届いたのは、翌日の事である。
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