この世界に来て、生まれて初めて、私は旅行というものをすることになった。
向こうの世界ではまあ、それなりに旅行をする機会もあったけれど、こっちの世界に来てからはほぼ皆無。
魔王城からアルケディウスの往復で、アルケディウスから出たこともまだ無かったのだ。私は。
馬車揺られて王都からロンバルディア候領の主都まで。
そして、そこからは徒歩で郊外にあるという視察を頼まれた荘領地まで。
火の一月。
初夏のアルケディウスもかなり暑い事を差し引けば、碧輝く街道を馬車でのんびりと行くのは多少の退屈はあってもそれほど悪くない旅であった。
「ありがとう。フェイ。精霊達に頼んで馬車の振動減らしてくれたでしょ?」
「舗装されていない街道は、けっこう衝撃が激しいと知っていますからね」
さりげなくも優しい肯定に私は微笑んだ。
中世世界の馬車だ。
まだサスペンションとかなど期待する余地はないし、フェイが助けてくれなかったらけっこう大変な事になっていただろう。
「そういえば戦に行った時はどうだったの?」
思い出したので二人に聞いてみる。
二人は隣国との国境まで行ったことが在った筈。
「ライオや上位連中は馬や馬車。俺達は当然徒歩だ。
馬を使う連中も徒歩と合わせるからそんなに早くも無いけどな」
なるほど、大軍を指揮するんだもんね。
流石の皇子も独断専行はしないか。
「二人は馬に乗れる?」
「できなくはない。この身体になってからやったことはないけど、多分できると思う」
「僕は自信がありませんね。ドライジーネや魔術を使った方が早い」
私達だけだったらドライジーネで突っ走るという手もあったけれど、今回はリードさんと案内役さんがいる。
荷物もある。無理はできないだろう。
「しかし、荷物が重いな。何を持ってきたんだ?」
「私達のご飯と荘園の人達へのお土産。セフィーレのジャムと、パン。
小麦粉とあと、酵母ね」
徒歩になってからガチャガチャと煩さ重い荷物はリオンとフェイが持ってくれている。
私は割れないように厳重に包んだ酵母の瓶を肩下げカバンに持っているだけだ。
「小麦は、もし荘園にオーブンかパン焼き釜があればパンを焼いて差し上げたいなって。
それから、多分、そこが思った通りならパン酵母は役に立つかもしれない」
「酵母が? なんで?」
リオンは首をかしげるけれど、ちょっと説明が難しい話になる。
「しかし、本当にまだ残っていたのでしょうか?」
「残っていたとしたらとても凄い執念だと思います」
旅程の七割を過ぎ、街を抜け、森に入り、細い、かろうじて道(?)という土の線を歩く私はリードさんと顔を合わせた。
麦酒。
私達はロンバルディア候から視察を依頼された辺境の荘園に、それが残っていると推察している。
人類史とほぼ同じ歩みを辿ってきたと言われるお酒の歴史。
最古はおそらく蜂蜜が自然発酵した蜂蜜酒から。
そして後に醸造酒が生まれ、人は様々な穀物、果実を醸して酒を作るようになった。
アルコールが与えてくれる、全てを忘れらせる多幸感は人の生きる原動力だという証明だと思う。
勿論、行き過ぎないことが大前提、だけれど。
パンを作るのと近い材料でできるから、麦酒は人にとってもっとも身近な酒の一つだったと聞く。
食生活が死滅したこの世界で、麦や果物が雑草扱いと聞いて、私は本当に、お酒も無くなってしまったのかと驚いたくらいに。
エール、ラガー、さらには行程が少し違うけれど、蒸留、熟成させたウイスキーというお酒もある。
私だって、成人していた向こうでの保育士時代。
少しはお酒を嗜むことがあった。
二日酔いの顔で子ども対する訳にはいかないから徹底して自制はしていたけれど。
ビールやチューハイで心と身体の疲れを癒した事はあったのだ。
今、この世界には神殿が管轄して作成、販売する葡萄酒しかお酒は存在しない。
存在しない名目になっている。
だから、もしそれが残っていたのだとすれば、秘密裏に、大事に大事に守って来たとしか考えられない…。
「あ、ご覧になって下さい。ここからが、エクトール様の荘領地となります」
案内役さんが道の脇、小さな杭を指し示す。
と、同時。
「?」
フェイが何かを感じた様に怪訝そうな顔を空に向けた。
「どうしたの? フェイ?」
「魔術師…精霊術士がいる、というのは本当のようですね。今、微かですが結界の気配を感じました。
侵入者の訪れを術者に伝えるドアベル程度の意味しか持たない、薄いものですが」
「精霊術士を抱えてるんだ。かなり本気だね」
「どうする?」
領主様の許可を得ての訪問だから、一応不法侵入ではない。
「このまま行こう。相手が出てきてくれるなら話は早いし」
そのまま森を歩き行くこと約一刻。
「うわっ」
突然変わった風景に私は仰天した。
一気に目の前が開け、広い野原に変わったのだ。
見渡す限りの金色の風景。
「凄い…綺麗な畑だね」
丁度収穫を終えたところなのだろう。
高くはさがけされた小麦が、天日に干されている。
刈り取りが終わっているからはっきりとわかるけれど、これだけ広いのに雑草の一本も生えていない。
丁寧に丁寧に、大切に育てられてたのが見えるようだ。
天日干しの麦穂に触れると、驚くくらいきっちり入った実。
本当に美しいとしか言い様のない畑だった。
「見て下さい。マリカ」
杖を取り出したフェイが私達にふわりと精霊の魔術をかけた。
刈り取りが終わった畑。
見ればその真ん中に、美しい女性が立っている。
その周囲には小さな子ども達が躍るように戯れて…まるで夢の様に美しい風景だ。
「彼女は? 今までいましたか?」
リードさんは目を瞬かせるけれど、私には、私達には解った。
長く大地まで振れる麦穂色の髪、金色の瞳。
若くはなく妙齢と言える風情ではあるが、人を惹きつけずにはいられない、美しさを湛えている。
似た色合いの子ども達を見守るように微笑んでいて…
精霊だ。
この地を守る大地の、麦畑の精霊だと、直ぐに理解できた。
『お初にお目にかかります。
星の導き手たる皆様方』
「え?」
私達に 気付いたのだろうか。
精霊はこちらを向いて頭を下げた。
子どもの姿をした精霊達も彼女の周囲で、ぺこりと可愛らしいお辞儀をする。
「精霊がしゃべった?」
「精霊? あれが精霊というものですか?」
驚嘆の眼差しを向けるリードさんじゃないけれど、私もちょっとびっくり。
今まで自然の精霊を見せて貰ったことはあったけれども、それはほんの小さな妖精のようなものが殆どでここまで、はっきりとした姿を纏う精霊は見たことが無かった。
この大地の精霊にしても、その周囲の子ども達にしても。
「フェイが精霊に力を貸して姿を見せているのではなく?」
「僕は視覚を一時的に精霊達の世界に合わせただけです。
精霊の成長は、年月と、かけられてきた愛情に比例します。
この大地の精霊も、周囲の麦の精霊達も本当に、手をかけ愛され守られてきたからこそ、ここまでの力を持ったのでしょう」
魔術師の言葉に納得した私は、注意してあぜ道を歩き、彼女の、大地の精霊の側に近付いていく。
「はじめまして。大地の精霊。
私はマリカと言います。
この地の住人たちに用事があって参りました」
私の言葉を耳にした大地の精霊の顔には、人と同じであるのならはっきりとした憂色の色が見える。
『あの方達に何用ですか?
今の世に求められぬモノを作ったと罰しにいらしたとか?』
「いいえ、心配しないで。その逆です。
彼らの努力を世に広めたいと思って話を聞きに来たのです」
やっぱり精霊達も人と同じか、近い感情があるのだと思う。
私の言葉に精霊は明らかに愁眉を開いた様子で笑みを浮かべると、私達にお辞儀をする。
『であるなら、どうか彼らをお願いします。
長き、長き年月、信念と我らを守り続けてきた彼らにその努力に相応しき、光をお与え下さいませ』
彼女の真っ直ぐな視線には覚えがある。
魔王城の精霊。私のエルフィリーネが私を案じてくれている時のそれとほぼ同じ。
主を思う真摯で優しい精霊の献身に嬉しさが胸に溢れて来る。
人と精霊はまだこんなにも絆を育むことができるのだ。
「出来る限りの事は致します。
ですから、少しお話を聞かせて…」
「マリカ! 下がれ!」
「え?」
私が大地の精霊と話をしようとした正に、その時の事。
リオンが、私と精霊を背に庇う様にとび出した。
構えるのは青いカレドナイトの短剣。
「ど、どうしたの?」
「魔性だ。どうしてこんなところに?」
「え? 魔性?」
リードさんと案内人さんをフェイがリオンの背、私達の方へと誘導して来る。
その視線は空へと。
見れば上空を舞う黒い影が三、四つ。
普通の目から見れば、普通のトンビか鷹にしか見えないけれど、フェイによって、精霊に視線のチューニングを合わせている今はよく解る。
彼らを包む、黒い影が。
『また、来たのですね。
子どもらを狙う黒い意思が』
「え?」
「行くぞ。フェイ!」
「解りました!」
精霊の哀切の眼差しの理由を聞くより早く、リオンとフェイ。
精霊の守護者と魔術師は、敵と断じた、黒い影に真っ直ぐに飛びかかって行った。
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