身体がみっともなく震えている。
ありえない、と本当に思っている。
まさか、この異世界で、筆記体のアルファベットを見る事があるなんて。
この世界の文字はちょっと独特で四角っぽい。
それぞれに母音や子音があって二文字で一つの音を表す。
ローマ字に近い感じだ。ローマ字より表現する音が多いけれど。
五文字の母音に二十文字の子音。
後は濁音とか無音の表現とか。三十二文字の基本文字を組み合わせて使う。
独特の法則やルールがあって、ローマ字とまったく同じではないけれど英語に比べると覚えやすいと感じていた。
一文字一文字がちょっと硬いデジタル文字のような直線でできているので、筆記体とかはあまりない。
それが逆に読みやすくもあった。
「メルクーリオ様、これが……『精霊古語』ですか?」
「ああ、姫君は見るのは初めてか? フリュッスカイトの『精霊古語』だ。他国のものはまた違うと聞いているが」
「ちょっと、見せて頂いても?」
「構わない。多分、何を書いてあるかは解らないだろうからな」
うん、解らない。
元々、筆記体はスムーズに書く事に特化されているので、繋がったり略されていたりする所が多くて読みづらい。しかも英語じゃないし、癖のある書き方で、年代物。
まったく読めない。
でも、所々に見える iとかaとかmとか特徴のある文字は判別できるし、角々しいこの世界の文字とはまったく違う法則で文章が作られているのは解った。
「これは、どういう法則で書かれているのですか?」
「基本文字が二十一文字+五文字でそれらを組み合わせて使う。音は基本文字と似ているが発音や意味はまるで違うので覚えるのはなかなか大変だ」
そう言ってメルクーリオ様が木板に書いて下さった基本文字は正しくアルファベットそのものだ。向こうの世界と全く同じ。英語の二十六文字だ。
筆記体ではまさか、程度にしか思えなかったけれど、こうして突きつけられると震えが来る。
(「この世界と、私達がいた向こうの世界、何か関係があるの?」)
無い筈はない。文字がまったく同じなのだから。
英語そのものでは無いようで、いくつか書いて貰った単語は意味がまったく分からないし読めない。
私、外国語は英語しかやらなかったし、その英語も高校で止まってて、しかも殆ど忘れてるしね。
ただ、偏見交じりで言わせて貰えば、ちょっとイタリア語的かもしれない。発音の感じとかが。
「精霊古語の本の中には、我々の知らない知識が色々と記されている事が多い。
ソーダの精製法、石鹸の作り方、葡萄を元にした酒の作り方や蒸留の仕方なども記されてあった」
私の動揺をあまり気にも留めず、メルクーリオ様は説明を続けて下さる。
私自身も、一端、文字に関する興味を封じて、話を聞く事にした。
貴重な『情報』を逃すわけにはいかない。
メルクーリオ様がおっしゃるにはフリュッスカイトの特別な科学知識の多くは『精霊古語』の本からだという。
「我が国には『精霊神』の分け身がおられたから、内容を解説して下さったり、精霊古語の読み方を教えて頂いたりすることができた。
そうでなければ、私でもなかなか理解できなかったかもしれない。
考え方の根本が『精霊の知識』は大きく違うと感じる」
この世界には『精霊』という魔法の存在がいるから、向こうの世界と別の物理法則があり、精霊魔術が使えるのだと思っていたけれど、実際は違うのかもしれない。
科学や化学、物理の法則がちゃんとあって、それを具現化する存在として精霊がいる。
精霊魔術は科学の細かい工程を術でショートカットするものなのかも……。
「姫君がおっしゃっていた微生物の働きかけ。『発酵』も似た記述をどこかで見た記憶がある気がするな。今はちょっと思い出せないが」
「葡萄酒の作り方が伝わっておられたのですか?」
「ああ、混乱の三十年でほぼ失われ、その後は大聖都の専売になったので廃れたが」
葡萄酒の蒸留、と言えばブランデーだ。
ブランデーも昔は作られていたのか。廃れたなんてもったいない。
さっき見せて頂いた本は全く読めなかったけれど、小さく図解みたいなものが書かれていてそれが醸造の仕組みを表しているようだという話だった。
「さっき、ピラールに渡していたのは新年に王族に振舞われ、心を奪ったという、酒精。麦酒であろう?」
「よくご存じですね」
「新年の参賀に同伴者枠で行ったのは私とフェリーチェだからな。
母上がとんでもない美味を味わったと聞いて、羨ましいと感じたし、同じ失われた『精霊の知識』の持ち主ではないかと思いもしたのだ」
「まだ、多少あるのでご要望でしたら、最後の晩餐会にお出しします。
出すと欲しい、作りたいという話が出るかと思って迷っていたのですが」
麦酒に関してはまだ輸出は困難だ。
もうすぐ今年の新酒が出る。新しく増設された蔵がいくつもあるので、成功すればかなり出荷は増えるだろうけれど、国内消費で手一杯になる気がする。
「フリュッスカイトの各領地は比較的、肥沃な土地が多い。麦の育成などは今後積極的に支援していくつもりではあるから、製法は学びたいが……」
「ビール、麦酒作りに関しては細かい技術や準備が必要なので、本当に学びたいというのであれば、留学生をビール蔵に派遣する、とかして頂く事になりますね。私の一存では決められません」
「金は惜しまないし、場合によってはソーダの簡易精製の仕方と交換というのはどうだ?
シナーンの木はフリュッスカイトでしか採取できないが、海藻、貝はアルケディウスでも獲っているのだろう?」
「それは、一考の余地があります。本国と相談してみます」
「頼む」
そういう事情なら、やっぱりこの国にも通信鏡が必要になるかな?
言おうか言うまいか迷っていたけれど、他の三国に渡しているのにこの国には渡さないというのも変な話になるし、とりあえず、お知らせはしておこう。
買うか買わないかの判断はその国次第、ということで。
「今日の夜には返事ができると思いますので」
「何! どうして、アルケディウスへの問い合わせの返事が夜に出せる?」
「メルクーリオ公子。この契約が終わったら、公主様を連れてもう一度、この部屋にいらして頂けますか?」
「? 構わないが答えになってないぞ」
「あ、ソレイル様も一緒に。公主様だけでも大丈夫かも知れませんが、公子はソレイル様と一緒じゃないと使えないと思いますから」
「だから、何がどうして?」
「フリュッスカイトの大事な書物を見せて頂き、知識も開示して頂けるのであれば、アルケディウスの秘奥をお見せします」
そこから先もまたまあ、いつもの事なので省略。
アルケディウスとの即時通信装置。
通信鏡に目を丸くした公主様は、それでも真っ先に皇王陛下に今回の件で、私を危険に晒した事を謝罪し、賠償を行う旨を公式に約束して下さった。
『我が孫が、勝手にしでかした事なのでお気遣いは無用。
ただ、もしこちらからの要望を聞いて頂けるのであるなら、秋の戦、その勝敗に関わらず今後、冬の間、国境沿いの森をアルケディウスに無償貸与頂けまいか?』
「やはり、あの森には何か重要な秘密が?」
『貸与をお約束頂けるのであれば、孫に理由をお伝えするように命じておきます。
あの森は使えなくなりますが、フリュッスカイト全体を捜せば、同じことができる場所はあるのではないかと』
流石、皇王陛下。そう来たか。
今年はリオンが秋の戦に出ないから、万が一敗戦して土地を取られた時の為に布石を打っておこうと思われた当たり、凄いと思う。
借りもあるから、フリュッスカイトはそれを受け入れるしか無かったけど、
「まあ、木から砂糖が?」
「ちっ! みすみす宝の山を奪われてしまったのか?」
後で事情を知って悔しがられた。
勿論、通信鏡はお買い上げ。
「アルケディウスには負債が貯まっていく。
知識の国の名に懸けてソレイルや他の連中の尻を叩いて『精霊の知識』の読み解きや再現をもっと目指さねば!」
とメルクーリオ様は意気上がっていたけれど、私的にはフリュッスカイトに来た元は取った気分だった。
手の中に残った『精霊古語』
アルファベットの木板一枚で。
もう十二分に。
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