歓声もなく、音楽もなく。
マリカは一人、祭壇への道を歩いていく。
純白の刺繍が全面に施されたホルターネックのドレスの素地は、純白のヴェールと共に俺が用意したものだ。
いつか、アルフィリーガとの結婚式が叶うなら、その時に着せてやろうと、マリカが養女になった時からティラトリーツェに頼んで、最上の精霊上布を用意させていた。
腹立たしい。こんな場で着せる為のものでは無かったのに。
細い腕と足には、銀と金の鎖。
マリカの歩みに合わせシャラシャラと音を立てているが、豊かに揺れる胸元を飾る装飾品は何もなかった。
「胸がなかなか大きくならないんです。
お母様みたいにいつか大きくなりますかね?」
そんなことを不安そうに言っていたのは半年前だというのに、随分と女性らしい体つきになったと思う。
結い上げず、風に靡くままの黒髪は、ヴェールに隠しても零れる黄金の光をと共に静かに踊る。
ヴェールを押さえる額飾りはマリカの出生の証明となった精霊の額冠。
今の姿をを見れば、どんな恥知らずも冠の主を名乗ることはできまい。この額冠はマリカのもの。それを証明するように、主を完璧に輝かせ、その額で佇んでいた。
後、目立つの腰に帯びた飾り気のない短剣のみ。
長い道を歩み終え、祭壇下に待つ神官長に、一礼。
マリカは階段を上っていく。
素足でゆっくりと。
ふと、周囲が騒めいた。
「な、なんだ? これは?」
「前が見えない?」「いや、見えることは見える。でも……これは……」
と、突然、目の前の風景が変わった。
視界にマリカが映らなくなったのだ。
意味が解らず、慌てて目を擦っても視界は変わらない。
周囲を見回せば、皆同じようで、意味が解らず焦っている者が多い。
式場を取り囲む神官達も、国王達も、騎士達も。
もしかしたら、大陸全ての人間が同じものを見ているのかもしれない。
そう感じられた。
「マリカの視線ですわね」
静かに、ティラトリーツェが呟く。
純白の道を一人進んでいく。目の前に見えるのはただ、祭壇と蒼い空だけ。
そうか。
今、目の前に見えているのはマリカの見ている光景なのだ。
理由は解らない。
ただ、その時。震える足を、恐怖を。
必死に抑えて祭壇への階段を上っていくマリカ。
荒ぶることなく、誰を恨むことなく、死に向かう少女の感情を、視線を全員が共有していた。
マリカの心の中から溢れる、国への、大地への、想いと愛も、もしかしたら全ての人間に伝わっているのだろうか。
いいのか? 本当に?
誰もが自問自答する。
そうしている間にもマリカは舞台の中央に到着、スッと膝を付くと腰に帯びていた短剣を目の前に置いた。そして目を閉じ天を仰ぐ。
「どうか……人々の未来が輝きますように……」
無垢に祈りを捧げる娘の未来を犠牲にして、本当にこの大陸の、星の未来は輝くのか?
と。
「ダメだ!」
「大王様!!」
「やはり、彼女を失ってはならない!」
止めに走らんとするエルディランド大王を側近達が必死に抑えている。
俺も手を腰の剣にかけていた。
あと、一歩で走り出し、娘を祭壇から連れ出していたかもしれない。
「ライオ!」
「……アルフィリーガ」
目の前に伸びた親友の手が、遮らなければ。
気が付けば、義兄上、ヴェートリッヒ。父上までもが立ち上がり壇上を見据えている。
鞘から抜かれた銀の刃が、陽光を受けて煌めいた次の瞬間。
「マリカ!!」
少女の白い肌に、銀のナイフが触れた。
その瞬間、星の住人、アースガイアの民、全ては知ったのだ。
自分達が選択を誤ったことを。
不老不死を有する、全てのモノたちがそれを知った。
いや、思い出したのだ。
「い、いたい……」「なんでこんな痛みが?」
若く貼りのある肌は微かな抵抗の後、刃を受け入れ心臓に垂直に沈んでいく。
皮膚を裂き、心臓の筋繊維を刺し通していく。
ぷつぷつと、鈍い音がするのは血管が切れる音だろうか。
全身に走る激痛、吹き出す汗と血の感触までもが伝わってくる。
何百年も忘れていた、それは迫る死の感覚だった。
「あ……、こ、これは……」
マリカの視線だけでなく、苦痛と死の恐怖をも体験しているのだ、と気付いたと同時、彼らは、何かが体の中で動きを止めた、と感じた。
『貴方達は、間違ったのです。愚かにして愛しい、子ども達』
視界が再び奪われる。
ただ、今度、目に映るものは、今自分が見ているモノと多分近い。
俺は顔を上げ横に立つアルフィリーガを見やる。
漆黒の黒曜石のような両眼は、今、どちらも新緑に輝き、台の上を見つめている。
台の上には重力を忘れたかのように、宙に浮かび立つマリカ。
胸の中央に、ナイフを突き立てたまま。
純白から真紅へと変わったドレスを纏いマリカは、『神々』の意思を朗々とアースガイアに響かせた。
『私は『星』この大地、アースガイアの全てを生み出した星の母。
今、星に生きる、全ての子らの体内で、永遠不変の呪いは、その動きを止めました』
「な、何故ですか? 我々は『神』のおっしゃる通り『聖なる乙女』の命を『神』に捧げたというのに」
そう叫んだのは、ヒンメルヴェルエクトのアリアン公子であった。
他の王族達は、反論もできない重圧の中で、意見を言える胆力は一周回って尊敬できる。
だが、ゆっくりと目を見開き、そのエメラルドのような瞳に凍り付いた微笑を乗せてマリカは、いや『星』は頭を振ってみせた
『貴方達は試され、そして敗れたのです』
「試し?」
『そうです。審判だ、と告げた筈。
これは、貴方達の五百年を確認する為の試練であったのです」
「試練……」
『他者を思いやることができるか?
命の価値を忘れはていないか。
そして、何より。永遠の命を持つに相応しいか』
「ま、まさか! 皇女を生贄に捧げることが間違いであった、と?」
『そうです。何の罪もない娘を犠牲にして、何の呵責も感じない者に、永遠の命を持つ資格はない。『星』は『神』は『七精霊神』はそう判断しました。
アースガイアに住まう不老不死者、6,958,732人のうち、マリカの死に疑問を抱き、膝を付かなかった者はわずかに589人。
残りの人間全ては、少女に全ての責務を押し付け、死なせる事を良しとしたのですから』
国王達は息を呑み込む。
自国の王ですら完全には知らない、この星の民の数を熟知し、行動を把握しているとしたらやはり、今、マリカの身体に降り我々に語り掛けるモノはこの大陸の母。
『星』であるのだろう。その迫力、神々しさ。疑う者はいなかっただろうけれど、改めて思い知らさされる。
超常存在の大きさを。
「わ、我々は『神』の意思に従っただけです。それなのに!」
『盲目な服従を我々は望んではいません。
思い出しなさい。
そもそも、最初から一度たりとも言っていないのですよ。マリカを生贄に捧げれば、不老不死世が続くなど……』
「そんな……」
『貴方達は不老不死世を失うのを恐れるあまり、他の道を探すこともなく、抗う事もなく、思考停止しマリカを捧げた。
これは、全て貴方達が選んだ行動の結果です』
がくんと、膝を落とすアリアン。
『選べる道は二つだけ。不老不死を捨て去るか、マリカを生贄に捧げるか』
確かにマリカを捧げた先に不老不死があるとは言ってはいない。
卑怯な言葉遊びだと思うが星の『母』に逆らうことはできないだろう。
そもそも、彼女の言うことは全面的に正しい。
自らの私欲の為に、少女を犠牲に捧げたのは紛れもない人間なのだ。
冷ややかな眼差しとは正反対に、マリカの血で赤色に染まったドレスは彼女の怒りを表すように激しく燃える炎のように翻っている。
『無論、選択を誤ったのは貴方達だけではありません。
私達『神々』も多くの過ちを犯しました。何よりも大きな間違いは、不老不死を貴方達に与えたことでしょう。
不老不死によって永遠を得たことで、貴方達は歩みを止めてしまった。
人を思いやる心を、未来を夢見る希望を忘れてしまった』
押し黙るのはアリアンだけではない。
誰もが、心のどこかで気付いていたことであったから。
「ですが、我々は、近年食や科学を復活させ、未来へ歩みだそうと……」
『それを導いたのは誰です?』
「あ、それは……」
『我々が人々の為に送り出した愛娘、マリカを『神』に還そうとし、それを誰も止めなかった時点で、貴方達は未来より、今を選んだということなのでしょう』
彼は言葉を、失い顔を背けた。
誰一人、反論を紡げる者はいない、紡ぐ、権利のある者はいない。
『不老不死を望むというのであれば、他者の手を借りることなく自らの手で為しなさい。
かつて魔王を倒した勇者のように。
我が身を投げうっても、他者の幸せを願い、命を捧げた勇者から、貴方達は何も学ばなかったのですか?
不老不死世を再びと願うなら。
自らの意思と力で、その資格があると示しなさい。
少なくとも、今、貴方達は私達の期待を裏切った。
これ以上失望させないで欲しいと願います』
言葉だけ聞けば、柔らかく慈愛に満ちた聖母のように聞こえる。けれど、皆、感じているだろう。『彼女』の紡いだ『失望』
その言葉の意味に。
話は終わったと、言わんばかりの『星』は徐々にその圧力を薄めていく。
と、同時、マリカの身体も淡く溶ける様に色を無くしていった。このまま『星』と共に姿を消すのではないか?
誰もがそう思った時
「お、お待ちください!」
ただ一人、前に進み出た者がいた。
彼女の言葉を耳に止めたのか、『星』の周囲の色が戻る。
押しつぶされそうな、怒りの圧力も。
「大地の母たる『星』にお伺い申し上げます。
貴方様はマリカを……、我が娘をどうなさるおつもりでしょうか?」
『『神の国』に連れ戻ります。我々に捧げられ還ってきたのです。当然でしょう?』
「不老不死世の終わりは受け入れます。
ですが、どうか、マリカだけはお返し頂けないでしょうか?」
「ティラトリーツェ!」
向かい合う事さえ振り絞る気力を要する大地母神に、しかし怯むことなくティラトリーツェは向かい合う。けして、マリカの死を認めぬと真っすぐに運命を睨みつけた。さっきと同じように。
『自らの手で死に送り出しておいて、それはあまりにも身勝手ではありませんか?』
「解っております。ですが、マリカはまだたった十四年しか生きていないのです。
飽きる程の年月を生きた我々などよりも、マリカには生きる価値と未来があると存じます」
『人々に裏切られたこの娘に、未来があるというのですか?』
「あります。いえ、与えて見せます。この子は私と約束したのです。素敵な大人になると。
人々を支え、希望に導く大人になると。
どうか、マリカをお返しください!」
娘の為なら『神』にも向かい合う。
真摯で強い、母の祈り。
それには叶うべくもないが、俺もその横に進み出て頭を垂れた。
「俺からもどうかお願いいたします。誰かが命を捧げる必要があるというのなら、
俺が……」
「いえ、私が代わりましょう。
もっと早くにこうするべきでした」
俯く俺の横で強い意志が声を上げる。
「父上!」「義父様」
「『精霊の愛娘』。
我が孫の対価となれるだけの価値がこの老いぼれた命にあるとは思いませんが、マリカに未来を、光の道を歩ませたいと思うのは私も同じ。どうか『星』よ」
見れば、この場にあるほぼ全ての者達がこちらを向き、膝を折っていた。
義兄上、ヴェートリッヒは勿論、フリュッスカイト大公、エルディランド大王、シュトルムスルフト女王、ヒンメルヴェルエクトの大公も。
くすっ、と。空気が綻んだのを感じる。
偉大なる『星』母神の顔など当然見えはしない。
けれど、確かに何かが変わった気がした。
光が再び薄くなる。けれども、今度はマリカの身体は色を宿し始める。
血が抜け、蜜蝋のように白く染まった肌は紅色になって……。
『再び、我らが娘を子どもと侮り責を押し付けることはしないと誓いますか?』
「定命に戻りし我が命と大いなる『星』に賭けて」
『では、もう少し預けておくとしましょう。貴方達には借りがありますから』
「え?」
『こちらの話です。二度は与えぬ最後の機と覚えておくように。
私達はいつも貴方達を見守っています。
良き行いも、悪しき行いも。それを忘れる事の無きように……』
「マリカ!」
黄金の光の喪失と同時、視界が戻った。
マリカの身体が力を失い、宙より落下する。
それを燕よりも早く、祭壇に上り、支えたのは勿論、アルフィリーガであった。
砂糖菓子を扱うように柔らかく抱きしめたマリカを奴は俺達の腕へと運んだ。
胸に突き刺さっていた短剣が、カタリ、音を立てて地面に落ちた。
同時に、ぴくりと瞼が動き、レヴェンダ色の瞳が輝く……。
「お母……様。お……父様」
「マリカ!!」
この日、世界は不老不死を失った。
喪失の大きさに、人々は長い時を嘆き、荒れ、悲しんだ。
己の愚かさを悔い、天を仰ぐ者はその後も長く消えることは無かったようだ。
けれど、全てを失ったわけではない。
未来は、希望は、この手に残った、いや戻ってきたのだと気付くのにそう時間はかからなかった。
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