険しい山道を振動に耐えながら進んでいくと、厳しい道行と引き換えに美しい光景が広がっていく。
「うわー。凄い綺麗ですね~」
本当に我ながら語彙力がないのが情けないけれど、広がる蒼穹に輝く白銀の山嶺は天を切り裂くナイフのようだ。
「アーヴェントルクの山道は大変ですけれど、それに見合う絶景が素晴らしいですね。
プラーミァではけして見られない光景です」
ミーティラ様が感心したような眼差しで頷く。
プラーミァは大きな山もあるにはあったけれど、国全体は起伏の少ない南国平野の印象だった。
ここまで厳しい山とか谷は無かったと思う。
朝の日の出から直ぐに出発。三刻程馬車を走らせると、高く上った太陽がどこまでも続く緑の平原を照らし始めた。
「もうすぐ到着だそうです。あと少し頑張って下さい」
外からかけてくれたフェイの言葉通り、お昼少し前。
二の刻の少し前、私達は目的地となる牧場に辿り着いた。
「ようこそいらっしゃいました。皇子、アルケディウスの姫君。
旦那様、お嬢様……」
膝をつき礼を取って私達を迎えてくれる従業員さん達は結構な数に見える。
先頭に立つのは初老に見える男女だ。
銀髪、いや白髪かな。
アルムのおんじいを思い出す。
「久しぶりだな。エンヘリッヒ。ミレイン」
「元気にしていた? ばあや」
「お久しぶりでございます。お嬢様。
皇子妃様ともあろうものがそんなお転婆ではいけませんよ」
馬車を降りて駆け寄ったのはポルタルヴァ様だ。
乳母だって言ってたっけ。
少女のような笑顔で、首元に顔を寄せる貴婦人に照れたような顔で諌めながらも、まんざらではなような顔で、女性は微笑む。
「久しぶりだな。二人とも。
今回はこちらの姫君が、この牧場の食材をお求めなんだ。
案内と説明を頼めるかい?」
「誉れ高き、我らが皇子のお望みのままに」
妻の抱擁と笑顔に目を細めながら告げるヴェートリッヒ皇子に、はいと頷いてエンヘリッヒと呼ばれた男性が顔を上げ私を見た。
「お初にお目にかかります。
私はこの牧場を預かりますエンヘリッヒと申します。この度は我が牧場に目をかけ、ご利用くださいましたことを心から感謝申し上げます」
「こちらこそ。
食の絶滅した今の世の中に、素晴らしい牛肉と牛乳、そしてチーズ。……チューロスを残していて下さったことに感謝と敬意を表します。
時間が無いので、良ければさっそく見学させて頂けますか?」
「喜んで」
私の言葉と皇子の目線を受けたエンヘリッヒさんは立ち上がると、後ろの人々に目配せして仕事に戻らせる、私達を案内してくれた。
「この高原だけで約五百頭の牛と、三百頭の羊やヤギ、を放牧しています。
多分領地全体だと万を超える数になるのではないでしょうか?」
「全て皮革用ですか?」
「そうです。後、ヒツジは毛も刈っていますが」
ここは谷の牧場で、ここに残されているのは孕んでいたり、子どもだったりして山への細道を登れないものが主だという。
「今の次期、殆どの家畜は山の牧場に放牧されています。
ここから一レグランテ程細道を上った先に広い牧草地があるのです。かなり険しい道のりなのでしっかり準備をしないと危険ですね」
「解っています。とても素晴らしい景色なのでいつか機会があれば見てみたいですが…」
やんわりとその服装で山の牧場に行くのは無理だと言われたのだと解る。
私も流石にこのドレスと靴で、山道を登っていきたいとは言えない。
残念だけど。
そんな私の様子を見て、クスッと微笑むポルタルヴァ様。
「そうですわね。山の牧場から下界を見下ろす風景はなかなかに圧巻ですわ」
「ポルタルヴァ様はご覧になったことがお有りで?」
「ええ。子どもの頃はここで夏を過ごした事もありましたから。牛の乳しぼりをしたこともありましてよ」
「姫様に農作業を手伝わせるのもどうかと思いましたが、何事も経験だと旦那様のお言葉でしたので」
いい教育方針だな。と素直に思う。
「ただ、昔はともかく今は屠殺した家畜の皮革以外は、たまの宴席用に肉を貴族家等になどに卸すくらいで使い道がなく、ほぼ廃棄していたのが悩みの種でした。
牛乳も雌牛が子にやる分以外は採った方がいいのですが、使い道が少なくて結局は細々とチューロスを作る以外は捨てていて…」
「それは、本当に勿体ない事です。
大事に育てられた命ですから、できればちゃんと使い切ってあげて下さい」
エンヘリッヒさんのため息交じりの言葉を、私は全力で否定する。
「買い手がないというのであればチューロスや牛肉は、アルケディウス。
ゲシュマック商会が全て買い取ります。今後はきっとアーヴェントルクでも需要が高まると思いますが…」
牛乳は移送が難しくても、チーズや牛肉は保温管理さえしっかりすれば長持ちする。
精霊術で保冷ボックスのようなものを作って活用すればなんとかなるのではないだろうか?
「チューロスを作っておられるのなら厨房設備はお有りですよね。
少し貸して頂けませんか?」
「どうぞ?」
「あと、牛乳とチューロスとお肉も」
「はい」
私は、来て早々に厨房に入らせて頂いた。
美しい山間と牧場をゆっくり見学もしたいけれど、今はできる限りの知識を置いていって、牧場の方達に食の大切さを知って頂きたい。
以前、私は牧場に見学に行って教えて貰った知識をお返しする気分でやってみせた。
生乳から生クリームを作るには本当は時間がかかる。
でも、魔術師の精霊術を上手く使えば時間が短縮できることはこの一年以上色々研究して来て解って来た。
「フェイ、お願い」
「解りました」
牛乳を冷やしながら分離を促進させると生クリームと脱脂乳が出来る。
生クリームを攪拌するとバターになるのだ。
ちなみに生クリームを取った残りも飲めるし、乾かせば脱脂粉乳になる。
脱脂粉乳にすれば保存はかなり効くし、水を加えバターを足せば味わいは少し劣るけれど立派なミルクに戻る。
「……確かに、昔はこんな加工もしておりましたが、お若い姫君がよくこのようなことをご存知で……」
「ミルク、バターは様々なお菓子などに活用できるのです。
せっかくですから大事に使いましょう」
チューロス、チーズと違ってバターはあんまりそのまま食べたりしないから廃れてしまったのかもしれないけれど、新鮮なバターは最高に美味しい。
生クリームをガラス瓶に入れて、全力で振るとできたてのバターができる。
「どうぞ、食べてみて下さいませ」
皇子やお妃様達、ラウクシェルド様も私が差し出した瓶から、手のひらに落とされたバターを一口、口にした途端目を見張る。
「これは…凄いな」
「生乳を飲んだことはありますけど、脂分を抽出したものがこんなに爽やかで鮮やかで美味だなんて…」
「これも温度管理をしっかりすれば保存が効きます。
今後『新しい食』のレシピが広まれば、需要は絶対に増えますから、どうか本格的な製造をご検討下さいませ」
牧場の手作りバターには勿論叶わないけれど、作り置きしたものでもお菓子や料理に使うことができる。
後はチーズフォンデュ。
「屠殺した子牛の胃袋を水袋に利用して、乳を入れていたら固まったのがチューロス作りの始まりだったそうです。
今は子牛を屠殺した後のみ、その胃袋を使って妻が作っています」
若い子牛の胃袋にだけ、レンネットというチーズ作りの為の菌がいるのだと昔聞いた。
それを牧場の人達は経験則で発見していたということに感動しながら、私は大事に作られたチーズをそっと手に取った。
さいの目に切ったチーズを厚手の鍋にかけて竃に吊るす。
室内の宴席用に小さな鍋や、コンロのようなものができないかとは思うけれど、とりあえずは皆で味わえるように。
丁寧に作られた最高品質のチューロスをワインと牛乳で伸ばして煮溶かして、竹串に付けてた茹でパータトやキャロ、ハムなどをつけて食べる。
アーヴェントルクはアルプス、スイス気候だから絶対に合うと思ったけれど、
「うわあっ。濃厚で最高!
素晴らしいチ―……チューロスですね」
やってみれば予想を超えての美味だ。
少し塩気のあるチーズが具に絡んで最高に美味しい。
「もしよろしければ皆さんもどうぞ」
私は串焼き用の鉄串を、喉を鳴らして見ていた皇子達に渡して鍋の前に促した。
牧場で貰ったチューロスを目の前で切って、溶かし、そのまま私が食べたのだから、毒見とかの心配はない筈だ。
まずは最初に皇子がハムを突きさして、とろけたチーズを絡め一口。
「これは!!」
無言で二口目に向かう皇子の後に続くように夫人たちも鍋に向かう。
一口食べれば、後はもう夢中だ。
止める間もなく用意した食材は無くなってしまう。
「薄切りにしたチューロスをワインと合わせて食べるのも悪くは無い贅沢だと思っていたが、これはその上をいくな」
「暖かくて、口の中に優しく広がって素晴らしく美味しいですわ」
「せっかく最高の環境で、最高の食材が作られているのです。ぜひとも広め活用させて下さい」
と、牧場主さん達を見てみれば
「どうしたの? ばあや?」
あれ? 泣いてる?
「いえ……なんだか嬉しくって。
そうですよ。昔は確かにこんな風に、皆で鍋を囲んで食事をしあって、笑い合ったものです。
そんな喜びを……いつの間にか忘れていたことを思い出して……」
「食が失われて、確かに楽になったとは思っていましたが、苦労に倍する喜びが、食の生産には確かにあったのです。
感謝いたします。姫君…それを思い出させて下さって」
すっと膝を折る牧場主のお二人。
その眦には確かな輝きが見て取れる。
「顔を上げて下さい。お二人とも」
私は逆に膝をぺたんとついて二人の手を取り、視線を合わせた。
「命と誠実に向き合い、長い間ご苦労の中、伝統を守って来たことを感謝いたします。
これから先、多分急に需要が増えたりして翻弄される事があるかもしれませんが、今まで通り誠実に命と、その恵みに向き合って頂ければと思います。
私達はそれを絶対に無駄にはしませんから。
ね? 皇子。伯爵様」
振り返れば皇子達は満面の笑みで頷いてくれる。
「この牧場は今までも有益だったけれど今後はきっとさらにアーヴェントルクにとって重要な産業の要となる。
大事に育てていくべき場所だ。ラウクシェルド」
「ああ。補助金を出し、人を増やし肉の加工や、チューロスの製造、牛乳の加工も本格的に手掛けよう。
ここで作られたものは決して無駄にせず、国中に、世界に広げていく」
皇子とご領主様の宣言に、人々の顔が希望と誇りに輝くのが見えた。
この牧場の未来のように。
その日の夕食は、セリーナ、ノアール。
後は牧場のばあやさんや女性陣と一緒に料理をして、牧場の人達も巻き込んだ野外大パーティになった。
メニューはチーズフォンデュをメインに牛肉のケバブ風串焼き。
牛乳スープ。
デザートにはパンケーキにとっておきのバニラを垂らしたアイスも。
「牧場に魔術師を置けるといいな。
移送にも加工にも術者がいると良さそうだ」
「神殿から司祭を借り受けますか?」
皇子と伯爵は今後の牧場の方針について、結構真剣に今後について話し合っている様子。
ポルタルヴァ様は
「ばあや。これからもチューロスを沢山作ってね。
私、チューロスを見るたび、ばあやを思い出すわ」
「姫様……。ええ、姫様の為に頑張りますとも」
乳母さんにそんな風に声とねぎらいをかけていた。
そんな喧騒から私はそっと離れて、谷間に広がる平原を見つめた。
朝焼けの山嶺も美しかったけれど、夕暮れ、夕日を弾き金色に染まる草原も、紫から濃紺へと変わる様子もまた言葉に出来ない程に綺麗。
アルケディウスでは見れない風景だ。
「ああ、アーヴェントルクに来れて良かったな……」
牧場での素朴な時間と人々の笑顔は私に素直にそう思わせてくれた。
アーヴェントルクは敵国、って気を張っていたけれど、そこに生きる人々は何も変わらない。
守るべき命であり、人間なのだと。
私は改めて実感したのだった。
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