オレは、今、どうなっているのだろう。
エリセが誘拐され、彼女の開放と引き換えにこの身を奴らに預けた。
その後、意識を刈り取られたけれど。
意識が戻った時、エリセの無事と共に、最初にそれを考えた。
身動きはまったくできない。
水の中に沈められているような感覚で、手足も身体も地面に多分接していない。
確かめることもできない。全身の感覚が奪われて、身動きできない。
眼も開けられない。
ただ、何かと繋がっている。繋げられている。
そこから、何かが引き出され、何かが奪われ、注ぎ込まれて行くのが解る。
耳の奥で聞こえるのは何かが泡立つような微かな水音。
そして耳を通してでなく、繰り返し繰り返し囁かれる言葉。頭の中で響き続ける。
オレは一体、何をされているのだろうか?
状況全てが理解や想像の向こう側にありすぎて、抵抗する事さえできない。
『思い出せ。お前はあるべき場所に戻ってきたのだ』
だれだ、貴様は?
唇も動かなかったけれど、吐き出す思いは聞こえたようだ。
『私はお前の親。お前を導き、正しい道へと進ませるものだ』
オレには親なんていない。
精一杯否定するけれど、声は聞く耳を持たない。
『お前は星の子。あり得ぬ奇跡の果ての最後の子ども。
お前には、私に従い故郷に帰る義務がある』
知るか! オレは全身全霊で拒絶する。
思い出に縋りつくオレは叫んだ。オレの故郷はアルケディウス。もっと正確に言うなら魔王城だ。
リオン兄や、フェイ兄。マリカや弟妹と一緒に暮らすゲシュマック商会と魔王城こそが帰る場所だ。と。
『お前の母の、父の願いを無にするのか?』
『数千、数億の人間の歴史と思いをお前は背負っているのだ』
でも、語りかけはオレの意思を無視して、抵抗を強引に組み伏せオレの中に潜入、蹂躙していく。
まるで、肉体と尊厳を奪われ続けたあの奴隷の日々のように。
オレを作り替えていく。
『この世界は、お前にとって優しくはなかっただろう。
忘れてしまえ。ここは、お前の居場所では無い』
こぽっ、と。
大きく泡が立つような音がした。
身体の感覚は殆どないけれど、多分、背中が微かに熱を帯びたような気がする。
と同時、何か、とても大切だったものが失われたのが解った。
『奇跡の子。お前は帰還の最後の鍵。
精霊達は、誰もお前を傷つける事あたわず』
意味が解らない。なんで、ここにいるのがオレなのか。
オレは人間だ。
兄貴達のような特別な力を持たないただの人間。
『そうだ。お前は人間だ。
当たり前の。
であるからこそ、意味があり、価値があり、役目がある。
星に選ばれた、最後の愛し子よ』
懸命に手を伸ばす。
けれど、届かない。
絡みつき、染みこみ、オレという存在が知らないナニカに上書きされて行く。
『二つの星に生誕の恵みを与えられたお前は、新たなる星の導き手に相応しい』
魔王に支配された時のリオン兄も、こんな感じだったのだろうか?
無性に腹が立つ。人の身体を、心をなんだと思っているのだ。
いや、きっと何とも思っていないのだ。
大切だと言いながらも、結局は道具としか見ていない。
『抗うな。運命を受け入れろ。そして帰るのだ。
今は遠い我らが故郷も、お前達がいるのならきっと手が届く』
目を閉じたら、きっと次に目を開けるのはオレじゃない気がする。
そんな確信めいたものを感じ、オレは、『オレ』を呑み込もうとする力に全力で抗いながらも……飲み込まれていった。
助けてくれ! 兄貴! マリカ!!
必死で訴えかける。
『案ずるな。そう遠くないうち、お前達兄妹はまた、揃う。
お前が、あいつらに保護されたのも運命だったのだろう』
『そして、新たなる大地へと旅立つ、いや、帰るのだ』
この自分の事しか考えていない自称『親』に
オレの思いは、声は届かないと知っていたけれど。
◇◇◇◇◇
「おかえりなさいませ。エリクス様」
『神』の呼び出しを受け、戻ってきた直後。
出迎えた妻にして片割れたる魔王を抱きしめ彼、エリクスはそっと囁いた。
「ノアール。手伝ってくれる気はありませんか?」
「はい。何をすればいいのですか?」
一瞬の逡巡も躊躇いもなく頷いてくれた愛妻に、彼は一瞬目を見開き、そして微笑とも苦笑とも言えぬ笑みを浮かべた。
「自分で言っておいてなんですが、何を手伝って欲しいか聞かないのですか?」
「別に聞かなくて構いません。私は、貴方を手伝うと決めているのですから。どんなことであろうと寄り添い、共に歩く。それが夫婦というものでしょう」
頼もしい妻の返答に感謝を込めて頷くと、エリクスは話し出す。
今日、預かってきた一人の少年について。
「先ほど、外から預かったあの子を『神』に引き渡してきました」
「あの子、というのはゲシュマック商会の少年ですか?」
「ええ。貴女は旧知でしたか?」
はい、と彼女は頷いて見せる。
「魔王城や仕事の関係で顔を合わせることはありました。深く知り合っている、という程ではありませんけれど。あの少年に一体何が?」
「彼は、失ったと思っていた純血の子だそうです」
「純血の子?」
「ええ。アルフィリーガや、最悪の時には僕を使う予定だった最後の仕上げの時の器に、あの子を使えると随分とご機嫌でしたよ」
「器、ですか?」
夫の話に妻は、無意識に眉根を寄せてた。
子どもに、いや人間に対して、器とはあまりにもよろしくない表現だ。
「『神』は暫くの間、彼の『治療』に専念するそうです。
この城の最上階にあんな部屋があるとは知りませんでした」
いつも『神』に自分が接触する時、招かれる最上階は白一色の部屋。
でも、今日だけはその白が解かれて、不思議に硬質の色合いをした、別の部屋になっていた。
連れてきたあの子どもを、自分はその部屋で不可思議で巨大な瓶の中に納めるよう命じられたのだ。
服を剥いだ少年を、台の上に立たせ、固い線で繋げば、不思議なガラスがせり上がり水のような液体が満たされた。自分が見ることが許されたのはそこまでだけれど。
液体に沈められて死なないのかと思ったが深く考える間もなく自分は部屋の外に追い出されていた。
あの部屋は、明らかにこの城の在り方にそぐわない。
「一体何をしているのか? 僕には理解の外側ですが
今が機会だと思うのです」
「機会、ですか?」
「『神』の秘密を掴むまたとない、唯一無二の」
「つまり、あの子どもに『神』が気をとられているうちに、地下に忍び込んで『神』の秘密を探ってくればいいのですね」
「いつもながら聡明で話が早い。そういう貴女が好きですよ」
男は女を抱きしめ頷いた。
「僕は『神』に逆らう事はできません。敵対行為不可の制約がかけられていますから」
エリクスはここ数年で、どこまでが禁止行為か、ギリギリの線を図ってきた。
命令に背く行為を行えば、脳を割るような痛みに襲われ、暫く動けなくなる。
でも、妻であるノアールにはその制約がかけられていない。
手足として動いてもらうことはできるのだ。
本来、七つの精霊の力を操る魔術師であるノアール。
もっと警戒していい筈なのに『神』はまったく興味を示さない。
配下に望まれて与えた番、女、程度にしか見ていないのだろう。
嘆息が零れた。
『神』にとって我々など眼中にないことがよく解る。
だが、今はそれが好都合だ。
「どうやら最終局面に入り『神』は本気で何かの準備を始めたようです。
預かっていた魔性も、ほぼほぼ回収されてしまいましたから。
今の僕は魔性を持たない『魔王』です。遠くない将来、お役御免になるでしょうね」
でも、その前に自分達の身とこれからを守る切り札が欲しい。
とエリクスは妻に訴える。
「秘密の扉、その先を調べて下さい。何か見つかるかも」
「解りました。やってみます。鍵を開ける方法はあるのですか?」
躊躇うことなく頷いてくれる彼女に、エリクスは小さな瓶を手渡す。
「これを試してみてください」
「これは、アルフィリーガの血?」
「ええ。どうやらこの城の扉は、生体の差異を読み取って開くようです。
この血を手袋に浸して読み取らせれば誤作動を起こせるかも」
「失敗する可能性もありますが?」
「その時はその時です。流石に本人達を連れてくる訳にもまだいきませんし」
「解りました」
「あとは、これを『神』から預かった情報収集用の道具です。
この道具は、写したものを一時的に記録し、後で見ることができます。一度しか使えませんが」
瓶と一緒に渡された小さな、豆粒のようなものを彼女は手の中で転がした。
これと似たようなものを見たことがある。マリカ皇女の手紙の中に入れろと言われたものと。
「あれは、盗聴用。声を集め、こちらに運ぶ機械です。無いよりはマシ程度のものですけどね。開封直後の皇女達の話を少し聞くことができました」
「そんなこともできるのですか?」
「『神』のお力は底知れませんよ。普段は魔性に入れて、情報収集に使ったり、外にいる子ども達と連絡を取ったりするのに使っておられるようです。まあ、もっといい運用の仕方があるんじゃないかとは思うんですけどね」
『神』はただ一つの目的の為に専心し続けている。
エリクスは哂う。
他の事はただの通過点であり、自分達のような『子ども』ではない者はただの道具に過ぎないのだろう。
「でも、道具には道具の矜持があるのです。いずれ捨てられるにしても、その後の事を考えて手は打っておきたいと思います。頼みますよ」
「解りました。愛しい貴方」
そうして、黒き魔王は見ることになる。
自分達の住まう城下。固く閉ざされた秘密の扉の先で。
「こ、これは……」
広くて暗い、鋼の空間に無数に並べられたガラスの棺。
そしての中で眠るように目を閉じる、子ども達の姿を。
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