子猫との出会いから数日。
私の毎日は、驚くほどに輝きを放ち始めました。
それは、不老不死を得る前と比較してさえもこちらの方が、きっと、と思えるほどに楽しい毎日です。
朝、起きると直ぐにヴェルナとフィアルカがナハトを連れて来てくれます。
二人が特別な仕事を言いつけられていない時にはそのまま夕方まで。
ナハトと、私の部屋で掃除や、片付け、読書の手伝いという名目で、一緒にいてくれるのです。
黒子猫、ナハトは本当にいい子で、部屋を荒らしたりすることは殆ど無く、大抵は私の膝で丸くなっています。
この子が側にいるせいでしょうか?
今までだったら、私をこんな立場に追い込んだ兄様やマリカ姫を恨んだり、憎んだりしそうなものなのに不思議に心が穏やかで、満たされているのです。
改めて考えれば、周囲の人間達にちやほやされて、誉め称えられたり、舞踏会でダンスを踊ったりも何が楽しかったのかな? と思ってしまいます。
皇女で『聖なる乙女』であった私には友人と言える人もいませんでしたし、『神』に仕えるようになってからはそういう意味で男性と付き合う事もできませんでしたし。
……不老不死前は、と言われればいないわけでも無かったのですが、結婚が許されない巫女にそれでも、と近付いて来る男性はなかなか……って、そんなのは関係ありません!
私が静かに部屋の中で本を読んでいるとヴェルナとフィアルカが目を瞬かせて見ています。
「うわー、凄いですね。皇女様はこんな難しい本を読まれるのですね」
「今迄は、それほどでは無かったのですけれど、今は宮の外に出る事ができないから、他にすることがなくって……」
宮の中には私が自傷行為に走らないように、という配慮からでしょう。
危険なものは殆ど排除されているのです。
裁縫や刺繍をする為の針糸、ハサミでさえ禁止されているので、本当に本を読むくらいしかすることがないのです。
「それでも凄いと思います。流石皇女様ですね」
「ありがとう。貴方達も読んでみる?」
軽い気持ちでかけた言葉でしたが、その時少女達の表情が見るからに曇ったのが解りました。
「どうしたの?」
「お心づかい、ありがとうございます。でも……私達、字が読めないので……」
「あ……」
私は、自分の物知らずに改めて気付きました。
王宮で私の側にいるのはほぼ全員が不老不死者で、五百年の時を経た大人です。
ある程度以上の知識があって当たり前。
読み書きができない者などいませんでした。
でも、今、目の前にいる子ども達は生まれてまだようやく七年から八年くらいでしょう。
しかも生きるのに精いっぱいで、その身を売られ、買われた子ども達。
勉強を教わる余裕も無かったに違いありません。
「あ、でも、皇子家ではお休みの日に、字や計算を教えて頂いているんです。
だから、少しずつ練習はしています」
「勉強、凄く楽しいんです」
「……興味があるのなら、私も教えてあげましょうか?」
「え?」
二人が目を瞬かせたのが解りました。
私が、皇女がそんなことを提案して来るとは思わなかったのでしょう。
……私自身驚いています。
自分がそんなことを提案するなんて。
「どうせ、私のやることは無いのです。
部屋の掃除も、毎日それほど酷く汚すようなことはしていませんし、やることも多くは無いでしょう?
特別な仕事が無い時にはここで、私と一緒に勉強や、字の練習をしてもいいですよ。
人に教えた事は無いのであまり上手ではないかもしれませんが……」
「……もし、そうしてもいいのであれば、凄く嬉しいです」
「侍女頭様や皇子に許可をとってもいいですか?
あと、コーンも連れて来てもいいですか?」
「構いませんよ。ああ、でもお兄様は許可を出してくれないでしょうか?」
「私達、一生懸命お願いしてみます」
許可は比較的あっさり降りて、それから、子ども達は毎日、私の部屋で文字の勉強をすることが許されることになりました。
私の精神安定。話し相手も仕事の内だ、と説得した事が功を奏したのかもしれません。
「夢みたいです。
こんなステキな場所で、優しい方にお仕えして、仕事をさせて頂いて、その上勉強までさせて頂けるなんて」
そう言って目を輝かせる子ども達。
勉強をすることが、どれほど幸せで貴重な権利かをよく知っている子ども達なので、そのやる気は驚く程です。
毎日、驚くほどに一生懸命取り組んでいるので、綿が水を吸い込む様にぐんぐんと知識を吸い込んでいきます。
私はむしろ、自分の方が追い抜かされるのではないかと思います。
文字や単語の知識はともかく、私は皇女としてあまり計算などが必要とされる場面が無かったので計算などはそれほど得意ではないのです。
教えることで、自分の未熟さが洗い出され、私は恥ずかしく感じていました。
でも、子ども達は、私の事を凄い人物だ、と想い、褒めてくれてくれるので、せめて、それに恥じない人間であろうとこっそり、勉強をするようにもなりました。
「私、もっともっと、知識を身につけて、ちゃんとした礼儀作法ももっと学んで、私を拾いあげて下さったマリカ様や、ヴェートリッヒ皇子、そしてアンヌティーレ皇女様のお役に立てるようになりたいです」
「私は料理人になりたいと思っています。もう少し大きくなったら、厨房に入れて下さると皇子が言って下さったので、皇子や皇女様を喜ばせる美味しいものをたくさん作れるようになりたいです」
「僕は騎士になりたいと思っています。
皇子の家には子ども上りで騎士に辿り着いた人が何人かいるそうです。力を付けて皇子や皇女様を守れるようになりたいんです」
今迄、自分の周囲には私の美しさと、生まれによって与えられた能力を褒めたたえる者しかいませんでした。
そう言う人間を選んで、側に置いていた、というのもあります。
また、そうしない者達はそうするように、作り変えていた、というのも。
邪心なく、打算なく、真っ直ぐな心で私を慕い、夢を語ってくれる子ども達の存在が嬉しくて。
……私は、自分の心の奥に生まれた朧げなものに、あえて蓋をしました。
気が付いてしまったら、私は自分が自分でいられなくなることを感じていたのだと思います。
それが、甘えであり逃げであるとは勿論、解っているのですけれど……。
暫くの間、私と子ども達の穏やかで楽しい日々は続いていました。
ですが、そんな甘い日々は突然終わりを告げます。
「今、なんと言ったのですか?」
いつもの通りの勉強時間中、外からのノックの音に首を傾げた私に見張りの護衛騎士は告げたのです。
「ヴェートリッヒ皇子のお渡りにございます。
皇女様のご機嫌伺いに、と……」
「け、結構です。伺われなくても私は毎日、静かに生きております。
お忙しいお兄様はお気になさらず、と」
面会と入室の許可を求めた護衛に私は懸命に首を振りましたがお兄様は、どうやら最初から許可を待つつもりなど無かったようです。
「残念ながら、これも仕事でね。罪人である妹がどう生きているかの監視と抜き打ち査察は」
「お兄様!」
既に護衛騎士の後ろにいたお兄様が楽し気に手を振って見せる姿に、私は青ざめました。
抜き打ち査察。
私が悪い事をしていないかの確認。
「な、何も悪い事などしておりません。
自室の中ではしようもありませんわ。子ども達に話し相手になってもらい、その関係で字や計算を少し教えておりますが、それが悪い事だとでも?」
嘘はついていませんが、嘘はついてます。
許可を取っていない隠し事があるのです。
私が扉の側で時間を稼いでいる間に、子ども達がそれに気づいて対処してくれていればいいのですが……。
「いや、別にそんなことを怒りはしないよ。ちゃんとお前には珍しく許可も求めて来たし、僕も出したし。
子ども達に勉強を教えるなんてどんな心境の変化かと思ったけれど、感謝こそすれ怒ったりはしない。
けど……ね」
「あっ……」
扉側で押さえていたお兄様は、私の抵抗をあざ笑うかのようにするり、と中に入ってきてしまいました。
そして……、
「フィアルカ。その籠をお渡し」
「あっ!」
最初から解っていたかのように、フィアルカが机の下に隠した籠を取り上げてしまったのです。
蓋をぱかりと開ければ、中にはきょとんとした目のナハト。
お兄様はその首筋を掴んで軽々と持ち上げてしまいました。
「これの話は聞いてない。
いや、聞いていたけれど部屋の中に入れる許可は出してはいなかった筈だ」
私も、子ども達も息を呑みます。
空中にゆらゆらと揺らされるナハトは、暴れる事もせずに為されるがままです。
「皆、お前や子ども達のことを思って見て見ぬフリをしていたようだけれど、王宮は獣が入っていい場所じゃない。
だから、処分させてもらうよ」
「処分、ってお兄様!」
「皇子様!」「止めて下さい!!」
私達の必死の静止を気にも留めず、お兄様はナハトの首に手をかけます。
私の両掌に簡単に乗ってしまうような子猫です。
お兄様の細くて長い指は、簡単にその細い首に回ってしまいます。
「うにゃああ!!」
圧力をかけられ、やっと事態を把握したのか、ジタバタとナハトは手足を動かしますが、力の差は歴然です。
「止めて下さい。お兄様!」
私がお兄様の手に縋り、ナハトから引き離した時にはもうナハトはぐったりと動かなくなっていました。
「ナハト! お兄様、酷すぎます!」
「これは人間じゃない。獣の分際で人の居場所に入り我が物顔でいたんだ。罰があってしかるべきだろう」
「獣であっても、ナハトは私達の心を慰め、癒してくれていたのです。
大事な、命あるもの……それを、こんなに簡単に縊り殺すなんて……」
「……命の、大切さをお前が説くのかい? その口で」
ぽい、とゴミを投げ捨てるかのようにナハトを籠の中に放り込んだお兄様の目が、私を睨みます。
その瞳が薄く、紫を帯びたような気がするのは、気のせいでしょうか?
もっとも、その時の私にはそんなことを考えている余裕はありませんでした。
心臓が、ドクドクと嫌な音を立てます。
お兄様の一言が、私の心の中に隠して蓋をして、気付かないふりをしていたことをナイフのように切開して露わにしようとしていると、気付いたからです。
「や、止めて下さい。お兄様」
精一杯止めようとしましたが、身体は鉛のように重く、動きません。
喉から抵抗の声を紡ぎ出すのが精いっぱいです。
「ヴァン・ヴィレーナ。
穢れた元『聖なる乙女』。今は聖女、皇女然としてお前はこの子達にいい顔をしているけれど、同じ顔で胸を張って言えるか?
自分は、お前達と一緒に買われた子ども達の血を啜り、命を吸い取ったのだと」
「止めて!!!」
精霊石の場で、私を断罪した『精霊神』がまたここに降りられたかのように、お兄様は容赦なく断罪の剣を、私に突きつけます。
「お前が喰らい、命を啜った子ども達もこの子達と同じように、命があり思いがあり未来があった。
それをお前は奪ったんだ」
「知らなかった! 知らなかった!! 知らなかったのです!!!
子ども達も、私達と同じような人間なのだと。意思があり、思いがあり、夢があり生きていたのだと、誰も教えてくれなかったし、止めてもくれなかった」
「そうだな。誰も教えなかった。それはお前の罪ではないかもしれない。
でも、思考を停止して、自分の力と立場に酔い、当たり前のものと思い込んでいた傲慢と無知はお前の罪だ。
アーヴェントルクの神殿に今も魂囚われた数多の子ども達は、お前を恨み、憎んでいる……。
多すぎて『精霊神』の導きも届かない位だ」
返す言葉はありません。
それは、紛れも無い事実でしたから。
何も知らず、ただ己の快楽と力の為に子ども達の命を奪っていたかつての私。
『聖なる乙女』どころか本当に、魔性にも等しい存在であったことでしょう。
子ども達は私が命を吸い取れば、そのまま苦しむことなく眠る様に目を閉じていきましたが、それが免罪になるとは思っていません。
私を嫌う人間の心を屈服させることを楽しんだように、マリカ様の生き血を啜った時、興奮めいたものを感じた様に。
あのまま行けば、私はそう遠くないうちに人の生き血を啜り、苦痛を喜ぶ本当の魔性。
ヴァン・ヴィレーナになっていたでしょうから。
あの日、『精霊神』様に不老不死を奪われて以来、身体の中に溢れていた自信は影も形も無くなりました。
あるのは悔恨の思いばかり。
どうすれば、償う事ができるのでしょうか?
自分が消えれば、少しは贖罪になるのでしょうか?
「私が許されない罪人だというのなら、私を殺して下さい。お兄様!」
「皇女様!」
「ナハトにしたように私を縊り殺して下さい。
私の命を捧げる事で私が奪ってきた多くの命が慰められるのであれば。
償いになるのであれば、私は喜んでこの命を捧げましょう」
私は不老不死になりたい、と強く思ってなった訳ではないのです。
ただ、誰もが当たり前に得られるものとして、服を着替えるかのように不老不死になっただけ。
だから、死の意味も解らず他人の命を弄んでしまったのかもしれないと思います。
私の孤独を慰めてくれたナハト。
あの子が死んで、二度と会えないと思ったら、胸が千切れそうな悲しみに溢れて来ます。
人間では無い獣でさえ、死はこんなにも悲しい。
人であったら、大事な存在であったら、どれほどの悲しみなのだろうと、今、気が付きました。
私が奪ってきた数多の命。
不老不死者の命は奪えない。消えない命など代償にはならない。
けれど、今の私なら死をもって償う事ができます。
あまりにも安すぎるかもしれないけれど……。
私はお兄様の前に、いえ『精霊神』の前に跪き目を閉じました。
復活したという尊き御方は、私達をいつも見ていると仰せでした。
であるなら、この私の思いもご覧になっておいででしょう。
「どうか、私に罰をお与え下さい」
私の前に影が立ちます。
きっとお兄様でしょう。首元にスッと何かが当たったのを感じました。
不思議に暖かいので、きっとお兄様の指かもしれません。
不老不死者の命を奪う事は罪にはならない筈。
まして国の長の一人が犯罪者を罰するのであれば、何の問題も無い筈です。
私は目を手を祈りに組みました。
瞼の裏に広がる紫紺の闇。それはどこか『精霊神』様を宿したマリカ様の瞳の色に似ています。
『精霊神』の腕の中、この闇に包まれて眠るのなら、それはそれで幸せかもしれません。
私が覚悟を決めた正にその時です。
「止めて下さい! 皇子様!!」
私の前に、闇を払う光が弾けたのは。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!