以前、アルを奴隷として扱っていたドルガスタ伯爵グラーデースが、私の誘拐と麻薬の使用で失脚してから領地を治めているのは、その夫人であるという。
「アルケディウスに輝く宵闇の星。マリカ皇女の前に厚かましくも顔を出す事をお許し下さいませ。ドルガスタ伯爵家 ビアトリーチェ、お呼びにより参りました」
「突然お呼びたてしてごめんなさい。
第二皇子 トレランス様からドルガスタ伯爵領の水源について話を聞いて、相談に乗って頂きたくて足を運んで頂いたのです」
「水源……で、ございますか?」
「ええ、とても美味しくて不思議な水が湧き出ているでしょう?」
「『泡の泉』の事ですか?」
「そうです。先日魔術師と確認させて貰いました。
麦酒作りには残念ながらあまり向きませんが、その水そのものが『新しい食』の主役の一つにできそうなのです。市場に出してみる気はありませんか?」
「あの泉の水が売り物に? 皇子妃様からのお話は冗談では無く?」
お母様が事前に話は通しておいて下さった筈だけれど、半信半疑だったのだろう。
伯爵夫人は目を見開き、硬直している。
「ええ、本当に。冗談では勿論ありません。
先日、魔術師と共に泉質の確認に行きましたが、少し注意すべき点はあったものの、とても良い水でした」
「お怪我や、体調の不良はございませんでしたか? あの近辺は、ごく稀にではございますが良くない空気が貯まり体調不良を訴える者があるのです」
ちゃんと領内の事を把握している。
そして私の事を気遣って注意してくれる。
伯爵夫人の誠実さが嬉しい。優しい人だなと思いながら私は首を横に振った。
「大丈夫です。
実は魔術師と共に確認に伺ったのですが、ドルガスタ伯爵の領地は、とても大地の力と恵みが強い土地だな、と感じました」
「そうでしょうか? 作物の実りも悪く、井戸や泉は不思議な熱を持ち飲み水に使えないところが多い。この木と緑の国アルケディウスにおいて、恵みに見放された領地だと感じておりましたが……」
「発想の転換ですよ。例えばご領地には暖かい湯の湧き出る泉があちらこちらにあるのでしょう?」
「はい、飲み水にもならない泉ですが」
「そこを、入浴施設とするのはどうでしょう? 貴族のように湯を沸かし入浴する設備をもたない庶民に開放したら喜ばれませんか?」
「森の中で……入浴を?」
「ええ、とても気持ちがいいと思います。一般の人が湯を沸かすのはお金もかかるし大変でしょう? でも最初から湯が沸いていたらお金がかからず身体を温め、清潔にすることができませんか?」
「……そのようなこと、考えたこともございませんでした」
「そして、あの『泡の泉』の水。喉に通ると泡が弾け、とても美味しく不思議な感覚でした。
『新しい食』に活用すればきっと色々な活用方法が生まれると思います。
例えば、このように……」
私は側に用意して置いて貰った水とキトロン、蜂蜜をグラスに入れてかき混ぜる。
同じボトルから注いだグラスが二つ。
「どうぞ。味を見てみて下さい」
そのうちの一つを夫人に向けて差し出し、一つを自分で毒見代わりに喉に通した。
微炭酸でうっとり甘くて、口の中に爽やかな泡が弾ける感覚は、美味しくて楽しい気分になる。
躊躇いがちに夫人も顔を上げ、立ち上がるとグラスを手に取り口をつける。
「まあ! これは……」
「どうです? 美味しいでしょう?」
「はい。泡の泉の水は飲用水として美味であるとはおもっていましたが、気泡が邪魔であるとも。
麦酒にすれば気にならないかと売り込んで見ましたが、まさかこのような使い方が?」
頷く顔に驚嘆が浮かんでいる。
領主様はあんまり森の泉で水を飲んだりなんかしないだろうから、かえって新鮮かもしれない。
「合わせる果汁などを変えれば、味わいも変わります。
ぜひ、ゲシュマック商会も、秋の大祭の目玉に使いたいと申しておりました」
「ゲシュマック商会が……」
「ええ、良ければ検討して頂けませんか?」
私の問いと共に炭酸水を見つめていた夫人は、いきなり私の前に再び膝をつき、静かに目を閉じた。
小さく瞬きを一回、再び私を見つめる目には不思議な決意が宿っているように思えた。
「どうなさったのですか? 何か不満や心配でも?」
「怖れながら、皇女様。この契約と事業にあたり、ゲシュマック商会のアルを買い取ることを条件としたい、と言うのは不遜がすぎますでしょうか?」
「アルを?」
「はい。私とグラーデースの間には子も無く、後を継ぐ者も私を助ける者もおりません。
アルがもし、我が領地に戻ってくれるのであれば、奴隷の身分では無く、私の養子待遇で迎え入れ、事業の全権を委ねたいと思っております。
どうか、皇女様からゲシュマック商会にお口添えを……」
彼女がアルを気に入り養子にしたいと申し出ている、と言う話は、伯爵との騒動と逮捕の時に聞いていた。お父様は悪い話では無いとも言っていたけれど……。
「アルが手に入らないなら契約はできない、と言いますか?」
我ながら少し厳しい声が出ていると思う。ちょっとイラっというか、ムカッと来た。
「なら、この話は無かった事にして貰っても構いません」
「い、いえ……そんな、そんな事は!」
夫人は慌てて首を横に振る。自分で言うのもなんだけれども、この話はアルケディウス大貴族最下位のドルガスタ伯爵領にとっては、皇族の覚えがめでたくなり、『新しい食』の事業に良い位置で参入できる起死回生、喉から手が出る程に欲しいチャンスで逃したくない筈だ。
ここで手を引かれたら困る、と彼女は全身で告げているのが解るけれども、なら交渉すべきポイントと、相手が違うよ。
「勘違いして貰っては困るのですが、既にアルは奴隷の身分ではなく、教会に登録された準市民です。保護監督者としてゲシュマック商会のガルフが後見していますが、諸外国との契約を任される商業責任者であり、納税者です。国は彼に保護を与えなくてはなりません。
彼の意志を無視した命令は皇族であっても簡単にはできないのです」
「は、はい」
「加えて、本人には一度同じ提案をし、拒否されているのでしょう?
言葉は悪いですが、夫が飼っていた少年奴隷を、妻が養子にしたら醜聞になりませんか?」
「アルも……そう申しておりました」
「その上で、アルにドルガスタ伯爵家に来て欲しいと望むのであれば、交渉相手は私ではなくゲシュマック商会 アル本人だとおもうのですが……」
「仰せの通りでございます」
ズルいやり方だな、と自分でも解っている。
身分を盾にして言い返せない相手を苛めているような気さえする。
でも、今後、長くドルガスタ伯爵家とビジネスパートナーとして協力関係を築いていきたいと思うのなら、ここは引いてはいけないのだ。絶対に。
「私は、ドルガスタ伯爵に若干の恨みはあっても、それを貴女や領地にぶつけようとは思いません。思っていたら、このような提案はしません。
同じ故国を支えていく者として、誠実に接したいと思っています」
「それについては、心より感謝しております」
「であるなら、貴女にも同じように望むことはできないでしょうか?
過去の恨み、思い、私欲は置き、互いを尊重して共にアルケディウスの発展の為に力を尽くしたいと思うのですが」
私の生意気かつ上から目線の指摘に、伯爵夫人は怒らなかった。
私の身分が上、ということも在るのだろうけれど、真摯な眼で私を見つめると深々と頭を下げた。
「万事、その通りにございます。私欲に目が眩み愚かなことを申し上げたことをどうかお許し下さい。そして改めて取り潰されても仕方ない罪を犯しました我が領地への、ご厚情に心から感謝し、契約をお願いしたく存じます」
「アルの件については条件から抜いて構いませんね?」
「はい。本当に失礼を致しました」
「アルには、そのような打診があったことは伝えておきます。もし、アル自身が伯爵家に入ることを望む時には誓って邪魔をするようなことはしません」
「よろしくお願いします。
私は本当にあの子を救えなかった事を後悔しているのです」
多分、伯爵夫人は本当寂しくて、苦しいんだと思う。
支えてくれる部下はいるかもしれないけれど、夫を失い周囲がほぼ敵の状況下で一人で領地を回さなければならない。
信頼できる存在に側にいて欲しくて、アルを求めたのだろうと、いうことは解らなくも無い。
アルにはそれだけの価値がある。
でも、アルの人生はアルのものだ。
例え、親であろうと、奴隷として買った飼い主であろうと、雇い主だろうと、国王だろうと彼が選んだ道を邪魔する事は許さない。
アルが欲しいというのなら、アル本人に誠実に頼めばいい。
私は大事な家族である彼の意志を、絶対に守ると決めている。
人を人に頼んで譲る、寄越せとか、そういうはありえないから。
そうして、ドルガスタ伯爵家とアルケディウス皇王家は正式契約をした。
必要な分の炭酸水を採取する代わりに年間金貨十枚を支給し、伯爵家を支援する事を正式に表明する。
ものが水だから、そんなに大金ではないけれど、皇王家の後ろ盾と合わせ、少し呼吸がしやすくなる筈だ。今後、人気が出て需要が高まれば領地のイメージアップにも繋がるだろうし。
私的には新しい素材が手に入ったので万々歳だけど。
ちなみに夫人からの伝言を伝えた。アルの返事は
「伯爵家に入る? やなこった。せっかく自由にあれこれできるようになったのに」
だった。
だよね~?
というわけで、修行してやり直して下さい。
人は子どもも、大人もやりとりできるモノじゃないんだよ。
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