大聖都。ゲシュマック商会科学部。
執務室にノックの音が響き渡る。
「どうぞ~」
入ってきたのは研究開発部の女性だ。シュライフェ商会から出向している衣料品担当。
「統括。皇女に頼まれたものの試作品ができましたよ」
「頼まれたもの? 色々ありすぎたけど、何ができた」
「今回はゴムです。ゴム紐とそれを使ったスカートやズボンなどの衣服の作成ですね」
「あ、それか! 解った。今行く!」
ゲシュマック商会大聖都支部を預かるオレは、書類作業の手を止め立ち上がった。
横でオレの仕事を手伝う、基監視するクオレが止めにかかるけれど
「アル! こっちの書類の確認、まだ終わってない!」
「新商品の精査の方が先だろう? マリカが帰って来るまでに準備を整えておけば許可を得てからすぐ生産に入れる。早ければフリュッスカイトやヒンメルヴェルエクトの大祭で売り出せるかもしれないし」
「……解った。俺も行く」
利と理の判断が早いのはこいつの良い所だ。
俺達は早速、研究室に向かった。
研究室は大聖都の外れの一角を借り切って作られている。
鍛冶工房や、服飾工房、ガラス工房も併設されている。
室というよりも研究所かな?
大聖都を仕切る大神官と、神官長の肝いりで新設されたので設備もいいし、明るく環境も整えられている。
「……これがゴム紐です。ゴム樹液を薬品と混ぜてを細く伸ばし筒状にして、加熱後、細切りにしたものです」
「へえ、随分細くできたんだな。うん、伸びもかなりいい」
「炭酸カルシウムを充填剤として使用しました。その為伸びが良く、長靴や手袋への応用が期待できます。硫黄を混入してからの押出成形の機械作りや、加熱の温度の設定に試行錯誤を重ねたので、苦労はしましたが、かなり良い出来になっていると思います」
「本当に頑張ってくれたな。きっとマリカ……様も喜んで下さると思う」
「ゴムで作った紐? この細っこいのが? 貴重なゴムをなんでそんな加工するんだ? タイヤとか、もっと優先して使う所があるだろう?」
研究員が苦労して作って見せてくれた試作品に文句をつけるクオレ。
こいつは完全な経理畑なので、まだ科学部の、優先研究について話して無かったっけか?
「お前、この研究の価値が解らないのか?」
「価値ってなんだよ? ゴム樹液は、まだプラーミァの独占素材だ。
どの国でも喉から手が出る程に欲しがってる。
ゲシュマック商会だって、無駄遣いはできないんだぞ?」
「マリカからの要請で研究して貰っていることを無駄って言うな!」
「へ? マリカ様の要請?」
「すまない。アレをもってきてくれないか?」
「はい。解りました」
研究員が書棚から文書綴りを持ってきてくれる。曲がらないように気の箱の中に大事に入れられているそれは、マリカからのアイデア、というか依頼文書だ。
「これはなんだよ。アル」
「マリカが作った、科学部で優先して開発を目指して欲しいもののリストだ」
上質な植物紙に描かれたそれは、マリカが『神の国』チキュウ? だっけ。
向こうの世界で作られていたものの中で、こちらで再現を目指して欲しいもの。
がイラスト付きで書き出されている。フェイ兄が読み解いた精霊古語の文書の添え書き付きで。
このリストを見る度、チキュウという遠い星は便利な世界だったんだな、って思う。
プラスチック、という石油から作った変質しにくい素材と、それで作った衣服や容器。
金属を他の鉱物と混ぜ合わせて強化した、ステンレスを始めとする錆びにくい金属。
そしてゴム。今はギルド長のマチーリア商会が自動車やトライジーネのタイヤにする為に金に糸目をつけずに購入しているけれど、手押し麦刈り機や馬車のタイヤに引っ張りだこになっている。そんな素材が山のようにあって便利に、誰でも使えていたなんて
「マリカはゴム素材をできるだけ日常使いにできるようにしたい、と考えているんだ。
ゴムの手袋は柔らかい素材でありながら、手を危険な作業から完全に守るし、ゴムの底の靴や長靴は便利さや歩きやすさが倍増するし。遊具としてのボールはまだちょっと早いと思うけれど」
「それは……まあ、解るけどこんな紐状にして何の役に立つんだ?
しかも服に使うっていうんだろ? 服のどこに使うんだよ?」
びよよん、と手の中でゴム紐を弄ぶクオレ。やっぱり奴はこの便利さを解ってない。
オレは研究員に視線で合図すると試作品を持ってきてくれた。
差し出されたのは、ズボンだ。
「ほら、見ろ。これ」
「へ? ズボン? これがどうして……?
ってこれ、腰回りが広がる?」
「そうだ。今の時代のズボンや服は、基本身体にぴったり合わせるオーダーメイド。
腰回りは軽く紐で調節するくらいで、ボタンやホックでぴったりと止めている。
身体に合わなくなったら古着屋で売るしかないだろう? でも、ゴムを使えば身体に合う上に、多少の体型変化にも対応できる」
「服の着脱なども格段に楽になると思われます。それにこのゴム紐で結べば、多少の遊びを許容しつつ、普通の紐より丈夫にものを纏めることができるでしょう」
「ゴム紐に顔料を混ぜたり、布で包んだりすれば貴婦人が髪を纏めやすくもなりますし、色々と応用範囲が広がると思いますわ!」
研究員達、特にシュライフェ商会から派遣された服飾関連の者達の目の輝きは凄い。
彼女らの圧力に押されるようにクオレは反論する。
「でも、さ。別にそこまでしなくても……
服は体に合っていた方が見栄えもいいし、サイズが合わなくなれば買い替えれば……」
それは確かにそう。
でも、マリカが想定している利用者層はちょっと違うのだ。
「別にそういう服を着たい人や着れる時は、それでいいと思う。
ただ、マリカはさ、自分で服が着れない人や、着にくい人、着にくい状況のためにこういうのを実用化したいって言ってたんだ」
「自分で服が着れない?」
「そう。例えば子ども。まだ指先が上手く使えない時、ホックやボタンを留めたりするのは大変だろ? 身体が直ぐに大きくなるし……」
「あ、そうか……」
「それに最近は妊婦の服の需要も増えております。腹部の伸びに対応できる下着はきっと喜ばれるでしょう」
「高齢者など身体が思うように動かない人にも福音となるやもしれません」
貴族の服などは一人で脱ぎ着できない構造になっているものもある。
装飾に凝った服を、着せて貰える立場の人間はいいけれど、そうでない人間が圧倒的多数だし、何かがあればそんな当たり前の事さえ、できなくなることもある。
だから、誰もが利用しやすいものを新技術、科学の力で作って欲しい、とマリカは言う。
『衣・食・住っていうくらい人には身に着けるもの。
衣服って重要だしね。どんな時でも裸ではいられないからいざという時に、どんな人も困らないような服ができたらいいなって思うの。
そんなことを考えるきっかけは、成長変化の時、身体が服に合わなくて壊しちゃったりしたことなんだけど他にもまあ、いろいろと思い出して……ね』
呟くマリカはどこか遠くを見る目をしていた。
「皇女で何不自由なく生活しておられるわりに、マリカ様はそういう『困った時』の想定が細かくていらっしゃるよな」
「そうかもな、香りのする石鹸をフリュッスカイトに依頼したり、プラスチックの安価製造もシュトルムスルフトと相談したり」
「持ち運びできる小さな鍋とか、野外でも煮炊きができる小型の竈とかもだろ? 非常用の食糧備蓄もなるべく粉にしてから保存するようにとか、保管は一年ごとにして新しい物が手に入ったら、古いものを使うようにするとか。どうして皇女があんなことを思い着くんだろう?」
「マリカも生まれついてから皇女だったわけじゃないしな」
「ああ、そうか……。失礼な事を言ったかも」
元孤児で奴隷扱いされていたことは勿論だけれど、マリカが考えているもの。気にしていることはそれだけではない気がする。
「この星は『精霊神』様やステラ様に守られているけれど、それでもいつ、何が起きるか解らないでしょ。地球がたった一日で、半滅亡に追いやられたように」
特にアースガイアの真実を知ってから、あの夢を見てから、マリカはいざという時について前よりこだわるようになった。
「当たり前の日常、って当たり前のように見えて、当たり前じゃないんだよ」
魔王城の兄弟達にもよく、そんなことを口にする。
「今日と同じ明日が来て、明日のその次があることはとても幸せな事なの。
だから、私はそんな日々を守りたいと思うし、万が一の時の為にできることはなんでもしておきたいと思うの」
そんなことを話す時のマリカは、凄く大人びた目をする。
たった一日で、今までの常識や日常が消え失せることがある。
自分の力や意志ではどうにもならないところで、平穏な日常が終わることもある。
消え失せた、背中の傷はもう痛むことは無いけれど心には今も刻み込まれている。
オレでさえ、そんなことを幾度も体験してきた。
母親の知識と記憶を受け継いだというあいつは、オレ達よりもそれを知っているのだろうか?
だからこそ大切にしたいと思うのだろうか?
この当たり前の日々を。平凡で眩しい日常を。
「とにかく、よくやってくれた」
とりあえず、俺はゲシュマック商会科学部統括として、新開発に成功した研究チームを労った。マリカのするように。
「世界の技術がまた一つ、大きく進歩したんだ。
後で、差し入れとボーナスを弾む。これからも、頑張って欲しい」
わあ、と嬉しそうな声が弾ける。
誠実に働く人間に対して、経費と報酬を惜しむな。
彼らを守るのが上司の務め。
そう、ゲシュマック商会はマリカに教えられ、心がけてきた。
だからこそ、数年でアルケディウス指折りの大店となり、世界でも一目置かれる商店になったのだ。
「衣料班はマリカがアーヴェントルクから戻るまでにゴム紐の衣服については試作品を色々な面から完成させて欲しい。技術班は製型機の図面起こしと複製を。
それからステンレスの缶詰の研究も並行で頼む。ガラス瓶より長持ちするそうだから。
実用化できたら、大祭後に科学会議で発表する。冬の間の各国で試験運用して貰えれば丁度いい」
「だから、貴重なステンレスを……。いや、悪い。もう言わない」
「そうしてくれ」
新年が明けた、未来の話になるけれど、マリカの進めた緊急時の為の研究は、実用化を急いだおかけで多くの人間、子どもの命を救うことができた。
人知を超える災害というのはいつ訪れるか解らない。
その為の備えと、心構えは絶対に必要なのだという教訓を、優しい世界に生きてきたオレ達に叩き込んで。
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