マリカ様が、リオン様を抱きしめたまま、意識を失われた直後。
そっと、リオン様が身を起こされるのが見えました。
首元から離れないマリカ様を、落とさないように動かさないように、ゆっくりと身体を持ち上げ、彼女を抱え直すリオン様。
「だ、大丈夫なのか? リオン殿」
今の光景をずっと見ていたエルディランド王 スーダイ様が青白い表情のまま、声をかけられたのを聞いて、私もハッとしました。
「大丈夫です。マリカは軽いので落としませんよ」
「そうではなく! 今の今まで、心臓から血を吹き出して死にかけておられたのですよ。リオン様は!」
慌ててマリカ様を預かろうとするのですが、リオン様はゆっくりと立ち上がると首を横に振られます。
「もう、傷も塞がった。元から心臓への損傷はなかったみたいだ。肺か、そこに繋がる動脈に傷がついていたのかもな。でも、マリカの判断が正しかったから呼吸も維持できたし、今は完璧に傷も塞がっている。心配ない」
柔らかい口調と笑みのリオン様に、私は少し違和感を感じました。
いえ、違和感と言うには少し違うかもしれません。
元に戻った、というか、今までが変だったと言おうか……。
「リオン様……ですよね」
「ああ、心配かけた。なんとか、戻って来れた……。お情けのようなものだが……」
頷きながらマリカ様を見つめる眼差しはとても優しくて、どこか固く遠慮がちというか他人行儀だった今まで……別人『魔王』の魂に乗っ取られていたと聞きますけれど……とはまるで違って見えます。
実際に違って元のリオン様に戻ったのでしょう。
ただ、前のリオン様と全く同じかと、いうと、違う気もするのですが。
見れば同じように、安堵の笑みを浮かべて、ソレルティア様が近づいていきます。
「良かった。どうなることかと心配しましたが、フェイも喜ぶでしょう」
「貴女のおかげだ。心配をかけた。ソレルティア」
「いいえ。私はフェイに頼まれて、彼がこの場にいたらしたであろうことをやっただけですから」
「本当に……大丈夫なのか?」
もう一度伺うように声をかけて来るスーダイ様に、私達はハッと口を閉ざしました。
今までリオン様の身体を別人が支配していたとか、そこから元の人格に戻ったとかの話はできません。少なくともマリカ様や皇王陛下達の許可のない今は。
「大丈夫です。ご心配をおかけしました。
申し訳ありませんが神殿に戻り、マリカを休ませたいのですがよろしいでしょうか?
マリカが回復したら、詳しい事情をお話しますので……」
「それは……構わない。魔性も魔王達と一緒に撤退したしな。荒れた水田は……」
『それは、私に任せるがいい』
「エーベロイス様!」
スーダイ様の方にぴょん、と白い短耳兎が飛び乗ります。
さっきまでの状況を思い起こせば、このエルディランドの精霊獣。今は、『精霊神』様の化身、お力と意志の一部が宿っていることは間違いないでしょう。
『大地の精霊の力を高め、喰われ、盗られた分を再生させる。
お前も手伝え。スーダイ』
「は、はい。かしこまりました。誰か……彼らに馬車の用意を」
「不要です。許可を頂けるなら、転移術で神殿まで戻ります」
「そうか。転移術使いは便利だな。」
杖を持ちかえるソレルティア様の言葉に、スーダイ様はちょっと戸惑いながらも頷いて下さいました。
「……エーベロイス様」
『解っている。こっちは始末しておくから早く行って処置を』
「ありがとうございます」
自分がさっきまで寝ていた地面と、精霊獣様を見て、何かを囁いたリオン様。
何か事情があるのかもしれませんが、私には解りません。
リオン様はマリカ様をもう一度落とさないように抱き直すと、ソレルティア様に小さく頷きました。
杖を掲げ、術を発動させるソレルティア様。
「カマラ。手を」
「は、はい!」
リオン様に差し出された手を握った私は、次の瞬間。空中に浮かび上がるような感覚と共に空間を跳び、エルディランドの神殿に戻ったのでした。
一瞬、急に神殿前に現れた私に少し驚いた様子を見せたエルディランドの神殿騎士達も事情を理解したようで奥に通してくれます。
そして、私達はエルディランドの神殿から転移陣を利用。大聖都の大神殿に戻ったのでした。
大聖都の転移陣の間には、心配そうな表情を浮かべるフェイ神官長がいました。
連絡する時間はありませんでしたからもしかしたら、私達がエルディランドに向かってからずっと、ここにいたのかもしれません。
「ただいま……フェイ」
その一言で、ぱあっと、光が宿ったようにフェイ神官長の顔が輝いたのが解りました。
リオン様が、戻ってきたのが彼にも解ったのかもしれません。
「お帰りなさい。リオン。無事のお戻り、心からお喜び申し上げます」
「マリカと、お前と……ソレルティアのおかげだな。感謝する」
「……僕は何も。今回ほど、自分の選択を後悔したことはありません。
貴方の側で、貴方を、貴方とマリカを守りたかったのに……」
感極まったように肩を震わせるフェイ神官長。今にも泣きだしそうな彼をリオン様も、ソレルティア様も優しい眼差しで見つめています。
「詳しい話は後でする。とりあえず、マリカの処置を頼めるか?
限界以上まで力を使い果たしている。休ませて、力を取り戻させないと。
後、返り血をも一刻も早く洗い流させたい」
「返り血……、解りました。直ぐに女官長達を呼びます」
側に控えていた司祭達に指示を与えるフェイ様。
彼らの様子を見ながらリオン様は、私の方を向きました。
「頼む。あと、カマラ。ハンカチか何か持っているか? 貸して欲しい。返すことはできないんだが、後で考えるから」
「は、はい。これを。量産品なので返す必要はありません」
「ありがとう」
そう言って、私からハンカチを受け取るとリオン様は、マリカ様の顔や髪についた血をそっと拭っておられました。
治療の時に付いたのでしょう、顔やドレスにも紅い雫がいくつもついています。
私が気付くべきだったのに、丁寧にそっとふき取っていく様子には、まだ意識を取り戻さないマリカ様への心配と気遣いが見て取れます。
「マリカ様!」
転移陣の間が開いてミュールズさんとマイア女官長が入ってきます。
セリーナは、まだプラーミァですね。本当は今日の会議が終わった後はプラーミァに戻る予定でしたから。今頃やきもきしているかもしれません。
「力の使い過ぎで、意識を失っている。疲労しているが魔性との戦いや、俺の治療で身体が汚れているから、湯あみをさせてから、休ませてくれ。
身体についた血には触れないように気を付けて洗い流して、衣服は破棄。焼却を」
「かしこまりました」
お二人にマリカ様を渡そうとするリオン様、私はふとあることに気付きます。
「リオン様。マリカ様の通信鏡をお借りできませんか。確か、緊急連絡用にアルケディウス直通の鏡をお持ちかと」
「解った」
マリカ様を抱えたまま、服の隠しを探るリオン様。
普通、女性、特に貴婦人の服に隠しなどそうないものですが、マリカ様の服にはご本人の希望であちらこちらにモノを入れる隠しがついています。
緊急の時用に、通信鏡を入れて持ち歩けるくらいの深さもあると自慢しておられました。
固いガラス板なので、直ぐに解ったようでリオン様が通信鏡を取り出すと同時、小さな小瓶がころりと転がり出ます。
「ん? これは……」
「あ、それは大事な、丸薬なのだそうです。リオン様を救う為に『星』から賜ったと。詳しい事は解りませんが」
「そのようだな。……そうか。俺の為に……」
瓶を拾い上げ、小さく微笑するとリオン様は、ミュールズ様とマイア様。二人の女官長に顔を向けます。
「湯殿や他の準備を整えてきてもらえないか? 湯殿までは俺がマリカを連れて行く。
その後は、お任せするから」
「……解りました」「お願いいたします」
お二人は、それぞれ言いたいこともあったでしょうけれど、黙って準備に部屋を出ていかれました。リオン様からマリカ様を奪おうとしなかったのは、マリカ様が意識を失いながらもリオン様の首元に回した手を放していなかった事、リオン様の方が安定してマリカ様を運べる事などがあったから、かもしれません。
でも、この後の光景を見たらきっとお二人は怒ったかもしれません。
いえ、婚約者同士だし、非常事態だし、怒られる筋合いはないと思うのですけれど。
「ここで、見たことは内緒にしておいてくれ。できれば、マリカにもな」
「え?」「はい」「解りました」
なんだか、解っている、という表情でくるりと、後ろを振り向く神官長とソレルティア様。
私もソレルティア様に促されて後ろを見たのですが、少し遅れてだったので、見えてしまったのです。
「使わないでくれて、良かった」
「!」
片手で器用に小瓶を開けたリオン様が、中の丸薬を口に含んだことを。
そして、マリカ様の唇に自分のそれを重ねて口移しで、与えたことも。
とても、美しく。それでいてどこか切ないその光景が、私の目に映ったのはほんの一瞬でした。
でも、決して忘れられない。そう思いました。
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