ミリミリッ…と、本当は聞こえない音が耳の中に響くと同時、激痛が走る。
喉から声を上げて、痛い、痛い、と泣き叫びたいくらいに。
それを必死で飲みこんで私は目の前の男を睨み付ける。
ふん! これくらい平気。
変生の時に比べたら、なんでもないんだから。
私の態度は、多分、男のプライドを傷つけたことだろう。
椅子に縛り付けられて、身動きできない私の腹を、男は大きく、固い革靴の足裏で蹴りつけた。
「うっ!」
唇を噛みしめて悲鳴を殺した私の胸倉を男はきつく掴み絞める。
「本当に、強情な娘だ。
泣け! 叫んで赦しを請うて俺に跪け!
そうすれば余計な苦しみ、痛みを味わうことなく楽になれるぞ」
「イヤです! 貴方なんかに絶対に負けませんから!」
思いっきり、あかんべーして挑発してやった。
「ほざくな! この小娘が! 構わん! 続けろ!!」
「くっ! ううっ!!」
また、稲妻のような激痛が駆け抜ける。
でもこの程度の痛みに負けるわけにはいかない。
痛みが与えられているうちは、私にとってはまだまし。
最低最悪の事態は避けられるのだから。
王宮から知らないうちに知らない場所に連れて来られた私は、知らない男に馬車から引きづり出された。
周囲には知らない男が数名。ニヤニヤとこちらを見ている。
「止めて下さい! 離して! 貴方達は誰なんですか!」
精一杯、暴れて見せたけれども、男の力は強くて逆らいきれない。
小さな家の中に連れ込まれたと同時。
「煩い! 黙れ!! 妻が夫となるものに逆らうなど許さん」
私の手首を捻るように握った巨漢の男は、私を軽々と持ち上げるとバチンと勢いよく平手打った。
「坊ちゃま。顔や表に見えるところを傷つけるのはお止め下さい。
この娘には明日、王宮で坊ちゃまとの婚約を誓わせねばならないのですから」
男の後ろから、フードで顔を隠した男が諌めるような声をかけた。
私はほっぺの痛みよりも二人の言葉の方に頭がぐらぐら来る。
な…妻?
婚約? 何言ってんの? この人達。
呆然と、床に座り込んだ私に男は胸を張って宣言する。
「いいか? 小娘。
お前は今日から、俺の妻となり、忠実に俺と我が家に仕えるのだ。
それが、捨て子だったお前を拾い育ててやったにも関わらず、逃げ出した恩知らずな貴様が罪を償える唯一の道なのだからな」
言われて、私はようやく目の前の人物が誰か、理解できた。
そう言えば、後ろのフードの人の声に聞き覚えがある。
「タシュケント…伯爵家の…」
「どうだ。俺はタシュケント伯爵家の長子 ソルプレーザ。お前の婚約者にして夫になるものだ!」
巨漢の男が胸を張ったけれど、悪い冗談止めて欲しい。
伯爵家の長子って、この人が?
と思わずにはいられない。
だって、この人こうして見ているだけでまともじゃない、って解るもの。
前に、ブタのようだ、と言ったけれども、ブタに失礼だ。オークのようって言ってもオークが可愛そう。
歳は40歳前後。
でっぷりと膨らんだ腹、脂ぎった顔、目元は下卑た眼差しに歪み、口元はねじれ曲がっている。
この人が、伯爵家の『お坊ちゃま』だななんて冗談止めて欲しい。
少しでも目元に知性があり、貴族らしい責任が見えれば私だってそこまで言わない。
この人には全くと言って良い程そういうものを感じないのだ。
下町のゴロツキの方がまだマシに見える。
でも、とりあえず大貴族の子だというのなら、頭を下げて立てようとは思ったのだけれども
「私はゲシュマック商会のマリカで、で伯爵家に拾われた少女とは別人です。
ですので、貴方様の婚約者などではございません」
「真贋などはどうでもいい事だ。
父上が、其方を娶り家に引き入れれば、私に家督を譲るとおっしゃった。
故にお前を妻にする。それだけのこと。
正直、こんな細い子どもは全く持って好みではないが、不老不死者では無い娘、というのは楽しめそうだからな」
まったく話が通じない。
ダメだ、こりゃ。
「私をお返しください。今、お返し頂けるなら、無かった事に致しますので」
「何を言っている。お前の帰るところはここだと言っているだろう?
お前はゲシュマック商会から、拾い親タシュケント伯爵家に戻り、恩を返す為に、その知識、その力の全てを使うのだ」
「ですから、私はタシュケント伯爵家とは縁もゆかりも無いと何度も…」
「嘘をつくな! いや、仮に別人でもいいのだ。お前は伯爵家の拾い子マリカ、私の妻になるのだからな」
男はべろりとなめくじのような太い舌で唇を舐めまわすと、目で側の男達に合図をした。
「あ!」
しまった!
部下らしい男達は右と左から、状況に唖然としたまま座り込んでいた私の身体を、がっちりと抑え込み動きを封じてしまう。
「止めて! 離して!!」
硬い、男の身体と腕に抑え込まれ、身じろぎさえもできない
私の前に男は膝をつくと、私の鼻を摘む。
固く、唇を噛みしめて閉ざしていた口が呼吸を求めて薄く開くと
「うっ! ううっ!!」
強引に唇を重ね、舌で割り開いたのだ。
酷い!
私の、ファーストキス!
向こうの世界とこっち、どっちでも、誰ともしたことのない私の始めての口づけは、見ているだけで怖気立つオークのような男に奪われてしまった。悲鳴は蛭のように吸い付く唇に吸い込まれ、逃げても逃げても執拗に追いかけて来る太い舌が、舌先を絡めとり引き寄せた。
生臭い味に吐き気がする。怖気が立つ。こんなのがファーストキスの味だなんて!
「あうっ!」
気持ち悪いだけの口づけに、私が満足していないことが解ったのか。
男は、自分の口腔に引きこんだ私の舌先を歯で強く噛み切る。
口の中に痛みと鉄の味が広がった。
舌から流れる血と、肉片を楽し気に飲み込むと、紅く染まった唇でニヤリと笑う。
「泣け! 叫べ! お前がここにいる事を知る者は誰も無い。
見つけ出す頃には全て終わっている。
お前は、私の妻となり伯爵家のものとなるのだ」
「イヤです! 絶対に、例え、何をされようとも、貴方の妻になんか、なりません!!」
バチン!
また頬が鳴る。
「坊ちゃま!」
「解っている! だが、早々に犯して蹂躙してやるつもりだったが、気が変わった。
気丈で小生意気なこの娘の、悲鳴が聞きたい。泣き叫び、赦しを請う声が聴きたい。
心も、身体も痛めつけて痛めつけて、そうして征服してやる!」
「だから、身体に傷をつけるなと…旦那様のご命令で…」
「目立つところで無ければいいのだろう?
服に隠れる肌も、靴の下に隠れる爪も、いくらもである」
「イヤ! 止めて!!」
「お前の身体に、じっくりと刻み込んでやる!
お前が誰のものかということをな!」
獲物を見つけた肉食獣のような目で、私を見やる男の視線は、本当に私をただの道具、獲物にしか見ていないと解る。
それが、絶望的に怖くて、負けないと決めてもめげそうだ。
私を捕える男達の手の力が強まる。
(「助けて! リオン!!」)
私は心の中で必死に助けを求めていた。
「まったく、強情な娘だ」
男は呆れたように私を見つめていた。
どのくらい時間が経ったかは解らない。多分、そんなには経っていない気がする。
もしかしたら、私がティラトリーツェ様の所に戻れていない事に気が付いて皆が、探してくれているかもしれない。それが今、私にとって唯一の希望だ。
今、服をはぎ取られ下着姿で、椅子に縛り付けられている。
鞭で打たれ、殴られ、噛みつかれ、足の指の爪も三枚持って行かれた。
悲鳴を上げたいくらいに痛いけれど、さっきの様子からしてきっとこの男はそれを楽しむSだ。
だったら相手の思い通りになんかしてやるもんか!
悲鳴や苦痛を必死で飲み込んで、私は、荒い息の中、ただひたすらに男を睨み付ける。
私の身体を普通に痛めつける事に夢中になっている間は、最低最悪のことにはならないですみそうなのでそれは逆にホッとしているくらいだ。
「素直に這いつくばって泣きわめき、赦しを請えば可愛げがあるものを。
これを妻にして、いう事を聞かせるには骨が折れそうだ」
「今まで、幾人もの女子どもで『遊んできた』というのに、子どもの娘一人、思い通りにすることもできないのですか?
いい加減、お遊びは止めて終わらせて下さいませ」
呆れたようにフードの男が吐き出す。
あからさまに顔を隠しているけれど、この人が伯爵家の家令だというのは解ってる。
男に仕えているように見えて、監視人だなのだろうけれど、そんな事より私は、彼が溢した言葉の方が気になった。
「遊んで…来た?」
「不老不死世界は退屈に過ぎる。
大人になってしまえば身体は傷もつかず、衰えもしない。
相手を痛めつける事も、悲鳴を上げさせることもできまい?」
最悪の想像に震える私ににやりと男は笑って見せる。
「子どもはその点、最高なのだ。私の欲望を満たす為の、最高の道具。
貴様もあと少し身体が育つまで消えさえしなければ、もっと早くに私のものにできていたというのに。
まあ、その場合、今、ここに生きてはいなかったであろうがな。
私の玩具が一年以上生き延びるのは稀だ」
プチン。
私の中で、何かが音を立てて切れた。
封印の糸が切れるように。
「だから、保護法などというものの設立は正直、困る。
貴様を探し回らせ第三皇子の手を塞ぎ、明日の会議に出られ無くなって貰えば最高だ。
お前が戻らぬ事に気付き、探し始めるのは今日の夜か明日の朝。
その頃には…貴様は…、な、何!」
男の顔が驚愕を浮かべ、震えている。
意識、していた訳ではないけれど私は『立ち上がった』
私を縛り付けていたロープも、椅子も、全て粉々。
阻むものは何もない。
『呪われろ…人の命を弄ぶモノよ』
喉から、そんな、震えるような声が響いた。自分のものだけど、自分のものではない声。
伸ばした腕の先に、紅いバングルがきらりと輝く。
カバンの中に入れておいた筈なのに、という疑問は出てこない。
身体の中が燃えるように熱い。溢れるような熱が、怒りが堰を切って溢れて来る。
止めようにも止められない。
止める気も無いけれど。
この男は、私と、私の中の私ではない何かの逆鱗に触れたのだ。
私だけを痛めつけるというのならそれでもいい。我慢してやれる。
でも、同じことを無力な子ども達にやってきたというのなら…許せない。
『私』は指先から流れ出る熱を、男に叩き付ける。
目には見えない、けれど、確かな何かが作用したようだ。
「がっ…ぐあああっ」
いきなり、口から血を吐き出すと、喉を掻きむしるように床をのたうち回る。
まるで、屠殺直前の野ブタのようだ、とブタに失礼な事を思ってしまう。
「お、お前は、一体何を?」
「『人に、刃をかざすのなら、その刃で自分も刺される覚悟が、あるのでしょうね?』」
不思議なサラウンド。
同じ音、同じ声なのに、重なって聞こえるのは気のせいなのか。
とにかく私は、同じ力を怯えた目で私を見る、ローブの男にも叩き付けた。
力を使うのに意識する必要はない。
平手を打つのと同じだ。
「ぐっ!」
胸元を押さえ膝をついた男の頭からフードが外れ落ちる。
やっぱり、あの時の伯爵家の家令。
でも、あの野ブタよりも効果は薄いのか、男は悲鳴にも似た声で周囲の男達に命令をした。
「お、お前ら、何をボーっとしている! その娘を押さえつけろ!!」
「は、はい!!」
部屋の周囲を取り巻いていた男達が、怯えた目を浮かべながらも私に、向かってくる。
数は五人。
でも、恐ろしいとはまったく思わなかった。
リオンではないけれど、敵の強さが見えるように解る。
子どもを痛めつける為だけに連れて来られたゴロツキ紛い。
武器もろくに持っていない彼らに比べたら、毎日襲ってきてた襲撃者の方がまだ怖い。
と、妙に冴えた頭で考えている『私』がいる。
「この…バケモノ!!」
振り上げられた拳が、私の身体に触れるより早く。
バキン!!
「な、なに?」
蹴りあげられたサッカーボールのように、男の身体が高く、空に舞い上がった。
今のは『私』では無い。
「お、お前は!」
私の前に立っていたのはリオンだった。
以前、セリーナを助けに娼館に乗り込んだ時と同じ目、同じ威圧を纏い、立っていた。
…私を守るように。
リオンが、現れたと同時、私の中の熱が消えた。
オフになった、というのが正しいかもしれない。
空気が抜けた風船のように、張り詰めていた何かがすーっと、熱と力と共に消えていく。
「マリカ!」
足の力が抜けて、崩れた私の身体を、誰か大きな手が抱き留めてくれる。
フェイやリオンでは無い。ずっと大きな、大人の…手?
「皇子? マリカは大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。意識を失っているだけだ。
それより、お前は動けるなら、アルフィリーガが蹴散らした男どもを捕えろ。
一人も逃がすな! 重要な証人だ」
「解りました!」
そんな声を遠くに聞きながら、私は意識を手放した。
柔らかく、優しい何かに包まれた身体。
そして助けに来てくれたリオン。
心配は、もう無いと解っていたから。
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