薄暗い魔王城の廊下を彼は一人、歩いている。
この城は、不思議な作りをしている。といつも思う。
基本的に木と石、紙と草で作られている。
そう見えているだけで、もしかしたら違う素材でできているのかもしれないけれど。
大聖都の神殿や、他国の王宮とは明らかに違う作りだ。
木張りの廊下、草で編まれた絨毯。
紙でできた頼りない横開きの扉などには慣れるまで苦労した。
廊下には灯りの設備が無く、ランタンなどを持って歩く。
今は、人が通る気配を感じたら灯りが灯る仕組みだ。
風と光の魔術の合わせ技。ノアールが工夫してくれた。
こうして歩くと彫刻や、装飾はあまり多くはない。
紙の扉に花や動物の絵が少し描かれているくらいだろうか。
それでも今は二人が暮らすには広すぎる、といつも思う。
掃除も必要なく、風呂も石造りで望めば自動で焚きあがる。
住むには快適であるけれど、未だ使っていない部屋の方が圧倒的に多い。
むしろ使っている部屋にたどり着くまでが一苦労だ。
かつて、この城に住んでいた魔王は、上層階の一部以外使う事もなく、一人、座に在り、人を近づけぬ結界を張って城と『神』を守るという使命を果たしていたらしい。
滅私奉公。感心なことだ。
自分にはとてもできそうにない。
『神』が早く戻ってきて欲しいと願うのも当然だけれど、簡単に戻ってきて貰っても困る。
この細やかで楽しい生活が終わってしまうから。
彼は小さく自嘲しながら奥に向かい、扉を開けた。
ここから先は自分達が住むにあたり、作りを自分達になじみのある形に変えて貰った区画だ。
『神』はその気になれば、この城に限っては自分の好きな形に変えられるのだという。
「お帰りなさい」
声と同時、光が溢れた。極彩色の明るく、暖かな。
別段、大きな灯りが灯っている訳でもなく、本当に光が弾けた訳でもない。
ただ、中に一人の女がいただけだ。
でも彼には、そう思えた。
彼女の笑顔が美しく、眩しいと感じるのだ。
「お帰りなさい。あなた」
「ただいま戻りました。ノアール」
「お食事の用意ができていますよ」
「それは楽しみですね。今日は色々と疲れましたから」
まるで若妻が夫を迎えるように彼女は微笑む。
彼もまた仕事帰りの夫のように笑い、妻である女を抱きしめた。
この生活が、ままごとであると、誰よりも彼らは知っている。けれどあえて模して楽しんでいた。
平和な大陸アースガイアの数少ない脅威にして悪役。
二人の魔王達は。
「今回は帰りに街に寄ってくることができなかったので、少し古い食材でごめんなさい。
明日には買い出しに行ってきますから」
「あの格好で買い物をするわけにもいかなかったですからね。仕方ありませんよ。
それに……うん。貴女の料理は、どんな食材でも美味しいですよ」
席につき、差し出されたスープを啜る彼は妻の労を惜しみなく褒めちぎる。
「ならいいのですが。
ああ、先にお風呂を使わせて頂きました。ありがとうございます。おかげさまでさっぱりしました」
「例のものは?」
「ちゃんと流し落とす前に分けておきました。こちらに」
こつん、とテーブルの上に置かれたガラス瓶を見て、彼は満足げに頷いて見せた。
「ありがとうございます。流石ですね」
「これが何かの役に立つのですか?」
「ええ。とてもとても欲しかったものです。おそらく僕達の切り札となり得るものですよ」
瓶を手に取り、男は弄ぶ。
中に入った赤黒い液体が前後左右、踊るように揺れた。
「『神』は、肝心な所で僕達を信じてくれていませんからね。
肝心な事は話して下さらないし、力も与えては下さらない
まあ、当然と言えば当然ですが」
「そう言えば、今回の失敗についての反応はどうだったのですか? あの方を連れ戻せなかった事、お怒りになりませんでしたか?」
「それはもう、怒られましたよ。五〇〇年もの間、待っていたのにって」
彼は匙を置き自分の肩後ろに手を当てる。
今は、形を取り戻しているけれど。魔王として立つために与えられた黒の翼。
その羽をねじり切られるくらいには激怒し、エリクスに衝動をぶつけていた。
まあ、怒られてもしかたないことをやらかした自覚はあるからこれは甘んじて受けるしかない。
「腹心である『魔王』が戻れば、僕らの役目は終わりだそうです。
その後は、マリカ皇女と『魔王』を連れて、今まで集めた力を元にして故郷に帰られる予定なのだとか。
だから、早く二人を奪い取ってこいとの仰せです」
『神』が目的を果たしてしまえば、我々は用済み。
衣住完備、三食昼寝付きの生活も終わりを続ける。
その日を少しでも遅くする為に今、自分達は暗躍している。
『神』の命令には絶対服従。かけられた契約の穴を探し、掻い潜り、敵と取引までやっているのだから。
「皆様が去られた後も、この城で生活することはできるのでしょうか?」
「それは難しいようですよ。この城ごと旅立つおつもりのようです」
「城ごと? どうやって?」
「僕らのような存在には知る由もありませんが……どうやらこの城の地下に何か秘密があるのかもしれませんね」
「地下……ですか?」
「ええ。この城は特別な場所なのだそうです。
『神』と直接繋がる経路があるのとは別に、多分『神』と『星』の起源に纏わる重要な何かがあるのでしょう。ここには」
呼ばれた時、用のある時以外は入れない最上階の『神』の間。
そして城の地下には、自分達が入ることのできない秘密の場所がある。
かつて、先代の魔王はこの城を戦地にすることを望まず、外で決戦に挑み、死したという。
『神』からもこの城に余計な人間は入れるなと厳に戒められている。
入っていけないと禁止されている部屋が『神』の間以外にがあるわけでは無いが、おそらく入ってはいけない場所には厳重に鍵がかけられている。自分達には開けることのできない鍵が。
例えば、地下に在る固い黒鉄の扉は、この紙と木と漆喰の城には似合わない程に頑丈で。
押しても引いても開かないが、側にガラスのような板があり、そこに何かを触れさせることで開きそうな気配だ。
「『神』にとって、僕らは所詮下請け、切り捨てても問題ないモノなのでしょうけれど、黙って切られる訳にもいきませんからね。これは、いつかどこかで、僕らにとって重要な役割を果たしてくれそうに思います」
そう呟くと彼は小瓶を服の隠しに入れる。
予想していたのとは違う彼の選択に彼女は目を瞬かせた。
「使って、力を取り込むおつもりでは無かったのですか?」
「変化は基本不可逆です。
一度、変わってしまったら元には戻れない。
今更かもしれませんが、僕にも矜持というものがありますからね。本物の力を使って、本物を上回ったとしても、本物に勝ったことにはならないでしょう?
逆に力や情報に飲み込まれてしまったら元も子もありませんし。慎重に行きます。
今の僕は、失うものが何もない昔の僕ではありませんからね」
「あん!」
意味深な笑みを浮かべ、立ち上がった彼は食事の片付けもそこそこに妻を抱き上げた。
軽い口づけを交わしながら寝室へと向かう。
「次の仕事はフリュッスカイトの新型機帆船だそうです。
新造船が簡単にこの島と城にたどり着けるとは思いませんが、あと少し、邪魔されるのは困ると仰せなので。進水式までまだ少しありますから、英気を養うとしましょうか」
「情報収集や準備などはいいのですか?」
「後で構いませんよ。
仕事や使命は大事ですが、その為に人生を縛られるのは違うと思うのです。
今だから、言える事ですけれどね」
彼がフッと嘲笑うのは過去の自分が、それとも別の誰かなのかは解らない。
ただ、雇われ魔王達は、己の欲望に忠実に生と今をを満喫している事だけは確かだった。
「リオン。本当にマリカを抱くつもりは無いのですか?」
「ああ。俺にはその資格がない」
使命と役割を前に、己を固く縛する本物の魔王と違って。
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